2012年7月29日 日曜日



ふふふ、今日も暑い夏らしい日!!

いいですねえ。

窓やドアを開け放して風を通して、水撒きしつつ過ごす日々。

冷やしたフルーツや飲み物を解禁して、シャクシャク、つるりん、ゴクゴク、ああ最高!

と、しばし季節感に遊ぶ日々。

水仕事が快感になる日々。

蚊取り線香の昔ながらの匂いが漂う宵闇で寝返りをうつ日々。

暑い暑い夏が好きです。




本日のお弁当

■ 玄米ごはん + 自家製梅干し + 無添加たくあん

■ あらめと人参のきんぴら

■ 昨日の残りのグリーンサラダ ( レタス・きゅうり・スライスオニオン・刻みパセリ

  に粒マスタードとレモン汁のフレンチドレッシング )

■ ワカメと切干大根の和え物

■ 来る途中に三越地下お惣菜売り場で買ってきたかぼちゃのコロッケ


以上です。夏は揚げ物とか、ちょっとオイリーなものが欲しい、美味しい。夏バテ防止

のためにも油摂りたいですから、今日はコロッケ買いました。

オヤツは、出掛に夫がこしらえていた残りのパンの黒砂糖ラスクと粒あんこ。

店で飲むお茶も麦茶になりました。

ただ今水出し中です。

さあ、今日も、「 電話室 」 のドアを開けっ放しで、店内の照明を少し落として ( 暑

いですからね、ライトって )、玄関前に打ち水しつつ元気に営業中です。

暑中お見舞いのポストカード、沢山揃えて、皆様のお越しをお待ちしております。

どうぞ、遊びにいらしてください!!





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バナナンバナナ



バナナを食べるのなら、青さが消えた瞬間の黄色のバナナに限ります。

斑点が全く無いやつです。

硬め。酸味もある。すべっすべの皮の、若者バナナ。

とても美味しい。好みです。


このくらいが熟して甘くて食べごろよ、という意見は多いかもしれませんが、

今日の写真のバナナは、熟女の貫禄、私にはちょっと薹が立ちすぎているんです。

バナナ。

たまに、このような熟女バナナが実家の父から回ってきます。

食べきれんからもっていっておくれ・・・・

パンに無糖のピーナッツバターを塗って、輪切りにした熟女バナナを並べて

その上にハチミツをたらーり垂らしていただきます。

一度はジャムにしました。

数度、マフィンに混ぜて焼いてもらいました ( お菓子→夫担当 )。

今後も回ってくるであろう熟女の取り扱い及び素敵なレシピを大募集いたします。

レシピは簡単であるほどありがたいです。

どうぞよろしくお願いいたします。





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大原美術館展




久しぶりに美術館へ。

『 大原美術館展 』 です。

モジリアーニが来る、というので楽しみでしたが、モジリアーニは前半の展示、後半は

ルノワールに入れ替わってました。告知情報をよく見て調べてから行きましょう!! 

残念。

最終日の前日とあって、場内なかなかの人の波でしたよ。

私が気に入った絵は、といいますと、







ポール・セリュジェ 『 2人のブルターニュ人と青い鳥 』 1919年 油彩



そして、





岸田劉生  『 静物 赤りんご三個、茶碗、ブリキ罐、匙 』 1920年 油彩



そして、絵はがきになってなくて画像を載せられないのですが、

エドゥアール・ヴュイヤール  『 薯をむくヴュイヤール夫人 』 1893年 油彩


この三作品でした。

『 2人のブルターニュ人と青い鳥 』 は、メーテルリンクの童話を思い起こさせますよ

ね。1919年作でしたら、それほど古い作品ではありませんが、クラシックな装飾性に

満ちた美しさと神秘性が感じられたのでした。


岸田劉生の 『 静物 赤りんご三個、茶碗、ブリキ罐、匙 』 は、まず壁のグレーがか

った青に強く惹かれました。そして、茶碗の質感の描き方の見事さはどうでしょう!! 

