ティファニーで朝食を





2年ほど前に、かの有名な ( ヘプバーン&主題歌ムーンリヴァーの映画で )

トゥルーマン・カポティの 『 ティファニーで朝食を 』 を新潮文庫版の

1964年に翻訳されたものを読みました。

多くの読者とたぶん同じように、私も、それはそれはオシャレでロマンティックな

あのマンハッタン映画が先で、原作が後、というパターンでしたし、

多くの読者とたぶん同じように、私も、「 映画とぜんぜん違うー!! 」 と

驚いたのでした。

何といっても、肝心要の結末が全く違うのです。

映画化された時点で、それは原作者の手から完全に放れて映画監督の作品となる

ということがよくわかる好例とでもいいましょうか。

その昔に観た映画 『 ティファニーで朝食を 』 は、オードリー・ヘプバーンの

ジバンシーの黒のワンピースに始まり、ジョージ・ペパードのカッコ良さ、

マンハッタンライフへの憧れ、主題歌ムーンリヴァーの心に染み入る美しい

メロディ、、、興奮の都会的な美しい恋愛映画でありましたが、

原作では、ホリー・ゴライトリーはティファニー宝石店のウィンドー前でごはんを

食べたりしないし、ギターを爪弾きながらムーンリヴァーを歌わないし、

なによりも、映画版とはテーマが全く違うのです。恋愛小説じゃないの。

カポティが読者の脳内に自由の翼をふうわりと落としてくれて、

私たちは、ページをめくりながら、ホリーや ” 僕 ” と一緒に

その自由の翼で羽ばたこうと夢を見て高揚し、

当然のことながらの、その羽での飛行可能時間の儚さを味わい、

つまり成長する ( 年をとる ) ことを止めずに生きてゆくことは出来ないという

ことの苦味や悲しみ、切なさを、カポティの選び抜かれた言葉からなる完璧な

物語の中に味わうわけです。

いらない人はさっさと無自覚に捨てている、繊細で密やかで清潔なある感覚を 、

こんな風にそのまま文章という形にして表現してしまえるカポティって、

一体全体どういう人なのお!!??

という感動が待っているのでした。


そして、今回、2回目の 『 ティファニーで朝食を 』 を読み終えました。

同じく新潮社で、2008年版。 翻訳者は、村上春樹。

近頃、海外古典文学出版界を賑わせている新訳、というものの一つなのでしょうが

読み終わって、あまりの読み心地の違いの大きさに愕然としたのでした。

1968年版の龍口直太郎訳が悪いわけでも不足なわけでも決してないのですが、

そしてまた、この2つを対決させるつもりも微塵もないのでしたが、

だが、だが、村上春樹じゃ、ねえ、、、かなわない、のでした。

ずるいよう、村上春樹じゃさあ。

ホリー・ゴライトリーという女が、香りつきで立ち上がってくるのです。

語り手 ” 僕 ” の、戸惑いやら浮き立つ思いやらのセンシティヴ加減が手に

取るように伝わるんです。

マンハッタンの空気や匂いや騒音の中に投げ込んでもらえるんです。

完璧に解っていて、それを大衆に確実に伝えるための高度な技術とコツを持ってい

て、そして、なにより、センスがある人が手掛けると、

物事はこんなに違って私たちの前に現れるものなのか!!

・・・・・これが、村上春樹訳を読んだ感想です。

うまい。うますぎる。うますぎました、実際。

カポーティを読んでいるのに、いつのまにか、村上春樹を読んでいるかのように

錯覚してしまうんだもの・・・。まるで、カポティが村上氏に乗り移ったみたい。

そうですねえ、吹き替えの洋画で、有名俳優が声優をしていたら、

映画の画面を観ながらその声にその吹き替えしている俳優の顔が浮かんで困る、

という感じに似ているかも。

『 ティファニーで朝食を 』 には、他に、

『 花盛りの家 』 、『 ダイヤモンドのギター 』 、『 クリスマスの思い出 』

の3つの短編が入っていますが、全作品テーマは共通していて、それは、

村上春樹流にいうところの ” イノセンス ” 。

2008年に刊行されたこの洗練された ( ティファニーブルーの )装丁の

美しい短編集には、巻末に、

「 『 ティファニーで朝食を 』 時代のトルーマン・カポーティ 」 という

村上氏のカポティにおけるイノセンスについての、極上の酒を飲んだ時の酔い心地

に似たため息モノの文章が載せられていて、全くもってまいってしまう。

本文の翻訳部分よりもこのあとがきに素直に酔っぱらった私でした。


長ーい間貸してくださって、催促1回もナシ、のTさまのオトナ度に

深く感謝いたしますー!!

ようやくお返しできますデス。

ありがとうございました!!!



































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