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美空ひばりの何を知っていた?十三

美空ひばりの何を知っていた?

十三

小林はひばりの入籍を心から希望していた。

 小林は「結婚生活でのひばりは懸命に良き妻を演じようとし、女としては最高だった、と徹子の部屋で述懐している。小林は入籍を希望していたがひばりの母親に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず、戸籍上はひばりは生涯にわたり、独身であった。

仮に小林和枝になっていたとしても総格27画でこの家庭は中途で破綻挫折し、夫妻ともに配偶を失う運気になっていたことは疑う余地がない(永人分析)。

ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、

実母であり、マネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。

またひばり自身も歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた『家庭の妻として傍らにいて欲しい』という願いもかなわなかった。また結婚した翌1963(昭和38)年には父加藤増吉が肺結核のため52歳で亡くなった。

(美空ひばりも後年、52歳で亡くなっているがこれは一種の『享く年にまつわる父娘の同因縁』であると言える👈永人)

二人は別居後の1964年、わずか2年余りの結婚期間で離婚した。ひばり母娘に頼まれた田岡一雄が離婚会見二日前に『お前と一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや』と引導を渡され、これに逆らうことはできなかったと小林は自著で述べて居る。、

記者会見は別々に開かれ、小林 旭の会見には田岡一雄と菱和プロ社長嘉山登一郎が同席した。

小林は「本人同士が話し合わないで分かれるのは心残りだが和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより芸術と結婚した方が幸せになれるのなら、と思って『理解離婚』に踏み切った」と説明した。この『理解離婚』という言葉は当時流行語となった。

未練はいっぱいある。みなさんの前で泣きたいぐらいだ」と離婚は小林旭の本意ではなかった、とも語っている。続く

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美空ひばりの何を知っていた?十二

小林 旭との短い結婚と離婚後

 1962(昭和37)年5月29日小林 旭との婚約を発表した。出逢いはある雑誌が企画した対談の場だった。二人は交際を始めるが、小林はまだ結婚を考えておらず、ひばりが入れあげ、父親代わりであった田岡一雄に、「旭と結婚したい」という自分の意志を小林 旭に伝えてくれるように頼んだ。

 

小林 旭の運気(概略鑑定⇒吉野永人)とは

小林 旭(一)

38 6(1)

天格 小林 11

人格 林旭 14 大凶

地格  旭(1) 7吉

外格  小(1) 4大凶

総格 小林 旭  17吉

 

  • 人格(主運)14画大凶の霊導⇒破兆あり。家族縁薄く、親を失い、子を亡くす。あるいは兄弟姉妹に離れるなど、不如意、煩悶(はんもん)、危難、遭難の意味あり。浮沈極まりなし。その浮沈に憂えて終始す.。

しきりに心を労す。労して功無し。もの事不足がちにて辛酸(しんさん)多く、他運格との配合により、天寿を傷(そこな)うものあり。

  • 外格(副運)4画大凶の霊導⇒破壊の凶相。不具・不全・滅亡の兆象あり。進退の自由を欠き、独立の生力に乏しく、辛苦困難夥(おびただ)し。あるいは発狂、変死、短命などの誘導は他の凶運の配合によりてたちまち生じ、放逸、逆難、逆難を免れず。

これを綜合、概括的に言えば、人生の上に無意義なる存在となる暗示あり。(概略鑑定ここまで)

ひばりの意を汲んだ田岡一雄は、小林 旭に美空ひばりとの結婚を迫り、小林はそれを断れなかったとされる。

同年11月5日に挙式した。喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、

「人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと」で

「人生で一番幸せだったのは娘が小林と離婚したことだ」、と後に公言してはばからなかったほどである。続く

 

 

 

 

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美空ひばりの何を知っていた?十一

美空ひばりの何を知っていた?

(十一)

 1958(昭和33)年・4月1日・山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立し、この副社長に田岡一雄が就任した。

同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。

『ひばり捕り物帳』シリーズや

『べらんめえ芸者』シリーズ

『ひばりの佐渡情話』【1962年】

など東映は1950年代後半から1960年代にかけて、タイトルに「ひばり」を冠した映画を13本製作。

続々ヒット映画にも恵まれた。

1960年から始まったべらんめえ芸者シリーズでは二作目以降、岡田 茂に頼まれ、高倉 健を相手役として迎えた。

 ひばりは東映と専属契約を結んだ1954年から1963年までの10年間、多くの時代劇、チャンバラ映画に出演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に、映画界の銀幕のスタートしての人気を得た。専属機関だった10年間だけで、東映でのひばり出演作は102本に及ぶ。

 ひばりは、「岡田さんは東映時代の恩人岡田さん無くしては、映画俳優としての自分はなかった」と話し、岡田 茂は「美空ひばりは東映の女優の中で会社にとって最も重要な役割を果たした」

『錦之助さんともども、東映の土台を作った偉大なスター』と評している。

今日、ひばりの映画女優としての側面は必ずしも多くの光が当たっているとは言い難いが生涯で150本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演という、戦後を代表する女優であった。

1960年、「哀愁波止場」で第2回レコード大賞歌唱賞を受賞し、「歌謡界の女王」の異名を取るようになった。続く

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美空ひばりの何を知っていた? 十

美空ひばりの何を知っていた?

