日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
たけしの金言集・酒にまつわるお父様、北野菊次郎さまの思い出
たけしの金言集
付け人歴7年 アル北郷
酒にまつわるお父様・北野菊次郎さんの思い出
先日打ち合わせの席にて“最近のコマーシャル”といった話題で殿(ビートたけし)と盛り上がっていると、「昔はプロレス中継なんか見てると、試合の合間に必ず三菱の掃除機がリングを掃除しに出てきてたよ。
リングを掃除するのを見せられたんだよな。さっきまで試合してたリングなんだから大して汚れてねーよな。あれはいったいなんだったんだよ」と国中が熱狂し、力道山が活躍していた。
“プロレスなつかし映像”でわたくしも、たびたび見たことのある、昔の宣伝風景の話をされていました。
たけしはその後プロレスといったワードが呼び水になったのか、プロレスといえば、といった感じで、
「昔、うちのおやじがよ、プロレスの券を貰って観に行くことになったんだけどよ。興奮しちゃって前の日から酒飲んじゃって、試合の日なんて夜から試合があるのに昼過ぎには会場に行っちゃってよ。
やっぱり興奮して酒飲んじゃって、それで駐車場で、いつも試合で殴りあっている力道山とデストロイヤーが仲良くキャッチボールしてるとこ見て落ち込んじゃって。
また酒飲んじゃって、試合前には潰れちゃってよ。結局ほとんど試合観ないで寝て帰ってきたんだから、何しに行ったんだかさっぱりわかんねーよ」と嬉しそうにお父様の思い出を語っていました。
そこで今回はたびたび殿から聞かされたことのあるお父様・北野菊次郎さんについて書かせていただきます。 続く
山口組との関係も雪解けへ
山口組との関係も雪解けへ
この間、2001(平成13)年には二率会解散による縄張り分割で、住吉会は稲川会と対立。抗争状態となり、住吉会最高幹部が斎場で射殺される事件が発生。その報復として前橋スナック乱射事件を引き起こすなど、住吉会の激しい戦闘性を知らしめた。
この戦闘性は近年、日本最大のヤクザ組織、山口組に向けられていく。
2003(平成15)年には住吉会、住吉一家親和会系と五代目山口組弘道会系との間に「北関東抗争」が勃発、7県にまたがり、抗争事件が続発し、死傷者7名を出す。
また2007(平成19)年には司忍六代目体制となった山口組との間にも戦火を交えた。同年2月には西麻布の住吉会住吉一家小林会系幹部が射殺されたことを契機に、「新東京戦争」が発生したのだ。後に射殺犯として、山口組五代目國粹会系幹部が逮捕され、抗争の背景には縄張り問題があったとされている。3日後に和解が成立するが、首都圏に厳戒態勢が敷かれるなど、都内に緊張が走った。
また同年3月には、住吉会住吉一家西海家系と山口組二代目宅見組系との間に。「仙台抗争」が勃発、死者こそ出なかったが、杜の都を震撼させたのだった。
さらに2008(平成20)年には住吉会住吉一家伊勢野会幹部が山口組二代目小西一家系関係者を刺殺したことを契機に「埼玉抗争」が発生している。
和解までの三日間で両組織で1名ずつ死者を出している。
その後両組織は再び埼玉で激突し、「第二次埼玉抗争」とも呼ぶべき事態へ発展したのだ。
この「第二次埼玉抗争」では数か月にわたって双方で和解に至らず、仲裁役の関東の組織と住吉会との間でも緊迫するなど、住吉会と山口組の対立が関東ヤクザ社会に暗い影を落としていた。
しかし、2011年4月の山口組・司忍六代目の出所を機に、両組織の関係は雪解けへと向かう。
同月に山口組最高幹部が住吉会の西口総裁のもとを訪問、これは住吉会の西口総裁が個人として出所祝いの品を届けたことへの返礼とみられたが、これを機に関係改善の動きが表面化。
同年5月には福田晴瞭会長が山口組総本部を訪れる。その翌日には、山口組最高幹部が住吉会本部を訪ね、住吉会最高幹部に歓待されたのだった。
