スラムドッグ ミリオネア

蠍座にて。

うんと楽しい映画を観に行ってきたのですが、

まあまあの楽しさ、だったかな。

きっと、これが20代での鑑賞だったなら、

ウワーオ!!すっごいおもしろかったー!! 今年の5本のうちの1本!!

って思えたかもしれないなあ。

そういう意味で、寂しく、残念。

あ、私が大人っぽくて趣味嗜好が成熟しているとかっていう意味では決してなく、

20代は、もっとワクワクしていたし、新鮮な感動をしていたなあ、というような

遠い感傷、のようなもんでしょうか・・・・・。

全体を貫く疾走感、インドの色彩の眩さ、お話の展開のうまさ、

どれをとっても、十分すばらしかった。

インドのスラムの凄まじさ、犯罪組織の恐ろしさ、

そして、そんな中を生き抜く子供達の恐るべき逞しさ、愛らしさ、

十分伝わってくる。

主人公のジャマールのピュアで一途な想いの行方へのハラハラドキドキも

たっぷり味わえた。

うん。

それで十分ではないですか。

そうよね、そうなんだよね。

でも、なんだかよくわからないモヤモヤが・・・なんだろうなあ・・・。

それを気に掛け続け、分析し続け、していくと、

ゆっくりと、 ひとつ、もうひとつ、 と、長い時間をかけて 「 そうか 」 と

納得できる言葉に表せるとは思うのだが・・・。

嫌いなタイプの映画では全然ないのです。

でも、アカデミー賞最多8部門受賞!って、どうかなあ・・・? 

そうだ、本物のインドじゃあない感じがしたんだよね。

ダニー・ボイル、イギリス人監督、インドを巧みに描いて ( 使って ) いる。

本物のインドでの撮影だが、あくまでイギリス人が描くインドであって、

そして、それがあまりに上手なものだから、かなあ。

そもそも、このお話、どうしてインドが舞台なのだろう?

監督・脚本家とインドの関係がわからない。

単にアイデア? 映画だもの、おもしろくてなんぼの世界、それでいいんだけれど

どういうわけか今回はそのへんがしっくりこないと、隙間が開いちゃう感じ。 



・・・・・・・・・

と、なにやらぶつくさと独り言をつぶやいてみましたが、

一言でいうと、

私はうまくノレませんでした、ということですね。

さびしい。







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ぞうのババール


この秋に 『 ぞうのババール 』 を、初めて読みました。

びっくりです!

こんなに楽しくて、とんでもなくて、ぶっ飛んでいるお話だったなんて!!

こと、絵本の世界では、動物の擬人化はあたりまえなんですが、

動物と人間の共存が、これほど当たり前に描かれているお話は、あんまりない。

例えば、こざるのジョージシリーズだって、黄色い帽子のおじさんはジョージと

仲良しだけれど、ジョージを動物園に入れるためにあふりかで捕獲して

つれて来るのでしたし、

うさこちゃんシリーズにも、フランシスシリーズにも、人間はでてこないし、

ピーターラビットのお話では人間は捕まえようとする敵ですし、

『 くるんぱのようちえん 』 だって、象であるぐるんぱのサイズと人間用の

サイズの違いが物語の要になっているわけだし・・・・・。

ところが、『 ぞうのババール 』 では、象という大型動物と人間の間に立ちはだ

かる全ての問題がすとんと、といいましょうか、バッサリと、といいましょうか、

切り落とされているんです!!

無視というよりも、作者の中に最初っからそのような障害など無いのでは?

まるで、生まれた村の違い程度の扱いです。

密猟者にお母さんを殺されたババールが

逃げて逃げて、ある街 ( パリみたいです ) に逃げてきて、

その街並みに驚き、交通機関に驚き、そして彼が一番おもしろかった、というのが

街角でであったふたりの紳士。

このページには、おまわりさんらしき太っちょと、シルクハットにフロックコート

革の手袋にステッキ、といういでたちの髭の紳士が立ち話をしているのを、

そのよこで象のまんまの・・・・つまり、4本足で裸んぼうのババールが眺めて

いる、という図が描かれております。




         「 にんげんって ふくをきて

             すてきだなあ

           ぼくもひとつ あんなのを

             きてみたいもんだ.

        だけど どうしたら かえるかな??? 」



このような独白があって、そしてその次に、



       うまいぐあいに ひとりの おばあさんに であった.

          ぞうにきもちなら なんでもわかる

            大がねもちの おばあさんだ.

      ババールが しゃれたふくを ほしがっていることも

              すぐ わかってくれた.

         おばあさんは ひとを よろこばせるのが

               だいすきだった.

        そこで さっそく ババールに さいふを くれた.


             ババールは おれいをいった.

