呼ばれ方について

20代の頃から、「 おばちゃん 」 と呼ばれるということに

全く嫌な気持ちがしませんでした。

まあ、その頃はそのように呼ばれることはほとんどありはしませんでしたが。

「 おばちゃん 」 「 おばさん 」 ・・・・・、なんて大人っぽい響き・・・・・

私の中では、子供達に、「 おばちゃん。 」 と呼ばれるってことは、

一人前の大人として認識してもらえた証。

なにか、こう、大人としての自信とか微かだけれど大人としての責任っていうのか

なあ、まあそういったようなモノがさ、こう、、ネエ、、、あるでしょう。

世の中全体としては、女性に対して おばちゃん呼ばわりは失礼、という感覚が

主流のようですが、私は全くもって大歓迎ですね。

それに、「 おばちゃん 」 という呼び名には、なんとなくあったかい、安心な

親しみがあると思うのです。 いかがでしょうか。

「 おばちゃん 」は、あいまいでふやふやとしていて、

さらに、どっしりもしていて。

おばちゃんを取り巻く空気は、温度高め。

なんとなく、居心地よさげな感じ。

20~30代には、おばちゃんと呼ばれた記憶はほとんどないなあ。

まだまだだったんだなあ、子供は正直、大人度が低かったのだ。

今や40も半ば、さすがにもう、呼ばれていいはず。

気をつかって、の「 おねえさん、」 もちょっときついし、ねえ。

見ず知らずの子供に、街で 「 おばちゃん、これ落としたよ! 」 なんていって

ハンカチなんぞを拾ってもらったり、「 おばさん、今何時? 」なんて聞かれたり

して、気分いいよなあ。 まあ、平成時代は子供も少ないし、なにかと忙しいから

街中をうろちょろして走り回っている子供達なんぞそういないであろう、携帯電話

持っているから、時刻なんかいつでもわかっているであろうけど。



ちなみに、映画 『 夫婦善哉 』 で、森繁 久弥が自分の女房・淡島 千影を

「 おばはん、」 って呼んでいて、それがまたなんともおかしみがあり、わざと

距離をおいた照れのような、愛情の裏返しの憎まれ口のような、

うっとりものでしたっけ。












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この道は母へと続く

蠍座にて、上映期間の最後の日に観ました。

うーん、とっても良かった~!

6歳ですよっ!! たったの6歳なのに、この意思の強靭さは何なの?

もの凄くかわいくって、ものすごーく勇気があって、もんのすごーーく強い男の子

なのです、その名は 「 ワーニャ 」。

でも、ワーニャという名前は本名じゃなくって、孤児院にひきとられた時に

つけられた名前です。そう、ワーニャは孤児。

おんぼろの施設で、( 人間的に )あんまり頼りにならない院長のもと、

年中、年長組にもまれながら育ちました。

世界中どこの国でもその事情に大きな差はないと思うのですが、孤児に対する

世間の壁は厚くて高い。孤児院で成人し、いざ社会に出て生活していこうと

思っても、状況はとても厳しく、犯罪にはしる、もしくは孤児院に戻る、という

ケースがほとんどだと、この映画の監督も作中にて強く訴える。

現代とは思えない、まるで30~40年位前の時代?というようなロシア片田舎。

このところのロシアの経済的な急成長の報道とあわせて鑑賞すると、うーむ、

大国であればあるほど矛盾と数々の問題を抱えているものよ・・・と感じます。

そんな中でワーニャに大きな転機が訪れます。

養子縁組を希望する裕福なイタリア人夫婦が、ワーニャを選んだのです。

豊かに、暖かく、幸せになれる、孤児にとっては唯一の道、文句なしの

ビッグチャンスです。一緒に育った子供たちがどれほどその幸運をうらやましく

思ったか! そして、この養子縁組成立によって多額のドルが手元に入る仲買人の

” マダム ” と呼ばれているブローカー、その手下、少しは分け前が前金で入る

孤児院の院長達の強欲の見え隠れする喜びよう!