磁器肌の白さと独特のツヤ、縁の薄さ、この時代の焼き物の危うさや色気が画布上に油絵

具で描かれ切っています。完璧に。

それは、今風の言い表し方の ” リアル ”というのとはなんだか全然違うんですよね。

もっと精神性が高い、といいますか、宇宙がある、といいますか。

『 麗子像 』 しか知らなかった私ですが、岸田劉生の作品をもっと観たいです。


『 薯をむくヴュイヤール夫人 』 は、画家が夕食の支度をする自分の母親を描いた

作品だそうです。台所の入口近くの作業台のところで下を向いて片手にナイフ、片手に

じゃがいもをもって皮を剥いている母。当時は電気の暮らしではなかったので、暗いの

ですが、きっと夕暮れ時、夜が直ぐ側まできていて、ごはんをこしらえている匂いもして

静かな温かさに満ちている小品だったのです。

全体に、黄味がかったグレー系、ブラウン系、の色彩の絵で、題材もいいし、優しさ、

生活感もとってもよかった。もう一度観たい絵です。心に残ってます。



ところで、ウチの怪獣ちゃんはどうしてたか??? といいますと、絵なんかちっとも

観たくなかったようで、人の波を無視して私を振り回し困らせ始めたので、わざとつない

でいた手を放してやったなら、あらあら、すいーっと会場内で離れ離れになっちゃって、

その後、息子のことを気にしつつも絵画鑑賞に夢中の母親は、良かった絵のコーナーを

2、3度巡っては感心しきり。泣き声も呼び声もしてこないし、会場から出て先に外にい

るであろう夫のもとに行ったか? とちょっと迷子さがしすると・・・・・

なななんと、現代アートのコーナーのデジタルビデオの映像の前に設置された椅子に

腰掛けて、足をぶーらぶらさせながら熱心に鑑賞中ではあーりませんか??!!

それは、海底に沈めたたくさんのヴェトナムの人力車シクロを漕ぐヴェトナムの少年達の

映像で、『 メモリアル・プロジェクト ナ・トラン、ヴェトナム-複雑さへ-勇気ある

者、好奇心をもつ者、そして臆病者のために 』 という題の作品。

でも、まあ彼にとっては、不思議なTV番組か映画を観ているのと同じこと。

どうりで静かだと思った!

「 どうして水の中にいるの? どうして沢山いるの? どうして自転車こいでるの?

