題名のない子守唄

とても、とても、とても悲しくて、辛すぎて麻痺してしまったかのような痛みの映画。

蠍座にて。

” これは母性がテーマの映画 ” というようなことをジュゼッペ・トルナトーレ監督

自らがいっているのでそうなのでしょうが、観終わったあとで私は少々ちがった感想を

抱きました。

娼婦として男の道具のごとき扱いをうけて生きてきた主人公の、たった1度の本当の愛の

思い出、( 思い出、というにはあまりに残酷で絶望的で悲惨で・・・・ )、

その愛が授けてくれたものを確かめるための旅のお話、という感じでしょうか。

本当にそれはそれは悲しい物語なのです。


後半、出産シーンがあり、生まれたての赤ん坊と対面するところとか、お乳を吸う

赤ん坊がいないおっぱいが、初乳があふれ出てブラウスの胸がべちゃべちゃに濡れている

場面とか、いやもう感情とは関係なく何かに反応してしまったかのように涙がだーっと

出てしまってびっくりしました、自分で。


物語の舞台、北イタリアのトリエステという街の雰囲気が まさにヨーロッパ!!

街が石でできていて、建物も立派で、アパートといっても日本のアパート・マンション

とは異なるもの、その階段・手摺・ドア・ドアノブ・大きさ ・・・全て絵になる美しさ。

冷たい風が肌をさすのが似合う街で、映画の格調を高めているのでした。


そう、格調は確かにあるのですが、ミステリーとしてはちょっと物足りなく、

慈愛・母性の映画にしては主人公が固すぎるような感じを受けるし、過去のエピソード

からも ” 母性に溢れた ” ” 母性がゆえの ” というものは感じられず、

数々の伏線めいた事件やフラッシュバックの効果もちょっと弱い。

ですが、観終わったあと、胸が痛く心が悲しみで一杯になったのは、この作品の全編を

愛という名の強靭な綱が1本びしーっと通っていたからでしょう。

それはぶれていなかった。うん。


ラストシーンは 私には頷けるものでしたね。

もう報われてもいい。 

重すぎる罪と罰、だったけれども。

日本語のタイトルも今回は違和感なし、でした。












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AMERICAN GANGSTER

以前このブログにてお話した、当たった映画鑑賞券にて観てまいりました。

その鑑賞券は 2008年の2月いっぱいが有効期限でしたので、観たのははや1ヶ月

くらい前になってしまった。 早いなあ、時がたつのは・・・。

『 アメリカンギャングスター 』 ってカタカナで書くと、スターって、あの星のスター

だと思っちゃうのですが、スペルが違うのですね。

” STER ” って、 ” ~する人、~である人、~を作る人 ” という意味なんだそう

で、しばしば軽蔑的な使われ方もするそうです。( 三省堂のコンサイス英和で調べた )

で、『 アメリカンギャングスター 』 、男っぽくてアメリカくさくて劇的で

なかなかおもしろかったです。

実は もっともっとうんとおもしろい事を期待していたのですが、まあ、そこまでは

ちょっといかないかなー、でも いや おもしろかった。

時はベトナム戦争末期のニューヨーク、そして、ニュージャージー。

2人の男がおりましたとさ、1人は切れ者のやくざ もう1人は おまわりさん。

やくざは長年仕えたボスの死後、一から学んだその道の処世術で自分が一帯の次期ボスに

なる事を決意する。

一方のおまわりさんは、家庭は破綻しているくせに職務への正義感は鉄のごとし、

という、ちと複雑な性格の変わり者。

映画が始まってしばらくたってもこの2人は出っくわさない。 全然。

2人それぞれの話が同時進行するのです。

やくざの方はやくざの方でどんどん仕事を進めて、もう、大成功して凄いことになっちゃ

っていて、暗黒大帝王になりおおせ、田舎から一族を呼んで大邸宅住まい。

おまわりさんはおまわりさんで、家庭は破綻、職場では爪弾き、なんだけれど、その

鋼鉄の正義感をかわれて麻薬捜査チームのリーダーに抜擢されて水を得た魚のごとし。

そしてそのくらいから観客である私達も、いよいよこの2人の距離がじわじわと狭まって

きているのがわかり始め、そして、そしてっ!!!ああっ、とうとう2人が激突!!