そうです、これは法的な手段を踏んでいる人身売買なのだ、という

裏事情もあると気づきます、観ている私たちは。

養父・養母の待つイタリア行きは2ヶ月後。

ワーニャは素直に自分の幸運を喜び、新しい生活への心の準備に取り掛かりかけて

いたのです、最初は。

でも、脱走した。

自分が遠くの異国にもらわれてしまってから、本当のお母さんが自分に会いに

ここにやってきたら・・・・・?

もしも、もしも、ほんとうにもしもそうなったら、自分は永遠にお母さんには

会えなくなる、一生本当のママの顔を知らずにいることになってしまう。

さあ、6歳児は考えた。

本当のママに会いたい!!!

彼なりに必要な準備をして、なんやかんやを乗り越えて、脱走。

ここです、ここ! 心をジーンと打つのは。

この子には、天秤勘定もなければ、周りの大人達の事情やら恩着せやらを押し付け

られての ” 美しい ” あきらめもない。

さーあ、さあ、さあ、ワーニャの行く手に立ちはだかるものは?

ワーニャは無事に本当のママに会うことができるのか?

線路を逃げるワーニャの必死に走るその姿の頼りなさ、かわいらしさ!!

道すがら出会う大人達への咄嗟の機転をめぐらす顔の賢さ、あどけなさ!!

子供にとって、母親とは、絶対無二の愛の存在なのだ、と、

ワーニャに改めて教えてもらいましたヨ、

ちから君の ”本当の ” お母さんは。

自覚もあらたに、我が息子に愛を注ごう。

そして、周りの子供達、かつて子供だった大人達にも。

感動しました、ぜひ観てください。












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好きな花はなんですか?

石楠花と書いて しゃくなげ と読むのですね。

去年から好きな花になりました、石楠花。

赤もいいし、クリーム色もよい。

そして、赤とクリームの ”混じり ”タイプ はさらに好き。

花の周りに長細型の濃い緑のはっぱがあるんだけれど、

その濃い緑の色調が好きで、

その濃い緑にちょっと枯れた薄茶色がまじっている状態はもっと好き。

それでもって、石楠花は、木に咲く ”枝もの ” なのです。

緑の茎じゃなくて、茶色の枝に咲いている。

花・葉・枝の、色とテクスチャーの組み合わせ具合が、とても自分好みだと

去年知りました。

そうしたところ、実家の庭にずっと前から赤の大きな株があったっていうことに

気づき、「 石楠花、いいねえ、今年も。 」 なんて言っちゃって。

このように好きになったきっかけは、お客様が庭から切って持ってきてくださっ

た石楠花をガラス瓶に生けてからです、去年。

つつじ や さつき のように庭にどっしりと根を張ってずんぐりと大きくなり

毎春派手に咲いている印象だった石楠花が、ガラス瓶にさして室内で眺めたら

別の花のよう。 なんといいましょうか、集団からはずれて、ようやく個性が

光りだした、そんな感じです。

「 好きな花、なあに? 」 ときかれたら、なんの花って言おうかなあ、って

ヒマつぶしにあれこれ花の名前のリストを頭の中で作ってみたりするのですが、

石楠花は上位5つには入るな。

でも、「 1番好きな花は? 」 の答えは まだ決まっていないのです。




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ロレンス・ダレル、三たび。

そうそう、今年の春、私は念願のロレンス・ダレルの

『 アレキサンドリア カルテット 』 を手に入れたのでした。

再版情報をくれたのは、またしても彼女、某大学某学部勤務の、超有能な、学生と

センセイのお世話一切を取り仕切るH女史でした。

彼女は私に現在絶版のユゴーの『 ノートルダム・ド・パリ 』を、ある特殊かつ

友情溢れる方法でもって用意してくれもし、また、この絶版久しいダレルの

アレキサンドリアカルテットの第3部、第4部を貸してくれもした人物でして、

私の文学散策の素敵な話し相手でもあります。

そのH女史から、『 アレキサンドリアカルテット 』 がこのたび40年ぶりに

同じ翻訳家の新訳で再版されている、という電話が入り、その日速攻で、帰宅途中

にあるくすみ書房に取り寄せ依頼をしました、もちろん。

待つこと約2週間、そしてやってきたのがこの4冊なのです。

『 ジュスティーヌ 』『 バルタザール 』『 マウントオリーブ 』『 クレア 』

ああ、これで彼らにまたいつでも会うことができるのです!

