真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「和服夫人の身悶え -ソフトSM編-」(1999/製作:旦々舎/配給:大蔵映画/脚本・監督:山邦紀/撮影:岩崎智之・藤井昌之・渡辺隆輔/照明:上妻敏厚・河内大輔/編集:《有》フィルム・クラフト/音楽:中空龍/助監督:松岡誠・増田庄吾/制作:鈴木静夫/スチール:岡崎一隆/録音:シネキャビン/現像:東映化学/出演:今井恭子・風間今日子・やまきよ・真央はじめ・中村和彦・柳東史・村上ゆう)。因みに、よしんば旦々舎外にせよ、-ハードSM編-が別に存在する訳ではない。
 共に和服姿で護岸に佇む、俳句結社「触覚」主宰の市森雅光(やまきよ)と、こちらは複雑な表情も浮かべる元は直系弟子の妻・彩乃(今井)。挨拶代りにおとなしめの一句、「カラス鳴き三千世界肌寒く」。ぶら下がり健康器(?)に固定した彩乃にくすぐり責めを加へる夫婦生活、「触覚」が掲げるのは皮膚感覚の俳句だとかで、雅光によるとスピノザ曰く“愛とはくすぐりであり、これにより思慕の情を伝へる”とのこと。スピノザが絶対そんなこといつてないだろとも思つたが、よくよく調べてみると案外さうでもないらしい。そこで一句、「スピノザの合縁奇縁UCHACHA」、無季自由律にもほどがある。といふか、無季自由律を形式として認容するならば、そこから先は何でもありなのではないか―そもそもそれは形式の名に値するのか―といふのは、浅墓な門外漢の粗雑な素人考へに過ぎないのであらうか。二人の歪曲した営みに、判り易いイメージで誕生裏から覗き魔が視線を滾らせる。今度は、何時ものチンコのやうな髪型ではなくして珍しく短髪をツンツンにアップした真央はじめが、新聞配達がてらに一句「時の人海千山千餓鬼の群れ」。この二人は夫婦なのか、雅光が見守る中新聞配達が村上ゆうにスパンキング。“尻打ちは罰する為ではなく子宮を開かせる為のものであり、交感中枢を刺激することで苦痛の感覚は最終的にオーガズムに撥ね上げる”とやらで雅光作中三句目、「子宮開き水魚之交《まじはり》オーガズム」。この句は雅光的に満足の行くものらしい、小生の如き即物的に過ぎ品性下劣の挙句に目下無職の輩には、到底手の届き得ぬ領域ではある。今度は今度は、無農薬を売りにする八百屋の中村和彦登場、マヤ(風間)が大根を買ひに来る。風間今日子が小さく見える中村和彦のデカさに、この期に及んで軽く驚かされる。帰つて行くマヤの尻に喚起された八百屋は絶妙に軽妙な表情でポンと掌を打ち一句、「大根や一心同体尻割つて」、油を売る亭主をドヤす鬼女房の声は不明。恐妻家の八百屋とマヤは野菜で愛人契約を結ぶ間柄にあり、再び雅光が見守る中シェービング・クリームを塗りたくつてのくすぐり責め、ここで雅光が詠んだ句が「泡立ちて五臓六腑の肉騒ぎ」。日を改め庭にて、爆弾を抱へてゐるのか、雅光は立ち眩む。雅光の弟・広人は、三十歳も目前にして引きこもつてゐた。腹を立てた雅光は洋服ダンスの中で音楽を聴く広人(柳)に雷を落とすが、今居る兄夫婦は別人の入れ替りだとポップな妄想に囚はれる広人は、凶暴性を秘かに拗らせる。順に新聞配達・村上ゆう・雅光・彩乃を一人づつ人数を増やしながら抜くカメラ・ワークが映画的な行進噛ませて、森中で実際に今井恭子と村上ゆうの尻を真つ赤にしてみせるスワップしてのスパンキング。新聞配達が「野外にて竜虎相搏つ白昼夢」と、雅光会心の第五句「尻腫れて輪廻転生スペルマ」。後述する一幕挿んで、実は雅光について行けぬものを感じる彩乃に対し、「男達はイイ気なもんね」と呑気な村上ゆうも戯れに一句「風立ちぬ森羅万象襞の中」。