そして冒頭の章でも記したように、関東二十日会の解散を機に新たに設置された親睦団体には、住吉会とともに山口組も参加している。初会合の出席者でもある関功新会長は、この新たな秩序樹立の瞬間に立ち会った者として、住吉会を山口組をも含めた他組織との平和共存へと突き動かしていくのではないだろうか。 終わり
第一次頂上作戦
第一次頂上作戦
その後1962(昭和37)年に阿部三代目は住吉一家総長の座を退き、磧上義光四代目に跡目を譲る。
「港会」は1964(昭和39)年「住吉会」と改称し、磧上四代目が会長に就任。
ところが磧上四代目を『第一次頂上作戦』が襲う。
当局が「広域暴力団」に指定した10団体のトップを切って磧上四代目が逮捕されたのだ。
そして「住吉会」は解散を余儀なくされる。さらに1967(昭和42)年には磧上四代目が病死。その遺志により後を継いだのが堀 政夫五代目である。
その堀五代目が再び『住吉連合』を結成し。旧勢力を結集させただけでなく、北関東から東北の名門一家が住吉連合に加入していく。
これは武力による併合ではなく、堀五代目の侠気に惚れ込んでのことだったという。そして1982(昭和57)年に「住吉連合会」と改称。
堀五代目が会長に就任したころには、山口組に次ぐ全国2番目の勢力となっていた。
しかし翌1983年には再び血が流れる。
住吉連合幸平一家系と
極東組関口・三浦連合会(当時)との間に
「池袋抗争」が勃発するのだ。
この抗争では住吉側の放った銃弾の流れ弾で民間人が負傷。両組織間で和解が成立したが、堀五代目は関東二十日会のルールにのっとり、事件の関係者を厳しく処分したのだ。
1988年には堀五代目は組織改革に着手。自ら住吉連合会総裁となる。1990(平成2)年に住吉会は西口茂男会長体制を確立すると、同年に堀五代目は死去。
翌1991(平成3)年に西口会長が住吉一家六代目を継承すると、同時に住吉連合会を『住吉会』に改称したのだ。
1998(平成10)年には、西口六代目の指名で、住吉会・住吉一家・小林会二代目、福田晴瞭会長が住吉会会長となる。西口六代目は住吉一家総長として福田会長を見守り、2002(平成14)年に総裁となる。
2005(平成17)年には福田会長が住吉一家七代目を継承した。続く
住吉会・関東進出を強める山口組との激闘史
住吉会・関東進出を強める山口組との激闘史
北関東抗争・新東京戦争・埼玉抗争・・・
(アサヒ芸能5・1特大号)
都会派として知られる住吉会。それは東京に本拠を置くからだけではなく組員らのスマートな立ち居振る舞いのためでもあろう。しかし、『縄張り』を死守するためなら、ヤクザとしての本領を発揮する。
近年では関東進出を強める山口組とたびたび激突するなど、その歴史は多くの『激闘』に彩られているのだ。
*
歴代会長
初代・・・伊東松五郎(1846年生まれ)
2代・・・倉持直吉
3代・・・阿部重作
4代・・・磧上義光
5代・・・堀 政夫
6代・・・西口茂男
7代・・・福田瞭晴
8代・・・関 功
**
住吉会の中核を成す住吉一家は伊東松五郎親分を初代としている。伊東初代は1846年の生まれであるから、住吉会の伝統は1世紀を超えて受け継がれていることになる。
大正期に住吉一家は倉持直吉二代目に継がれる。その後約30年にわたって倉持親分が当代の座にあっ
たが、戦時下に跡目擁立もままならなかった。
戦後1948(昭和23)年住吉一家は阿部重作が三代目を引き継ぐことになる。
戦後の住吉一家を語るうえで欠かせないのが、
『銀座警察』だろう。弱体化した警察に代わり、
浦上信之親分の率いる浦上一派が銀座の飲食店や社交場の用心棒を務めたのだ。
このように阿部三代目の元には終戦直後から、博打一辺倒ではない現代的ヤクザが育っていたのである。
しかし1956(昭和31)年に住吉一家を揺るがす事件が起きる、『浅草妙清寺事件』である。住吉一家大日本興業系幹部の葬儀の席で銃撃戦が発生。これにより住吉一家の将来を担うはずだった向後平幹部と高橋輝男幹部が死亡したのだ。
