英語の詩を日本語で
English Poetry in Japanese
Swift, "A Description of a City Shower"
ジョナサン・スウィフト
「街のにわか雨」
注意深く見ていれば、いろんな前兆から
いつにわか雨が降るかわかる。
雨が降りそうになると、猫は遊ぶのを止めて
もの思いに耽る。もう自分の尻尾を追いかけない。
夜、家に帰ると、流しが
いつもの二倍の悪臭を放っていたりする。
そんな日には夕食に遠出しないほうがいい。
葡萄酒代をケチっても馬車代で赤字になる。
雨が近づくと魚の目が刺すように痛くなる。
古傷が疼く。虫歯もズキズキする。
珈琲屋で馬鹿男がくだを巻き、
気分も天気も晴れない、と罵っている。
そんな頃、南風が泥まみれの翼で舞いあがり、
黒い雲を空一面に投げかける。
雲は飲める以上の酒を飲んでいて、
だから酔っ払いのように吐く。
召使いの百合ちゃんがいそいそ洗濯ものをとりこむ、が、
その時最初の雨筋が斜めに走る。
汚い雨水がはねる。掃除しているどこかの奥さんが
モップから飛ばしてくる水のほうがまし。
よけて神々の復讐を祈り、止まってふり返って文句をいおう
とすると、奥さんは歌いながらまた水を飛ばしてきたりする。
勝ち目がないくせにまだ埃は勝利をあきらめておらず、
風に乗って命がけで雨と戦う。
突風に乗って宿敵の雨と飛びまわっているから、
どっちが雨でどっちが埃か区別がつかない。
金のない詩人は誰に助けを求めればいい?
埃と雨が上着から侵入してきたら?
一枚しかない上着なのに、埃が雨で固まって
毛羽立って、染みの雲が広がってしまった!
次々と雨粒が落ちてきて、
破滅の運命にあるこの町は洪水で流されそう。
泥に足をとられながら女たちは店に逃げてくる。
そして値切って買うふりをして何も買わない。
酒が樽から流れるように雨は樋(とい)を流れ、
きざな法学生は馬車を呼ぶふりをして晴れるのを待つ。
裾をまくった針子の女が大股で歩く、
防水の傘から雨をだらだら流しながら。
いろんな立場の人がいろんな運命に導かれ、
小屋に集まって知りあいになる。
調子に乗ったトーリーと落ちこんだホイッグが
長年の軋轢をいったん忘れ、手を組んでかつらを守る。
格好つけた高飛車男は籠のなかでご機嫌斜め。
上の雨樋の水が発作的にごぼごぼ流れ、
時々すごい音を立てて
籠の革屋根に落ちてくる。それで彼はびくびく。
これはたとえばトロイア人がギリシャ人を
詰めこんだ木馬を運んだ時と同じ。
(あのギリシャ人はたいした悪だが、今の男も変わらない。
運んでもらって金を払わず逆に刺す。)
ラオコオンが外から木馬を槍で打つ。
閉じこめられたなかの英雄はそれでびくびく。
どぶの水がなみなみと至るところからやって来る。
途中であたりのものを略奪して来る。
つまりそれはゴミ、いろんな色、いろんなにおい。
それでどこから来たかがよくわかる。
激流のなか、すごい勢いで
鍛冶野や聖墓町から流れてきて、
雪丘峠の滝つぼでいっしょになって、
谷川橋の下水管からゲロみたいにほとばしる。
屠殺小屋の床のゴミ、つまり糞や内臓や血、
溺れた子犬、腐った鰊(にしん)、みなどろどろ、
死んだ猫、蕪(かぶ)のへた、もうぐちゃぐちゃに流れ落ちる。
*****
Jonathan Swift
"A Description of a City Shower"
Careful observers may foretell the hour
(By sure prognostics) when to dread a shower.
While rain depends, the pensive cat gives o'er
Her frolics, and pursues her tail no more.
Returning home at night, you'll find the sink
Strike your offended sense with double stink.
If you be wise, then go not far to dine;
You'll spend in coach-hire more than save in wine.
A coming shower your shooting corns presage,
Old aches will throb, your hollow tooth will rage:
Sauntering in coffee-house is Dulman seen;
He damns the climate, and complains of spleen.
Meanwhile the south rising with dabbled wings,
A sable cloud athwart the welkin flings,
That swilled more liquor than it could contain,
And, like a drunkard, gives it up again.
Brisk Susan whips her linen from the rope,
While the first drizzling shower is born aslope;
Such is that sprinkling, which some careless quean
Flirts on you from her mop—but not so clean:
You fly, invoke the gods; then turning, stop
To rail; she singing, still whirls on her mop.
Not yet, the dust had shunned the unequal strife,
But, aided by the wind, fought still for life,
And wafted with its foe by violent gust,
'Twas doubtful which was rain, and which was dust.
