日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
田中角栄心を打つ話・ある女優の決意2-1
田中角栄心を打つ話
②
ある女優の『決意』
2-1
『すまん、私は知らなかった。知ってなくちゃいけないね。今すぐ返事をしたいが少し待ってほしい。必ず返事をする』
*
女優宮城まり子が障害を持つ子供たちの養護施設『ねむの木学園』を設立したのは、1968年のことである。
今でこそ広く認められている障害を持つ子の『教育を受ける権利』だが、当時はまだ学習環境の整備が進んでおらず、たとえ本人や、保護者が学校教育を受けることを希望しても障害を持つ子の入学は認められないという実態があった。
その状況に対し、「知恵が遅れている子も教育を受けるのが本当である」と考えた宮城は、厚生省の認可を取り付け、12人の子供達で『ねむの木学園』をスタートさせたのであ
る。
しかし徒手空拳で始めた学園運営は数年後、すぐ壁に行き当たった。
当時日本の養護施設で教育を受ける予算が付けられていたのは、小・中学校の年齢の子供までであって、高校進学のための費用は認められていなかったのである。
この儘では中学を卒業する年齢になった子供たちが路頭に迷ってしまう。悩んだ末、意を決した宮城は官邸に直接、電話をした。時は1972年9月。総理大臣は就任後間もない田中角栄である。
『宮城まり子です。総理大臣にお会いしてお話ししたいことがあるのですが・・・』1950年代から60年代にかけ紅白歌合戦にも8度出場した宮城が電話をかけてきたことに驚いた秘書官は、こう応対した。
「今から30分後、官邸にいらしてください。ただ時間は取れません。10分ほどです」
宮城はすぐ官邸に駆けつけ、部屋に入ってきた角栄に切々と語った。
「田中さん。あなたは総理大臣ですから何でも知らなくてはなりません」
『どんなことかね』
「日本では両親がいなかったり、貧しくて生活出来ない子の面倒を見ているところを擁護施設と言います。そこには素晴らしい頭脳を持った子もいます」せっかちな角栄だが黙って話を聞いている。続く
塚本幼稚園児大運動会の宣誓
塚本幼稚園・秋の大運動会宣誓
2016年9月
[ 宣誓
あつい あつい夏が過ぎてぼくたちわたしたちの待ちに待った平成27年度秋の大運動会がきました。
先生とお友達と、一緒になって、おけいこをした、おゆうぎ、音楽、体育,かけっこなど今日一日頑張ります。
おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさんの前で褒めていただけるよう、全力をつくします。
大人の人たちは、日本が他の国に負けぬよう、尖閣列島・竹島・北方領土を守り、日本を悪者として扱っている中国や韓国が心改め、歴史で嘘を教えないようお願い致します。
安倍首相・ガンバレ! 安倍首相ガンバレ!
安保法制国会通過よかったです!
僕たち私たちも今日一日パワーを全開します。
日本ガンバレ! えいえいおー!]
***
これは児童の政治活動禁止事項に該当する教育基本法違反に問われることのようです。
安倍晋三は幼稚園児から励まされて大感激し、9億円の国有財産を(入札にかければ50億円とも言われる)たったの200万円で売り渡したようだ。
安倍官邸・麻生財務相・石井国土交通相・近畿財務局長の絡んだ完全な汚職事件であり、
日本の誇る検察庁はこれでも素知らぬ顔。
大新聞は官房機密費を受け取り、安倍晋三に御馳走と小遣いで手なずけられ、全く記事にもしない。
ああ・・・美しい日本の姿ここにあり!
秘書の早坂茂三が泣いた日2-2
汚職犯罪者・甘利 明を
総理の権限で守る悪徳の安倍晋三を追放しよう!!