怒涛のごとくラストへとなだれ込むーっ!!

詳しくはここでは書きませんが、このお話、実話、実在の2人を基にして作られたもの

なのだそうです。

やくざはデンゼル・ワシントン、対するおまわりさんはラッセル・クロウ。

黒人が成功し、富をつかむ為にはこういう方法しかなかった。

” 正義 ”は警官の魂、のはずだった。アメリカの魂のはずだった。この腐敗振りは何だ。

2人それぞれの人生における ” アメリカンドリーム ” と その崩壊を、

D・ワシントン と R・クロウ が男ぶりたっぷりに演じ、リドリー・スコットが巧みに

束ねてました。

私は残念ながら観ていないのですが、この同じ時期のニューヨーク市警の腐敗ぶりを

描いた映画が アル・パチーノの『 セルピコ 』だそうで、タイトルだけは私も知って

いる有名な映画ですよね。 『 アメリカンギャングスター 』 では、ニューヨークの

街はそれほど物語っていなかったような気がしますが、『 セルピコ 』 では、魅せて

くれるみたい。 ( 観ている夫はそう言ってた )

そうだなあ、ちょっと物足りなかった感は、街があんまり描かれていな

かったからかもしれません。  











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3月14日 金曜日

ぽちぽちと雨まじりの、曇り空、です。

いい感じ。

写真日和。

カメラをぶらさげて、ぶらぶらと歩いていたいなあ。

そうもゆかんなあ。



今日みたいな曇りの日に 窓ガラスを磨くと、

ホントにきれいに見えますね。

いい感じ。

どうしてかしら。

快晴の朝なんかだと、いくら磨いても、今日みたいなきれいさはないのに。



そうそう、今日は ホワイトデーでもありますね。

といっても、うちのだんなさんは、その存在すら知らない、と断言できる。

1ヶ月前にあげたチョコも 十分の九は 私がたべちゃったもんなあ、しかも。



さあ、コーヒーも飲み終えたし、お仕事 お仕事っ!!



なんだか、のんびりしてしまう、早春、曇り空、です。

では、また。

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別れ の 季節

お風呂に入っていて、突然、本当になんの前触れもなく口から出てきた歌でした。



 ♪  楽しーく 過ぎーた ろーくー年の


    学ーびの にーわーあよ さーよーおーなあらー


    あかーるく つうよーおく むーねーえを張ーりー


    今日ーは わーかーれの 手ーをーをにーぎーるー


    伸びーゆく者ーの よろーこーびーいをー


    みーんーなでー みーんーなで 歌ーおーおーよー ♪



こんな歌詞です。

きっと、ちょっとずつ記憶違いで、 歌詞は正しくないかもしれません。

湯船につかりながら、歌詞が出てくるままに 大きな声で 歌ってました。

小学校の卒業式で歌った歌 です。

あーあ、なつかしや。 

小学校入学の時は、「 これから少なくとも9年間!!も学校へいかなくちゃいけない

なんて・・・・・嗚呼・・・」 と、絶望のどん底の気分でした。

1番嫌いな歌は、『 1年生になったら、友達100人できるかな 』 という、あの曲。

まったくもってそんな勇ましく、希望に燃えた小学1年生ではなかった私・・・・・。

3年生までは、学校が、特に行事の時の学校が、歯医者さんよりも、あおむしよりも、

牛乳よりも、父や母に叱られるのよりも、嫌でしたねー。

ですが、4年生で担任の先生がうまーく自信をつけさせてくれて、それからです、

元気になったのは。 学級委員なんかもやっちゃって、イキイキと。

そう、4年生から6年生まで同じクラスだったので、卒業式はおいおいと、それは

盛大に泣きました。 前半の3年間の不出来はきれいさっぱりと忘れちゃう勢いで。

大好きな藤谷先生、クラスのみんなと今日でお別れだなんて、悲しすぎるー!!

