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41・民主党政権発足時における根本的問題・鳩山の右往左往ぶり

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民主党政権発足時の根本的問題

(鳩山由紀夫の右往左往ぶり)

 

民主党の政権公約の第一は、党の主要役員を入閣させて、内閣に政策の協議と決定を一元化することであったはずだ。

それなのに鳩山代表は『小沢排除』の党内外の暴論を抑えることができない。

ここに”民主党の最大の問題”があった。

 政治を読める小沢氏を排除して、政権交代後の政治運営ができるはずがないのは自明の理である。

 閣僚の経験があるのは藤井財務相だけだが、この藤井氏が政治については無知であり、政治の事務しか知らないことを当の鳩山代表が知らなかったことに最大の問題があったのである。

最初、鳩山代表は、小沢氏を政策の協議と決定にかかわらない幹事長に就任させ、選挙対策だけをさせ国会運営も内閣だけでやろうとしたようだ。

 そしてついに党の政調会長に菅副総理を当てるという構想を作ったがさすがに小沢氏はそんな「公約無視」は許さなかった。

 そうして政権作りが遅れ、鳩山代表は小沢氏に国会運営と選挙対策担当の幹事長を引き受けてくれと泣き込む。

こういうときに頼まれればノーと言えないのが小沢一郎氏である(頼まれても内容によっては駄目だと言えるのが、また言わねばならないのが政治家だろう。この時の小沢氏の態度で「言えば、頼めば何とかなる」という党内外の反小沢グループに誤ったシグナルを送ったことになった筈だ。誠に残念でならない←永人)

 特別国会が召集され内閣構成では、公約通り「幹事長で入閣」という合意を鳩山代表と阿吽(あうん)の呼吸で交わしながら、まずは政権作りをすることが前提と考えて小沢氏は鳩山代表の提案を了承する(小沢民主党に投票した多くの有権者はこれが小沢氏の最初の失敗だったと今でも思っている←永人)。

 翌2009年9月5日、私は長野県茅野市で開かれていた縄文文化シンポジュウムで発言中であったが、小沢氏から携帯に電話があり、中座して受けると「特別国会を最小限日程でやる場合の憲法上の要件は何か、これから鳩山に説明して腹を決めさせる」とのこと。

 そこで私はこう切り返した。「そんなことより、政策の協議や決定にかかわれない幹事長になって、議院内閣制が運営できると思っているんですか。これでは鳩山内閣は1年も持ちませんよ」と。

 すると小沢氏は怒って「そんなことは分かっている。その前に与党人事を作らないと政権がつくれないんだ」。要するに鳩山氏には優秀なブレーンがいない。と同時に民主党内には、転がりこんだ権力にしがみつこうという意識だけで、とにかく「小沢排除」さえすれば、政権は安定するという、武村正義氏らに同調する連中(菅・岡田・前原・仙谷・江田・枝野・玄葉・安住・などの反小沢のバカ連合一派←永人)が、マスコミと協力関係にあった。

 その中で鳩山代表が右往左往していたのである。

これが民主党政権スタート時からの根本問題であった。 続く

 

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40・最後の話に影響を受ける鳩山由紀夫

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最後の話に影響を受ける鳩山由紀夫

 これ以降鳩山氏と話したことはないが、小沢氏とは鳩山氏について論じ合ったことがある。

 小沢民主党代表は、麻生政権がダッチロールを続ける平成20年(2008)秋口ごろまでは、政権交代しても、自分が首相に就任するつもりはなかったようだ。

 というのも、そのころ、「政権交代になれば総理は鳩山氏か菅氏ということになるが、どう思うか」と意見を求められたのである。私はこう返した。

それはない。自民党にさんざんタライ廻しは駄目だと言っておいて、総理になる前にタライ廻しはないでしょう。国民は小沢民主党で投票するんですよ。それだけで政権は倒れますよ』(全くその通りで、小沢さんならやってくれるという期待感と、人望から国民は小沢氏の総理をイメージして投票したのであり、鳩山や菅など眼中になかったはずだ←永人)