田中角栄心を打つ話
第一章『情』
①
秘書・早坂茂三が泣いた日
2-2
「早坂さんが赤坂に事務所を開いたことは知っておられました。角さんもご存じだということですよ」
『そうか、それは良かった』
ホッとした表情を見せた早坂に対し、山本はこう続けた。
「幸子さんから聞いた話ですが、早坂さんが事務所を開いたと知った時、角さんは涙を流してこう言ったそうですよ。“あいつもかわいそうな奴だ・・・”と」それを聞いた早坂はしばらく言葉に詰まり、やがて顔を両手で覆った。
そして椅子から立ち上がると大きな体を震わせて、人目をはばからず、号泣したのである。
出来れば、最後までオヤジに仕えて居たかった。しかしそれはゆるされなかった。田中事務所と袂を分かったのは、そうするよりなかった苦渋の選択だった。
オヤジはそれを分かってくれている――23年間、角栄に伴走した早坂は、その一言だけですべてを理解したのである。早坂はその後も『人間・田中角栄』の生き方、考え方を世に流布する伝道師として活躍した。
1993年角栄が死去した際、講演先の秋田から目白へ駆けつけた早坂であったが、やはり邸内に立ち入ることは拒まれた。
しかし同時代を生きた二人の絆は最後まで切れてはいなかった。
早坂は2004年肺がんのため73歳の生涯を閉じた。
今は「天国のオヤジ」に仕えている。
**
角栄の言葉
学生運動を繰り広げる若者たちがいる。経験が浅くて視野が狭いが真面目に祖国の先行きを考え、心配している。女の尻を追いかけ回す連中より信頼できる。 続く
田中角栄・心を打つ話・第一章・『情』秘書早坂が泣いた日
●安倍晋三小学校の汚職問題を暴いて
悪徳・安倍晋三を追放しよう!!
田中角栄・心を打つ話
第一章・情
①
秘書・早坂茂三が泣いた日
田中角栄の政策秘書を務めた早坂茂三(2004年死去)は『東京タイムズ』記者から政界に転じ、およそ23年間にわたり、田中事務所のスポークスマンとして活躍した人物である。
世に伝えられる田中角栄像は、側近中の側近であった早坂によって形作られたものが多い。早坂は有能な政治家秘書であると同時に、新聞記者ならではの『人間観察力』を持ち合わせていた「オヤジの語り部」でもあった。
1985年、田中角栄が脳こうそくで倒れると、治療方針を巡り、長女真紀子と対立した早坂は、『越山会の女王』と呼ばれた佐藤昭子と共に田中事務所を解雇され、角栄から遠ざけられた。
金権政治・ロッキード疑惑で批判を浴び続けた田中角栄を支え続けて来た早坂にとってそれは人生最大の蹉跌であったかもしれない。
角栄の死後、早坂は独立、赤坂に事務所を構え、政治評論家としての仕事を開始する。
『角の傘』にまもられていた時代と違い、腕1本で生きていかなければならなくなったわけだが、幸い、角栄関連の評伝、エッセイは評判を呼び、早坂は売れっ子の作家となった。
そんなある日のこと、早坂のもとへ旧知の報道写真家、山本皓一がやってきた。
80年代の田中角栄に密着し、1985年には『田中角栄全記録』(集英社)という写真集を上梓している山本氏はすでに早坂と昵懇の間柄である。
山本は早坂にこう言った。「先日新潟を取材してきました。角栄さんの妹さんの幸子さんにもお会いしてお話を伺うことが出来ました」
「オヤジ」から遠ざけられて時間が経っていた早坂は、身を乗り出すようにこう聞いた
『幸子さんとはどんな話を?』 続く
田中角栄の基礎知識20・田中真紀子
田中角栄の基礎知識
20最終回
田中真紀子
*
アンビバレントな父への感情
「田中家」の遺伝子はどこへ
2012年の総選挙で落選以降、「“老婆の休日”をたのしみたい」というコメントとともに表舞台から消えた田中真紀子。
2016年の参院選について、夫・直紀については出馬する方向で調整がつづけられているが、「真紀子立つ」の気配は感じられない。
政界入りをかんがえたこともなかったという真紀子だが父の地盤を継いで衆院選に出馬、初当選したのは1993年のこと。以来、父親譲りキャラクターで人気を博したが、政治家としてはこれと言った実績を残したとは言い難い。
1989年に角栄が政界引退を発表したとき、田中家は後継者を出さない方針を決めたはずだった。
しかし、越山会の要請も有って3年後に政界入りを決意した。
