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晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『子どもと哲学を』 その3

2012-09-27 20:36:39 | Weblog

 これは釧路川ですが、週末は旭川ハーフを予定しています。旭川で生まれ育った友人から美味しいお店情報をいくつかもらいました。エネルギーを燃焼した分、補給して来ようと思っています。

 

 第三章 「世の中」と自分―人間であることへの問い

 子どもたちは、「人間」(人々、世の中、世間)であることと「自分」であることとの間には、決定的な隔たりがあることを感じるようになる。

 「平均的なもの」の呪縛、すなわち平均から外れるものを排除することは、現代のこの国、とりわけ学校という世界においてもっともなじみ深いものである。

 生徒集団の中では、良い子であったり、勉強ができたりすることは、決して居心地の良いことではなく、そこで(いじめを受けることなく)生きるためには、「普通」の存在でなければならない。教師が求める「まじめ」や「良い子」と、周囲の仲間が求める「普通」の生徒の間で、子どもは悩む。教師の「まじめ」を望む「善意」は、子どもにとっては、自分の存在を根底から否定する「悪口」としか受け止めることができなくなる。学校というところは、すれ違いを互いに認め合うことを阻害するような力が働いている場所なのである。

 言葉は人間の本質そのものであり、力とむなしさ、知と知を超えるものの両端に接する、両義的なものであるとしたら、言葉の教育こそが、人間の本質を子どもたちに考えさせるための最も重要な教育の部分である。しかし、学校で教えられる言葉は、この両義性を切り捨てた「きれいごと」そのものの言葉になりがちである。

 子どもは、教師が求めている言葉が何であるかを知りながら、あえてそれに抵抗することがある。それは、教師の求めている言葉が、自分自身の言葉でないと知っているからである。学校は、世界とは何か、自分とは何か、「世の中」とは何かなどと「考えること」の代わりに、陳腐な作品に対して「共感すること」「感動すること」を求め、それを語る言葉を生徒から引き出そうとする。それはまるで、学校独特の「文法」のように見える。

 世の中には、「やさしさ」「あたたかさ」「おもいやり」「愛」といった美しい言葉があふれている。思春期の、ものを考え始めた子どもにとって、それらの言葉が、まやかしの「きれいごと」の言葉に感じられるのは当然である。

 

 自民党の総裁に安倍晋三が選ばれた。彼の発する「美しい国土」「強い日本」という言葉は、子どもから見てもまやかしの「きれいごと」に過ぎないとわかるであろう。さて「考えること」とはどういうことなのだろうか。今、私は本を読んでノオトをブログに書いているが、これは「考えること」にはならない。なぜなら他人の論理をなぞっているだけだから。何かについて説明する場合も、世間に流通している言葉を巧くやりくりしていることがほとんどであり、それも「考えること」ではない。成長途上の子どもたちが命がけで様々な問いを発して「考えている」のに比べて、案外と大人は、「考えること」をしていないものだ。だから、大人は子どもたちが今「考えていること」を理解できないのだ。

コメント (4)
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