晴走雨読

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『日本語が亡びるとき』 その2

2009-07-20 21:18:31 | Weblog
 クーちゃんに会いに行ったのですが、クーちゃんには会うことができず、ご覧のようにパンになっていました。



 『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(水村美苗著 筑摩書房 2008年刊)その2

 民族や国家の勢いと言語使用は比例する。現在は、米国流のグローバリズムが世界を席巻しているが、言語としては英語の時代になっている。アジアで日本経済の一人勝ちの時代、韓国や中国で学生の日本語ブームがあった。そういう意味では、本書は、見事に言語の「帝国主義論」になっている。

 かつて企業において、英語が堪能な社員を「英語屋」と称した時代があった。しかし、現在のように「デキル」という良い意味では無く、便利屋として「ツカエル」ということで、重宝がられるが重用されない存在としてであった。英語を使えても出世の妨げになるということで、当時はそれを隠したということである。

 水村氏の著作は、言語について様々なことを考えるきっかけとなる良書だと思うが、言語が亡びるということが、人と人との関係や国家間のコミュニケーション手段としての視点に限られており、言語のもう一つの大事な機能、内省のための手段(吉本隆明の提起より)という視点が欠落していると感じる。

 国家や民族が亡びたり、他の言語を強制されたとしても、民衆や民族が自分たち固有の言語を使って思索したり、歴史を伝えたりすることはできるし、現にそういう例は多々ある。抵抗の言語という視点があってもよかったのではないか。

 

コメント
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