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戦後左翼史 その41 1956年 スターリン批判 日ソ国交回復 ハンガリー事件 

2017-02-16 15:47:11 | Weblog

JR北海道の島田社長は皆から嫌がられる仕事を引き受け、難しい顔をしながら大変頑張っていると思います。気の毒な感じがします。一民間鉄道会社がどんなに努力しても地域の情況からは限界があると思います。行政に経費の一部負担をしろと言われても道内に裕福な自治体など無く、自ずと限界があります。高橋はるみ(ったくない)知事は、初めから他人事のようで論外です。では、この壁を突破できるのは?僕は今こそ政治家の出番!だと思います。麻生財務大臣がシグナルを出してくれています。特に、道内選出の国会議員の皆さん、今汗をかかず、いつやるのですか?目の前に、大きな手柄が転がっていますよ!この北海道の置かれている窮地を救うことができたら、偉人として名前が残ると思います。超党派でもいい、仕事をしてほしい。

 

1956(昭和31)年 スターリン批判 日ソ国交回復 ハンガリー事件

(★印は日共関係)

*(れんだいこHPに学ぶ)(「東大学生新聞第274号」1956.10.8所収)

風声波声

日本共産党よ 死者の数を調査せよ。そして共同墓地に手厚く葬れ。

政治のことは、しばらくオアズケでもよい。死者の数を調査せよ。共同墓地に手厚く葬れ。

中央委員よ 地区委員よ 自らクワをもって土を耕せ。穴を掘れ。墓標を立てよ。

-もしそれができないならば-

非共産党よ 私たちよ 死者のために 私たちの為に 沈黙していいのであろうか。

彼らがオロカであることを 私達のオロカサとしていいのであろうか

*(*は僕の考え)戦後史に翻弄され、前衛党に裏切られた者たちを想うとやるせない気持ちになる。

1月 『世界革命』(~96.6.24より『かけはし』)創刊

2.14 ソ連共産党第20回大会、「平和共存」「社会主義への平和的移行」路線採択、2.24フルシチョフ、スターリン批判

*(れんだいこHP)「フルシチョフ・テーゼ」:①社会体制の異なる諸国家間の平和共存、②戦争の宿命的不可避性の否定=世界大戦防止の可能性、③社会主義革命の多様性、社会主義への平和的移行の可能性、「議会をブルジョア民主主義の機関から、真に人民の意思を代表する道具に変える可能性があり、多くの高度に発達した資本主義国で伝統となっている議会は、真の民主主義、勤労人民の為の民主主義の機関となることができる」とした。また、秘密報告「個人崇拝とその結果について」を発表。スターリン政策、特に社会主義的民主主義と法秩序を無視した恣意的独断的指導、党、軍の多数の幹部の粛正の実態について報告。フルシチョフは、スターリンがナチスと結んだ独ソ不可侵条約を批判し、モスクワ裁判を通じた大粛清により党幹部、政敵、反対派、無実の人々に対する抹殺を事実と認めた。それによると、1934年「勝利者の大会」と呼ばれた第17回共産党大会で選任された139名の中央委員、同候補のうち98名が1937~38年に銃殺され、この時期に殺された農民まで含めると数百万人にのぼるという。1953.3.15スターリンから3年目のことである。安東仁兵衛「戦後日本共産党私記」では、「スターリン批判と我々の態度-六全協一周年にあたって」(前衛・9月号、米原論文)で、日共は、「個人中心的な指導、家父長的な指導の問題は、六全協で解決済み」で終わらせたとしている。

*「個人中心的で、家父長的な指導」という徳田球一をイメージしたような日共のスターリン批判は問題の本質を捉えてないばかりか、物事の深刻さの度合いもわかっていない。前衛党において、なぜ、党内権力が集中し、示威的な党運営になっていくのか。それが国家の権力を握ったときに大衆に対してどのようなことになるのか。抑制的に働く牽制の力がなぜ働かないのか。そもそも社会主義は根本的な欠陥を孕んでいるのではないか。

2.20 日教組第13回大会。教育三法反対闘争方針決定

4.5 中国『人民日報』「プロレタリア独裁の歴史的経験について」

4.11 全国中立労組懇談会発足、9.8全国中立労組連絡会議(中立労連)に改称

4.15 総評等主催、第1回「働く婦人の中央集会」開催

4.17 コミンフォルム解散

*(れんだいこHP)運動における各民族の独自性を強調して解散。

5月 埴谷雄高「永久革命者の悲哀」『群像』

5.2 中国、「百花斉放・百家争鳴」提起

6.9 全学連第9回大会、委員長に香山健一

*(れんだいこHP)星宮・牧副委員長、高野書記長らを選出。1956年は、国際派ルネッサンスとでもいうべき年で、運動の形成方法も1950年レッドパージ反対闘争の復興であった。