どうして○○なの? どうして▲▲なの? どうして? どうして??? 」

そのような質問にスパッとこたえられたならワタシも一端の現代アート鑑賞者なんだが、

うーむ・・・それはね、そんな ”どうして?? ” をじっくりと考える為の作品なんだ

よねー。ふむ、5歳児に説明するのはかなり難しいです。なので、「 ホントだねえ、

不思議だったねえ、どうしてだろうねえ。 」 と、一緒に頷きながら、手をとって出口へ

と誘い、無事とーしゃんと再会。ふうー、やれやれ。

玄関を出て、息子には冷たいみかんの缶ジュースを与えると、それはそれはご機嫌で

みるみる元気を盛り返して前庭の芝生を駆け回り、大人二人は、持参のパンをひと切れ

齧り、それぞれつかの間リフレッシュして、久しぶりの美術館を後にいたしました。


美術館に行く。

やっぱりいいものです。たった一作品かもしれません、でも心震える美術に出会うため

の機会を逃してはいけないなあ。次はいつかな。次もチケットを買って、予定をたてて

美術館へいかなくちゃね。


















 
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ヤマゴボウ



7月の前半の店のお花は、「 ヤマゴボウ 」 でした。

綱木生花店で出会ったのです。

とても好きな感じ!!一目で決めました。

お花でもなく、枝ものでもなく。

野性味があり、ボリュウムもあり、しかも涼しげです。赤味のさした細い首に、固く

結ばれている小人の小さな握りこぶし=グーのような緑の蕾がいっぱい。

咲くと白い清楚な小花が・・・・。

120%好みだわっ! 思わず 「 こちらはなんというのですか? 」 とお訊きしたら、

「 あ、それは ヤマゴボウ ですね。 」

ヤマゴボウかあ・・・山路に生息している牛蒡かあ・・・・なるほど、そうかあ・・・・

・・・・・鬱蒼とした原生樹木がわさわさと被さってくるような山路にひっそりと生え

ていて、たまにふーーっと風が吹いてきて、虫の蠢きとともに木漏れ日がさして、

ヤマゴボウの緑と赤と白の群生のあたりはすいーーっと涼しい、そんなイメージがもりも

り湧いてきてしまい、ますます好きです、ヤマゴボウが。


あ、本来のヤマゴボウについての植物学的な詳細は、きっと別のものだと思いマス。
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わたしと雨のふたりだけ



先日は久しぶりに一日中降り続いた雨の日でしたね。

雨降りはお好きでしょうか?