この事件を契機に阿部重作三代目は友諠団体との団結を図るべく。1958(昭和33)年に「港会」を結成する。現在の住吉会に所属する老舗一家が結集したのである。 続く
2-2 堅気には柔和な一面
住吉会関新会長の極道信条
2-2
堅気には柔和な一面
そして05年4月福田会長が住吉一家七代目を継承した際に断行された新人事において関新会長は会長代行に就任した。この会長代行というのは新設されたポストであった。
同時に新設された本部長、そして従来からの理事長、幹事長、総本部長、を合わせた四役より、一段高い位置から執行部を見守り、
福田七代目を強力にサポートする役割を担ったのだ。
「和と団結」を信条として、これまで組織に貢献してきた経緯から関新会長を想定して設置された役職であったとも言われた。この間、98年には本拠地の千葉に限らず、東京、埼玉、茨城にまで及ぶ強大な勢力を有する共和六代目という名門を関新会長は継承している。
一家内では、若き日の関新会長が堀五代目の足跡を追いかけたように、関新会長の一挙手一投足に注目する有望な若い衆がひしめき合っているという。
関新会長をよく知る関係者からは
「質実剛健で裏表がない」
「柔軟性に富んでいて時代に即した考え方を持っている」
「人の痛みがわかり、他人には親身に接するが、自分には厳しい」
との評判が聞かれた。
一方で関新会長と接したことのある地元のカタギ衆はこう語るのだ。
「自分がまだ新入社員だった頃に、親分に出会ったことがあるんです。自分が仕事で右往左往していることを知ると『今は大変だろうが、続けていればいつか必ずいいことがあるから頑張れよ』と声をかけてくれたんです。その後も顔を合わすたびに励ましの言葉をかけてくれましたね。自分の周囲にも同じような経験をしたことがある人間が多く、本当にやさしい親分だと記憶しています」
ヤクザとカタギの分け隔てなく決して偉ぶることのない人間性、そして時に見せる厳しさも関新会長は
持ち合わせているという。
西口総裁、福田七代目はそうした器量を見抜き、今回の禅譲を決めたのだろう。
厳しい荒波の中にあるヤクザ社会で、関新会長がどんな舵取りで住吉会を牽引していくのか、今後も注目していきたい。・・・この項終わり。
関新会長の極道信条
住吉会・関 功新会長の極道信条
2-1
堀 政夫五代目から受け継いだ「和と団結」!
アサヒ芸能5・1特大号
12000人の関東の巨大軍団を束ねることになった関功新会長。その勢力だけでなく、長きにわたる歴史と堅持してきた伝統をも背負う度量はいかにして形成されていったのか。本誌が新会長の横顔に迫る。
*警察庁の最新データ(13年末時点)によれば住吉会の勢力は12700人(準構成員を含む)六代目山口組に次ぐ規模だが、実にヤクザ世界全体の16・3%を占めることになる。
その巨大組織を束ねる関新会長は1946年に千葉県一の宮町に生まれた。渡世入りは19歳の時で、住吉一家・堀政夫五代目のもとで、部屋住み修業を始めたという。
堀五代目は、住吉一門を現在の大軍団へと拡張させる組織改革と、近代化を断行した功労者だ。
その手腕と人間性は多組織にまで広く知れ渡っている。
関新会長は堀五代目という偉大な親分の背中を間近で見ながら、修行を重ねるという恵まれた環境でヤクザ人生をスタートさせたのである。
日々の厳しい修行により、今に続くヤクザ人生の下地を築いていった関新会長は早くから周囲の期待を一身に受けていた。それもプレッシャーではなく、推進力へと変えてステップアップしていったのだ。
95年には、住吉会の幹事長代行として早くも執行部に名を連ね、若手のホープとして早くも脚光を浴びた。
98年の福田晴瞭会長就任時の執行部改編では渉外委員長に就任。02年には理事長という三役トップの要職を拝命する。そこから3年にわたって、西口茂夫総裁と福田会長を懸命に支えながら、執行部の筆頭を務めたのである。 2-2へ続く
第5回・テキヤと博徒の区別なく・・・・
第5回・テキヤと博徒の区別なく・・・
関東老舗五団体(住吉会、稲川会、松葉会、双愛会、東亜会)そして國粋会を加えた新親睦団体は、これまでの関東二十日会とはやや趣が異なっているという。
関東の広域組織関係者が明かす。「新親睦団体は二十日会の規約を白紙にしたうえで、年4回程度、親睦を深める食事会を開催する予定です。また、関東地方にある一次組織ならば、一団体に限り、参加することができる、というルールを設けている。
國粹会は一時組織ではないが、各会の協議のうえで参加が認められたようだ。それだけ柔軟な運営を行っていく方針で、博徒とテキヤの稼業の区別なく、今後は加盟組織の拡大を図っていくようだ」
正にこの初会合は関東ヤクザ社会における新秩序が樹立された瞬間でもあったのだ。
この時点では住吉会会長代行としての出席だったと思われるが、その席に関新会長が着座していたことは、実に象徴的で、関東ヤクザ社会が、新時代を迎えたことを大いに物語っていたと言えるだろう。
前出・関東の広域組織関係者が言う。
「新親睦団体に、國粹会加入が認められたことからも、住吉会は今後、山口組との関係強化に舵を切るのは間違いないだろう。
その際に組織内に異論が起きても関新会長ならば強力な指導力を発揮して行くことが出来るのではないか。
山口組の藤井若頭補佐と関新会長は以前から個人的な付き合いがあるとも言われており、首都圏から東西平和外交が劇的に進展することが期待されている」
樹立された関東ヤクザ社会の新秩序。
その推移を見守るうえでも、関新会長率いる住吉会の動向からはしばらく目が離せそうにないのだ。終わり
第4回・関東ヤクザは新時代に突入
その4・関東ヤクザは新時代に突入。
この新親睦団体には関東二十日会に加盟していた
住吉会、稲川会、松葉会、双愛会、東亜会に加えて
六代目山口組の加盟も決定していることを本誌は報じた。それは都内に本拠を置く藤井英治若頭補佐率いる五代目國粋会が加盟するという形になることも併せて伝えている。
そして関新会長が姿を見せる20分ほど前には、山口組の藤井若頭補佐が日本料理店に横付けされた車両から降り立ち、店内へと入っていく姿を本誌は確認している。
さらに本誌が確認できただけでも、
稲川会、内堀和也理事長。
松葉会、関 孝司理事長。小池清一幹事長。
双愛会、椎塚 宣理事長。吉井勝明組織委員長。
東亜会、田中 稔理事長。…らが日本料理店へと入っていった。
住吉会を加えた関東老舗5組織の最高幹部に山口組執行部の一員である藤井若頭補佐が一堂に会した会合は、正に「極道サミット」の様相を呈していたのだ。
本誌が待機していた路上からは、内部の様子はうかがえないものの、日本料理店の周囲には遠巻きに捜査員が警戒しているのがわかった。そして午後6時53分に、ふたたび黒塗りの高級車両が店舗前に横付けされ、親分衆が続々と帰途につき始めた。
その中には関新会長の姿もあった。既に日が暮れた後であったが、会合を無事に終えた安堵からか入店時とはいささか表情も柔和に見えたのが印象的だった。29
すべての組織最高幹部が午後7時までに現地を後にし、この日の初会合は極秘裡のうちに、終了したのだった。
関東二十日会は関東の博徒組織の親睦団体であった。その名の通り、毎月20日に各組織のトップが参集する。
代紋を超えた連絡機関であるとともに、綱領や規約を設けることで抗争抑止の機能も兼ね備え、平和共存に大きな役割を果たしてきた。 続く
第3回・新会長が新親睦団体に出席
第3回
新会長が新親睦団体に出席
今回の住吉会「新会長誕生」は、関東ヤクザ社会が激動しているとして早くからささやかれてきた。
すでに昨年末の時点で松葉会の代目継承、親睦団体である関東二十日会の発展的解消とともにヤクザ社会では近い将来に住吉会の代替わりがまことしやかに語られていた。
その後3月10日には関東二十日会の発展的解消が決定し、3月28日に松葉会は「代目継承」は盃儀式を挙行。萩野義朗総裁、伊藤芳将七代目会長体制が発足している。
事前にかたられていた関東ヤクザ社会の激動が現実のものになっていくにつれ、本誌がキャッチした住吉会に関する情報も具体性を帯び始めていた。「関会長代行が新会長に就任する」
「会長職を退いた後の福田会長は新会長を後見する立場となるのでは・・・・」結果的には確度の高い
情報も含まれていた。その一方で、新執行部人事まで決まっているという噂。さらには一連の関東ヤクザ社会で起きている事態を結び付けて語る不穏な情報まで飛び交っていた。
しかし予期せぬ事とはいえ、不穏な情報が飛び出すほど、関東ヤクザ社会では同時期に様々な出来事が起きたのも事実である。
そして、住吉会において「新会長誕生」が発表される2日前にも、関東に本拠を置く組織にとって特別な意味を持つ会合が開かれた。そこに関新会長の姿もあったのだ。
4月16日夕刻、本誌取材班は、東京を代表する繁華街、港区六本木の一角にいた。午後4時40分ごろ、付近の路上に黒塗りのワンボックスカーが停車した。その車から降りたったのは、関新会長だった。手にしていたスーツの上着を颯爽と身に着け、そのまま、日本料理店へと入っていったのだった。
その日本料理店で開かれた会合というのが、新たに発足した親睦団体の初会合だった。本誌既報の通り、この親睦団体というのが40年以上にわたって、関東ヤクザ組織の平和共存に大きな役割を果たしてきた「関東二十日会」の後継組織なのである。 第4回へ続く
第2回・関会長誕生の内幕
第2回・関 会長誕生までの内幕
それに福田七代目の住吉会会長就任時も当時の西口茂男住吉一家六代目は、会長職だけを福田七代目に先に譲っている。今回もそれと同じスタイルを踏襲したとも考えられる。
同時に住吉会が大幅な組織改革を断行していることも判明。これまでは、住吉会の大半の傘下組織を収めてきた住吉一家だったが、今後は傘下組織がそれぞれの一家名を名乗ることになる。たとえば福田七代目の出身母体はこれまで
『住吉会住吉一家小林会』と呼称されてきたが、
これからは
『住吉会小林会』となる。
住吉会全体がシンプルな統治機構へと変革されたとも言えるのだ。
しかし住吉一家は住吉会という大河の最初の一滴としても認知されている。住吉一家がなければ住吉会が存在しないと言っても過言ではない。
その歴史的経緯は後章に詳しく記すが、住吉一家が実質的にも住吉会の中枢を占めてきたことは、ゆるぎない事実でもある。
それ故に今後も住吉一家は他の住吉会参加組織と並列な関係ではないとみられて居るのだ。
社会部記者はこう話す。「捜査当局は関新会長誕生とともに、福田七代目が住吉一家の当代として住吉会に残ったことも注目しています。その見立てでは、西口総裁と同様に一段高いところから、住吉会全体を見渡す役割を担っていくのではないかというのです。つまり西口総裁と関新会長の間のポジションに福田七代目が位置するという見立てです。
現在のところは、福田七代目の住吉会における役職が発表された形跡はないが、一説には『副総裁』という役職に就任するのでは、との情報も出ています」
いずれにしても「西口総裁―福田七代目―関新会長」というホットラインが盤石なことを意味している。そして、長きにわたる住吉会の歩みは止まることなく、大きな一歩を踏み出したことも間違いない。
また本誌が確認した限りでは。今回の新会長誕生に伴う住吉会執行部等の新人事は『幹部会』では発表されていない模様だ。
その一方では、5月上旬までには執行部人事が発表されるとの情報も浮上している。今後も住吉会から新たなサプライズが発信される可能性があるのだ。 第3回へ続く。
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