うれしい!!

翻訳家は当時35歳、40年の年月はこの物語を語る上でどのように作用して

いるでしょうか。旧約と新訳の読み比べもマニアックなお楽しみ。

それも、同じ人の訳という点でも興味深いですねえ。

今現在読んでいる本 ( カラマーゾフの兄弟にもいよいよ着手しました )、今年

読みたいすでに用意してある本、などなどを考えると、この4部作を再び訪れるの

は来年かなあ。

とにもかくにも、我が手にいれました。それだけでいつでも幸せな気持ちです。

今回晴れて4冊揃って撫で撫でできたたわけですが、私の装丁の好みは

旧作ですね、断然!!

リトグラフの静謐で秘めやかな意匠がこの物語りを見事に表現していた。

でも今回の水彩画も美しく、決して悪くはないです。









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ゼア・ウイル・ビー・ブラッド

スガイ札幌劇場にて。

始まりから終わりまで、一時たりとも緩まない異様な緊張感!

一体なんなのだ?

ただならないこの不穏な感じ

掻き鳴らされるギターの音が、悪意を感じるくらい、そんな落ち着かない神経を

さらに逆撫でしてくる。 ああ、落ち着かない、ああ、胸騒ぎ。


はっきりしないけれど、どうやら、とてつもなく良くない事が起こってしまうのを

予知してしまったような、

動き始めた不吉な運命の大きなうねりを目の前にして、出来ることは、

ただ呆然と、見届けきることのみ、というような、

そんな怖ろしさを最後の最後まで持たされ続けた映画でした。


主演のダニエル・デイ・ルイスの演技はもうもう素晴らしく、噂にたがわぬもの

でしたが、息子役の男の子ケヴィン・J・オコナーもとても素人子供とは思えない

落ち着きと存在感に感動、そしてもう一人、そうです、主人公の運命の人(天敵)

ともいえる若き牧師役のポール・ダノに驚きです!!

主人公と同じか、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない狂気じみた突進力と

確信にみちた物言い、隠しようのない無自覚なうさんくささ。

主人公にとっては ” 目の上のたんこぶ ” どころじゃあない、「えーい、こやつ

をどうやって捻り潰してやろうかい 」 といったうざったい役柄を見事ものに

してました。ポール・ダノ、注目ですね。


アメリカの世紀がいかに開幕していったか、という、教科書には載っていない、

歴史のなかに埋まっている無数の物語の中の1つが、このような見事の一言に

つきる1本の映画になった、しかもその監督は弱冠37歳!!

ポール・トーマス・アンダーソンの存在そのものが私には1番の奇跡であり脅威

であり、感動でありました。 世界は広い、そして、大人である。

どうして、こんなに ” 人間 ” というものを描けるのだろう、

どうして、こんなに ” 悪 ” やら ” 欲 ” やら ” 孤独 ” やら、といった

根っこの有様を知っているのだろう、

どうして、こんなにも ” 美 ” を映し出せるのだろう、 

しかも たったの37歳で!!


