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From Allen, A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting

ウィリアム・アレン
『1648年ウィンザー城で開かれた決定的な軍幹部会議の正確な記録』より

それでわたしたちはウィンザー城に集まることにした。48年のはじめ頃であった。そこで一日中神に祈り、神からご好意がいただけない原因は何なのかを考えた。その日は特に答えは出なかった。ただ、答えを探し続けなくては、ということになった。その翌日も再び朝から集まり、みなで聖書の言葉を語り、そして祈った。その後、中将のクロムウェルがその場にいた者すべてに対し、とても真剣にいった--軍としてのわたしたちがしてきたことについてふり返ってみよう--キリストを信仰する個人としてよく考えよう--自分たちのうちに何か不正な点はないか、あるとしたらそれは何か、よく考えて、そして可能ならそれを突きとめよう--悲しいことだがわたしたちは正しくないがゆえに神に糾弾されている(その時わたしたちは確かにそう思っていた)--その原因を取り除こう。こうして、さらに具体的にいえば、主のお導きによりその日のわたしたちは、みなが心の底から、主がわたしたちとともにいる、主に糾弾されていない、裁かれていない、といえた最後の日はいつであったか、ふり返ることにした。主のお導きにより、わたしたちはみなでこれに取り組むことにした。……そしてまた翌日に集まることにした。

翌日集まったわたしたちは、前日の議論のつづけ、過去のおこないについてふり返った。そのなかでわたしたちは、お恵み深い神の手によって(全員一致して)思い出した、主から離れてしまった時のこと、むしろ主を怒らせてわたしたちから立ち去らせてしまった時のことを。それは、俗的な、清らかでない、呪われた、あの話しあいと決定をした時であった。わたしたち自身の知恵に頼り、恐怖心に駆られ、そして信仰が足りなかったがゆえに、その一年前にわたしたちは、王および彼に従う者たちと交渉してしまっていたのだった。

まさにこの時、ゴフ大佐(確か大佐だったと思う)があのありがたい言葉、箴言1.23--「わたしの戒めに心をとめよ」--を口にした。みずからの罪を悟っていたわたしたちに対してこういったのだ。この時の大佐の魂には主が宿っていたので、その場にいたわたしたちの多くの心に、大佐の言葉は主の言葉のように響いた。この言葉を聞き、わたしたちはひどく動揺し、恥じ、正しくない自分を心から憎んだ。そんなわたしたちを主が糾弾するのはまったく正しいことだと思った。主はわたしたちにみずからの罪を教えてくださった。のみならずどうすべきであったかも教えてくださった。こうしてみなの心は重くなり、互いに言葉をかけることすらほとんどできない状態だった。ひどく泣いていたからである。正しいことをしてこなかったこと、神を信じず、卑しくも主より人を恐れ、目先の損得で動いてきたことが恥ずかしくてたまらなかった。自分たち人間の知恵ではなく主の言葉に従うべきであった。主の言葉こそ知恵と力と平和への道なのだから。主の言葉以外はみな罠の道なのだから。……

しかし、恐れおののき震えることはよいことでもあった。わたしたちは神に感謝していた。わかったからである。主はまだ愛と優しさをわたしたちに与えてくださっているということが。……主は足下にわたしたちを呼び寄せてくださると……すぐに向かうべき方向を教えてくださった。主に導かれてわたしたちの意見は一致した。誰にも異論はなかった。わたしたちがすべきなのは、全軍を集結して……あの強力な敵と戦うことであると。へりくだりつつも主の名の下に敵を壊滅させなくてはならないと。

また、その後さらに祈り、主の顔を求めた後にわたしたちははっきりと、全員一致で決意した。……もし主が再び平和をわたしたちに与えてくださった暁には、あの血に飢えた男チャールズ・スチュアートの責任を必ず問わなくてはならない、と。あの男が流してきた人々の血に対して、主やこの哀れな国の人々を無視してあの男がしたい放題してきた悪事に対して、責任をとらせなくてはならない、と。

