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『最後の吉本隆明』(勢古浩爾著 筑摩選書 2011年刊)
本書は、吉本の思想を論じていない。読みやすいが、思想上の問題など読後何も残らない。正直な著者である。『言語にとって美とは何か』『心的現象論』「共同幻想論」は、読んだが理解できなかったと言う。しかし、本書は、350ページ余りあるが一気に読ませるものがある。
読み手には様々なタイプ、興味の持ち方があるが、本書は吉本の生き様に焦点を当てている。不屈に考え続けた辛酸の20代、三角関係、論争のスタイル、庶民としての原点を失わない姿勢、そして最後の吉本に。スキャンダリズムというより、人間吉本が良く描けていると感じた。
楽しく読み終わって、唯一の収穫。長年の疑問が解けたような気がする。それは、「なぜ、吉本ほどの思想家(思想界の巨人とまで言われている。)が、あの岩波書店から本を出さないのだろうか」というものである。
それは、出版社が吉本を拒否しているのではなく、吉本が岩波から出版することを良しとしないからなのではないか。岩波といえば、東大アカデミズムの権化、戦後民主主義の旗手である。吉本の拠って立つ所とは、真っ向対立するものであるからではないか。吉本の方から断っているのではないか。
書店で『最後の吉本隆明』を見掛けて、購入しようか迷いましたが買いませんでした。
吉本隆明の「最後の親鸞」を模したタイトルに、「共同幻想論」等の理論三部作等は読み込んでいる著者と思いました。
最初は<読んだが理解できなかった>は事実でしょうが、勢古浩爾は売文稼業のような気もしますが橋川文三に師事しており、橋川文三と吉本隆明との関係を考えると、その後読み込んでいると思います。
貴兄は<吉本の思想を論じていない。読みやすいが、思想上の問題など読後何も残らない。>と書かれていますが、吉本隆明の思想の核心そのものにより書かれているのでは・・・。
貴兄の文章を読んで、<吉本の生き様に焦点を当てている。>その視点に「吉本隆明の思想の核心」があるような気がしました。
読まずして憶測を書けば、吉本隆明は自らの思想で親鸞を描ききっていますが、この著者は吉本隆明を「吉本隆明の思想の核心」で描きろうとしているのではないでしょうか。
故に、「吉本隆明の思想の核心」そのものを書いていることから、貴兄の書かれる思想も思想上の問題をも書く必要はないことになります。
これは、「最後の親鸞」を模したタイトルからも伺えます。
ここに、埴谷雄高が書いているところの「革命家」(永久革命者の悲哀)の姿が現れてきます。
貴兄のご指摘を私なりに解釈しますと、本書は、「思想界の巨人」としてではなく、「大衆の原像」を体現している一市井人としての吉本を描こうと意図したものだと思います。
40歳を過ぎるまで、特許事務所で生業を立てながら、前人未到の思索を続けた姿などは命がけの思想と言えます。
2・さて、「言語美」等の大著は読んだが、理解できなかったと語った勢古氏の言を受けて貴兄は正直な人であると評されました。しかし、理解できなかったというのはおそらく謙遜を含んでの理解ができなかったということだと私には思えます。そう思うのは生住滅さんの「勢古浩爾は~橋川文三に師事しており、橋川文三と吉本隆明との関係を考えると、その後読み込んでいると思います」との文章に接したからです。生住滅さんの言うところを私なりに敷衍すると~戦中に橋川も吉本もともに日本浪漫派の保田與重郎に傾倒した感性の鋭い文学青年であり、また皇国青年でもあったのは貴兄も周知のところと思います。そのようなかれらにとって敗戦はまさに精神を揺るがす事態、できごとであったことは容易に想像できます。やや具体的に例えば、吉本は敗戦は認めるわけにはいかなかったのではないか、なぜ最後まで戦争を継続しないのか、この際生き死には問題ではないとの強いおもいが支配していたのではないか。橋川も同様であろう。ゆきつくところ敗戦は今までの自分にあった価値観、あるいは人格を全否定するものであったのでしょう。しかし、このときからかれらの思想的苦闘もはじまることとなりました。 世界(価値)とは、戦争をはじめた国家とはそもそも何か。嘗て私たちの見たあの明らかな体験像は、たんなる幻影にすぎなかったのかという自己内省を宿しながらこの課題に生涯を費やして向かったと思います。このことは生きる意味でもあったのです。戦争を扇動してきた文学者(詩人の壺井繁治、小説家の武者小路実篤)には内省がなく、あのときはだまされていたのだとか、これからは平和のための貢献をするとか、戦争の旗振りをしてきた者が十年も二十年も前から自由主義者であったとか、平和主義者であったと臆面もなくいう輩とのちがいは歴然としています。一般的な言い方になりますが、吉本や橋川が己に課した問題への執拗なまでのこだわりは切実であり、その姿勢は真摯です。このふたりの取り組む領域にちがいはあってもその思想の基底においては通有するものがあると思慮します。橋川文三に学んだ勢古氏が吉本の著作を生半可に読み込んだとはおもえません。 3・生住滅さんの吉本隆明の思想の核心と埴谷雄高の永久革命者の悲哀についての論は短文と相まって今の私の力量では理解ができませんでした。埴谷曰く、「レーニンとは何か。私は、レーニンはただ一揃えのレーニン全集の中にしか存在しない」、「クモの巣のかかったような古ぼけた部屋にごろごろしていても、革命者は革命者である」かつてのスターリン政治体制をみたとき、レーニンのいったことなどどこにも見出せないではないか。換言して、前者はレーニンの著作など一文の価値のない机上の空論にすぎぬ代物ではないかに対する反論(否定)思想であり、後者は惰眠を貪っている革命者などに何の価値があるのかに対するアンチテーゼと思われますが(観点がズレているかもしれぬけれど)、このことと吉本思想の核心との結びつき、関係がよく理解できませんでした。 4・楽しく読み終わって、唯一の収穫。 読み手には様々なタイプ、興味の持ち方もあってしかるべきですが、私はついに楽しく読んだという感想はありませんでした。吉本が岩波書店から本を出版しないのは云々は同感です。平たく言えば岩波はお高く留まっている出版社と吉本はみているのですね。 5・以上、管見を述べました。末筆ながら貴兄の快走と健筆を祈念します。
懐かしい名前(失礼)、そして興味ある視座があり、読まさせていただき幾つかコメントを考えましたが晴走雨読氏のブログのため埴谷に係わる事柄をメモします。
存在、自由、時間等の根源的な思念(形而上学)と知識、認識、限界等の思念(認識論)との間には、深淵がありまた重層的絡み合いがあります。
そこに横たわっているひとつにExistenz(現実存在、事実存在)があります。
「実存」は「在るもの」は何であるかとの問いではなく、「在る」ことそのものを問うことにより、自分自身の実存が人間全体として具体的に認識(類的存在として)できると考えられていますが、この考え方は逆立ちしているのでは考えています。
埃の積もったレーニン全集(読破できていません。)に、ウラジーミル・イリイチ・レーニンの考え抜かれた事柄があり、レーニン全集のレーニンを語るのではなく、自分の裡のレーニンを語るのではなく、レーニンを通して自分を語る (考える) べきと考えています。
多くの先哲は、核心とも言える事柄は「逆説的比喩」で表現していますが、そうせざるを得ない事が、僕の裡に大きく横たわっています。
僕は、単なるヤサグレ親父にすぎません。
お礼が遅くなりましたが、2013.11.4付けでコメントから感じたことを記しました。
コメントで言われていることを全て理解したわけではありませんが、お読みいただければ幸いです。