Ah! where must needy poet seek for aid,
When dust and rain at once his coat invade?
Sole coat, where dust cemented by the rain
Erects the nap, and leaves a cloudy stain!
Now in contiguous drops the flood comes down,
Threatening with deluge this devoted town.
To shops in crowds the daggled females fly,
Pretend to cheapen goods, but nothing buy.
The Templar spruce, while every spout's a-broach,
Stays till 'tis fair, yet seems to call a coach.
The tucked-up sempstress walks with hasty strides,
While streams run down her oiled umbrella's sides.
Here various kinds, by various fortunes led,
Commence acquaintance underneath a shed.
Triumphant Tories, and desponding Whigs,
Forget their feuds, and join to save their wigs.
Boxed in a chair the beau impatient sits,
While spouts run clattering o'er the roof by fits;
And ever and anon with frightful din
The leather sounds; he trembles from within.
So when Troy chairmen bore the wooden steed,
Pregnant with Greeks, impatient to be freed
(Those bully Greeks, who, as the moderns do,
Instead of paying chairmen, run them through),
Laocoon struck the outside with his spear,
And each imprisoned hero quaked for fear.
Now from all parts the swelling kennels flow,
And bear their trophies with them as they go:
Filths of all hues and odours seem to tell
What streets they sailed from by their sight and smell.
They, as each torrent drives, with rapid force,
From Smithfield or St. 'Pulchre's shape their course,
And in huge confluence join at Snowhill ridge,
Fall from the conduit prone to Holborn Bridge.
Sweepings from butcher's stalls, dung, guts, and blood,
Drowned puppies, stinking sprats, all drenched in mud,
Dead cats, and turnips-tops, come tumbling down the flood.
https://en.wikisource.org/wiki/A_Description_of_a_City_Shower
*****
自他ともに認めるスウィフトの詩の最高傑作で大人気作、とのこと。
元ネタはウェルギリウスの『農耕詩』第一巻。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
「街のにわか雨」
注意深く見ていれば、いろんな前兆から
いつにわか雨が降るかわかる。
雨が降りそうになると、猫は遊ぶのを止めて
もの思いに耽る。もう自分の尻尾を追いかけない。
夜、家に帰ると、流しが
いつもの二倍の悪臭を放っていたりする。
そんな日には夕食に遠出しないほうがいい。
葡萄酒代をケチっても馬車代で赤字になる。
雨が近づくと魚の目が刺すように痛くなる。
古傷が疼く。虫歯もズキズキする。
珈琲屋で馬鹿男がくだを巻き、
気分も天気も晴れない、と罵っている。
そんな頃、南風が泥まみれの翼で舞いあがり、
黒い雲を空一面に投げかける。
雲は飲める以上の酒を飲んでいて、
だから酔っ払いのように吐く。
召使いの百合ちゃんがいそいそ洗濯ものをとりこむ、が、
その時最初の雨筋が斜めに走る。
汚い雨水がはねる。掃除しているどこかの奥さんが
モップから飛ばしてくる水のほうがまし。
よけて神々の復讐を祈り、止まってふり返って文句をいおう
とすると、奥さんは歌いながらまた水を飛ばしてきたりする。
勝ち目がないくせにまだ埃は勝利をあきらめておらず、
風に乗って命がけで雨と戦う。
突風に乗って宿敵の雨と飛びまわっているから、
どっちが雨でどっちが埃か区別がつかない。
金のない詩人は誰に助けを求めればいい?
埃と雨が上着から侵入してきたら?
一枚しかない上着なのに、埃が雨で固まって
毛羽立って、染みの雲が広がってしまった!
次々と雨粒が落ちてきて、
破滅の運命にあるこの町は洪水で流されそう。
泥に足をとられながら女たちは店に逃げてくる。
そして値切って買うふりをして何も買わない。
酒が樽から流れるように雨は樋(とい)を流れ、
きざな法学生は馬車を呼ぶふりをして晴れるのを待つ。
裾をまくった針子の女が大股で歩く、
防水の傘から雨をだらだら流しながら。
いろんな立場の人がいろんな運命に導かれ、
小屋に集まって知りあいになる。
調子に乗ったトーリーと落ちこんだホイッグが
長年の軋轢をいったん忘れ、手を組んでかつらを守る。
格好つけた高飛車男は籠のなかでご機嫌斜め。
上の雨樋の水が発作的にごぼごぼ流れ、
時々すごい音を立てて
籠の革屋根に落ちてくる。それで彼はびくびく。
これはたとえばトロイア人がギリシャ人を
詰めこんだ木馬を運んだ時と同じ。
(あのギリシャ人はたいした悪だが、今の男も変わらない。
運んでもらって金を払わず逆に刺す。)
ラオコオンが外から木馬を槍で打つ。
閉じこめられたなかの英雄はそれでびくびく。
どぶの水がなみなみと至るところからやって来る。
途中であたりのものを略奪して来る。
つまりそれはゴミ、いろんな色、いろんなにおい。
それでどこから来たかがよくわかる。
激流のなか、すごい勢いで
鍛冶野や聖墓町から流れてきて、
雪丘峠の滝つぼでいっしょになって、
谷川橋の下水管からゲロみたいにほとばしる。
屠殺小屋の床のゴミ、つまり糞や内臓や血、
溺れた子犬、腐った鰊(にしん)、みなどろどろ、
死んだ猫、蕪(かぶ)のへた、もうぐちゃぐちゃに流れ落ちる。
*****
Jonathan Swift
"A Description of a City Shower"
Careful observers may foretell the hour
(By sure prognostics) when to dread a shower.
