先日、腕時計について書いたら、
思い出したことがある。
初めて持った腕時計のことだ。
ごくごくシンプルな手巻きの腕時計。
丸い文字盤に、細い黒のエナメルのベルト。
中学1年のとき。
おそらく入学祝に貰ったのだと思うが、
学校では腕時計は禁止されていた。
袖口から見えないよう、上のほうにずり上げて
こっそりつけていた。
どうしてかというと、時計が必要だったからだ。
トモちゃんと一緒に登校していたから。
今はどうだか知らないが、当時の中学生の女の子というのは、
決して単独では行動しないものだった。
登校も下校も、教室の移動もお弁当を食べるのもトイレに行くのも、
必ず「親友」と一緒か、仲良しグループ単位でなければならない。
そういう暗黙のルールができあがっていて、
ひとりで考えて動くなんて思いもよらない。
当然、学校生活はきわめて面倒な人間関係に満ちていた。
トモちゃんがわたしの「親友」になった。
毎朝、トモちゃんの家に寄って、
トモちゃんが出てくるのを待つ。
そして手をつないで学校へ行くのである。
古い木造のアパートだった。
トモちゃんは朝寝坊で、身支度も遅い。
紺色の制服には、いつも白い猫の毛がくっついている。
腕時計を見ながら、わたしはぎりぎりまで待つ。
そして、これ以上待てなくなると、ひとりで先に行く。
週に1度か2度はそういうことがあった。
人につきあって遅刻する気はさらさらない。
一蓮托生はイヤなのだった。
何が親友なものか。
わたしはそういうドライな子どもであった。
わたしの母は、祖母の金時計をつけて
小学校に行っていたという。
ベルトがぶかぶかなので、肘よりも上にはめていた。
戦時中だったからだ。
いつ家が焼かれるか、家族が離れ離れになるかわからない。
わずかな「金目のもの」を家族で分けて、
それぞれ肌身はなさず持っていた。
時計ひとつでもあれば、生き延びられるかもしれないと、
御守のように、わずかな望みをかけていた。
さいわい、家は空襲にも焼けずに残り、
徴兵された祖父も無事に戻ってきた。
戦争が終わったのは母が10歳のときだ。