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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その6

2014-03-21 15:47:12 | Weblog

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その6

 マルクスの分析は、第9章「剰余価値率と剰余価値量」、第10章「相対的剰余価値という概念について」、第11章「協業」と進む。

 第12章「分業とマニュファクチュア」、第5節「マニュファクチュアの資本性的性格」で、マルクスは、(P532)「こうしたマニュファクチュアの労働者は、その本来のありようからして、自立的なことをする能力を奪われ、生産活動を展開できるのはもう資本家の工場の部品となることによってのみとなるのである。」、(P539)「マニュファクチュアは、労働の社会的生産力を労働者のためにではなく、資本家のために発展させるのであるが、それだけにとどまらず、労働者個人を不具にすることによって発展させるのである。」という。

 会社の同僚たちは私も含めて、それぞれ人間としての個性や多面的な能力を持ちながらも、得意、不得意分野があったりしている。会社の経営者側は、その社員の能力や特性、これまでの実務経験などをもとに適材適所を掲げて業務の分担をしている。それが、マルクスに言わせると、わらわれ労働者は、工場の部品と化し、不具にさせられているということになる。

 確かに、現実に私たちは自分の持っている能力の一部しか仕事に使っていない。その仕事に合わせて能力を特化させているといった方がいいだろう。仕事によって違いがあるが、製造業のライン業務やマニュアル化された業務では、単純な業務の繰り返し連続であった、全能力を使っているとは言えないであろう。

 逆に言うと、持っている能力を全面的に発揮できる仕事とはどのような仕事なのだろうか。のちにマルクスは、資本主義社会での労働は、労働者の能力を一部しか発揮できないが、来るべき社会では、その能力が全面的に開花する労働になると言っている。しかし、それは、どのような社会のどのような労働なのであろうか。マルクスも、具体的に語っていないし、私も想像力が足りなくそれをイメージできない。

 

 

 

 

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