While rain depends, the pensive cat gives o'er
Her frolics, and pursues her tail no more.
Returning home at night, you'll find the sink
Strike your offended sense with double stink.
If you be wise, then go not far to dine;
You'll spend in coach-hire more than save in wine.
A coming shower your shooting corns presage,
Old aches will throb, your hollow tooth will rage:
Sauntering in coffee-house is Dulman seen;
He damns the climate, and complains of spleen.
Meanwhile the south rising with dabbled wings,
A sable cloud athwart the welkin flings,
That swilled more liquor than it could contain,
And, like a drunkard, gives it up again.
Brisk Susan whips her linen from the rope,
While the first drizzling shower is born aslope;
Such is that sprinkling, which some careless quean
Flirts on you from her mop—but not so clean:
You fly, invoke the gods; then turning, stop
To rail; she singing, still whirls on her mop.
Not yet, the dust had shunned the unequal strife,
But, aided by the wind, fought still for life,
And wafted with its foe by violent gust,
'Twas doubtful which was rain, and which was dust.
Ah! where must needy poet seek for aid,
When dust and rain at once his coat invade?
Sole coat, where dust cemented by the rain
Erects the nap, and leaves a cloudy stain!
Now in contiguous drops the flood comes down,
Threatening with deluge this devoted town.
To shops in crowds the daggled females fly,
Pretend to cheapen goods, but nothing buy.
The Templar spruce, while every spout's a-broach,
Stays till 'tis fair, yet seems to call a coach.
The tucked-up sempstress walks with hasty strides,
While streams run down her oiled umbrella's sides.
Here various kinds, by various fortunes led,
Commence acquaintance underneath a shed.
Triumphant Tories, and desponding Whigs,
Forget their feuds, and join to save their wigs.
Boxed in a chair the beau impatient sits,
While spouts run clattering o'er the roof by fits;
And ever and anon with frightful din
The leather sounds; he trembles from within.
So when Troy chairmen bore the wooden steed,
Pregnant with Greeks, impatient to be freed
(Those bully Greeks, who, as the moderns do,
Instead of paying chairmen, run them through),
Laocoon struck the outside with his spear,
And each imprisoned hero quaked for fear.
Now from all parts the swelling kennels flow,
And bear their trophies with them as they go:
Filths of all hues and odours seem to tell
What streets they sailed from by their sight and smell.
They, as each torrent drives, with rapid force,
From Smithfield or St. 'Pulchre's shape their course,
And in huge confluence join at Snowhill ridge,
Fall from the conduit prone to Holborn Bridge.
Sweepings from butcher's stalls, dung, guts, and blood,
Drowned puppies, stinking sprats, all drenched in mud,
Dead cats, and turnips-tops, come tumbling down the flood.
