チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

尼崎城址で「秀吉」の歴史講座に

2014-06-15 08:05:32 | お出かけ・散策
6月15日(日)

 今年のNHK大河ドラマの「黒田官兵衛」、姫路出身ということで、今、播磨はたいそう盛り上がっています。

 大人になってから、大河ドラマを見ることはほとんどありませんでしたが、中学から高校時代の「赤穂浪士」「太閤記」「源義経」は見ていた記憶があります。

 子どもの頃、映画館で三船敏郎の「宮本武蔵」を見ました。中学生の時には中村錦之助が武蔵になり、何回か映画館に通いました。そんなこともあって、吉川英治の「宮本武蔵」を中学の時に読みました。さらに、その勢いで「新書太閤記」を半分くらい読み終えた頃、テレビで大河ドラマの「太閤記」が始まったのだと思います。
 高校生になり、授業で「平家物語」に興味を持ち、図書館で吉川英治の「新平家物語」を拾い読みしていると、またまたタイミングよくテレビで「義経」が始まるという具合だったと思います。

 一昨年の大河ドラマが「平清盛」の時、兵庫県、特に神戸市を中心に平家の話題で持ち切りだったので、ちょっと興味をそそられましたが、やはり、大人になると、平家の悲哀に満ちた末路が見るに堪えなくてテレビは見ませんでした。

 でも、今年の「官兵衛」は事情が違います。裏切られようが、疑われようが、最後は子の長政と筑前福岡に落ち着くわけですから、その長政が殺されそうになっても、官兵衛が牢に幽閉されても、大事には至るはずもなく、気楽に見ていられます。

 その「軍師官兵衛」。先週の日曜日は、荒木村重が伊丹の有岡城から尼崎城へ抜け出したことで、牢から救い出された官兵衛が、亡き竹中半兵衛が匿まっていた嫡子松寿丸(黒田長政)との再開を果たしました。その後、尼崎城下で有岡城の女房衆が、京の六条河原で村重の妻や一族が皆殺しにされるところは、かなり残虐な場面ですが、自分だけ生き延びようとする村重の勝手不埒な行動と信長の冷酷な性格が重なった結果ということで、目をつぶるしかありません。

 ドラマはこれから、備中高松城の水攻め、本能寺の変、山崎の合戦へと進んで行くのでしょうが、秀吉が信長の死を知る経緯、官兵衛の進言を受けて東へ取って返す様子など、ドラマではどのように描かれるのか楽しみです。

 それはともかく、こちら地元の兵庫県。先日のあるテレビ番組で官兵衛が幽閉されていた伊丹の有岡城が紹介されていました。「それじゃあ、村重が逃げ込んだ尼崎城ってどこにあったのだろう」とパソコンを開いていると、尼崎の文化財収蔵庫という施設で秀吉の企画展が行われているということと、展示物に関わる歴史講座があるということを知りました。

 そこで、時の記念日の翌日、6月11日の水曜日に尼崎城址のある阪神尼崎駅へ向かいました。

 兵庫県の南東の端、大阪府との境の神崎川と西宮市に接する武庫川の間に位置する尼崎市。JRの駅の周辺は大きな工場が並んでいて中心街の感じではありません。市役所は一つ西の立花駅のほうにありますが、その南の阪神尼崎駅の北側に賑やかな商店街があり、どうもそっちのほうが中心街なのかもしれません。
 その阪神尼崎駅、繁華街とは反対の南口を出て東へ歩いて行くと、庄下川が流れていますが、

 その向こうに古めかしい
  赤レンガ造りの建物があります
  
 阪神電車の車両基地があるので、その関係の建物でしょうか。そういえば、阪神電車に乗ると、御影駅の三宮寄りの辺りと、尼崎駅の先の大物駅との間に電車の車庫があるのを何回か見たことがありました。

