晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

イメージ論 吉本隆明ノオト その1 

2015-04-18 21:05:30 | Weblog

 建物の横できれいに咲きました。今年の冬は小雪、暖冬だったので桜も早く咲きそうです。アへ首相は、著名人を招待して桜を見る会を主宰し、まるで園遊会での天皇気取りです。桜散る、国家のため命を散らす、そんな考えに酔っているのでしょう。

 

 吉本隆明氏の特徴は、通常は見過ごしがちな現象に対するこだわりと過大評価、それをもとにした大胆な推論、極端な結論付け、他者の追随を許さぬ独自の世界観を形成した。それは。わかりやすさ故支持者からは絶賛の声が、しかし反面、アカデミズムの世界では評価されず完全なる無視及び排斥の対象となってきた。

 吉本隆明〈未収録〉講演集(全12巻、筑摩書房)の発刊も順調であり、ここでは『イメージ論・都市論 講演集第5巻』をとりあげ、以下ノオトするとともに感想(*印は僕の感想部分)も記したい。

 『マス・イメージ論』(福武書店 1984年刊)、『ハイ・イメージ論』(福武書店 第1巻 1889年刊、第2巻 1990年刊)を読んだが難解だった。本書は、1985年から1993年までにイメージ論・都市論をテーマに行った講演集である。上記の著作を書きあげていた時期と重なり、大衆に対し吉本氏の問題意識と発想をわかりやすく説明しているので、本講演集を読んで、自分なりに少しわかったところがあった。

 イメージ論

 カルチャーの特質は、文学に典型的にみられるが、「自己実現のために」、吉本の言葉では「自己表出のために」行われるということになる。一方、サブ・カルチャー(例えば、CM、劇画・・)の特質は、「何々のために」すなわち商品をより多く売るためになど、目的を定めて創作され、書かれているということになる。近年、カルチャーとサブ・カルチャーの区別がつきにくくなった要因は、サブ・カルチャーにカルチャーの特質が多くみられるようになったためである。

 *このブログの2014.11.2に『ニッポン戦後サブカルチャー史』として書いたが、あの天下のNHKでさえ、サブ・カルの番組をシリーズで放送したのである。すなわち、ひとつの文化論として成立し、なお語るに値するという評価をしたことになる。

 吉本は、かつて文学を批評するため言語の持つ機能を分析して僕たちの前に提示して見せた。その後、文学を含むより広い概念である芸術を批評する方法論を研究し、イメージ論を提示した。その、きっかけの一つが、つくば万博富士通館での3D映像体験、いわゆるバーチャルリアリティ(仮想現実)に驚愕したからだと述べている。

 *僕から言うと、それは少し驚き過ぎじゃないか。あまりにも世間知らずではないかと。そもそもたったそれだけの体験から評論を進める無理筋の発想、そして論理の飛躍に中々着いていくのは難しいと考える。

 もう一つのきっかけは、臨死体験者たちが語る情景である。ベッドに寝ている自分が自分の真上の天井から見えたのだと言う。それは、死が自分自身の存在感を無化し、自分はただイメージを喚起する視覚、視線自体になったという。

 吉本はタテとヨコの視線に着目する。ヨコの視線、それは、普通の生活者の水平な視線であり、ヒューマニズムの視線という。もう一つが、吉本のオリジナルになるがタテの視線、キーワードで世界視線と呼んでいるが、天空から垂直に降りてくる鳥瞰的な視線である。

 吉本は、上記の著作で、この世界視線を用いて芸術や文学作品の批評を多面的に行った。

 

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