晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『子どもと哲学を 問いから希望へ』 その1

2012-09-17 16:56:41 | Weblog

 3連休、営業の合間に走り込み、昨日は途中で激しい雨で濡れ鼠に。今日は、近くの公園の芝の上でダッシュ、身体は少し絞れたような感覚、でも明日は股関節がきっと痛いであろう。

 

 『子どもと哲学を 問いから希望へ』(森田伸子著 勁草書房 2011年刊)  ノオトその1     

 子どもの問いが、幼年期から思春期にかけて、世界があることの意味への問い(なぜこの世界が存在しているのか)から、この自分が世界に生きることの意味への問い(なぜ自分が存在しているのか)に変容していく。

 第一章        幼年期の問いー世界が「アル」ことの不思議

 1歳半位から子どもは、初めに「ナイ」を認識し、次に「アル」を認識する。「ナイ」は不在であり不安につながる。「アル」は存在であり、「生きる力」につながる。

 4歳位からは子どもは、「アル」ことの「終わり」を認識する。再び始まる「終わり」もあれば、絶対的な「終わり」=「死」、時間の限界についても認識し始める。

 子どもの問いは続く。7歳の子どもの、「宇宙の果てはあるのか」という問いは、「自分がどこにいるのかわからない」という「無限を前にしたときの根源的な不安」から発せられる。

 「世界の始まりは」という問いは、「自分(生命)はどこから来たのか」ということであり、「何にもない=無は存在するのか」と幼年期の問いは続く。

 著者は、「幼年期に見られる、問いをオープンのままにしておける力こそ、やがて子どもが現実のより複雑で過酷な世界と向き合わざるを得なくなった時、現実に押しつぶされることなく、人間らしい生を求め続ける勇気を与えてくれるものであると私は考えます。」という。(P45)

 毎日のように子どもの自死報道が続いている。これらに対して親や学校は無力なのであろうか。本書を読むと、否、今のアプローチが間違っているのではないかと感じる。子どもたちの根源的な問いに対して、向き合えていないのではないか。仲良くしなさい、いじめてはいけません、人が嫌と感じることをしてはいけません。私たちは、これらの言葉の無力さを何回も経験してきている。

 

 

 

 

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