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William Allen
From A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting of Many Officers of the Army in England, at Windsor Castle, in the Year 1648 (1659)
Wing A1052
pp. 3-5

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Putney, 1647: "That Man of Blood. . . "

「あの血に飢えた男……」
軍幹部会議
パトニー、1647年11月1日

ビショップ隊長:
一言いわせてください、手短に。心のなかでいろいろ考えました。なぜわたしたちの意見がバラバラで、どうしていいかわからなくなってしまっているのでしょう? 死にかけたこの国をかつてのように立て直すことができなくなってしまっているのはなぜでしょう? わたしが見つけた答えは次のとおりです。わたし以外にもこう思っている人は少なくないと思います。特に、神を信じる人ならば。誰とはいいません、が、あの血に飢えた男への対応が甘く、まだ彼を生かしてしまっているから、絶対的な暴政の源を断ち切っていないから、駄目なんだと思います。神様はわたしたちにこれまで勝利を与えてきてくださいました。明らかに神様はあの男を敵視しているはずです。なのに彼を生かしておく、となれば当然わたしたちも破滅することになるでしょう。以上、神様がわたしの魂に語ってくださることをあえていわせていただきました。今後のこの国について神様がわたしたちひとりひとりに何を語っているか、ということだったかと思いますので。

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"That Man of Blood. . . "
The General Council of the Army
Putney, 1st November 1647

Captain Bishop:
I shall desire to speak one word, and that briefly. After many inquiries in my spirit what’s the reason that we are distracted in counsel, and that we cannot, as formerly, preserve the kingdom from that dying condition in which it is, I find this answer, the answer which is [vouchsafed] to many Christians besides, amongst us. I say [it] not in respect of any particular persons, [but] I say [that the reason is] a compliance to preserve that man of blood, and those principles of tyranny, which God from heaven by his many successes [given] hath manifestly declared against, and which, I am confident, may [yet] be our destruction [if they be preserved]. I only speak this [as] what is upon my spirit, because I see you are upon inquiry what God hath given in to any one, which may tend to the preservation of the kingdom.

http://oll.libertyfund.org/titles/woodhouse-puritanism-and-liberty-being-the-army-debates-1647-9

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王チャールズ1世の処刑を神が望んでいる、という議論。

Cf. 創世記 9:5-6
あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。

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From Arrowsmith, The Covenant-Avenging Svvord

ジョン・アロウスミス
『契約違反者の首に剣を』

……人が頭と口と暮らしから神を追放すれば、もちろん神もその人から健康と生活の安定を追放するでしょう。そのような正当な報復の例は聖書の至るところに見られます。「彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう」(申命32:22)。「しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたをつるぎに渡すことに定めた」(イザヤ65.11-12)。……主はいつも最初は優しく罰しますが、二回目からはどんどん厳しくなります。薬を塗って駄目なら串刺しにするしかないのです。あるいは八つ裂きにするとか。鞭でいうことを聞かないなら、次は蠍(さそり)の刑なのです(列王上12.11、エレミア28.12-13)。木のくびきで駄目なら鉄のくびきをかけるしかないのです。

以上、神の裁きについて語られていることを確認しました。一貫しています。そこで聖書の問題の箇所について考えてみたいと思います。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう」(レビ26.25)。

この一節をしっかり理解していただくために、立派で敬虔な議員の皆様方にはわたしの話をよくよくお聞きいただければと思います。わたしは次の三つの点にについてお話します。

1. 戦争とは神ご自身の裁きによってもたらされるものです。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ」とあるように。