幼少時代から有名人である父に『じゃじゃ馬』『マコスケ』と大声で呼ばれる生活を送り、真紀子は「父と一緒にいることは苦手だった」と語っている。
「田中角栄という人は、神経を弛緩させる術を知らないで育ったらしく、何事にも全身全霊で取り組んでくる。常に真正面から息継ぐ間もなく矢継早に剛速球を投げて来るので相手をする方はたまったものではない」(『私の中の田中角栄』海竜社)
家族ならではの述懐だがそれでも角栄から、最大の愛情を受け、結果的に父と同じ道を進んだ真紀子は今、亡き父とほぼ同じ年齢にさしかかっている。政治に生きがいを見つけ、名を成し、地獄にも落とされた角栄の人生は家族の目にはどのように映っていたのだろうか。
例え田中家のDNAが政界から消える日がやってきたとしても、角栄の記憶と生き様は国民の中に残り、生き続けている。
角栄が残した遺産はすでに田中家だけのものではなく、国民全体の財産なのである。
田中角栄の基礎知識 終わり。
田中角栄の基礎知識19小佐野賢治
田中角栄の基礎知識
20-19
小佐野賢治
ロッキード事件で注目された『刎頚の友』の知られざる正体。
*
小佐野賢治は昭和の時代に生きた実業家、政商である。あのロッキード事件では証人喚問され『記憶にございません』となんども答弁し、有名になった。
小佐野はメディアに「角栄の刎頚の友」と書かれ、裏仕事を辞さない黒幕としてのイメージが定着したが、実際のところ、角栄との関係がそこまで深かったと証言する側近は皆無だった(早坂茂三によれば、角栄の刎頚の友と言えるのは、まだ10代のころからともに肉体労働に従事した入内島金一のみだという)そうで、小佐野との真実の関係ははっきりしていない。
戦後に『国際興業』を設立した小佐野はホテルやバス事業で事業を拡大、1950年角栄が社長を務める長岡鉄道(現・越後交通)のバス部門に食い込み、角栄との親交を深めたとされる。
小佐野は戦後の大物右翼として知られた児玉誉士夫とも友人関係にあり、ロッキード事件では証人喚問された。だが小佐野は何も語らぬまま、1986年に死去している。
1972年のこと、総理を目前にした角栄に対し、秘書の早坂茂三と麓邦明の二人が覚悟の進言をしたことがあった。
「オヤジさん、話があります」
『なんだ、話してみろ』
「小佐野賢治さんと今のうちに手を切ってください。これから総理を目指すという折、福田赳夫は必ずこの部分を狙ってくるでしょう」
角栄は笑い、真顔になった。
『政治にはカネがかかる。池田勇人や佐藤栄作も危ない橋を渡ってきた。
きれいごとでは済まないんだ。必要な金は俺が血の小便を流してでも作る。君らはただそれを仕事にいかしてくれ』
戦後の「黒幕」と呼ばれた男たちとの「友情」とは一体どのようなものだっ
たのか。それは昭和史永遠の謎である。20-20へ続く。
田中角栄の基礎知識18オールド・パー
田中角栄の基礎知識
18
オールド・パー
吉田茂も愛したウイスキー
目白で名物「角栄の酒」
*
新潟出身の角栄は日本酒かと思いきや、政治家になってからはブランデーに傾倒し大蔵大臣に就任した(1962年)ころからは高級ウイスキーの「オールド・パー」を愛飲していた。
今でこそ廉価になったが、当時はかなりの高級品だったオールド・パー。あの吉田茂も愛したウイスキーとして知られ、目白へ夜討ちに行く記者たちの間でも、自腹ではなかなかありつけないこの酒がひそかな楽しみになっていたという。
当初は「ダブルで3杯ていど」だったという酒量だが、晩年にはストレスからどんどん増え、ほとんどストレートで1日ボトル1本、という日もあったという。
とはいえ角栄が長年愛したことで『オールド・パー』は田中派議員の間にも広がり、自民党のパーティ―では必ずこのウイスキーが用意されたというから、その「宣伝効果」は絶大だった。
角栄がこの酒を飲むようになったきっかけとして、孫から『オールド・パパ』と呼ばれるようになり、語感が似ていることからこのウイスキーに決めたという説もある。
かつて田中角栄の息子(母は辻 和子)である京氏は銀座に『アールスコート』というバーを経営していたがそこで圧倒的な人気を誇ったのがオールド・パーだった。
角栄と、角栄の時代を語り、思い出すとき、この酒は良く似合う。19へ続く