https://en.wikisource.org/wiki/A_Description_of_a_City_Shower
*****
自他ともに認めるスウィフトの詩の最高傑作で大人気作、とのこと。
元ネタはウェルギリウスの『農耕詩』第一巻。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
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From Shaftesbury, An Inquiry Concerning Virtue
アントニー・アシュリー・クーパー
第三代シャフツベリー伯爵
『美徳についての考察』 2. 2. 1 より
心の喜びがからだの喜びに勝るのであるから、
「知的な存在のうちに心の喜び・楽しみを
定期的にあふれさせることができるものが
その存在の幸せにとって重要であって、
からだの喜び・楽しみを定期的にもたらす
ものはそれほど重要ではない」わけである。
精神的な楽しみとは、生まれつき人がもっている
感情を抱くこと、まさにそのことである。
あるいは、そのような感情によって与えられるもの、
そのような感情を抱く結果としてもたらされる
状態である。
つまり、理性ある人が生まれつきもっている
感情だけが定期的に精神的な楽しみをもたらす
のであるから、まさにそのような感情を抱くことこそ
人に本当の幸せをもたらす唯一の手段、
ということになる。
さて、まず「人が生まれつきもっている感情は
それ自体が最高の喜びであり楽しみである」
ということについてであるが、これを
わざわざ証明する必要はないであろう。
好き、ありがとう、寄付したい、助けてあげたい、
かわいそう、優しくしてあげたい、などと
あたたかく人を思いやる時に心がどう感じるか、
人であれば誰だって知っているはずだからである。
人の本質について特に知識はなくとも、
このように優しい気持ちをもつことで
どれほどの喜びを感じるか、誰だって
わかっているのである。
ひとりでいる時と仲間といる時の違い、
他人といる時と友だちといる時の違い、
わたしたちが喜びを感じるのはいつも誰かと
心が通いあった時であること、実際の、
あるいは想像上の、人との関係がなければ
わたしたちは喜びを感じられないこと、
これらすべてが必要十分な証拠である。
……………
多少なり科学的・学問的知識をもち、わずかながらでも
数学の原理を知っている人であればわかるであろう。
数学の原理とはあくまで思弁的真理であって、いわば
頭の体操のようなものにすぎないのであるが、
それによって得られる喜びはからだの喜びに勝る、
ということが。そのような思弁的な喜びの性格について
調査に調査を重ねてわかるのは、それが人の利害、
個人的な私利私欲とはまったく関係ないということ、
その目的は人の生活や健康に利すること・資すること
などではまったくないということである。
数学的な調査・研究やその楽しさは、それをおこなう
わたしたちの暮らしに一切関係しない。そしてまさに
それゆえにわたしたちは数学を愛するのである。
経験した喜び・楽しみを思い出すことによって得られる
間接的で想像的な喜び・楽しみであれば、やはりそれは
自分のためのもの、自分に利するものととらえられる。
これに対し直接的に得られる数学的な満足は、あくまで
外部にある真理、調和、秩序、規律に対する愛に
由来する。そうであるなら、やはり数学への愛も
人が生まれもった感情のひとつと数えるべきである。
その対象・目的が自分の私的生活の内にないがゆえに
それは余剰あるいは不自然な感情である、つまり
自然のなかに存在する何かに利をもたらすものではない、
といわねばならない。正しくいうなら、それは、
「自然界のすべてを支え、そこに存在するすべての
種の形態や構造、すべてのもののあいだの秩序を
決定している数、調和、統一について考えることに
よって得られる、もともと人が生まれもっている喜び」
となるであろう。
このような思弁的・非実践的な楽しみは、それがどれだけ
重要で価値あるものであるにしろ、またからだの楽しみと
比べてどれほど優れたものであるにしろ、正しく立派な感情
および善良で優しい行為のはるか下位におかれなくては
ならない。この感情や行為のなか、心は最高の喜びを
感じるのみならず、善良で心のこもった行為に賛同する
という幸せをも得るからである。この世でもっとも美しい
思考の対象、心の目に浮かぶもっとも美しい観念、
それは美しく、調和した、人としてふさわしい行為に
他ならない。そのような行為こそ、考えて、また思い出して
もっとも楽しくうれしいもの、いつも、いつまでも、
幸せに感じられるものなのである。
……………
加えて生まれもった感情の強さについていえば、
それによって生き生きと楽しい気分になる時のみ
からだの喜び以上の真の喜びが得られる、という
わけではない。生まれもった感情によって
心が乱される時、ふつうの意味での喜びとは
正反対の時であっても、それでもからだが
満たされる時の喜び以上の満足がもたらされる。
優しい気持ちを感じている時、たとえそれが
恐れ、そうであってほしくない、悲しい、残念、
などという気持ちを伴っていたとしても、
それでも心は幸せを感じる。人への優しさがもつ
この悲しい一面もわたしたちに喜びを与えるのである。
優しさのもつ美しさは、たとえ雲に隠れていても、
逆境にあっても、損なわれない。だから、たとえば
この種の強い感情は悲劇のような虚構によっても
上手に引き起こされるのだが、そんな娯楽を
わたしたちは他のものより好む。こうして
わたしたちは身をもって知るのである。悲しい
気持ちを抱くこと、気高く美しい心があるゆえに
そのような気持ちになること、どんなかたちであれ
人に対する優しさ・共感に突き動かされて行動すること、
これらこそ最高の幸せであって、からだの要求を
満たすすべてのものよりずっと大きな喜びを
思考と感情に対して与えてくれるのだと。以上、
「心の幸せとは、人が生まれつきもっている感情を
抱き、それに従うことに他ならない」のである。
さて、次に「人が生まれつきもっている感情を抱き、
それに従うことがどうして当然のごとく幸せをもたらすのか」
を考えるにあたり、愛や優しい気持ちのもたらす結果としての
心の喜びが、幸せをわかちあう幸せであることを確認しよう。
この喜びは、いわば反映のようなかたちで他の人の幸せを
共有することにあり、また、他の人が愛してくれている、
認めてくれていることを実感することにある。
幸せの大部分がこの前者に由来することは、
よほど性格が悪い者でなければ誰でもかんたんに
理解できる。どれほど幸せなことだろう、
他の人と喜びや満足をわかちあうことは--
友人・仲間のなかで楽しい思いをすることは--
まわりの人たちの幸せなようすを見て、幸せな話を
聞いて、幸せな表情やしぐさを見て、幸せそうな声
(や人間以外のものであれば鳴き声)を聞いて、
自分も幸せになることは。そう、人以外のものであっても、
それが喜び幸せであることはなぜかわかるのだから。
このような共感から得られる喜びは誰にでも、また
生まれてから死ぬまでずっと、感じられるものであるから、
この喜びが中心にないような幸せや満足など、
まず存在しないといえる。
*****
Anthony Ashley Cooper
The 3rd Earl of Shaftesbury
Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times
From "An Inquiry Concerning Virtue" 2. 2. 1
The Pleasures of the Mind being allow’d, therefore, superior, to those of the Body; it follows, “That whatever can create in any intelligent Being a constant flowing Series or Train of mental Enjoyments, or Pleasures of the Mind, is more considerable to his Happiness, than that which can create to him a like constant Course or Train of sensual Enjoyments, or Pleasures of the Body.”