6.28 ポーランド・ポズナニ暴動

7.3 中国で釈放の元戦犯第1陣335名帰国、8.1第2陣329名帰国

7.28 総評松川事件対策委員会、第1回調査団派遣

8.9 第2回原水爆禁止世界大会(長崎)

8.10 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成

9月 吉本隆明・武井昭夫『文学者の戦争責任』淡路書房

10月 大井広介『左翼天皇制』拓文館

10.12 砂川基地拡張をめぐる(*第二次)強制測量で警官隊と支援学生・労働者激突、10.13再度激突「流血の砂川」、10.14政府、測量中止

*(れんだいこHP)武装警官隊2,000名に襲われ、学生1,000名重軽傷。現地指導部(森田・島)の「現地動員主義の成功」評価に対して、留守指導部(高野・牧)がその他の運動との結合との絡みでしか評価しないという対立。

10.19 日ソ国交回復に関する共同宣言

*(れんだいこHP)1.25元ソ連代表部首席代理ドムニツキーから鳩山への秘密裏の手紙には、「ソ連側は、日ソ関係の正常化を目指して意見交換を行うことは時宜に適するものと信じる」と書かれており交渉が開始。北方領土の帰属の話し合いが難航。最終的に、鳩山は、領土問題を先送りしても国交回復を優先すべきだと決断。「領土は何年たってもなくなることはないが、人の命には限りがある。国連に加盟できれば、択捉、国後についても話し合いの出来る機会が生まれるに違いない。」。10.12フルシチョフの宴会発言「日露戦争では我々が日本に負けた。しかし、あの時は革命前の腐りきった軍隊だから負けるのが当たり前だった。ところが今度はどうだ。ノモンハンでも張鼓峰でも、君達の兵隊は、そこに座っているジューコフの軍隊に全滅にされたではないか」。10.19共同宣言は、①戦争状態の終結、②大使交換、③抑留者の送還、④漁業条約の発動、⑤日本の国連加盟への支援などを締結。「歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すことに同意。但し、現実には日ソ平和条約締結後に日本に引き渡す」と明記。北方領土問題が取り残された。

10.24 ソ連軍、ハンガリー第1次介入、11.1ハンガリー首相ナジ、中立化・ワルシャワ条約脱退声明、11.4ソ連軍第2次介入

*(れんだいこHP)10.23ハンガリーの首都ブダベストで非スターリン化の中で政府に不満を持つ学生・労働者が暴動化。10.24ナジ=イムレが首相に就任。ソ連軍が出動し多くの死傷者が出た。11.1ナジは、ワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言。ソ連軍再介入。11.4ソ連軍ブダペストに総攻撃。ナジ政権の閣僚全員が逮捕。カダル新政権成立。ナジは1958年処刑された。日共は、このソ連軍の行動を、「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてソ連を支持。

11月 丸山眞男「スターリン批判の批判」『世界』、黒田寛一『スターリン主義批判の基礎』人生社

 

11.1 愛媛県教委、教職員の昇給に勤務評定適用と決定、勤評反対運動高揚

★12月上田耕一郎『戦後革命論争史』上(下57.1)大月書店

*(宮地健一氏HPに学ぶ)1950年段階の国際派学生対策委員だった内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、石堂清倫で「戦後日本の分析」研究会を開催。討論を内野がまとめ出版する予定だったが超遅筆のため、筆録していた上田が代わって執筆した。その後上田は内野グループから離脱し、宮本派に鞍がへした。『論争史』を評価しない宮本は上田兄弟を自己批判させたが、兄弟は5人の了解も取らずまるで自己の著作であるかのように絶版措置をとった。 

*年表の1951年における記載は誤り。同書については、このブログ2009.11.5、12.30に記した。

12.6 総評、スト規制法要求貫徹総決起大会、12.8参議院、スト規制法恒久化を決議

12.8 伊共産党、「社会主義へのイタリアの道」発表、構造改革路線

12.26 ソ連から最後の引揚船、舞鶴に到着

 

 


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