小沢氏は私にさんざん言われてようやく了解した後、鳩山由紀夫論になり、私はこう断じた。

 『小沢氏は最初に頭に入れたことを採用して、それを実行しようとするから、わかりやすい。片や鳩山氏は最後の話に影響を受ける。その間、いろんなことを思いつきでしゃべるので、周りが迷惑する。

 意図的にやるのではないので、人間が悪いわけではないが、事と次第では、結果的にそれより混乱する場合がある。しっかりした側近をつけて常に相談をさせるようにしないと・・・一方、菅氏はこざかしいシナリオを作って政略的行動をとるが、大したことはない』小沢氏は笑いながら聞いていた。

小沢一郎秘書逮捕、検察フアッショの始まり

 政権交代半年前の平成21年3月、小沢氏の大久保秘書逮捕で小沢問題が「発生」する。これはすでに述べたように「発生」というより、(自民党麻生政権を中心とする←永人)権力によって「仕掛けられた」ものだった。

 私が翌朝のテレビ朝日で「検察フアッショ」と批判。

小沢氏も同様の論で記者会見する中、民主党内で私と

小沢氏への批判が高まる。

 鳩山幹事長は検察批判をしたのに、

菅 直人代表代行は小沢代表の辞任を示唆、その時、私は小沢氏に『鳩山氏はあなたの下で苦労したので政治家としての見方が深くなり、成長した』と言うと「そうだな・・・」と肯定的に反応していた。

 その後、外からだけでなく、身内からの「小沢叩き」の中で、連休すぎに代表を辞任、後継を鳩山氏に託し、自らは選挙対策委員長として、選挙の総指揮をとる。

 これが平成21年8月30日総選挙において民主党の地滑り的勝利をもたらしたことは議論の余地はないだろう。小沢氏の西松事件の検察による「捜査の政治謀略性」については国民の大勢は理解していた。

 問題は政権交代した民主党にあった。

『小沢排除』に鳩山首相がストップをかけることが出来なかったことである。

それだけではない。アルコール依存症で認知症の初期症状と疑われた藤井裕久氏を財務大臣に入閣させる。

 その財務大臣から早速「円高容認発言」が飛び出て、それがその後の政策ミスの原因となるのである。続く

 

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39・政権交代で鳩山政権

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政権交代と鳩山政権

“逆転の夏”と銘打った参議院選で圧勝

 

小沢一郎氏が民主党代表になるや、民主党は変貌、

小沢―鳩山―菅のトロイカ体制が組まれる。

 そして千葉県7区の衆議院補欠選挙の奇跡的勝利を皮切りに弾みをつけ、平成19年(2007)7月の“逆転の夏”と銘打った参議院選挙に圧勝、野党が多数という逆転現象を作る。「政治は生活・国民の生活が第一」小沢ドクトリンが有権者の心をつかみ、次期総選挙での政権交代が確実視されるようになる。

一方自民党は、平成18年(2006)9月に小泉首相が辞め、安倍晋三氏が後継となる。

 安倍首相は参議院選後も居座ったが、健康上の理由で辞め、福田康夫首相に代わる。福田首相も『ねじれ国会』に対応できず政権を放棄し、麻生太郎首相に代わる。

 自民党は2年の間に3人の首相のたらい回しを行い、国民から批判を受ける。

自民党政権は、この時から政権交代の阻止」が最大の目的であり、月刊誌で一旦は宣言した解散の時期に苦慮する。

衆議院議員の任期が半年余りの平成21年(2009)9月に迫った3月3日東京地検特捜部は証拠もなく大久保隆規秘書を政治資金規正法の虚偽記載で逮捕した。小沢民主党代表をめぐる政治資金問題の捜査に着手したのだ。

 捜査が始まるや、巨大メディアは一斉に、小沢代表を犯罪者扱いして報道した。

 残念なことに、議会民主政治の崩壊に気づく国会議員はごく少数であった。

最後の話に影響を受ける鳩山由紀夫

 平成21年8月の歴史的な政権交代選挙によって。民主党は政権の座に就き、代表の鳩山由紀夫氏が第93代内閣総理大臣に就任した。この歴史的事件の陰の功労者が選挙を仕切った小沢一郎氏であることは反小沢派も含めて、だれもが認めるところであった。