Now the mental Enjoyments are either actually the very natural Affections themselves in their immediate Operation: Or they wholly in a manner proceed from them, and are no other than their Effects.
If so; it follows, that the natural Affections duly establish’d in a rational Creature, being the only means which can procure him a constant Series or Succession of the mental Enjoyments, they are the only means which can procure him a certain and solid Happiness.
NOW, in the first place, to explain, “How much the natural Affections are in themselves the highest Pleasures and Enjoyments”: There shou’d methinks be little need of proving this to any-one of human Kind, who has ever known the Condition of the Mind under a lively Affection of Love, Gratitude, Bounty, Generosity, Pity, Succour, or whatever else is of a social or friendly sort. He who has ever so little Knowledg of human Nature, is sensible what pleasure the Mind perceives when it is touch’d in this generous way. The difference we find between Solitude and Company, between a common Company and that of Friends; the reference of almost all our Pleasures to mutual Converse, and the dependence they have on Society either present or imagin’d; all these are sufficient Proofs in our behalf.
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
There is no-one who, by the least progress in Science or Learning, has come to know barely the Principles of Mathematicks, but has found, that in the exercise of his Mind on the Discoverys he there makes, tho merely of speculative Truths, he receives a Pleasure and Delight superior to that of Sense. When we have thorowly search’d into the nature of this contemplative Delight, we shall find it of a kind which relates not in the least to any private Interest of the Creature, nor has for its Object any Self-good or Advantage of the private System. The Admiration, Joy, or Love, turns wholly upon what is exterior, and foreign to our-selves. And tho the reflected Joy or Pleasure, which arises from the notice of this Pleasure once perceiv’d, may be interpreted a Self-passion, or interested Regard: yet the original Satisfaction can be no other than what results from the Love of Truth, Proportion, Order, and Symmetry, in the Things without. If this be the Case, the Passion ought in reality to be rank’d with natural Affection. For having no Object within the compass of the private System; it must either be esteem’d superfluous and unnatural, (as having no tendency towards the Advantage or Good of any thing in Nature) or it must be judg’d to be, what it truly is, *“A natural Joy in the Contemplation of those Numbers, that Harmony, Proportion, and Concord, which supports the universal Nature, and is essential in the Constitution and Form of every particular Species, or Order of Beings.”
But this speculative Pleasure, however considerable and valuable [61] it may be, or however superior to any Motion of mere Sense; must yet be far surpass’d by virtuous Motion, and the Exercise of Benignity and Goodness; where, together with the most delightful Affection of the Soul, there is join’d a pleasing Assent and Approbation of the Mind to what is acted in this good Disposition and honest Bent. For where is there on Earth a fairer Matter of Speculation, a goodlier View or Contemplation, than that of a beautiful, proportion’d, and becoming Action? Or what is there relating to us, of which the Consciousness and Memory is more solidly and lastingly entertaining?
