真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 昨年の九月末に消滅した、旧本館より戯れにサルベージしてみた「バタフライ・エフェクト」(2003/米/監督・脚本:エリック・プレス&J・マッキー・グラバー/主演:アシュトン・カッチャー、エイミー・スマート)の概評である。こんなこと始めるといよいよキリ無いぞ。

 バタフライ・エフェクト、とはフライヤーによるとカオス理論に於ける用語で、「ある場所で蝶が羽ばたくと、地球の反対側で竜巻が起こる」、といふものである。初期条件の僅かな違ひが、将来の結果に大きな差を及ぼす、といふのが正確な含意らしいが、要は、日本語でいふならば「風が吹けば桶屋が儲かる」、とでもいふ塩梅である。細かい疑問については無視して通り過ぎる。与太ついでに、ここで風が吹くところから桶屋が儲かるところまでのプロセスを、参考までに記しておく。何の参考なのだか。

①風が吹くと砂埃が舞ふ
②砂埃が目に入つた為に目を患ひ、失明する人が現れる
③失明した人は三味線弾きになる
④三味線需要の増大により三味線屋が猫を捕らへる(過去に於いては三味線の皮に猫皮を用ゐてゐた)
⑤猫の数、即ち捕食者数の減少に伴ひ、相対的に鼠が蔓延る
⑥鼠が桶を齧る
⑦晴れて桶屋が儲かる、といふ次第である。
 もうひとつ付け加へると、被食者数の増大により、先々には再び猫の数も増えるやうな気がする。話を元に戻す。

 主人公エヴァンは幼馴染のケイリーと、様々な不幸の重なりの末に切ない別離を迎へる。エヴァンを乗せて母親の運転する、街を出て行かうとする車に駆け寄るケイリー。母親に気付かれないやうに、無言のままエヴァンはいつも手元に置いてゐた日記帳に走り書き、ケイリーに向ける。“I'll come back for you.”、君の為に戻つて来る。
 七年後、エヴァン(アシュトン・カッチャー)は将来を嘱望されるエリート大学生になつてゐた。ふと手にした幼少期の日記から、置き忘れて来た過去を取り戻したエヴァンは、“I'll come back for you.”とはいひながらそれつきりになつてしまつてゐたケイリー(エイミー・スマート)に会ひに行く。果たして、七年ぶりに再会したケイリーは、かつての愛くるしい少女が、今ではすつかり一欠片の希望すら失つた、やさぐれたカフェーの安女給に身をやつしてゐた。「どうしてもつと早く迎へに来て呉れなかつたの!」、さうエヴァンを詰つて別れたケイリーは、その夜自殺する。
 エヴァンには過去に戻る能力があつた。バタフライ・エフェクトを起こす為に、過去のある一部分を操作することによつて、現在の悲劇を回避する為に、エヴァンは過去へと戻る。
 通俗的によくいはれてゐるやうに、この世界の中での幸と不幸との総量は予め一定とでもいふことなのであらうか。過去をどう操作したとて、誰かの不幸は回避出来ても、又別の誰かしらが不幸になる。互ひに誰かと誰かとで殺し合つてしまつたりだとか、誰かしらかが一層不幸になつてしまふ。ケイリーも、やさぐれたカフェーの安女給などといふのはまだマシな方で、顔に大きな傷跡のあるヤク中のパン女にすらなつてしまつてゐたりする。「こんな筈ではなかつた」、とエヴァンは更に何度も何度も過去に戻る。何度も何度もやり直さうとする。ある時などは、エヴァンは事故により戦場に行つたジョニーよろしくの片端になつてしまふ。傍らでは幸せさうにしてゐるケイリーが、別の幼馴染のデブと恋人同士になつてゐる。自分はどうならうともある意味構はない。ケイリーが、皆が幸せであるならば。さう思はないでもないエヴァンであつた。然しその場合もエヴァンの母親が、健やかで美しかつた母が、息子の事故以来ヘビー・スモーカーとなつてしまひ、肺ガンで余命幾許も無い状態にあつた。「こんな筈ではなかつた」。更にエヴァンは過去に戻り直す。
 ここから先は手放しなネタバレ・パートである。
 <エヴァンは終に答へを見出す。それは、幼少期の思ひ出の最初にまで立ち返り、そもそもが初めから、ケイリーと出会はなかつたことにしてしまへばいいといふものである。最初の別離の時にケイリーに約束した“I'll come back for you.”、エヴァンは過去に戻る。ケイリーと出会はなかつたことにしてしまふ為に。ここで聞こえよがしに大音量で流れ出す、オアシスの「ストップ・クライング・ユア・ハート・アウト」に、まんまと滂沱の涙を絞り取られてしまふ。果たして現在、(多分)ニューヨークの街頭で、美しく、そして全うに成長し成人女性となつたケイリーと、エヴァンとがすれ違ふ、といふのがラスト・シーンである。エヴァンにはケイリーが判つてゐる。ケイリーとすれ違ふ刹那、「これで良かつたのだ」、「これでいいのだ」、と自らが下した最終的な、恐らくは他は無かつたであらう選択を噛み締める。ケイリーにはエヴァンが判らない、筈である。初めから出会つてゐないのだ。ただだけれども、何かしら心惹かれたケイリーはふと、すれ違つたエヴァンを振り返る。
 エヴァンが何度も何度も過去に戻つては試行錯誤するパートの、それぞれに訪れる不幸は本当に仮借ない。情け容赦ない不幸をあれだけ積み重ねて見せられては、不快に思つてしまふ向きもあらうし、その意味では、娯楽映画としての趣味を問はれる部分は若干残る。そもそもが、何度も何度もやり直しが効いてしまふパラドックスを免責された御都合主義に、拒否反応を示すといふのもあるやも知れぬ。ただ然し、それでもなほ、美しい映画である。最初の別離、エヴァンが後ろに遠ざかつて行くケイリーに、必死で“I'll come back for you.”、「君の為に戻つて来る」と大書した日記帳を車の窓ガラス越しに見せようとするシーン。最初に訪れた悲劇、七年ぶりに再開した夜に自殺したケイリーの墓に、エヴァンが“I'll come back for you.”と書かれたページを捧げるシーン。大音量でオアシスが流れる中、エヴァンのラスト・トライ。“I'll come back for you.”君の為に戻つて来る。エヴァンはケイリーの為に過去に戻る。<ケイリーとは出会はなかつたことにしてしまふ為に。>悲しい映画である。だが然し、それでもなほ、美しい映画である。悲しいからこそ、なほのこと美しい映画である。破天荒な牽強付会をかますが私の大嫌ひな映画「アメリ」(2001/仏/監督・共同脚本:ジャン=ピエール・ジュネ/主演:オドレイ・トトゥ)とは、主人公が正しい選択を下すといふ物語である。かつて江戸川乱歩はかういつた、「現し世は夢であり、夜の夢こそ誠」。「アメリ」とは、夢見がちな主人公のアメリが、夜の夢といふ真実を捨て、現し世といふ単なる現実を選び取るに至る物語である。その選択は正しい。一人の人間の社会的な成長過程としては、全く以て正しい。もう正し過ぎるくらゐに正しい。だがその正しさに、何程の美しさがあるといふのか。「バタフライ・エフェクト」が娯楽映画の趣味として、万能に都合の良過ぎるプロットの採用に際して間違つてゐたとしても、時に物語には、間違つてゐるから美しいこともある。悲しいからこそ美しい時もある。間違つてゐれば間違つてゐる程、悲しければ悲しい程、美しいといふ思想もあるのである。