 政権交代当初、小沢・鳩山の関係は良好であった。

しかし私は鳩山由紀夫という人物について、大いなる懸念があった。

 それは小沢氏が民主党代表であった平成19年5月参院選に挑戦する前参院議員広野ただし氏を励ます会に顔を出した時のことだ。党幹事長であった鳩山氏にバッタリ顔を合わせると、周囲に財界人がいる中で、引退していた私に

『これから民主党はどうなるのでしょうか』と大真面目に大声で尋ねてきたのである。周りの出席者はこれが政権交代の見えてきた公党の幹事長か、と驚きを通り越して失望したことだろう。

 鳩山氏としては小沢氏が戦略的な話をしないので、側近である私に聞きたかったようだった。 続く

 

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38・民主党代表に就任(不思議な国の不思議な民主主義)

 

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民主党代表に就任

(不思議な国の不思議な民主主義)

 民由合併の時点で、鳩山氏と小沢氏との間には「自公政権を崩壊させ、国民生活を守る政権を作る」という基本戦略が共有されていた。

 しかし当時から民主党内には小泉政治に同調するネオ・コン派が暗躍しており菅体制は党内派閥のバランスをとる『弥次郎兵衛』が実情であった。

 その後年金問題や郵政民営化などで党内外は紛糾する。前原誠司代表の就任で『小沢一郎の出番はない』と言われるようになった時、『偽メール事件が勃発』

この責任を取って、前原氏は代表を辞任。

 平成18年(2004)4月小沢一郎氏が民主党代表に就任、ここから民主党再生に着手するのである。

 ここで「民主に拾われた小沢は年貢を納め、矛を収めた」と早とちりした反小沢一派は大いに後悔したはずである。

 実は私としては、自由党が無条件合併してからの民主党の運営にいささかの不満があったので、就任にあたって「民主」の語源を説明して党名を変更するよう進言したこともある。理屈はこうである。

 日本という国はまことに不思議な国である。「民主主義=デモクラシー」という言葉が使う人の判断で勝手に使われているので、社会に害毒が流れている。定義が複雑なせいかもしれないが、原点を考える必要がある。デモクラシーの語源は、ギリシャ語の

Demokratiaであり、Demos(人民)とKratia(権力)を結合したものである。したがって初めから

『人民の権力』という意味である。

 ところが明治期の日本では、

このデモクラシー(原語―デモクラティア)を民主主義と訳した。「これは誤訳だ」と主張しているのは、今なお日本人では私一人だけだと自負している。デモクラシーを「民主主義」と訳したのは多分福沢諭吉先生である。

 慶大教授、故・江藤 淳氏が元気な時、この意見を酒の席で言った時、大変叱られた思い出がある。

理由は「民主」という言葉の語源にある。『広辞苑』を開いてみると、民主『中国では古く、民の主、すなわち君主の意に用いた』とある。

正確を期すためにもう一つ例示しよう。

 小学館の「国語大辞典」(全10巻)には、民主『人民の支配者・君主』とあり、これはよりわかりやすい。

 つまり語源論で言うと、「民主主義=君主主義」となる。

干支の語源を考察した『十二支攷』(思文閣・全六巻)を著し、語源学者としても知られる元衆議院議長/前尾繁三郎先生の「不肖の弟子」を自認する私には看過できない問題だ。言語には言霊(ことだま)がある。

