晴走雨読

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『日本教育小史』

2011-04-02 16:54:05 | Weblog

 『日本教育小史―近・現代』(山住正巳著 岩波新書 1987年刊)

 

 20数年前に発刊された懐かしの黄版である。購入したのは、書店の片隅にあった2008424日付け第34刷、長くたくさんの人に読まれていることがわかる。

 

 本書は、幕末・明治から書き起こし、軍国主義教育、戦後教育改革、そしてその後の保守化まで至るこの国における近代教育の通史である。

 

著者は、いわゆる戦後民主主義者に属する学者なのであろう。戦前の富国強兵、教育勅語を批判し、戦後改革の象徴である教育基本法を評価し、近年(1980年代後半)を教育の反動化が進んでいると警鐘を鳴らす。

 

しかし、読み通してみると、教育とはその時代その時代において国家の要請を反映してきているものであることがわかる。帝国主義戦争期には戦意高揚に繫がる、また国家に尽くす教育が行なわれた。筆者の評価する戦後教育改革も、ある面ではこの国が経済成長するために必要な良質な労働力を供給するための教育であったことがわかる。

 

このことから、この国においては明治以降の国民国家の成立とともに、ずっと国家の意を受けた教育が実施されてきたのである。人々からは、国家のため以外を目標として、例えば自己の知識欲のために学びたいという要求はあったが、それは叶わぬ理想であり従としての目標だったといえる。

 

1961年(昭和36年)に小学校に入学した私は、戦後民主主義教育の高揚期に教育をうけており、学級会運営や多数決などを教室で教わる、ある意味幸せな時期だったと言える。さて問題は、国民がその教育思想を真に求めていて失ってはならないと考えていたのだろうか、と言うところにある。本書が発刊されてから20年後の今日戦後民主主義は非常に根の浅いひ弱なものであったことがわかる。

 

 最後に、国民国家が黄昏を迎えた現在、どんなに文部科学省が教育に国家イデオロギーを持ち込もうとしても、その国家そのものが危うくなっている。それは、この国としては初めて国家を離れた教育のあり方、ヨーロッパにおける大学の起源、この国における幕末の志士を生んだ塾のようなものの可能性から構想を始めても良いのではないか。

 

 


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5 コメント

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革命学校 (ブラック・ソルジャー)
2011-04-05 06:38:39
学校なんて、さっさと通過してしまえばいいだけです。

教育に仰々しさを装っている輩(教師、教育大、行政職、出版社、評論家等)の飯の種に過ぎません。
何故なら、飯の種を全否定することは絶対に教えませんから。

教育の定義は様々にあります、傑作なのは「子どもの能力を引き出す」、「よりよく生きるため」です。教師自身が自らの能力を引き出せないのに、また、よりよく生きるなら自ら教師などしないのにと、考えます。

教育に仰々しさを装っている輩の信仰にすぎません。
何故なら、根拠もなく現体制の再生産に確信を持っていますから。

      

革命学校ですら、党を否定する革命は教えません。
返信する
hierarchy (noga)
2011-04-18 17:46:23
日本は、天皇を中心とする神の国です。

日本人には日本語があり、日本語には階称 (言葉づかい) がある。
「上とみるか、下とみるか」の判断により序列関係 (義理) を作る。
義理が廃ればこの世は闇と考えられている。

日本人は、礼儀正しい。
日本人の礼儀は、序列作法である。
序列なきところには、礼儀なし。

日本人の社会は、序列社会である。
社会の構成員は、神々と下々に分かれている。
天皇は、序列最高位の人である。

天皇の御前では、全ての国民は「わし」でもなく、「わたし」でもなく、「わたくし」である。
価値観を揃えることで、日本人は一体感を得ている。安心感を得ている。
日本語の無い社会では日本人は価値観に迷いを生じ、心身ともに疲れ果てる。

序列社会では、序列判断とその作法により、人を遇する。
礼儀作法により、人々は向上心を掻き立てられている。
学校でも生徒に「身を立て、名をあげ、やよ励め」と歌わせている。

日本人の社会は、向上心により活気を得ている。
その原動力は、序列競争である。そのための試験地獄もある。
序列人間を作るのが、日本人教育の目的である。

教科の内容は、雑学ていどのものでよい。
日本人の学校は、格差を検出するための道具立てである。
だから、日本人は、序列人間となるために日本の学校で修業しなくてはならない。
四年間、大学で遊ぶことも、また序列作りに必要なことである。
生涯の協力も序列協力でなされるからである。

意思薄弱と他力本願を伴う幼児症に罹っていて、序列の外には出られない。
英国も日本も島国であるが、島国根性になるのは日本人だけである。

移民をすれば、序列社会を出なければならない。
外国では、序列判断も序列協力も成り立たず、日本人は本来の力を発揮できない。
それで、さまよえる日系人となり、精神的な不安定さにさいなまれる。

日系人は、移民先で勢力を拡大することもなく、祖国に帰って国の柱となることもない。
我が国の天皇制は、日本人に心の安らぎを与え、仕事に励ましを与える世俗の上下観である。
我々の過去を語ることもなく、行き着く先を示すこともない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

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大八嶋國の民 (日の丸)
2011-04-20 19:48:39
noga様へ

ハンドルネームで「日の丸」を使用している者として、ひと言アドバイスします。

大八嶋國の民は、noga様が書かれているような薄っぺらな精神ではありません。
読み方によっては、私たち大八嶋國の民を貶めていると読めます。
もっと大八嶋國の古典を読んで下さい。

また、マスコミで持て囃されている保守系の方々の言説、本で使われる語彙が散見されますが、古典を読み漁っていると、その虚空が分かります。

「天皇制」の語彙は使うべきではありません。
軽佻詭激の輩の造語です。

古典を読む素養がないのであれば、現代語訳が出ていますので手にして下さい。
その上で、徹底して思惟してください。

私たち大八嶋國の民を貶めていると読まれないために。

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ウィリアム王子の結婚式 (晴走雨読)
2011-04-30 20:54:39
 noga様、日の丸様、それぞれコメントありがとうございます。

 天皇制についてあまり知識が無いので、きちんとお返しできませんことをお許し下さい。


 昨夜は、英国王室の慶事が放映されていました。

 英国では、この国の内閣支持率調査のように、王室への支持についての世論調査をしているのですね。

 私は、この国の天皇制は、いつか生物学的な限界にぶつかるのではないかと思います。

 女性天皇論議は終息し、側室を持つことも世論の壁がある中、男系男子を維持するのは並大抵のことでは無いと思うからです。

 とりあえず、裕仁様までは繫がるので、私が生きている間位は大丈夫なのでしょう。
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訂正 (晴走雨読)
2011-05-01 15:21:43
 裕仁様(これだとヒロヒトになってしまいます。)ではなく、悠仁(ヒサヒト)親王ですね。
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