みんなで泣いた。 先生( 男 ) も泣いた。

泣きながら家に帰りました。

でも でも そうして 生まれて初めての お別れの悲しみの真っ只中にいながらも、

心のどこかで 卒業したがっている自分がいることも わかっていたのです。

このままではいられない、ってことも。

諸行無常。 本当に 全ては変化してゆきますね。



春は お別れの季節 でもあります。

卒園・卒業 オメデトウ! ご退職 おつかれさまでした!

” 新しい自分 ” への扉が、開けてもらうのを待っている、「 さあ、どうぞ 。 」 と。



いろいろな変化をしながら、今いる私。

ここに来てようやく そんな変化を受け入れることができるようになったかなあ。

お別れも含めて 「 春 」 を思うことができるようになったかなあ。

選ぶ間もなく、否が応でも 新しくなっていく。

きっと きっと 結果オーライ、神様はよくしたもんですヨッ。

そう信じます。



新しい あなた 、 会える日が楽しみね。







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読書 は 楽し

また本を読み始めました。

出産前は ある程度まとまってとれた読書時間、なのですが、

この1年は当たりまえですが、本に向かう時間、というか、気力もなかったのです。

ですが、年が明けて、この2ヶ月くらいから、再び読めるようになりました。

さすがの赤ん坊も、いつまでも泣きっぱなし、おしっこうんちし放題、ミルク飲み放題

ではないのですねえ。 安心しました。 いやー、成長していくものですねえ。

とはいえ、読書時間、といっても、週に3~4回の出勤日の行きと帰りの地下鉄での

乗車時間10分ずつ、そして、夜寝る前のそうだなあ、せいぜい15分くらい、

なのですが。 

が、だからこそ、ぐっと本の中に入り込めるみたいです。

そして、その通勤時間 と 就寝前時間以外はいっさい読まないようにするのです。

そうすることで、もうその時間が楽しみで楽しみでたまらなくなるのですよ。

夜は、1分でも早く息子をすみやかに寝かしつけようとしますし、

1分でも早く家事もろもろを終了させようと工夫画策いたします。

地下鉄に乗るのも、ホームでの待ち時間があったってぜーんぜん平気、ていうか

待ち時間ありがとう♪の気分です。 本を読む時間がすこーしだけど長くなるものね。

本を読む、というささやかな( でも、私をどこにでもつれていってくれる、魔法のよう

な ) 行為で、私の育児を中心とした毎日にどうやらメリハリがついてきた感じ、です。

今、地下鉄内読書は カミュの 『 異邦人 』 。

新潮文庫版、昭和45年出版のもので、訳は 窪田 啓作、とあります。

2年くらい前に通勤途中に拾ったのです、この本。

ほかにもいろいろ紐でゆわえてあったから、みんな拾っておきました。

燃えるゴミの日だったみたい。 ずーっとそのままでしたが、このたび、薄くて持ち歩き

によさそうなので読んでみることにしたわけですが、

『 異邦人 』、いやはや、ものすっごーく良いです!!!

びっくり、です!!! 

まだ、ママンが死んで、アルジェから80キロのマランゴというところにある養老院での

通夜と葬儀が終わったところ、ほんの22ページまでしか読んではいませんが、

その1人称での乾ききった文体、その描写、もう陶酔です。

同じ文章を2度3度とくり返し舐めるように読み、味わい尽くすくらいのものなのです。

くっきりとイメージが立ち現われ、登場人物の息遣いまで聞こえます。

行ったこともないフランス領の遠い田舎の養老院の、白い壁の死体置き場に私もいます。

文学の力、なのですね、これが。 はあ~。

読書欲が、がぜんむくむくと沸いてきます。

自分にとっての素晴らしい読後感を得た本と出合った後は。 

本はいつでも、どこでも、私を迎え入れてくれる。

いつまででも待っていてくれる。

そして、本は、過去へ未来へ、地球の果て、宇宙の果てへも連れて行ってくれる。

私が手にとり、そのページを開きさえすれば。

ああ、読書は楽しいですね。

今夜も、息子よ、すんなりと眠っておくれ。









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