晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『レッド Red 1969-1972』 第7巻、第8巻

2014-07-10 20:25:50 | Weblog

 半年ぶりのイノダコーヒー。大丸デパート札幌店にしかなくなった。店内はおしゃべりで少し騒々しいが、やはりコクがあって旨いと思う。ブックマークしています愛犬日記、ぷららのサービスが終了したので、ここと同じ、gooに移行したということです。NTTの合理化です。

 

 『レッド Red 1969-1972 7』『レッド Red 1969-1972 8』(山本直樹著 講談社イブニングKCDX 2013年刊、2014年刊)

 現在発刊されている第8巻まで読破。(その後は、週刊イブニングで連載中)長い長い1971年がようやく終った。山岳ベースでは、厳しい冬を迎え、この後あさま山荘事件までの60日ほどの間に、「総括」という名で15名の仲間が粛清される。

 現在の私のような市井人の日常は、家族、会社、地域、法律など様々な規範に囲まれて生活している。交通ルールのように常に意識しながら守るルールもあれば、当たり前の日常になってしまって、特に意識もせず、また特別の拒否感も持たずに受容しているルールもある。もう少し言うと、たかがその規範の範囲内での振る舞いに過ぎないのだが、それを「自由」と感じて生活している。

 目的意識を持つ者を革命家と呼ぶと、革命家は市井人の日常性に異を唱える。籠の鳥状態を自由とは呼べない。真の自由がある世界は、もっと違う向こう側にあるのだ。だから、目的意識を持って、そこまで行こう。そのためには、新しい世界までの過渡期として、我々自身の規範を守る必要がある。それを邪魔する敵との闘いにあっては、なおさら自らを律しなければならない。・・しなければならない。・・であるべきだ。闘いの非日常を構築しなければならない。目的意識の足りない者は、自らを「総括」せよ!

 それは、してはいけないことだ、というような規範に触れる行為を批判されることは比較的納得しやすい。受け入れることも、反論することも論理の世界で理解できる。しかし、内面を問われるのはきついと思う。連赤事件の「総括」に感じるその切なさ、やるせなさは、彼らの内面を問う総括だったからだと思う。「お前はお前の意識の共産主義化が足りないのだから、自らを総括せよ」と問われたのだ。自分の意識のどこに問題があるのか。どのように変えれば良いのか。答えがあって、答えのないような、終わりなき問いを突き付けられるのだ。

 連赤の事件は、過去の時代に、左翼が革命運動という特殊な状況下で起こったことなので、今の我々には無縁な出来事と言って、切り捨てていいのだろうか。私は、市井の日常で常に発生する可能性があると考える。「アイツの目つきが気にいらない」「お前は、何を考えているのだ」「なんで、そんな顔をするんだ」・・私たちは、他者を理不尽に全否定する言葉を吐いてはいる。

 

コメント
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