田中角栄の基礎知識17炭鉱国管事件
田中角栄の基礎知識17炭鉱国管事件
角栄最初の『逮捕事件』で
政界きっての『拘置所通』に
*
ロッキード事件で逮捕・起訴された田中角栄を見て『元総理がまさか』と衝撃を受けた国民が多かった。だが、角栄が逮捕されたのは初めてではない。戦後の1948年『炭鉱国家管理法』を巡る収賄事件で逮捕されている。
ちなみに、後に角栄のライバルである福田赳夫も、同年『昭和電工事件』における10万円の収賄容疑で逮捕されている。角栄が逮捕された収賄事件は、社会党首班政権の片山内閣が、炭鉱を国家管理にしようと『炭鉱国家管理法』を国会に提出したことから始まった。
だが炭鉱主が反発し、保守系議員に政界工作を依頼。法案は炭鉱主側に好都合な内容で成立したが、1948年にその工作が暴かれ、角栄をはじめ8名の政治家が逮捕された。
直後に衆議院は解散。角栄は獄中から立候補し、何とか当選。裁判では一審で有罪判決を受けたが、二審で逆転無罪判決を勝ち取っている。
ロッキード事件が二度目の逮捕だった角栄。
まれに国会議員が逮捕される事件が起きると、すぐに差し入れを送り、こう語っていたという。
『俺は政界一の拘置所通だからな』18へ続く
田中角栄の基礎知識16ゴルフ政治
田中角栄の基礎知識
16
ゴルフ政治
グリーン上から始まる角栄流『本音の政治』のドラマ
角栄が自民党幹事長となってから始めた趣味にゴルフがある。せっかちな角栄は、いつも猛烈なスピードで、ラウンドを重ね、特にロッキード事件の被告となって以降、ゴルフの回数は格段に増えるようになった。
ゴルフに興味を持った時、角栄は秘書に命じた。「おい、ゴルフの本を“3貫目”買ってこい」言われた通り約10キロほどの重さの本を買ってくると、まず3カ月ほどかけて入門書を読破。
さらに3か月間プロについて室内練習場で特訓。
初めてコースに出る前にはかなりの腕前になった状態で初プレーをいきなり105で回った。角栄はこうつぶやいたという。「100を切れなかったか」
準備からプレーへの慎重なプロセスは、その政治姿勢とも通じるものがある。
目的の一つは健康と減量。1日に2ラウンド、3ラウンドをこなし、自分の決めた数値目標を達成すべく限界まで努力する。
派閥の政治家たちは、角栄に話があると軽井沢に出かけ、そのゴルフに同行した。いわゆる『グリーン会談』である。
1982年の自民党総裁選前には、中川一郎と話し込んだ角栄。その時は無謀な出馬を諌めたが、中川は強行出馬し敗退。「角栄のゴルフ」から生まれたドラマは数知れない。17へ続く
田中角栄の基礎知識15日米繊維交渉
田中角栄の基礎知識
15
日米繊維交渉
『通産大臣』角栄の大仕事
塩漬けの外交問題を解決
1971年、通産大臣に就任した角栄が最初に取り掛かった大仕事と言えるのが、この「日米繊維交渉」である。
1969年当時の米ニクソン政権が繊維製品輸出の自主規制を日本に要請。日本側はそれを拒否したため、アメリカは繊維の輸入割り当てを法制化する構えを見せ、日米間に戦後初の本格的な貿易摩擦問題に発展した。
この問題については角栄よりも2代前の通産大臣であった大平正芳、前任の宮沢喜一も取り組んだが、事態を打開するどころか、政府間交渉が打ち切られるなどこじれにこじれ、日米間に横たわるやっかいな政治問題となっていた。
角栄は通産大臣に就任2か月後に渡米し、米側と交渉。当初は従来通りの強硬な主張を行ったが、米側が、友好国である日本に対し対敵通商法を発動する構えを見せたために方針を転換。
国内の繊維業界の損失を補てんしてでもここではアメリカの要求を受け入れ、この問題をここで終わらせることが、日本にとって最良の選択であると判断したのである。
角栄は自ら佐藤栄作総理に電話し救済融資用の2000億円の予算を強引に分捕ると、
10月にはこの問題に終止符を打った。理想の解決とは言い難かったが、3年越しの政治問題を剛腕で片付けて見せた角栄の実行力に、通産官僚をはじめ、敵方の米国高官も驚嘆したという。
『決断と実行』は角栄のキャッチフレーズであったが、まさにそれを体現してみせた外交であった。16へ続く
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