 ユングの「深層心理学」と毛沢東の「矛盾論。実践編」で政治を分析、運営してきた私にとって、語源は物事や事象の本質に影響するものだと確信している。

 以上のような理屈をこねて私は、『民守党』を薦めたが小沢氏は、『(民主は)鳩山君が好きな言葉だから』

と鳩山氏に遠慮して採用してもらえなかった。

 わが国の120年に亘る議会史で、民主党という名の政党が日本国のデモクラシーの発展に役立ったことは唯の一度もない。

 むしろ、政治を混乱させる主役が「民主」という名称を使った政党であった、と言えば、読者諸賢も納得がいくだろう。

 これは語源、言霊論の考え方、歴史的集合的無意識論から言えば当然の結果である。

 政権交代した民主党政権が段々狂っていくのは語源論的必然性があると言っておきたい。

 (自由民主党の安倍晋三総理も君主・独裁者気取りで明らかに狂い始めている・・・福島の大惨事をそっちのけで国民の意思に反し、他国に向けて原発のセールスを行っている。あるいはTPPによる売国行為、憲法勝手解釈による戦争国家への邁進など・・・これがキチガイでなくて一体何なのだ!!←永人) 続く

 

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37・菅執行部による姑息な裏工作

 

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菅執行部による姑息な裏工作

その後、管代表となって、合併協議を引き継いだが、議論は進化せず、平成15年5月に協議の打ち切りとなった。

菅代表には、鳩山氏が有していた「思想」の欠落があったからである。

 一方の自由党は、6月に入ってから民主党との合併は行わないと決定し、秋にも予定されている総選挙と、翌年の参議院選挙を自由党独自で戦うべく、候補者擁立などの準備に入った。

 ところが、同年7月中旬、菅代表が、唐突にも自由党との合併話を蒸し返してきたのだ。

これには民主党内部の複雑な抗争が絡み、実は後の民主党の大混迷の原点はここにあるのである。

当時鳩山グループに所属していた合併派の友人から相談を受けたが菅執行部と鳩山グループのとの間に、党の在り方について深刻な意見の対立があったという。合併に消極的な菅執行部を鳩山グループが激しく突き上げ、9月には民主党を離党して、自由党と合流したい、との動きが始まったというのだ。

 これからは私の推測だが、菅代表はこの鳩山グループの動きを察し、機先を制して唐突に小沢自由党に合併協議を申し込んだのではないか。

 菅代表と小沢党首の極秘会談は続き、7月23日深夜、民主党の条件を丸呑みして協議は成立した。

 私は管代表が「党内権力を維持することだけ」を目的にした合併話であることを知っていたから、この話には反対だった。

 しかし小沢党首は、『このまま自公政権が続くと国民生活は崩壊する。日本に与えられた時間はもう少ないのだ』と語り『必ず民主党で政権交代をして見せる』と宣言し、自由党内を合併へとまとめた。

☆☆

小沢氏がそう判断したのは以下の理由からだった

小渕首相が平成12年4月に脳梗塞で倒れた後、自民党の民主政治を冒涜するボス政治家の談合で、憲法違反の森政権が生まれた。このことは参議院議員時代に国会質問で採りあげたが真相究明には至らなかった。

 政権成立の経過から見ても、そしてまた森喜朗本人の資質からも、長く持つはずはなかった。翌年の総予算が成立した直後、自民党はあらゆる国政を犠牲にして森総裁・首相を辞めさせ、総裁選挙を行った。森氏自身が納得してのことだから自民党お得意の“悪知恵”と言える。さすがは自民党である。

 ところが、総裁選で、“勝つはずはない”と当時の自民党主流派が考えていた小泉純一郎氏が勝った。数々の自民党のタブーを破ってのことだった。

仮に橋本龍太郎氏が勝利していたら、自民党政権は2年ぐらいで終わり、政界再編という形で、政権交代が行われていたと私は思う。

 小泉総裁・首相は、自民党を延命させたが、その内実は対米従属政策のマネーゲーム資本主義で、我が国の市場経済社会を米国化した。その結果が地方の救いようのない経済停滞と、国民生活の残酷な格差社会化であった。

 小泉政治の本質は、戦後の復興と経済成長で日本国民が得た富を『市場経済のグローバル化のために改革する』という名目で、米国金融資本主議の傘下に入れることであった。

 悪魔化したマネーゲーム資本主義は、実体経済を世界規模で崩壊させ、悲劇的格差社会をつくった。

 小沢氏はこうした小泉政治の限界を突破するためにも、民主党との無条件合併に踏み切ったのである。 続く

 

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よろず世の中143・福島原発・大うそつきの野田佳彦は国民に釈明すべき

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よろず世の中 143

福島原発収束宣言の野田は

国民に釈明すべきだ!!