 「バタフライ・エフェクト」。日本語吹替版(無えよ)の主題歌には、筋肉少女帯の「これでいいのだ」を希望。♪これで、いいのだあ!《シャウト:伊集院光》ダダダーン♪そぐはんかいな。



 「バタフライ・エフェクト」の、箆棒なディレクターズ・カット版のラストに関する付記、< 「バタフライ・エフェクト」には、何とラストの異なるディレクターズ・カット版が存在するとのこと。下手に感動した映画にさういふ話が出て来ると、些かならず複雑な心境にもなつてしまふものではある。ところで今作は元々二年前に公開された映画だといふことで、本国ではとうにDC版もDVDとして発売されてゐる。そこでその驚くべき結末の内容であるが、軽く検索を掛けてみたところ、秒殺で出て来た。な何と、そもそもが<母親が出産しようとしてゐるところにまで遡つて、自ら臍の緒で窒息死することにより初めからエヴァンが生まれて来なかつたことにしてしまふ!>といふものであるとのこと。何だそりや。ゼロ・サム思考のやうで、考への足らぬ着地点であるやうに思はれる。どう転んだとて、公開版の方が絶対にストレートでエモーショナルであらう。大体が、さうなると主題歌は何処で流れるのか、え、<分娩室>?(笑)

 話が転がるのに任せて、「アメリ」に戻らなくとも別に構はないが最後に触れておくと、一節だけ、心に震へた台詞がある。文脈を最早記憶してはゐないのは面目ないが、アメリの隣人で贋作家の老人が語る、「人間には、人生を失敗する権利がある」といふ台詞である。


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