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
We may observe, withal, in favour of the natural Affections, that it is not only when Joy and Sprightliness are mix’d with them that they carry a real Enjoyment above that of the sensual kind. The very Disturbances which belong to natural Affection, tho they may be thought wholly contrary to Pleasure, yield still a Contentment and Satisfaction greater than the Pleasures of indulg’d Sense. And where a Series or continu’d Succession of the tender and kind Affections can be carry’d on, even thro’ Fears, Horrors, Sorrows, Griefs; the Emotion of the Soul is still agreeable. We continue pleas’d even with this melancholy Aspect or Sense of Virtue. Her Beauty supports it-self under a Cloud, and in the midst of surrounding Calamitys. For thus, when by mere Illusion, as in a Tragedy, the Passions of this kind are skilfully excited in us; we prefer the Entertainment to any other of equal duration. We find by our-selves, that the moving our Passions in this mournful way, the engaging them in behalf of Merit and Worth, and the exerting whatever we have of social Affection, and human Sympathy, is of the highest Delight; and affords a greater Enjoyment in the way of Thought and Sentiment, than any thing besides can do in a way of Sense and common Appetite. And after this manner it appears, “How much the mental Enjoyments are actually the very natural Affections themselves.”
NOW, in the next place, to explain, “How they proceed from them, as their natural Effects”; we may consider first, That the Effects of Love or kind Affection, in a way of mental Pleasure, are, “An Enjoyment of Good by Communication: A receiving it, as it were by Reflection, or by way of Participation in the Good of others”: And “A pleasing Consciousness of the actual Love, merited Esteem or Approbation of others.”
How considerable a part of Happiness arises from the former of these Effects, will be easily apprehended by one who is not exceedingly ill natur’d. It will be consider’d how many the Pleasures are, of sharing Contentment and Delight with others; of receiving it in Fellowship and Company; and gathering it, in a manner, from the pleas’d and happy States of those around us, from accounts and relations of such Happinesses, from the very Countenances, Gestures, Voices and Sounds, even of Creatures foreign to our Kind, whose Signs of Joy and Contentment we can anyway discern. So insinuating are these Pleasures of Sympathy, and so widely diffus’d thro’ our whole Lives, that there is hardly such a thing as Satisfaction or Contentment, of which they make not an essential part.
http://oll.libertyfund.org/titles/shaftesbury-
characteristicks-of-men-manners-opinions-times-3-vols
(散文)
*****
キーワード:
感受性 sensibility
幸せな人 beatus ille
美徳 virtue
満足 contentment
*****
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第三代シャフツベリー伯爵
『美徳についての考察』 2. 2. 1 より
心の喜びがからだの喜びに勝るのであるから、
「知的な存在のうちに心の喜び・楽しみを
定期的にあふれさせることができるものが
その存在の幸せにとって重要であって、
からだの喜び・楽しみを定期的にもたらす
ものはそれほど重要ではない」わけである。
精神的な楽しみとは、生まれつき人がもっている
感情を抱くこと、まさにそのことである。
あるいは、そのような感情によって与えられるもの、
そのような感情を抱く結果としてもたらされる
状態である。
つまり、理性ある人が生まれつきもっている
感情だけが定期的に精神的な楽しみをもたらす
のであるから、まさにそのような感情を抱くことこそ
人に本当の幸せをもたらす唯一の手段、
ということになる。
さて、まず「人が生まれつきもっている感情は
それ自体が最高の喜びであり楽しみである」
ということについてであるが、これを
わざわざ証明する必要はないであろう。
好き、ありがとう、寄付したい、助けてあげたい、
かわいそう、優しくしてあげたい、などと