 

福島第一原発で、高濃度放射能汚染水を漏れ出させた問題はレベル3と認定された。原発のメルトダウンは起きた時点よりその後のほうが拡散していくそうだから、人間には手に負えないことになる。

 原子力は人間がコントロールできてこそ利用出来るはずなのだが、それでも使用済み廃棄物は処分の方法が全くない。

 それが水ということになれば、自然水に混じっていくのだから、汚染は無限大、無期限に続いていく。

 それを2011年12月に「終息宣言」したのは、総理をやっていた野田佳彦という例の消費税を上げないと言って国民を騙し、大増税を決めた大うそつき人間だ。

 このデタラメ大うそつきの男は今どう考えているのか誰に脅されて収束宣言をしたのか、国民の前に出てきてしっかり説明すべきである。

 それが出来ないのなら、収束宣言後、今まで受け取った議員歳費を全て返納して、直ちに議員を辞職すべきだ!! 要らざるパフオーマンスで福一を爆発させた菅 直人同様極刑にすべき腐れ切った男だ!!

 

 

 

 

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36・民主党と自由党合併の真相と苦難の道

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民主党と自由党合併の真相と苦難の道

 時計の針を半年ほど前の平成14年(2002)11月に戻す。民主党と自由党の合併話を持ち込んできたのは、実は当時の鳩山由紀夫代表であった。鳩山氏と議論らしい議論をしたのは、その時が初めてだった。

 鳩山氏とは衆議院事務局時代には面識はなく、はじめて会ったのは、平成5年(1993)8月に細川連立政権が発足し、武村官房長官の下で官房副長官に就任した時である。参議院議員になっていた私のいる参院の連立与党の会合に鳩山氏が副長官として説明に来た時だった。

 鳩山副長官は私が小沢側近として働いていることを知っていて、丁寧なあいさつをしてくれた。

その時の印象は政治センスのある人物とは感じず、

武村長官の電話番的な地味な政治家という印象であった。

 平成6年(1994)7月、自社さ政権になった時も、鳩山氏には何の印象もない。平成8年(1996)9月第一次民主党が結成されるとき、さきがけ代表の武村氏と決別したことを知るが、その理由は鳩山氏が武村氏の政治理念と行動を批判したことだと知り、驚いた。

 地味な人と思っていたが、やはり鳩山家の政治理念は引き継がれているのかと感じたものだった。

 武村氏が細川政権を崩した中心人物であることを私は身をもって知っており、将来この鳩山と言う人物とともに政治活動をやる時もあるのかと期待した。

 実は私が指導を受けた林 譲治元衆院議長は鳩山一郎氏(由紀夫・邦夫氏の祖父)の書生、秘書官、政友会衆議院議員として弟子であり、当時の話をさんざん聞かされていたので親近感はあった。

 さて時計の針を民由合併を持ち込まれた時点へ進めると、この案件はまず、松野頼三氏に口説かれた鳩山氏が非公式に小沢氏に会って、民由合併で政権交代しようと主張したことに始まる。

 この提案に対して小沢氏は『本気なら、自分がすべて犠牲となって事を進めてもよい(自由党を解党して、役員、政策すべて民主党のままで合併しても良い)。ただし、合併するについては、少なくとも民主党は役員会の了解を得て話を持ってくるよう』と回答。