             「 ありがとう おばあさん 」




そうしてババールはすぐさまデパートへとんでいき、

エレベーターが気に入っておもしろがって10ぺんも上り下りし、

エレベーターボーイに、これはおもちゃではないので、おかいものはあちらで・・

とていねいに注意され ( ここまでババールは裸の象の姿のまんま ) 、

次のページを開くと、

「 さあ かいものだ! 」 という級数アップの大文字の一行があり、

ワイシャツ、カラー、ネクタイ、背広にズボン、それから、しゃれた山高帽、

おしまいに、靴、と、販売員をかしずかせながら買いまくりますが、

デパートにはあたりまえに象サイズのものが揃っているようですし、

販売員はこれっぽっちの疑問もなく象のお客の相手をしているのでした・・・。

お買い物の締めくくりとばかりに、記念写真をバシャッ!!!

その時撮った写真までが、ちゃーんと載ってるのです!!!

そのおしゃれなことといったら、まあ!

以降、ババールは全て着衣 ( いつもオシャレ ) です。

『 ぞうのババール 』 には、副題として小さく 『 こどものころのおはなし 』

とあり、おばあさんとの出会いによって、かなりのリッチな文化生活を送るように

なったババールが、ぞうのくにに戻り、ぞうの王様になるまでの、シリーズの最初

の1冊なのですが、まあ、まあ、

その展開の問答無用の速さといい、

象と人間のあまりの自然な共存具合といい、

サラサラっとしてたよりなげな絵 ( 古きよきフランス的なものがたっぷりの

挿絵で、細部まで描かれていて思わず萌えます!) の素晴らしさといい、

あきれるほどオモシロイ!!!! オモシロすぎーっ!!!

もっと詳しくご紹介したいけど、長くなるのでやめときますが、

どうやら作者は、子供の発想をそのまんま忘れずに大人になった人なのでしょう。

でないと、こんなすごいお話、書けませんよ。

そんなに愛と夢に満ち溢れた世界は描けない。



と、いうわけで、私はこの秋に、ババールと出会い、ジャン・ド・ブリュノフ

( ジャン作は5作までで、刊行されているその後の5作・・もしかしたらもっと

増えているかも・・は、息子のロラン作 ) という鉱脈を見つけたのでした。

また、同時に、矢川澄子という油田も掘り当てました。

矢川澄子の、きりっとした簡潔な訳文は、うさこちゃんシリーズにおける石井桃子

と並び、物語と翻訳者のこの上ない幸福な組み合わせでありましょうし、

ババールシリーズの他の翻訳本のタイトルを眺めるだけで、矢川澄子ものは

必読・必携もの。

ババールのお話は、本国フランスで国宝になったそうですね。

世界中の子供達 ( オトナ達 ) に今も愛を伝え続けるババール王の物語、

退屈している人、落ち込んでいる人、是非手にとってほしいなあ。

わくわくする気持ちがよみがえるよ!























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ティファニーで朝食を





2年ほど前に、かの有名な ( ヘプバーン&主題歌ムーンリヴァーの映画で )

トゥルーマン・カポティの 『 ティファニーで朝食を 』 を新潮文庫版の

1964年に翻訳されたものを読みました。

多くの読者とたぶん同じように、私も、それはそれはオシャレでロマンティックな

あのマンハッタン映画が先で、原作が後、というパターンでしたし、

多くの読者とたぶん同じように、私も、「 映画とぜんぜん違うー!! 」 と

驚いたのでした。

何といっても、肝心要の結末が全く違うのです。

映画化された時点で、それは原作者の手から完全に放れて映画監督の作品となる

ということがよくわかる好例とでもいいましょうか。

その昔に観た映画 『 ティファニーで朝食を 』 は、オードリー・ヘプバーンの

ジバンシーの黒のワンピースに始まり、ジョージ・ペパードのカッコ良さ、

マンハッタンライフへの憧れ、主題歌ムーンリヴァーの心に染み入る美しい

メロディ、、、興奮の都会的な美しい恋愛映画でありましたが、

原作では、ホリー・ゴライトリーはティファニー宝石店のウィンドー前でごはんを

食べたりしないし、ギターを爪弾きながらムーンリヴァーを歌わないし、

なによりも、映画版とはテーマが全く違うのです。恋愛小説じゃないの。

カポティが読者の脳内に自由の翼をふうわりと落としてくれて、

私たちは、ページをめくりながら、ホリーや ” 僕 ” と一緒に

その自由の翼で羽ばたこうと夢を見て高揚し、

当然のことながらの、その羽での飛行可能時間の儚さを味わい、

つまり成長する ( 年をとる ) ことを止めずに生きてゆくことは出来ないという

ことの苦味や悲しみ、切なさを、カポティの選び抜かれた言葉からなる完璧な

物語の中に味わうわけです。

いらない人はさっさと無自覚に捨てている、繊細で密やかで清潔なある感覚を 、

こんな風にそのまま文章という形にして表現してしまえるカポティって、

一体全体どういう人なのお!!??