あたたかく人を思いやる時に心がどう感じるか、
人であれば誰だって知っているはずだからである。
人の本質について特に知識はなくとも、
このように優しい気持ちをもつことで
どれほどの喜びを感じるか、誰だって
わかっているのである。
ひとりでいる時と仲間といる時の違い、
他人といる時と友だちといる時の違い、
わたしたちが喜びを感じるのはいつも誰かと
心が通いあった時であること、実際の、
あるいは想像上の、人との関係がなければ
わたしたちは喜びを感じられないこと、
これらすべてが必要十分な証拠である。
……………
多少なり科学的・学問的知識をもち、わずかながらでも
数学の原理を知っている人であればわかるであろう。
数学の原理とはあくまで思弁的真理であって、いわば
頭の体操のようなものにすぎないのであるが、
それによって得られる喜びはからだの喜びに勝る、
ということが。そのような思弁的な喜びの性格について
調査に調査を重ねてわかるのは、それが人の利害、
個人的な私利私欲とはまったく関係ないということ、
その目的は人の生活や健康に利すること・資すること
などではまったくないということである。
数学的な調査・研究やその楽しさは、それをおこなう
わたしたちの暮らしに一切関係しない。そしてまさに
それゆえにわたしたちは数学を愛するのである。
経験した喜び・楽しみを思い出すことによって得られる
間接的で想像的な喜び・楽しみであれば、やはりそれは
自分のためのもの、自分に利するものととらえられる。
これに対し直接的に得られる数学的な満足は、あくまで
外部にある真理、調和、秩序、規律に対する愛に
由来する。そうであるなら、やはり数学への愛も
人が生まれもった感情のひとつと数えるべきである。
その対象・目的が自分の私的生活の内にないがゆえに
それは余剰あるいは不自然な感情である、つまり
自然のなかに存在する何かに利をもたらすものではない、
といわねばならない。正しくいうなら、それは、
「自然界のすべてを支え、そこに存在するすべての
種の形態や構造、すべてのもののあいだの秩序を
決定している数、調和、統一について考えることに
よって得られる、もともと人が生まれもっている喜び」
となるであろう。
このような思弁的・非実践的な楽しみは、それがどれだけ
重要で価値あるものであるにしろ、またからだの楽しみと
比べてどれほど優れたものであるにしろ、正しく立派な感情
および善良で優しい行為のはるか下位におかれなくては
ならない。この感情や行為のなか、心は最高の喜びを
感じるのみならず、善良で心のこもった行為に賛同する
という幸せをも得るからである。この世でもっとも美しい
思考の対象、心の目に浮かぶもっとも美しい観念、
それは美しく、調和した、人としてふさわしい行為に
他ならない。そのような行為こそ、考えて、また思い出して
もっとも楽しくうれしいもの、いつも、いつまでも、
幸せに感じられるものなのである。
……………
加えて生まれもった感情の強さについていえば、
それによって生き生きと楽しい気分になる時のみ
からだの喜び以上の真の喜びが得られる、という
わけではない。生まれもった感情によって
心が乱される時、ふつうの意味での喜びとは
正反対の時であっても、それでもからだが
満たされる時の喜び以上の満足がもたらされる。
優しい気持ちを感じている時、たとえそれが
恐れ、そうであってほしくない、悲しい、残念、
などという気持ちを伴っていたとしても、
それでも心は幸せを感じる。人への優しさがもつ
この悲しい一面もわたしたちに喜びを与えるのである。
優しさのもつ美しさは、たとえ雲に隠れていても、
逆境にあっても、損なわれない。だから、たとえば
この種の強い感情は悲劇のような虚構によっても
上手に引き起こされるのだが、そんな娯楽を
わたしたちは他のものより好む。こうして
わたしたちは身をもって知るのである。悲しい
気持ちを抱くこと、気高く美しい心があるゆえに
そのような気持ちになること、どんなかたちであれ
人に対する優しさ・共感に突き動かされて行動すること、
これらこそ最高の幸せであって、からだの要求を
満たすすべてのものよりずっと大きな喜びを
思考と感情に対して与えてくれるのだと。以上、
「心の幸せとは、人が生まれつきもっている感情を
抱き、それに従うことに他ならない」のである。
さて、次に「人が生まれつきもっている感情を抱き、
それに従うことがどうして当然のごとく幸せをもたらすのか」
を考えるにあたり、愛や優しい気持ちのもたらす結果としての
心の喜びが、幸せをわかちあう幸せであることを確認しよう。
この喜びは、いわば反映のようなかたちで他の人の幸せを
共有することにあり、また、他の人が愛してくれている、
認めてくれていることを実感することにある。
幸せの大部分がこの前者に由来することは、
よほど性格が悪い者でなければ誰でもかんたんに
理解できる。どれほど幸せなことだろう、
他の人と喜びや満足をわかちあうことは--
友人・仲間のなかで楽しい思いをすることは--
まわりの人たちの幸せなようすを見て、幸せな話を
聞いて、幸せな表情やしぐさを見て、幸せそうな声
(や人間以外のものであれば鳴き声)を聞いて、
自分も幸せになることは。そう、人以外のものであっても、
それが喜び幸せであることはなぜかわかるのだから。
このような共感から得られる喜びは誰にでも、また
生まれてから死ぬまでずっと、感じられるものであるから、
この喜びが中心にないような幸せや満足など、
まず存在しないといえる。
*****
Anthony Ashley Cooper
The 3rd Earl of Shaftesbury
Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times
From "An Inquiry Concerning Virtue" 2. 2. 1
The Pleasures of the Mind being allow’d, therefore, superior, to those of the Body; it follows, “That whatever can create in any intelligent Being a constant flowing Series or Train of mental Enjoyments, or Pleasures of the Mind, is more considerable to his Happiness, than that which can create to him a like constant Course or Train of sensual Enjoyments, or Pleasures of the Body.”
Now the mental Enjoyments are either actually the very natural Affections themselves in their immediate Operation: Or they wholly in a manner proceed from them, and are no other than their Effects.
If so; it follows, that the natural Affections duly establish’d in a rational Creature, being the only means which can procure him a constant Series or Succession of the mental Enjoyments, they are the only means which can procure him a certain and solid Happiness.