 その南、河口方面に目を向けると
  石垣が見えます
  
 石垣の向こうの近代的な建物は市立中央図書館です。

 川の東の阪神車両基地から南の区域はすべて城内だったようで、今残っている石垣は西三の丸と言って、区画的には城郭の戌亥にあたる区域です。

 石垣を眺めながら図書館の方へ歩いて行くと、そのすぐ南側に、

 歴代の尼崎城主を祭神とする
  桜井神社があります
  

 鳥居の右側の石碑に
  「尼崎市発祥之地尼崎城址」とありました
    
 ここは、城郭の西の端に位置する所です。石碑の「発祥之地」というのは何を意味しているのでしょうか。

 さて、桜井神社の前の道を東へ2~3分歩くと、右側に中学か高校らしき校舎が現れます。

 実は、ここが今日の目的地。
  「尼崎市文化財収蔵庫」でした
  

 かつては、尼崎高等女学校だったり市立尼崎高校だったり、近年は中学校だったりしたようですが、今は文化財収蔵庫になっています。

 門を入ると、
  「尼崎城天守閣遺蹟」の石碑が
  

 文化財収蔵庫のある所は、城郭の中でも本丸のあった区域ですから、昔はここに天守閣がそびえていたのかもしれません。
 とは言っても、このあと収蔵庫の展示を見てわかったのですが、ここに天守のあった尼崎城は徳川幕府ができた後のお城で、秀吉の頃の城は「大物城」とも言って、少し東の大物(だいもつ)駅の南のほうにあったようです。

 玄関の中には、
  どこかで見たような病院の看板が
  
 ここで「ALWAYS 三丁目の夕日」のロケが行われたようです。

  今行われている企画展の案内
     

 「尼崎の危難」とは、本能寺の変の知らせを受けて備中から取って返した秀吉が、尼崎で明智光秀方の侍の待ち伏せに遭った時、にわか坊主となって寺に逃げ込み、危機をしのいだというエピソードのことです。
 この話を伝える江戸時代の読本「絵本太閤記」がもとになって、「絵本太攻記」という人形浄瑠璃となり、その十段目の「尼ヶ崎の段」が歌舞伎の「恵宝太閤記」(通称「太十」)として上演されるに至り、その後、秀吉の出世を題材にした双六の一場面にもなったりした有名なお話です。
 しかし、これらはあくまでも伝説で、明智光秀を討伐するに際して、信長の弔い合戦という意味付けを明確にするため、秀吉が尼崎の禅寺で髪を落としたという史実が、しだいに知恵者秀吉らしく脚色されてできあがったものなのです。

 いずれにしても、秀吉がいた備中高松まで信長の死の知らせが届くのには二日くらいかかりそうなのに、なんと本能寺の変の九日後には、200キロほど離れた尼崎へ到着したのです。一万とも二万とも言われる軍勢を率いて、いったい、どうしてそんなことができたのか、興味が尽きません。
 そして、秀吉が尼崎に到着した日、これは旧暦ですが、6月11日なのです。ということで、6月11日の日の講座のタイトルは「秀吉の中国大返し-史実と伝説-」となっていて楽しみです。


   梅雨雲や変とか乱とか起きし頃   弁人


 受付は1時間前から。
  もうたくさんの人が並んでいます
  

 少し大きめの教室が会場でした。椅子は目一杯並並べてありましたが、それでも100席くらいでしょうか。

 始まるころには
  座れない人も出そうな人数に
  

 以下、「秀吉の中国(備中)大返し」に関するお話の内容メモの抜粋です。

 本能寺の変は2日の未明に起きたので、あるいは、翌日には備中高松まで知らせが届いたのかもしれない。しかし、問題はその真偽のほど。誰かの策略の可能性もある中、官兵衛の進言があったとはいえ、4日には撤退を開始しているという事実。いったい、どんな状況だったのか。

 5日。野殿(岡山市北区)で摂津茨木城の中川清秀からの書状を受け、彼が明智方に付くのを警戒し、「信長は大津に逃れて無事」との偽情報を返信し、沼城(岡山市東区)に到着。
 その後は、
  7日。姫路到着。しばし休息をとる。
  9日。明石到着。淡路派兵。
 10日。兵庫到着も、そのまま東進
 11日。辰之刻(午前8時頃)尼崎到着。
     神戸(織田)信孝・丹羽長秀と会合。
     禅寺で落髪。
     池田恒興・中川清秀・高山右近と軍議。
 12日。摂津富田に布陣。
 13日。山崎の合戦で明智光秀に勝利。
という強行軍の中での驚異的な経過。

 岡山から赤穂、姫路あたりまで秀吉周辺の人物は船を利用した可能性が高い。
 大軍のルート、及び姫路からは、西国街道(山陽道)を経ている。この旧街道は尼崎は通らず、西宮から北東に上り伊丹へ向かっているのに、秀吉はわざわざ遠回りをして尼崎に入っている。これは四国攻め準備で大阪に滞在していた武将と合流し軍議をするためで、軍勢の大半は直接伊丹方面へ向かわせたと推測できる。

 とまあ、なかなかおもしろい内容でしたが、

 さてさて、テレビではどんな脚色で展開されるのか、楽しみになってきました。


   紫陽花もいにしへ知るや城下町   弁人



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