という感動が待っているのでした。


そして、今回、2回目の 『 ティファニーで朝食を 』 を読み終えました。

同じく新潮社で、2008年版。 翻訳者は、村上春樹。

近頃、海外古典文学出版界を賑わせている新訳、というものの一つなのでしょうが

読み終わって、あまりの読み心地の違いの大きさに愕然としたのでした。

1968年版の龍口直太郎訳が悪いわけでも不足なわけでも決してないのですが、

そしてまた、この2つを対決させるつもりも微塵もないのでしたが、

だが、だが、村上春樹じゃ、ねえ、、、かなわない、のでした。

ずるいよう、村上春樹じゃさあ。

ホリー・ゴライトリーという女が、香りつきで立ち上がってくるのです。

語り手 ” 僕 ” の、戸惑いやら浮き立つ思いやらのセンシティヴ加減が手に

取るように伝わるんです。

マンハッタンの空気や匂いや騒音の中に投げ込んでもらえるんです。

完璧に解っていて、それを大衆に確実に伝えるための高度な技術とコツを持ってい

て、そして、なにより、センスがある人が手掛けると、

物事はこんなに違って私たちの前に現れるものなのか!!

・・・・・これが、村上春樹訳を読んだ感想です。

うまい。うますぎる。うますぎました、実際。

カポーティを読んでいるのに、いつのまにか、村上春樹を読んでいるかのように

錯覚してしまうんだもの・・・。まるで、カポティが村上氏に乗り移ったみたい。

そうですねえ、吹き替えの洋画で、有名俳優が声優をしていたら、

映画の画面を観ながらその声にその吹き替えしている俳優の顔が浮かんで困る、

という感じに似ているかも。

『 ティファニーで朝食を 』 には、他に、

『 花盛りの家 』 、『 ダイヤモンドのギター 』 、『 クリスマスの思い出 』

の3つの短編が入っていますが、全作品テーマは共通していて、それは、

村上春樹流にいうところの ” イノセンス ” 。

2008年に刊行されたこの洗練された ( ティファニーブルーの )装丁の

美しい短編集には、巻末に、

「 『 ティファニーで朝食を 』 時代のトルーマン・カポーティ 」 という

村上氏のカポティにおけるイノセンスについての、極上の酒を飲んだ時の酔い心地

に似たため息モノの文章が載せられていて、全くもってまいってしまう。

本文の翻訳部分よりもこのあとがきに素直に酔っぱらった私でした。


長ーい間貸してくださって、催促1回もナシ、のTさまのオトナ度に

深く感謝いたしますー!!

ようやくお返しできますデス。

ありがとうございました!!!



































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ズックが好きで





いつの頃からかは自覚がないのですが、

ズック地でできたものがかなり好きです。

ほぼ365日を、ズック靴とズックのトートバッグでやってます。

毎日毎日、白のズックのスニーカー、そして、白の大きなトートバッグ・・・・。

汚れてきたらブラシでごしごしと洗って、乾かして、を繰り返します。

バッグも同様、汚れてきたなら、お風呂の残り湯につけて置いて、石鹸をこすり

つけて、タワシでがしがしと洗うんです。

ズック地は、このように、自分で洗えるのが好きな理由その1、です。

洗えば洗うほど、こなれた風合いが出てくること、好きな理由その2ですね。

綿 ( もしくは麻 ) の太糸で織られたズックという生地、

普通の布帛を、同じようにブラシやタワシでごしごしと洗い続けたなら、

あっという間にぼろぼろになり裂けてしまうでしょうが、その堅牢さゆえ、

人によっては一生もちます。

洗い方もさっぱりとしていて好ましい。

自分の体を動かして、手を働かせて洗う以外にその白さを保てないということに

ズックを使う醍醐味、のようなものを感じるんです、大袈裟かもしれませんが。

なので、色は、断然、白 ( 生成り ) がいいと思うのです。

がんがん洗って、使って、洗ってするうちに、油ッ気が抜けた、晒された白色に

なってきて、洗い立てのカサッと乾燥しているズックの魅力たるや、もう!!

ミシン目の食い込み具合や、一目一目縫われて出来上がっているズック地なりの

造形の、馴染んで少し崩れた線や量感、生地の目の詰まり具合、

ざらつき加減・・・・・ 全部、いとおしいのでした。

真冬はさすがに外では雪対応の靴になるのですが、店に着いたなら、いつもの

スニーカーに履き替えます。

馴染みきって、足の一部と化しています。

そして、ズックの白のスニーカーとトートバッグは、結構なんにでも合わせやすい

ので ( 私の着ているものには )、楽ちん、という点でも好きなのです。


話は少しズレますが、幼児って、あんなにしょっちゅう親の足を踏んずけるもの

なのでしょーか??? 全くもう、、抱っこ!おんぶ!その他もろもろで纏わりつ

いてきては、必ずといっていいほど自分の砂&泥だらけの靴で私の靴の上に

乗っかるんですよー、洗い立てのスニーカーに何度靴跡をつけられたことか!!

なので、息子と一緒に外出、と言う時は、踏まれてもいいおんぼろスタンスミス

なんかを穿いております。











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