NOW, in the first place, to explain, “How much the natural Affections are in themselves the highest Pleasures and Enjoyments”: There shou’d methinks be little need of proving this to any-one of human Kind, who has ever known the Condition of the Mind under a lively Affection of Love, Gratitude, Bounty, Generosity, Pity, Succour, or whatever else is of a social or friendly sort. He who has ever so little Knowledg of human Nature, is sensible what pleasure the Mind perceives when it is touch’d in this generous way. The difference we find between Solitude and Company, between a common Company and that of Friends; the reference of almost all our Pleasures to mutual Converse, and the dependence they have on Society either present or imagin’d; all these are sufficient Proofs in our behalf.
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
There is no-one who, by the least progress in Science or Learning, has come to know barely the Principles of Mathematicks, but has found, that in the exercise of his Mind on the Discoverys he there makes, tho merely of speculative Truths, he receives a Pleasure and Delight superior to that of Sense. When we have thorowly search’d into the nature of this contemplative Delight, we shall find it of a kind which relates not in the least to any private Interest of the Creature, nor has for its Object any Self-good or Advantage of the private System. The Admiration, Joy, or Love, turns wholly upon what is exterior, and foreign to our-selves. And tho the reflected Joy or Pleasure, which arises from the notice of this Pleasure once perceiv’d, may be interpreted a Self-passion, or interested Regard: yet the original Satisfaction can be no other than what results from the Love of Truth, Proportion, Order, and Symmetry, in the Things without. If this be the Case, the Passion ought in reality to be rank’d with natural Affection. For having no Object within the compass of the private System; it must either be esteem’d superfluous and unnatural, (as having no tendency towards the Advantage or Good of any thing in Nature) or it must be judg’d to be, what it truly is, *“A natural Joy in the Contemplation of those Numbers, that Harmony, Proportion, and Concord, which supports the universal Nature, and is essential in the Constitution and Form of every particular Species, or Order of Beings.”
But this speculative Pleasure, however considerable and valuable [61] it may be, or however superior to any Motion of mere Sense; must yet be far surpass’d by virtuous Motion, and the Exercise of Benignity and Goodness; where, together with the most delightful Affection of the Soul, there is join’d a pleasing Assent and Approbation of the Mind to what is acted in this good Disposition and honest Bent. For where is there on Earth a fairer Matter of Speculation, a goodlier View or Contemplation, than that of a beautiful, proportion’d, and becoming Action? Or what is there relating to us, of which the Consciousness and Memory is more solidly and lastingly entertaining?
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
We may observe, withal, in favour of the natural Affections, that it is not only when Joy and Sprightliness are mix’d with them that they carry a real Enjoyment above that of the sensual kind. The very Disturbances which belong to natural Affection, tho they may be thought wholly contrary to Pleasure, yield still a Contentment and Satisfaction greater than the Pleasures of indulg’d Sense. And where a Series or continu’d Succession of the tender and kind Affections can be carry’d on, even thro’ Fears, Horrors, Sorrows, Griefs; the Emotion of the Soul is still agreeable. We continue pleas’d even with this melancholy Aspect or Sense of Virtue. Her Beauty supports it-self under a Cloud, and in the midst of surrounding Calamitys. For thus, when by mere Illusion, as in a Tragedy, the Passions of this kind are skilfully excited in us; we prefer the Entertainment to any other of equal duration. We find by our-selves, that the moving our Passions in this mournful way, the engaging them in behalf of Merit and Worth, and the exerting whatever we have of social Affection, and human Sympathy, is of the highest Delight; and affords a greater Enjoyment in the way of Thought and Sentiment, than any thing besides can do in a way of Sense and common Appetite. And after this manner it appears, “How much the mental Enjoyments are actually the very natural Affections themselves.”
NOW, in the next place, to explain, “How they proceed from them, as their natural Effects”; we may consider first, That the Effects of Love or kind Affection, in a way of mental Pleasure, are, “An Enjoyment of Good by Communication: A receiving it, as it were by Reflection, or by way of Participation in the Good of others”: And “A pleasing Consciousness of the actual Love, merited Esteem or Approbation of others.”
How considerable a part of Happiness arises from the former of these Effects, will be easily apprehended by one who is not exceedingly ill natur’d. It will be consider’d how many the Pleasures are, of sharing Contentment and Delight with others; of receiving it in Fellowship and Company; and gathering it, in a manner, from the pleas’d and happy States of those around us, from accounts and relations of such Happinesses, from the very Countenances, Gestures, Voices and Sounds, even of Creatures foreign to our Kind, whose Signs of Joy and Contentment we can anyway discern. So insinuating are these Pleasures of Sympathy, and so widely diffus’d thro’ our whole Lives, that there is hardly such a thing as Satisfaction or Contentment, of which they make not an essential part.
http://oll.libertyfund.org/titles/shaftesbury-
characteristicks-of-men-manners-opinions-times-3-vols
(散文)
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キーワード:
感受性 sensibility
幸せな人 beatus ille
美徳 virtue
満足 contentment
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