この映画には、基本的には女はでてこない、ストーリーを左右するような、という

意味で。教会の信者の老女とか、息子の幼なじみの女の子と後に成長したその子

とか、それくらいです。

したがって、ふわふわ、ひらひら、ゆらゆらが全くナシ。

ごつくて抑制が効いていて、全編通しての色調も地味。

なればこそ、大平原に沈み行く太陽が染める空の赤、吹き出る原油が吼えたてて

いるるかのように天に向かって燃え上がる炎のオレンジ、そして

夕日のバックライトで映し出される人間達のシルエットの黒。

この映像の美しさに舌を巻くのです。

そして、音楽ともいえないような、不吉なギターの音・・・・・。

黒い血の海に向かってがむしゃらに突進する孤独な男の肖像を表現するのは

幾重にも張り巡らした縦糸、横糸。

石油採掘の極太のロープと、掻き鳴らされるギターの弦と、

37歳の監督の繊細・細心の心の糸とで織り成されたその立体宇宙は、

主人公と、そしてドラマの観客である私達が一歩踏み外すのを待っているかの様。

踏み外したが最後は、そうです、

『 There will be blood. ( 血を見るぞ )』。


映画でしか体験できない、この感覚、ふらふらになって観終わりました。

絶品。



















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ヒットラーの贋札

蠍座にて。


第2次世界大戦下のナチスドイツでは、こんなとんでもない作戦があったのか、

という驚きが1番でしたね、観終わって。

その作戦 「ベルンハルト作戦」 とは、完璧な贋ポンド紙幣を造ってイギリスに

流し、イギリス経済を混乱させようというもの!! 頭いい!!のかなんなのか、

その贋札づくりに収容所から集められたユダヤ人の実話を基にした

映画なのです。


とにかく ” 完璧 ” でなくてはならないわけで、集められたのは、腕のいい

印刷工、画学生、銀行家などの専門家や技術者達です。

映画ではそのメンバーの中の世界的な贋札作り犯サリーという男を主人公にして

いて、彼がモンテカルロの海岸で砂浜にうずくまり空虚な眼差しでぼんやりして

いるシーンから始まります。

そう、彼は生きて出たわけです、地獄の収容所から。

身体にぴったりとフィットした粋なスーツを着ていますが、よく見ると垢じみて

すすけたそのスーツの背中には、縫い付けてあったゼッケンを剥がした

痕が、そして腕にはアウシュビッツナンバーの刺青が・・・・・。

そんないでたちで彼サリーは高級ホテルにチエックインし、バッグにぎっしりと

詰まった札束を湯水のように使います。 ”札束”は、ある、唸るほど。

こざっぱりと身なりを整え、賭博場へ。

あたりのざわめきをはらう凄腕ギャンブラーにルーレットテーブルに人だかりが

でき、ディーラーの瞳が輝く。一体こいつは何者か?

