晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

自由 その5

2011-01-09 15:52:19 | Weblog

  風邪等をひいた以外で、一日に一歩も戸外へ出ないという日はほとんどないと思う。本日は、そんな日、これもまた良し。

 

 

 

 

 自由を語ることには、ある種の堂々巡りが付きまとうが、『生きるための自由論』(大澤真幸著 河出ブックス 2010年刊)の第1論文「<自由>の存在」では、我々はいかなる意味において自由なのか、自由意志は存在するのか、と自由について真正面から問い、脳科学の成果も取り入れながら論理を展開している。(以下、ノオト的に引用する。)

 

 はじめに著者は、「心―脳」問題として、心的出来事(心)と物的出来事(脳)の間には、同一性は成立しない。心的出来事(自由が機能している。)が基底=地をなしていて、その上に物的出来事(法則に基づく因果関係に規定されている。)が重ね描きされているという。

 

 盲視、幻肢、エイリアン・アーム・シンドロームなどの例から、脳の中には、独立した複数の認識システムが存在し、システム相互のコミュニケーション(社会性)が機能している。脳それ自体は、<社会>である。

 

しかし、脳科学では捉えることができない意識の現象がある。人は脳科学が前提としている快感原則に従って行動するが、快感原則を超える例として、辿り着かない欲望(例えばお金は、儲けても儲けてもその目標に限度が無い場合がある。)というものがある。その究極には、苦痛そのものの中に快楽が見出される(自己否定=自己破壊)という逆転現象まで至る。現状の脳科学は、自己の内的社会性までは探求できているが、外的社会性の分析までの方法を持ちえていない。

 

 このように欲望の対象を充足しても足り得ないのは、欲望の原因自体が満たされていないためである。(例としては、おもちゃ(対象)を欲しがる子どもにおもちゃを与えても泣き止まない。本当は、母親の愛情(原因)が不足していたのである。)著者は、その原因を他者の愛や承認=「第三者の審級」にあるとする。

 

 そこから、自由とは、他者との関係、第三者の審級との関係の中にあり、社会的な現象であるとする。その第三者の審級とは、規範の普遍的な妥当性に対する保証人である。

 

しかし、現代社会は、その第三者の審級が失われていることによって特徴付けられている。従って、我々は自由そのものの基盤を失いつつある。

 

何をしても良いといわれる。

何をしたら良いのか。

何をすべきなのか。

何をしたら本当に生きていることになるのか。

 

自由の過剰と自由の空虚化が同時進行しており、それが現代社会における自由の困難となっている。

 

 

 私は、自由を巡るこういう議論を前に立ちすくんでしまう。著者は、心―脳問題から出発するが、脳を分析する脳科学には外的社会性まで探求できないという限界が示される。そこで、唐突に、自由は第三者の審級との関係の中にある社会的な現象であるとされる。しかし、その第三者の審級は無く、自由は困難に直面しているという。

 

 では議論のスタートで、自由が機能しているとされた心的出来事の方はどこへ行ってしまったのか。

 

コメント
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