晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『絶望の裁判所』

2014-07-20 20:44:16 | Weblog

 歳をとってきて滑舌が悪くなってきたと自覚しています。発音不明瞭で、頭の回転も鈍ってきて次の単語が出にくくなってきています。相手にとって聞きにくいだろうなと感じています。そこで、ここ数か月やっている私の克服法は、朝の通勤中、自分の車の中で発生練習をしています。「あ、え、い、う、え、お、あ、お!、 お、あ、お、え、い、う、え、あ!」「か、け・・」と、大きく口を開け、お腹から声を出して。

 少し恥ずかしいのは、対抗する車の方が、不思議な顔をすることです。変なオジサンだと思います。この練習、先週からもう一ランク上げて、声の高さを変えることにしました。低音から、高音まで、短く発したり、長く伸ばしたり、声域の幅をもっと広げたいと思っています。

 これは、吉田拓郎がボイストレーニングをしていると言っていたのがきっかけです。先月出た、アルバム『Again』には、これまでのリメイク曲が収録されていますが、拓郎の声が若い頃に少し戻っているように思えます。

 

 『絶望の裁判所』(瀬木比呂志著 講談社現代新書 2014年刊)

 書店の新書の中で今一番売れているようだったので購入。しかし、かなり期待外れであった。元裁判官が現在の最高裁を批判しているのだが、その切り口は、論理の世界というより、私情、私憤のレベルとしか思えない。駄本である。帯に推薦文を書いた魚住昭氏もいい加減なほら吹きをやめてほしい。

 私は、浪人をしていた1973年に長沼ナイキ訴訟に対する札幌地裁判決をその日、裁判所前まで見に行ったのだが、自衛隊違憲判決を出した福島裁判長のその後を知っているので、既にその時点で司法は終わっていると思っている。制度上は、最高裁判事に対しては、国民審査で国民がNOと意思表示をできることになっているが、誰もそれが有効に機能できるとは思っていない。

 著者は、自分だけが清く正しく、それを受け入れてくれない司法から逃げ出し、自分以外の裁判官の個人的な資質、出世主義者、偏ったイデオロギーなどを問題にしているが、問題の本質はそのようなところに無いと考える。今までも、この手の告発型の本を読んだが、いずれも視野の狭さと有効な対案の無さが共通している。著者は、一時的にもてはやされるが、すぐに賞味期限が切れたような扱いになる。

b私は、国家権力(政治)による司法のコントロールを問題にするのなら、「最高裁」を廃止するべきと考える。国民国家が黄昏を迎えている現在、国家は解体の方向に持って行くべきと考えており、司法も地方毎の判断、地裁、せいぜい高裁レベルまででいいと思う。司法の地方主権化を進めるべきと考える。

 最高裁があることにより、全国が同一の法律の適応と解釈で公平性が保たれるというメリットよりも、今では最高裁によって国民全体が不利益になっているのなら、最高裁のあるメリットは無くなっていると考えるべきではないか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする