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語り部の経営者たち・ニトリ社長、似鳥昭雄

語り部の経営者たち

ジャーナリスト田中幾太郎

似鳥昭雄社長(70)

似鳥ホールディングス

いじめられっ子だった小学時代

ついたあだ名が『ニタリ君』

 「お、値段以上」のキャッチコピーでおなじみ、家具、インテリア大手のニトリ。14年2月期まで27期連続で増収増益というこの超優良企業を率いているのが創業者の似鳥昭雄氏だ。3月に70歳の節目を迎え、5月9日の株主総会で事業会社社長を白井俊之専務に譲り、会長職に就くことが決まっている。

 昨年米国に初進出国内を新社長に任せ、自身は海外展開に注力すべく今回の人事に踏み切ったのだという。

札幌の家具店からスタートした同社を業界一位の企業に育て上げた似鳥氏だが、その人生は順風満帆に来たわけではなかった。1944年3月、似鳥氏は樺太で生まれた。終戦を迎えても一家はすぐに帰国することはなかった。

日本への緊急輸送船はソ連の潜水艦に次々に攻撃を受け、1700人を超える犠牲者が出ていた。似鳥氏の母親は、しばらくの間、引き上げるのは危険と判断。シベリアに抑留されていた父を残し一家が北海道の故郷に戻ったのは、終戦から2年後のことだった。

「当時の記憶はほとんどありませんが、引上げ船に乗ると、シラミ除去用の殺虫剤を頭からかけられそうになり、逃げ回ったのをうっすら覚えています。あのころは結構すばしっこい子供だった様です」

 帰国してからの住まいは、札幌の引揚者住宅。同じ形をした三角屋根のバラックが何百戸も並び、似鳥少年は自分の家がどこかわからず、迷子になってよく泣いていたという。3年後には父が復員、大工に弟子入りしたが収入が少なく、母がヤミ米の商売で家計を支えた。

「小学校1年の時から、ヤミ米を配達する手伝いをさせられました。学校から帰ると夏場はリヤカー、冬場はソリで一軒一軒回って升で量って売るんです。小学生の身には米袋が重くてすごくしんどかった。4年生になると父が配達のために中古の自転車を買ってくれたんですが、大人用で足が届かず、すぐに転倒する。

かえって重労働になってしまった」

 当時米の流通は食糧管理法によって厳しく管理されていた。たびたび母が警察に連行されたが、そんな危険を冒しながら、一向に暮らしは上向かなかった。

 「同級生たちもみんな貧乏だったけど、うちはとりわけ貧しかった。白米は売り物だからと雑穀を混ぜたものしか食べられない。学校に持っていく弁当は漬物が入っていればいい方、

悪ガキが級友たちのおかずをさらっていくんですが、ボクの弁当には見向きもしなかった。

体が小さく、学業もさっぱりだった似鳥少年は、学校でよくいじめられた。後ろ向きにされ継ぎはぎだらけのズボンをミットに見立ててボールをぶつけられた。

 トイレに連れて行かれ、殴られることもしょっちゅう。あだ名は当時北海道新聞で連載されていた4コマ漫画の“ニタリ君”。殴られてもいつもニタニタしていたからだ。似鳥少年はどう対処していいのかわからず、愛想笑いを浮かべているだけだったがさらにいじめられる結果となった。

 「家に帰れば帰るで今度はおふくろに怒られる。配達が遅いと言って叩かれる。米袋を落として。破けて米が地面にこぼれたりするともう大変、箒の柄でたたかれるんで痛いんです。学校にいても、家にいてもつらいことばかり、楽しみはただ一つ寝ることだけでした。

 眠ってしまえば苦しみから逃れることができますから」 つづく

 

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