J.D.サリンジャー: ライ麦畑でつかまえて
野崎 孝 訳 白水Uブックス
J.D.サリンジャー(1919-2010)による1951年の作でたいへんなベストセラー、しかも内容表現にはいろいろ批判もあり、騒ぎにもなったようで、現象的には知っていた。
その雰囲気を知っていたからかもしれないが読むのを敬遠していたが、半世紀以上たって、またこの歳になって読んでみるかという気になったのは、作者についてのあることがきっかけである。
NHK「映像の世紀」シリーズの一つ、アーカイブ映像を駆使して「ノルマンディー上陸作戦」が放送され、作戦に参加した兵士の一人にサリンジャーがいた(写真もあった)。その人が戦後少しして書いたという、さてどんなものか。
終戦から数年後のニューヨーク、16歳の高校生、学校はまずまずのレベルでアイヴィーリーグの大学へもちょっとがんばれば行ける。しかし主人公は学習にはのっていけず、この当時からアメリカの若者をとりまく環境はこんなものだったんだろうか、使えるお金、出入りする店、車も使え、女性との交際もかなり進んでいるところがあり、また同性愛的なシーンも出てくる。
それが、学校を飛び出してしまってほぼ二晩くらいの間だろうか、主人公の詳細な行動、会話、頭のなかに浮かんだことが切れ目なく続く。すべてをとぎれなく書きつくしたという感じだろうか。
そして、だが、終盤近くなって、こういう世界になじんだのか受けいれたのか、まわりに出入りしているひとたち、これからのひとたち、彼らがいるライ麦畑のつかまえ役(The catcher in the rye)に自分がなってもいいか、というつぶやきが聞こえてくる。
小説の書き方としては主人公の一人称で、眼前でしゃべりまくられている感じだが、実は主人公の兄弟がそのなかでいくつかの視点を与えているのではないか。
主人公にはかなり年上の兄、とても優秀だったが早世してしまった弟、なにかと気遣ってくれるやはりあたまのいい妹がいる。それがある意味救いになっているが、ここで気がついたのが、これ一人称だけれど実際に書いているのは兄ではないか(私の謎かけ)。この兄はそれなりの作家になっていることがふれられている。
想像するにサリンジャーは従軍の苦労の後、他の戦勝国に比べ早くから経済的に立ちなおったアメリカ社会の現象を詳細に記録しておきたいということもあったのだろうか。
いわゆる若者の主張ととられがちな作品だが、世の中こうなってるな、でも戦争にくらべたらずいぶん楽なもんだ、という声も聞こえてくる。
訳はいくつも出ているが、若いころから知っていた野崎孝の訳にした。確認して見たらこれは本邦初訳ではなく、1964年のものにこの版(1985)で多少の修正を加えたもの。私の世代にはこの言葉遣い、饒舌もなじんでいただろう。
日本からみれば、この時期こういうものが出てきていたということ自体、戦争の結果でもあるということだろう。
野崎 孝 訳 白水Uブックス
J.D.サリンジャー(1919-2010)による1951年の作でたいへんなベストセラー、しかも内容表現にはいろいろ批判もあり、騒ぎにもなったようで、現象的には知っていた。
その雰囲気を知っていたからかもしれないが読むのを敬遠していたが、半世紀以上たって、またこの歳になって読んでみるかという気になったのは、作者についてのあることがきっかけである。
NHK「映像の世紀」シリーズの一つ、アーカイブ映像を駆使して「ノルマンディー上陸作戦」が放送され、作戦に参加した兵士の一人にサリンジャーがいた(写真もあった)。その人が戦後少しして書いたという、さてどんなものか。
終戦から数年後のニューヨーク、16歳の高校生、学校はまずまずのレベルでアイヴィーリーグの大学へもちょっとがんばれば行ける。しかし主人公は学習にはのっていけず、この当時からアメリカの若者をとりまく環境はこんなものだったんだろうか、使えるお金、出入りする店、車も使え、女性との交際もかなり進んでいるところがあり、また同性愛的なシーンも出てくる。
それが、学校を飛び出してしまってほぼ二晩くらいの間だろうか、主人公の詳細な行動、会話、頭のなかに浮かんだことが切れ目なく続く。すべてをとぎれなく書きつくしたという感じだろうか。
そして、だが、終盤近くなって、こういう世界になじんだのか受けいれたのか、まわりに出入りしているひとたち、これからのひとたち、彼らがいるライ麦畑のつかまえ役(The catcher in the rye)に自分がなってもいいか、というつぶやきが聞こえてくる。
小説の書き方としては主人公の一人称で、眼前でしゃべりまくられている感じだが、実は主人公の兄弟がそのなかでいくつかの視点を与えているのではないか。
主人公にはかなり年上の兄、とても優秀だったが早世してしまった弟、なにかと気遣ってくれるやはりあたまのいい妹がいる。それがある意味救いになっているが、ここで気がついたのが、これ一人称だけれど実際に書いているのは兄ではないか(私の謎かけ)。この兄はそれなりの作家になっていることがふれられている。
想像するにサリンジャーは従軍の苦労の後、他の戦勝国に比べ早くから経済的に立ちなおったアメリカ社会の現象を詳細に記録しておきたいということもあったのだろうか。
いわゆる若者の主張ととられがちな作品だが、世の中こうなってるな、でも戦争にくらべたらずいぶん楽なもんだ、という声も聞こえてくる。
訳はいくつも出ているが、若いころから知っていた野崎孝の訳にした。確認して見たらこれは本邦初訳ではなく、1964年のものにこの版(1985)で多少の修正を加えたもの。私の世代にはこの言葉遣い、饒舌もなじんでいただろう。
日本からみれば、この時期こういうものが出てきていたということ自体、戦争の結果でもあるということだろう。