 残る句はあまりの出来に恍惚とまでする雅光六句目「妻が鳴き一蓮托生ZUBUBUBUBU」(アテレコはズボボボボ)と、彩乃も一句「六根清浄淫液溢れWACHACHACHACHACHA」。流石直系弟子にして妻だけのことはあるのか、正直触覚一派の句は理解にも吟味にも果てしなく遠い。
 ハイク・オブ・ワンダーランド!大怪優・やまきよ(a.k.a.山本清彦)の妖しい魅力が爆裂する、山邦紀会心のアヴァンギャルド・ピンク。これだけ好き勝手やつてなほ疑問を残すとしたら、逆に許されないやうな感すら漂ふフリーダムな迷宮作略して迷作。スワップ・スパンキングと村上ゆうの一句の間では、小賢しいばかりで本質に到達する体力に欠くペンペン草評論を雅光の口を借り堂々と排斥し、続けて安吾受け売りの“意味を超えた高笑ひの世界、即ちファルス”こそを“芸術の最高形式”と宣言した上で、“だがこれが私達にも難しい”と惚けてみせる。おこがましくも評論を標榜するつもりなど車に撥ねられたとて毛頭ないが、さうすると当方の積み重ねる無為も当然に全否定とならう相談ではありつつ、そこはこちらも蛙の面に小便と、華麗にではなく臆面もなく遣り過ごしてみせよう。山邦紀を表面的な変幻怪異だけではなく、寧ろそれら有象無象の織り成す変態博覧会を最終的には冷徹に統べる強固な論理性により注目する立場からは、触覚一派の妄動と広人の蠢動とを突き放して見る視点の一つも欲しくはなるところが、一旦は雅光と触覚の美学とから離れて行く彩乃の立ち位置は、今井恭子ごと決して強くはない。村上ゆうと風間今日子は何れも既存の戦績含めて十二分に批判的な視座たり得るところが、村上ゆうは案外機嫌よく触覚派の枠内に止(とど)まり、マヤは八百屋にくつゝいてゐるだけで実は俳句には全然興味がないことが判明するのは、彩乃がか細い非難の声を上げる更に随分後である。となると要は、至極冷静なツッコミが入れられることもなければ混乱を極める軌道の修正が図られることもなく、舞台の上には終に気違ひだらけといふ格好になる。それはそれで清々しいといへば清々しい反面、劇中世界に基点として機能する者が一切居ない、即ち幾ら魅力的とはいへ混沌が混沌のまま放置される結果的逆説的な平板さにも繋がる。折角漸く動き出したのに、外されるどころか梯子が消滅してしまつた広人の悲喜劇と、旦々舎らしいといふのも脊髄反射的な節穴なのか極妻風味の男女逆転劇。狙ひ通りである以上右往左往ではない錯綜を極めた上で、もう一つ山邦紀が隠し持つ第三の必殺が文字通りのフィニッシュ・ホールドに火を噴く。現(うつゝ)では非ざる幸福で穏やかなデス・マーチが、取つてつけられたものである筈のエモーションを、不可思議な磐石感で固定する。ワン・カット、今回はタップリと費やすが尺なんて十秒もあれば十分だ、何時何処からでもロマンティックを捻じ込める意外と豪胆な作家的腕力が、トッ散らかり放しの始終を、正体不明の美しさで締め括る。全篇隈なく冥界もとい明快なヤマザキ印は見えてゐるつもりなのに、全体像を俄には把握し難い。一度遣り過ごしてみたはいいものの、ションベン感想はおとなしく完敗を認めるのが吉のやうである。


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