 ところが鳩山氏は民主党代表に選ばれた直後に、中野寛政氏を幹事長にしたことで、党内から批判を受けていた時期であり、役員会の了承は取れる自信がなかったのだろう。

 前日の11月29日に、鳩山氏は独断で民由合併を記者会見、その足で自由党本部に小沢党首を訪ね、合併を提案したのである。

 小沢氏は驚き、『せめて三役ぐらいには了承を取ってくれ』として、週明けの30日に再度話し合いを持つことを約した。

すると当日早朝鳩山氏から私に電話があり、

民主党の役員会で小沢氏が非公式会談で言った話(自由党解党、役員、政策すべて民主党のままでの合併論)をそのまま報告したいがよろしいか』との話。

 それまでろくに話もしたことのない私にこんな重大な話をするとは、正直私は驚いた。

それは私にする話ではない。小沢氏本人に了解を取るべき話だ」と私が返すと

本人に言えないので、あなたの意見に従う』 

私は、「非公式の話を丸々全部するものではない。“あらゆる努力をする”程度にしたらどうか」と答えておいた。

 このことでもわかるように、政治の場における言葉の使い方、責任の所在などについて鳩山氏は政治家としての自覚が薄いようだ。

 鳩山氏の合併の提案には、「国家と国民のため」

と言う最高の思想があると自由党の小沢党首はその心意気に感じ、無条件で了承したのだが、鳩山氏は肝心の民主党内をまとめることに失敗。鳩山代表辞任の引き金となった。後継は管代表となった。 続く

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35・第三章政権交代と小沢一郎排除から謀殺へ

 

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第三章・政権交代と小沢一郎排除から謀殺へ

民由合併

一瞬、小沢一郎への「撃ち方止め」となったわけ

 

戦後初の細川非自民政権が出来たのもつかの間、自社さ政権で振り子が元に戻って10年余、ようやく政治が再び動き始め、小沢一郎氏に対する「扱い」も明らかに変わりつつあった。

それまでは前章でも述べたように小沢氏には反感、反発と排除の動きがある一方で、小沢氏への評価もあり、それぞれがボルテージを上げていくプロセスであった。そしてマスコミも世論もどちらかと言うと小沢氏に期待感を寄せていた。

 しかし平成21年{2009}8月の政権交代をもって様変わりする。小沢氏への反感・反発・排除の動きのほうが評価を圧倒し始め、マスコミと世論もそちらのほうへ傾いていくのである。

 ただし政権交代でいきなりそうなったのではない。政権交代が確実視される準備段階からそれは始まった。その「分水嶺」なったのは平成15年(2003)9月の「民由合併」すなわち小沢自由党の民主党への合流である。

 実はこの合流からしばらくは、小沢排除の動きが一瞬静まり、小沢氏への期待が高まる気配があった。

 今から考えるとそれは「嵐の前の静けさ」ならぬ

「排除の前の一服」であった、なぜそんなことが起きたのか。

前章末で紹介したノンフイクション作家の保坂正康氏と冨森朝日新聞編集局長との対談「55年体制を終焉に導いた男』の続きにヒントが隠されている。

 実は冨森氏は「中曽根さんには限界があった。小沢さんは『日本の政治の根本を変えるには、55年体制を壊さなきゃいけない。中選挙区をなくさなきゃいけない』と考えた。中曽根康弘と小沢一郎の違いはそこだ」と小沢氏を高く評価した後、こう付け加えているのである。

「今小沢さんは民主党にいてパッとしません。彼は人への包容力に欠けるところがある。天は二物を与えずということでしょうか。先を見る力は非常に優れているんですが、とても惜しい気がします」

 後段の人格評価については大いに異論はあるが,それはさて置き、『民主党にいてパットしない』という評価に注目してほしい。これぞ私の見るところ,

『民由合併後』の大方の小沢評価であり、それまで執拗に小沢氏を叩いてきた反小沢派の気分でもあったと思われる。

前章で詳述したように小沢一郎氏は自民党を出ざるを得なくなって非自民細川政権を作りあげて自社55年体制を壊した。

 その後新進党を経て、自由党を結成すると、今度は自民党と連立を組んで「政権の中からさらなる改革」を進めようとした。それゆえ昔の同僚からは警戒心をもたれ、結局排除されて、連立離脱を余儀なくされた。

その後はしばらく少数政党のままで再起を狙う不気味な存在であったが、平成15年(2003)9月民主党へ合流、それも自由党の名を捨てである。

 小沢氏を悪魔と呼んで忌み嫌い、「排除」しようとした野中広務氏ら仇敵は「小沢は尾花を打ち枯らして民主党に泣きつき拾ってもらった。もうこれで小沢は終わった」と映り、一安心したのであろう。