私は、嫌いではありません。どちらかというと、好きの方です。

雨降りの日は、静かな室内で、静かに過ごしたくてたまらなくなり、そうすると、

まあ、今のところ95%くらいは叶わないわけで、「 ほーっ 」 と小さく溜息が出てし

まい、そんなわけで雨降りの日が好きです、と言い切れずに 嫌いではない・・・なんて

いう消極的なものになってしまうのです。

私の実家は豊平川の堤防から三軒目にありまして、子供の頃から雨が降る日の川の様子

はお馴染みです。今のところ豪雨による川の増水〜被害を体験したことはないのですが、

泥の色の濁流がすごい勢いで流れていく大雨の日の川面は、引き込まれそうになる

迫力で、しばし橋の上がらその眺めに見入るのでした。

今、日本の河川は、人工的に手を加えられて、人工的な自然のなかでサイクリングロード

とか公園とか、水遊びができるスポットなどが整備されているのというのがほとんどなの

でしょうか。父は、その昔は、同じあの川にシャケがのぼり、川で泳ぎを習得したし、

この辺いったいの子供たちはみんなそうだった、と言っておりましたが、今や想像もつき

ませんね。

川で泳ぎを覚えただなんて、いいなあ。ほんとうに、羨ましいです。

実家は自然豊かな田舎ではなくて、橋を渡ると札幌の街中まで徒歩15分くらいのものな

のです。昔はその程度の場所でも、子供を鍛え育み、生活の一部として深く根ざす自然

が普通にあったのです。危険ももちろん隣り合わせだったでしょうが、世の中の感覚と

して、そういうものだ、という認識だったのでしょうね。




人にとって ・・・・・ 特に、子供にとって、とても大切なこと、いろいろありますが、

自分を育む一人だけの時間を過ごすこと、かなあ ・・・・・ と思うのです。

どんな状況、環境でも、それはかまいませんし、また、しょうがないのですけれど、

けれど、それが身近な自然の中でだったなら、どんなにか素敵でどんなにか豊かでしょう

ね。残念ながら、私は一度も自然の中で暮らしていないから、尚更そう憧れるのかもしれ

ませんが ・・・・・ 。



『 わたしと 雨の ふたりだけ 』 、今年の春先に出会った一冊です。

海辺に住んでいる女の子は、ママの雨降り予報を押して、いつものように浜に出かけてゆ

きます。海はこの子にとって、都会の子達の公園のようです。水着の上に白いTシャツを

かぶって、タオルと浮き輪 ( 黒いゴムの浮き輪です。ビニール製のキャラクター付きで

はないのよっ! )だけもって、裸足でおうちを飛び出すのです。



きっといつもそうするように、Tシャツとタオルを置いて、海へと。

泳いで、浮き輪でぷかぷか浮いて、また海へ。

雨が降ってきました。ママの予報通り。

この女の子は、誰もいなくなった海辺で、こう思うのです、でも、わたしは へいき。

「 どうせ ぬれてるんだもの 」



わたしは、すなじに ねころんで、

「 あめ あめ ふれ ふれ 」

みんな かえって、はまべに いるのは わたしだけ。

わたしと あめの ふたりだけ。



さあ、ここから、リズミカルに 女の子は、雨と一緒に、歌い始めます。



うでは あめで さかなみたい。

あしも つるつる さかなみたい。

「 わたしも あめの なかまだわ 」

あられのように おちる あめ。 百回 おふろに

はいっても こんなに きれいになれやしない。



わたしは めを つぶって きいてみた。

ざぶんと よせる なみの おとを。

ぱたぱた すなじを たたく あめの おとを。




この女の子は、

大きな岩の上で両腕を広げ、全身雨に打たれ、光り出した灯台の灯台守のおじさんに

手を振り、倒れて朽ちている大木に腰掛けて波の音、雨の音に耳を澄まします。

そうしてしばし過ごして、ぐしょ濡れの着替えとタオルを持って、家路につくのです。



はまべや、うみや、さかなたち、

「 みんな、さようなら! 」

でも、あめは わたしに ついてきた。




雨にうたれて出てきたミミズを 「 ふんじゃ かわいそう 」 だからよけながら、

でも 水たまりは ばしゃばしゃと飛び込んで、泥のしずくが足を流れるのを楽しみなが

ら家に帰り着くのです。雨の中での一人の時間を自分流に、十分に楽しんで。



そして、ここからが、またなんとも言えずよいのですヨ。

人にとって ・・・・・ 特に子供にとって最も大切で幸せな ” HOME ” というもの

が、それは素敵に描かれます。


びしょ濡れで帰り着いた女の子を、ママは笑いながらごしごしふいて、大きなタオルで

すっぽりとくるみ、体が冷えきった娘に、こう言います。 


「 いま、いいものをあげるからね 」


そうして、熱いココアを作るのです。



「 なつに ココアを のむなんて、へんなかんじ。

でも、おいしいわ、ママ 」

「 うん、そうね 」

ふたりで あめを ながめながら、

いーいきもちで ココアを のみました。




この親子の住む家がスッキリとしていて、ゆったりと大きくて、良いのですねえ。

取り巻く自然、岩や木々や白いペイントの浜辺の入口の柵や、自動販売機やのぼり旗

などが全くない ( 美観区域だから、というのではなくて、そんなものの存在すら思いつ

かないし、儲かるし便利だから設置したいという発想が皆無 ) 環境の美しさには

溜息がでてしまいます。 

これが外国仕様のサイズと標準なのでしょう、ごく普通の家庭のようですもの。

大きな陶器のピッチャーにココアがたっぷりと。

大きなマグカップで、その熱々のココアを、大きなタオルにくるまれて、大好きなママ

と一緒にゆったりとすするおんなの子は、雨を眺めながら何を思うのでしょうね。



子供たちは、自分でも気づかないで、人生という大海に泳ぎでて泳ぎきるために必要な

養分を日々着々と蓄えます。大人の親がしてやれることは、食べるものからの養分と、

体を休めるための環境と、言葉や接し方の感性や思い出を整えたり紡いだり、といった

” HOME ” の部分でしょうか。

そして、子供の一人時間には決して声をかけたり、参加しようとしたり、口出ししない

ことでしょうか。



雨の日に、しーんとした我が家に一人っきりで、ソファにごろりと寝そべって、背もたれ

に足を投げ出して、窓から見える空模様を、軒下の立派なクモの巣の美しい雨粒ビーズを

ほけーっと眺めていたいなあ。そうするとですねえ、この後の今年の下半期の養分が少し

は貯まるような気がするんだけどなあ。

・・・・・ というささやかな妄想?は、内緒ナイショです、へへへ。






『 わたしと雨のふたりだけ 』 
ジョアン・ライダー作 / ドナルド・カリック絵
田中とき子訳
岩崎書店
ISBN4-265-91015-7

A Wet and Sandy Day
Text Copyright ©1977 by Joanne Ryder
Illustration Copyright ©1977 by Donald Carrick
Japanese translation rights srrenged with Harper Publishers,inc.U.S.A.
Through Japan UNI Agency,Inc.


































 

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