どんなに博打に勝っても、サリーの虚脱感、絶望感はさらに増し、そして

観ている私たちに、自分がどんな男であったか、そし何を見て何をしてきて

今、ここにいるか、が回想とともに明かされてゆくのです。



ある雑誌に、この映画の原作者アドルフ・ブルガー氏が紹介されていました。

ブルガー氏ご本人も映画の中で 正義感の強い印刷工ブルガーとして登場している

のですが、映画はフィクションだから、人物設定は制作者側の自由に、

でも、史実を曲げることに関しては決して妥協はせず、脚本を4~5回書き直して

もらった、との事。ナチスの非人間的な行いを伝える映画に、ほとんど知られて

いなかった贋紙幣大作戦の、それも核心中の核心にいたユダヤ人側から描かれた

1本が加わった意義は大きいと思いました。

大学などで自身の戦争体験を講演し続けているブルガー氏の、より多くの人に

ナチスの行いの罪を知ってもらいたいという思いが 原作の映画化を承諾させ、

実際に私も「観た」のですもの。

当時の印刷作業の様子や工程、特別収容所のしつらえなども忠実に再現されている

そうで、その辺も興味深かったです。


最後、生き残ったサリーが、賭博場で知り合った美女と浜辺で踊るタンゴのシーン

は、それまでの地獄をより伝えるための演出なのでしょうが、まあ、ドイツ映画

らしく(?)ちびっと垢抜けない、かしらん ・・・・・・。

ちょっぴりそんな気もした、でも生き証人が認めた、中身の濃い1作でした。





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夜のフルーツは、金

ここ2ヶ月くらいの1日の終わり方。

8時半から9時頃、息子沈没。

深いふかい眠りの彼方へ。明日の朝までサアヨオオナラアー。

一気に静か。大人の時間です。

さて、私は、と。

お風呂にはいるとするか。

ザーザー・シャッシャッ・ザンブリコ。ふああー、いい湯じゃあ。

さてお風呂あがるとするか。

今日も無事に終わったなあ、なんとか。

洗った食器、かたずけて、と。

テーブル、床、息子の散らかし放題の残骸の数々をかたずけて、と。

短い時間ですが、眠る前の ”自由時間 ”というわけです、ようやく、ここから。

ストレッチ&整体体操をちょっとやって、そして、そして、

夫と2人で食べるのです。グレープフルーツを。1人1個。まるごと。

夫はテーブルにて。私は流しのシンクにて立ちながら。

へたのところを薄くカットして、5筋くらい皮に切り込みを入れて、

わしっわしーっっと厚い皮をむくと、おおっ、もやもやの筋と薄皮に覆われた

金色の果実が出現!!親指を中心にぶすりんこ、ざっくりと二つに割って

ひと房目の薄皮をはがしてぷりぷりのジュース溢れる実をばくりっ!!

うーーん、おおいしーーいっ!!!

そうして次々と房を破ってはむしゃむしゃ、破ってはじゅわじゅわ。

連続して薄皮は繋がったまんま実のみむさぼり食らうわけです、立ったまま。

食べ終えるとべちゃべちゃになっている口の周りを水道水にて手でぬぐい、終了。

ふう。

ああーあ、うめかったあ。 ああーあ、満足。

そうして、このグレープフルーツタイムが終わって、残りが読書タイム、と。

そもそも、何故このようにグレープフルーツを毎晩食べるようになったかと申しま

すと、私の妊婦性便秘が出産後も後を引き、毎日あるかわりにころころのウサギ

の糞状になってしまったことによるのです。

ちなみに、ころころうさ糞は 「 コロ代(ころよ)」 と名づけられました。

私がまさよなので、コロ代、というわけです。ヘンなの!

毎朝、毎朝、「 今日もコロ代だー 」を繰り返し。

一体ぜんたいどういう事? 繊維も普通に摂ってるよー、なのに??

そうしていたところ、我がダンナさんが、「 グレープフルーツだな 」、といって

大量のグレープフルーツを買ってきたのです。

「 グレープフルーツなんて効くのかいな 」 と、半分はてなマーク付きで

その夜から1個まるごと食べ大会が始まったというわけです。

1日目は変化なし。

2日目に劇的変化あり。

なんとびっくり、上等糞に!!最高級の、トップクラスの、ですー!!

ちなみにこの最高級糞は 「 ふんわりももちゃん 」 と名づけられました。

「 コロ代 」 から 「 ふんわりももちゃん 」 への大躍進・大出世!

以来毎夜の儀式めいた、このグレープフルーツの立ち食べが続いているのです。

大人が2人、暗い部屋でそれぞれにむさぼりくらふは金の果実。

しみじみとお酒でも・・・では全くなく、なのですなあ。

まあ、それもよし。

果物を食べるのに、朝の果物は、金。 昼は、銀。 夜のそれは、鉛。 とは

よく聞くのですが、これは胃への負担のことでしょうか。

ですが、明日のふんわりももちゃんのために食べる夜のグレープフルーツに関して

は、大丈夫。 夜の果物でも、金。 です。

おいしくって、効く。 すばらしい。

何故グレープフルーツなのか、と夫に問うと、「 それは酸だから。」と。

なんだかわかるようなわからんようなお答えでしたが、実際に結果をだしてます

ので、「ふーむ、なるほどー。」ということで。

コロ美、コロ子、コロ夫の諸氏、お試しを。

ふいんわりももちゃんまちがいナシ!



追伸 : 夫はコロではなく、つきあいで、おいしいから食べている、そうです。

















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