そこで一瞬「撃ち方止め」となったのだがそれは彼らのとんだ早とちりであった。 続く

 

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34・小沢氏を正しく評するマスコミもあった

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小沢氏へのマスコミの正しい評価もあった・2

 なかなか的を射た小沢一郎論なので以下にポイントとなる個所を要約して掲げる。一部引用して利用する。

保坂   戦後政治の変革として自社による55年体制の終焉期ですが、自民党が政権を失っていく原因の一つとして、小沢さんたちが自民党を出ていくということがある。それと田中角栄的な発想の政治家と言うのは相関関係があるんですか。

 冨森  小沢さんは田中さんの最も薫陶を受けた政治家です。だが、当の小沢さんは日本の政治というものを極めて冷静に見る目をもっていた。

小沢さんの優れているところは、『この田中的政治手法で土建国家体制(談合政治の意味)を続けていたら日本は必ず行き詰る。これを変えなければいけない』と考えた点です。

 そのためには派閥中心の中選挙区制から小選挙区制に改めることで自民党再編を考えた。政・官・財の三角同盟、つまり利益誘導型政治の温床である中選挙区制をまず変える。経済政策では規制緩和をやる。

 同時に行政改革を進め、国家としての構造改革を断行し、日本を変えていくという筋道を小沢さんは考える。彼の先見性には大変なものがある。小沢さんは土建政治にどっぷりつかって儲けようという発想はなかった。

 保坂  8派連合による細川内閣の成立で、55年体制が終わるわけですが、やはり主役は小沢さんだったんですか。

 冨森  小沢さんがいなかったら絶対に細川内閣は

成立しなかった。平成5年当時宮沢首相に政治改革、小選挙区制の導入を迫った。宮沢さんは梶山幹事長を筆頭とする反対勢力を抑えることが出来ない。小沢さんたちが宮沢内閣不信任案に同調した。

 

羽田さんは「今の55年体制では自民党の将来はないぞ」と小沢さんに同調し、当時の自民党の多くの若手が共鳴して離党する。選挙で自民党が過半数を割ると、小沢さんは非自民8会派の説得に動いた。皆がどうしてよいか分からないときに小沢さんがまとめ上げた。

 

非凡な手腕です。1980年代中曽根首相は55年体制が行き詰っていることが分かり、改革の必要性を感じていた。それは55年体制を温存、維持しながら改革していく体制内改革だった。40

 

JR・NTT・JTなどの民営化路線だ。もっと先へ進んで行政改革、税財政改革、規制緩和など必要だったが、中曽根さんには限界があった。竹下首相が消費税を導入して税制改革の一部を実行した。

 

小沢さんはこの動きを観察していた。「これではまだ不十分だ。日本の政治の根本を変えるには55年体制を壊さなきゃいけない。中選挙区をなくさなきゃいけない」と考えた。

中曽根康弘と小沢一郎の違いはそこだ。

 

いまや小沢たたきの急先鋒である朝日新聞の編集トップが

このような小沢評価をすることに、多くの読者は奇異を感じるだろう。

 しかし、実はこの時期国民の中には『自社55年体制』をリストラしてくれる、小沢氏の政治への先見性と非凡な手腕に期待する声が多くあった。

 そうした世論を背景に、冨森氏のような真っ当な『小沢論』は決して珍しくなかったのである。だからこそ、これまで述べてきたように、旧体制に安住していた政治家の多くは『55年体制を壊した小沢一郎』に対して執拗に「破壊工作」を仕掛けてきたのである。 続く

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33・自自公離脱への真相

 

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自自公離脱への真相

 

この亀裂修復の動きの最中、不測の事態が起きる。

小渕首相が脳梗塞で入院、不帰の人となり、日本憲政史上の恥辱ともいうべき密室で総裁選びが行われ、森喜朗氏が第85代内閣総理大臣となる。

その騒動の中、自由党国会議員のうち、25名が離党して保守党を結成、扇 千景参院議員が党首となり、森喜朗自公保連立内閣に参加して行くのである。

 

