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『「感動」禁止!』

2007-12-20 20:59:14 | Weblog
 『「感動」禁止!―「涙」を消費する人びと』(八柏龍紀著 KKベストセラーズベスト新書 2006年刊)

 著者は、最近人びとが発する「感動をありがとう!」「勇気をもらいました!」などの言葉に違和感を持つという。私も「勇気をもらった」「元気をもらった」と書いた記憶がある。

 本書は、「感動」を切り口にした戦後史である。著者は、1970年を画期として、感動が変質したことを分析する。全共闘運動などを例に、1970年までは、感動に主体性や共同性が内在していたが、それ以後は、全て「商品化」され、「消費」の対象になってしまった。

 私が、先日、コンサドーレ札幌のJ1昇格で味わった歓喜とその後の虚脱感を著者が見事に言い表している。

 メディアからの情報を消費する文脈で、以下P126より引用、『人びとは、そこに「参加する者」ではなく、「観客」として存在するだけである。それは、人びとがつねに情報から疎外関係におかれていることを意味する。観客でしかない人びとは、同時に客観的であることを強制されているのだ。結局、観客である人びとは、情報を見終わったあと、興奮で少しは眠りの時間を妨げられるものの、しばらくすれば眠りに入るか、忘れてしまう。「観客」の位置は、しょせんそんなものである。』

 そこには、共通の理念や価値を媒介にする連帯感がない。時が経てば、それぞれの日常に戻ってしまう。

 また、先日私は、「健康」などに対する不安に乗ずる人々を批判したが、これを解くヒントも著者が示している。

 以下P176より引用『多くの人びとは、悲しみや痛苦から逃れたいと思っている。したがって、資本はそうした人びとの内在化している希望をも商品化する。そうした結果、豊かな商品=モノに囲まれて、そのなかで人との関わりを排除して生活することは、人びとから不安や痛苦などを遠ざけ、また安楽をもたらす。だが、それとともに、不可視な差別や差異化を持ち込むことにもなり、不安や痛苦、不可視なものへの想像力を萎えさせることにもなってしまうのだ。』

 著者は、最後にこう結ぶ。『感動は自己自身が感じられる主体的な感情だし、勇気もやっぱり自分の内面からわきだしてくるものではないかと思う。』

 映画やスポーツの感動は、それはそれとして、2008年は、自分で主体的に行動して、喜び、怒って、哀しみ、楽しみましょう。心から「感動」し、本当の「涙」を流しましょう。

 著者の八柏龍紀氏は、1953年秋田県生まれ、予備校の教師をしながら1999年に情況出版から、歴史を中・高校生にもわかりやすく、興味深く、しかもしっかりとした歴史認識を持った『戦後史を歩く』という良書を出している。

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