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昨日、土曜日は営業、本日、日曜日はボランティアと超多忙な週末。ボランティアとは、本来は自発的という意味なのでしょうが、義務的ボランティアという論理矛盾を起こしていることが明らかなボランティアなのです。
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『集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(仲正昌樹著 NHKBOOKS 2006年刊)その4
第4章は、『「現代思想」の左転回』として、ポスト80年代の思想状況をテーマに、第7講『なぜ「現代思想」は「終焉」したのか』で「現代思想」が流行らなくなった背景と、第8講『カンタン化する「現代思想」』で「現代思想」が残した“遺産”と今後の展望が述べられる。
(第7講)現代思想が流行らなくなった理由としては、ネタもとのフランスの思想家達が高齢化して死亡したこと。(1980年代前半でサルトル、バルト、ラカン、フーコー、1990年代入るとアルチュセール、がタリ、ドゥルーズ、レヴィナス、リオタール、2000年代にはデリダ)
ソ連・東欧ブロックの崩壊とそれに連動したマルクス主義的左翼の凋落によって、アメリカを中心とするグローバリズムの台頭への防波堤がなくなったため、逆に素朴な資本主義批判が再活性化した。
(第8講)反グローバリズム派は、マルクスを復権しようと企図しているのであろうが、必要なのは、マルクスをリサイクルすること、あらゆる常識を疑い、深い懐疑のまなざしをこそ学ぶべきであると著者は述べる。
マルクスに始まったこの国の戦後思想は、1970年代から80年代への20年間ほどポストモダンを迂回して、1990年代以降再びマルクスに戻るが如くである。
途中、生住滅さまよりコメントをいただいておりましたが、マルクスの思想とその後の継承者達によるマルクス主義との間には、問題意識の射程や深さに大きな差異が生じていると考える。
これまで様々なマルクス主義者による理論の継承、発展、改竄などがあるが、何よりマルクス自身もその一生の中で、初期マルクスの疎外論から始まり晩年の「資本論」における資本主義社会の分析に至るまでには多くの変化を遂げている。
しかしながら、マルクスが提起した資本主義社会に内在する根源的な矛盾は、現在も我々に突きつけられている問題と考えていいのではないか。
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『集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(仲正昌樹著 NHKBOOKS 2006年刊)その4
第4章は、『「現代思想」の左転回』として、ポスト80年代の思想状況をテーマに、第7講『なぜ「現代思想」は「終焉」したのか』で「現代思想」が流行らなくなった背景と、第8講『カンタン化する「現代思想」』で「現代思想」が残した“遺産”と今後の展望が述べられる。
(第7講)現代思想が流行らなくなった理由としては、ネタもとのフランスの思想家達が高齢化して死亡したこと。(1980年代前半でサルトル、バルト、ラカン、フーコー、1990年代入るとアルチュセール、がタリ、ドゥルーズ、レヴィナス、リオタール、2000年代にはデリダ)
ソ連・東欧ブロックの崩壊とそれに連動したマルクス主義的左翼の凋落によって、アメリカを中心とするグローバリズムの台頭への防波堤がなくなったため、逆に素朴な資本主義批判が再活性化した。
(第8講)反グローバリズム派は、マルクスを復権しようと企図しているのであろうが、必要なのは、マルクスをリサイクルすること、あらゆる常識を疑い、深い懐疑のまなざしをこそ学ぶべきであると著者は述べる。
マルクスに始まったこの国の戦後思想は、1970年代から80年代への20年間ほどポストモダンを迂回して、1990年代以降再びマルクスに戻るが如くである。
途中、生住滅さまよりコメントをいただいておりましたが、マルクスの思想とその後の継承者達によるマルクス主義との間には、問題意識の射程や深さに大きな差異が生じていると考える。
これまで様々なマルクス主義者による理論の継承、発展、改竄などがあるが、何よりマルクス自身もその一生の中で、初期マルクスの疎外論から始まり晩年の「資本論」における資本主義社会の分析に至るまでには多くの変化を遂げている。
しかしながら、マルクスが提起した資本主義社会に内在する根源的な矛盾は、現在も我々に突きつけられている問題と考えていいのではないか。
学位論文は未読ですし、エピクロスは概要的なことしか知りませんので、断定はできませんが、何冊か読んだ限りにおいては、マルクスの哲学はなんら変化がないと思っています。
人の存在の思考(哲学)=自然哲学からの唯物、弁証法に貫徹されており、洞察の対象により「商品」、「疎外」、「物象」の概念が現出していると思っています。
敗戦後の日本の思想は「マルクスに始まった」は、初見です。
話題になった「戦後民主主義」の泥沼では、一部を占めていたと考えられるのですが。
なにか危うい立ち位置ですね。
後日アッブされた中にも、「失うものが何も無い」という荒唐無稽のフレーズが、なんの躊躇いなく用いられています。
(21世紀なのに20世紀初頭の「無産大衆」とは、古代ギリシャの「無産市民」なら、変に納得したかもしれません。)
なぜ「我々」であって「私」ではないのですか。
また「考えていいのではないか。」であって「考える。」ではないのですか。
(貴兄のタクロウも、この点は認識(感性?)していませんか。)
これは、単に言葉尻の問題ではなく、貴兄がこの常套句を立ち位置の担保としているからではありませんか。
貴兄の社会学関係の読書ノートは、良質な思考に満ちていますが、マルクスが絡むと途端に教条的、思考停止となることが不思議です。
この不思議な有様は、マルクスの書籍と貴兄の間に、ある種のバイアスがかかっており、貴兄の思考が絡め取られていると考えると、腑に落ちます。
生住滅氏は、「カルトの典型」と揶揄していましたが、私はエールをメモします。
「全世界の獲得(=自己の獲得)」されんことを。
20数年前に学んだマルクスの記憶では頼りないことがわかりましたので、改めて学び直したいと思っています。
1953年生まれ、元中学校教員、咲木英和氏の著作を読み始めました。