そもそも扇 千景氏、中西啓介氏、二階俊博氏、野田 毅氏らは前年秋以降、自自公連立維持派で、野中ら自民党の幹部と小沢党首からの離反工作を画策していた人たちであった。

 一方小沢一郎氏とその同志たちは自由党に残って連立から離脱、勇気ある孤立を選ぶのであるが、私たちが困惑したのは、「小渕首相を病気に追い込んだのは小沢一郎だ」とマスコミを総動員した小沢たたきのキャンペーンであった。

 同年6月25日に第42回衆院選挙が行われたが、支持率1割を切る森内閣の不人気をそのまま反映して自民党は38議席減の惨敗。それに対してわが党は22人の当選者を出し、比例区で658万9490票を獲得、片や保守党は7人しか当選者を出せなかった。

 自民党は公明党保守党との連立で森政権を続けることになる、そして平成13年(2001)4月、自民総裁選で伏兵の小泉純一郎氏が首相に選ばれるや、自民は7月の参院選で大勝。ここで政界再編の流れは完全にストップ。次なる展望は全く見えなくなった。

ここでいったん話に区切りをつけるが、小沢一郎氏が、

政治改革の旗を大きく掲げて自民党を離党して僅か20年の間にこれほどの激動があったとはいまさらながらに驚かされる。

 われながら、小沢一郎氏とその同僚たちは激流に流されずによくぞ生き延びたと感慨ひとしおである。

☆☆

世論とメディアからの高い評価

(55年体制を終わらせたのは小沢一郎)

 さて小沢氏と私に仕掛けられた謀殺工作は、それこそ浜の真砂ほど種は尽きないのだが紙面の制約でこの辺にしておく。本章は「自自公連立の解消と自由党への分断工作」までとし、その先の出来事は次章に譲ることにする。

なぜならば、平成15年(2003)民主党と自由党の合併を受けて、歴史的な政権交代に弾みがつき、ここから小沢一郎氏に対する排除の風圧もレベルを大きく上げるからである。

 話が一区切りついたところで強調しておきたいのは従来の小沢一郎観にとらわれることなく小沢氏の動きを見てほしいということである。

 これまでは小沢氏は「豪腕」「悪党」「壊し屋」として報じられてきた。確かに物語としてはわかりやすい。

 しかし。実態は、これまで事実をもって、縷々(るる)述べてきたように、仕掛けられたのは小沢氏であり、小沢氏はそれに対して「防御行動」に出ただけである。

 姑息で卑劣な工作は小沢氏の得意技のような報道ばかりがされ、逆に卑劣な様々な工作が仕掛けられてきたことは一切報道しない。

 これまで紹介したのはほんの一例である。これで小沢氏がいかに理不尽な攻撃を受けてきたかがおわかりいただけるだろう。

小沢氏へのマスコミの正しい評価があった・1

そのうえで、最後に身内以外からの例証を付け加えて本章のまとめとしたい。小沢側近の私が言うだけでは所栓、身内の欲目ではないかと思われ説得力がないかも知れないと思うからだ。

 小沢一郎氏と私たちに対しては、改革者として評価が高まる一方で、守旧派からは反感が高まるという相克の構図で推移してきた。さらに言えばこの評価と反感の相克は政治の内輪でのことであり、一般国民の間では小沢氏への評価は極めて高かった。

またマスコミも現在とは違って、むしろ小沢氏を改革派として評価し、さらにその後を期待していた。読者諸賢もそして多くの国民も、そのことを忘れているかも知れないので証拠物件を示そう。

それは平成17年(2005)に朝日新聞社から刊行された

「昭和―戦争と天皇と三島由紀夫」の一章「戦後日本を動かした政治家たち」に収録されている、保坂正康氏(ノンフイクション作家)と冨森元朝日新聞編集局長との対談「55年体制を終焉に導いた男」がそれである。 続く

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