2. 戦争とは罰です。「恨みを報いる」ものです。

3. 戦争が恨みを報いるのは、神との契約に対してなんらかの違反があったです。それは「違約の恨みを報いる」のです。

この最初の点については、聖書があちこちで証明しています。「あなたがたはつるぎを恐れた。わたしはあなたがたにつるぎを臨ませると、主は言われる」(エゼキエル11.8)。「つるぎに命じて、これを殺させる」のは神です(アモス9.4)。「つるぎよ、この地を行きめぐれ」と命じるのは神なのです(エゼキエル14.17)。戦争は神の命令によっておこるのです。「主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。主がこれに命を下されたのだ、どうして静かにしておれようか。アシケロンと海岸の地を攻めることを定められたのだ」(エレミア47の終わり)。……

ここからどのようなことがいえるのか、考えてみましょう。もし戦争をもたらすのが神であるならば--

まず、それがすべて神の思いどおりであるということになります。みずからもたらした戦争を制御できないというような不名誉は神にはありえません。……ダヴィデがゴリアテにいうように、「この戦いは主の戦い」なのであって(サムエル上17.47)、最初から最後まで神が掌握しているのです。兵を招集するのは神です。「万軍の主が戦いのために軍勢を集められる」(イザヤ13.4)。武器を発注するのも神です。「主は武器の倉を開いてその怒りの武器を取り出された。主なる万軍の神が、カルデヤびとの地に事を行われるからである」(エレミア50.25)。武器があたるあたらないを決めるのも神です。「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない」(イザヤ54最後)。「彼らの矢はむなしく帰らない老練な勇士のようである」(エレミア50.9)。一方を強くし、他方の軍を弱くするのも神です。「わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしのつるぎを、その手に与える。しかしわたしはパロの腕を折るゆえ、彼は深手を負った者のように、彼の前にうめく 」(エゼキエル30.24)。

第二に、神には戦争を鎮める力もあります。神は自分がもたらしたものを取り去ることもできるのです。サタンやエジプトに生きた彼の魔法使いたちは疫病をもたらすだけもたらしてそれを取り除くことができませんでしたが、神は彼らとは違います。……神は狂乱の戦火を燃えあがらせることができるとともに、それを消すこともできるのです。「来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」(詩篇46.8-9)。

第三に、だから、神を信じるのであれば、燃えさかる戦争の炎のさなかにあっても、なんらかの幸せがあることに期待しましょう。神がもたらすものはみな、最終的に善に向かっているのですから。……神の剣はいつも鋭く砥がれていて、そして油に濡れています。常にキリストに従う人に対するご慈悲という油に。キリストは「主の軍勢の将」であるとともに、「救の君」なのですから(ヨシュア5最後、ヘブル2.10)。……負けた場合でも同じです。剣によって倒れるということは、試練を与えられること、清められること、白くなることなのです(ダニエル11.33,35)。捕虜になっても大丈夫です。エレミアがいうように、主は「この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を……この良いいちじくのように顧みて恵」みました(エレミア24.5)。殺されてしまっても大丈夫です。ヨシア王のように戦死しても、その死は安らかでしょう(列王下23.29, 22.20)。

第四に、だから戦争の時、わたしたちはこの世の二次的なできごとの向こうにある神の手を見なければなりません。どこに向かって飛ぶ弾丸であっても、それは神が定めた相手に当たるのです。どこからふりおろされた剣であっても、それは天の怒りに浸されて酔っているのです(イザヤ34.5)。……

先の第二の点については以下のとおりです。

剣は復讐のためにあります。神が剣を抜く時、それはいつも神が怒っている時です。聖書と歴史を見てください。「わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」(申命32.41-42)。「その日は万軍の神、主の日であって、主があだを報いられる日、その敵にあだをかえされる日だ。つるぎは食べて飽き、彼らの血に酔う」(エレミア46.10)。

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John Arrowsmith
The Covenant-Avenging Svvord Brandished (1643)
Wing A3773
pp.3-7

https://ja.wikisource.org/wiki/口語旧約聖書
https://ja.wikisource.org/wiki/口語新約聖書

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1643年1月25日の断食礼拝の際に議会でおこなわれた説教。
王との戦闘を正当化するもの。

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