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『教育の力』ノオト その1

2014-04-15 20:47:53 | Weblog

 ナポリタンではなく、焼きトマトとチーズのスパゲティ、薄味でトマトそのものの味がして美味。

 

 『教育の力』(苫野一徳著 講談社現代新書 2014年刊)ノオト その1

 苫野一徳氏の著作として、以前(2011.10.18)このブログで、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ 2011年刊)について述べた。先ずは、同氏の新刊について論旨を忠実にノオトする。

 はじめに

 著者が提唱する教育の構想は、①今の画一的・一斉型から、学びの「個別化」(カスタマイズする)[第二章]、「協同化」(子どもたちの知恵や思考を持ちよる)[第三章]、「プロジェクト化」(子どもたちが自らの目的を持って挑戦する)[第四章]の融合型へ転換する。②閉鎖的になりがちな学校(閉鎖的な学級文化・人間関係)をさまざまな仕方で開き、子どもたちが多種多様な人たちと交われる空間(人間関係の流動性)をつくる、とする。(P8から要約引用)

 序章 そもそも教育は何のため?

 公教育の目的は、すべての子ども(人)が〈自由〉な存在たりうるよう、そのために必要な“力”(教養=力能と呼ぶ)を育むことで、各人の〈自由〉を実質的に保障するものである。同時に、社会における〈自由の相互承認〉の原理を、より十全に実質化するためにある。(P23)

 教育界には、①教育は社会(国)のためのものか、子どものためのものか、②道徳教育を通して愛国心を育もう、子どもたち一人ひとりの価値観を大切にしなければならない、③知識は教え込むべきだ、子どもたち一人ひとりの興味や関心を活かさなければならない、といった対立があるといわれているが、著者は、公教育の目的の実現を考えた場合、両者は支え合う関係にあると述べる。(P28)

 教育で求められる「平等」は、「教育の機会均等」および「〈教養=力能〉の獲得保障の平等」である。他方で、必要かつ容認されうる「多様化」は、この平等を達成するための方法と、この平等達成以降の教育の多様性であり、これら二つの平等を保障する限りにおいては、「競争」も一定容認されうる。ただし、義務教育段階における「競争」(過度の学力競争や学校間競争など)は、この二つの平等を侵害する可能性がきわめて高いため、基本的にやめた方がいい。(P38)

 第Ⅰ部 「よい」学びをつくる

 より「よい」学びをどのようにつくっていくことができるのか。(P46)

 第1章 「学力」とは何か

 〈教養=力能〉とは何なのか。それは、一人ひとりの子どもたちが〈自由〉になる、つまりできるだけ「生きたいように生きられる」ようになるための“力”のことである。この“力”は、「学力」と「相互承認の感度」である。(P46)

 では、「学力」とは何なのか。それは、「現代という時代はどのような学びを学校に要請しているのか」という観点から考えると、従来は、学校で「何を学んだか」よりも、忍耐強く勉強する姿勢を求められていた。しかし、現代のポスト産業社会においては、知識を「ため込む」力、さまざまなことを“まんべんなく”教え込み覚え込むことより、自ら考え自ら学ぶ力を持ち、絶えず「学び続ける」ことを求められている。(P51)そして、子どもたちの〈自由〉を実質化するものとして教育にとって、職業に就く“力”を育むことは、一つの重要な責任である。(P54)

 言い換えると、現代の公教育がその育成を保障すべき「学力」の本質、「学ぶ―力」を育むこと。それは、必要な時に必要な知識・情報を的確に“学び取る”、それをもって自らの課題に立ち向かっていける“力”のことである。(P58)

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