三人娘の時代

1954年(昭和29年)『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場した。1955年には江利チエミ・雪村いづみとともに東宝映画『じゃんけん娘』に出演したことを契機に『三人娘』として人気を博し親交を深める。

空ひばり(10) 江利チエミ(10) 雪村いづみ(9)

3人とも人格が10・10・9で水性のプラスマイナス

全く性格一致の同質でウマが合う 典型的なパターン。仲が良いはずである。

1956年ジャズバンド、小野満とスイング ・ビーバーズの小野満と婚約したが、その後にこの婚約は破棄となった。

初の那覇公演を沖縄東宝で行い、離島からのファンで那覇港は大混雑し、1週間で5万人を動員した。

1957年1月30日、浅草国際劇場にてショーを見に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ、浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。

現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ、警察に引き渡された。犯人の少女はひばりの熱心なファンだったという。

 この事件をきっかけに、ひばりは田岡にボデイガードを要請し、替わりに興行権を神戸芸能社に委ねる。

その後、歌舞伎座公演に復帰した。奇跡的にひばりの顔には傷は残らなかった。

また紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京28テレビ(現・TBSテレビ)の「オールスター大行進」に出場していたため、出ていなかったNHK紅白歌合戦に3年ぶり出場し、出場2回目にして渡辺はま子、二葉あき子らのベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(結果的に大トリ)を務めあげ〔一説によるとひばり側から、出場の条件にトリを務めることを持ち出し、NHK側がそれを呑んだ、とも言われる〕当時のひばりはすでに芸能界における黄金期を迎えていた。続く

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美空ひばりの何を知っていた?(九)

美空ひばりの何を知っていた?(九)

(九)

 ひばりは1953年『お嬢さん社長』に主演となり、母の喜美枝はそれ以降ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、同調するかのように周囲もそう呼ぶようになった。

1954(昭和29)年7月、正式に契約していなかった松竹から初代中村錦之助と一緒に映画3本で1000万円という破格の条件で東映と映画出演の契約を結ぶ。

契約時に田岡一雄が同席して凄んだという。

この交渉時で17歳の子供ながら気丈なひばりに将来性を予見した岡田 茂(後の東映社長)は、ほぼ一まわり年下のひばりの世話係をしながら歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュールの調整をやりつつひばり作品の量産体制に入った。

中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演。

二人が組んだ時、岡田は「これはいける」とピンときた。

東映のツキはじめは実はここにあった。

 翌年、中村錦之助は東映時代劇の大スターとなった。

この後、新人男優がひばりの相手役となることが大スターへの登竜門のように 言われた。

 

錦之助とひばりは共演後にたちまち恋仲となり、周囲は猛反対した。

 

中村錦之助       美空ひばり

地格・錦之助27大凶  総格・美空ひばり27大凶

この二人は典型的な同類の縁(27画)で結ばれている。

 しかも二人とも自我心が強く、だれが何と言おうと、こうと決めたら梃子(てこ)でも動かない面があり、たとえどう批判されても、どんなに陰口をたたかれても27という数画は我を張り通す、そういう人間性を作るのである。自己中心であまりにも我が強過ぎるのである。

それでも二人は別れようとしないため、田岡一雄は困り果てて、岡田 茂に頼み、岡田が諄々と二人を諭してようやく別れさせた。

 泣く子も黙る田岡一雄・三代目山口組組長には当然の事ながら、姓名画数などの知識はなく、この二人にはホトホト手を焼いたのだと思われる。

なおこの後、中村錦之助萬屋錦之介(完全大吉名)と名を改めた。続く

 

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美空ひばりの何を知っていた?(八)

 

美空ひばりの何を知っていた?

(八)

美空ひばりの運命運気についての簡略鑑定

美空ひばり

98262

天格    美空 17

人格    空ひ 10大凶

地格   ひばり 10大凶

外格   美ばり 17を含む

総格 美空ひばり 27大凶

 

姓名に示された上の数字の表が『今後の彼女の人生の歩みを決める設計図』となるのである。したがって、この設計図通りの人生に、進んでいくはずである。

 

  • 成功運・天格7―人10大凶⇒意外の引き立て、もしくは、父祖の恵沢を受くるも主運の凶兆を免がることなし。
  • 基礎運・人格10-地格10大凶⇒一時的大勢力を発揮することあるも、終局は病気・災厄に斃るること多し。

主運(人格)空ひ 10大凶

前運(地格)ひばり10大凶

  • 10画の霊導。 九の窮数よりも一歩を進めたる凶数なり。万事終わり去って空虚無限、霊闇の境地とす。主運にこの数を有するときは、多くは短命非業に斃(たお)る。

日没して四顧莫莫(しこばくばく)、魔神すべての凶災を振るうの象(かたち)なり。無気力不如意に陥り、功を収めんと欲して障害多く、漸次失敗して家を破り、産を傾け、貧困逆難重ね来り、或いは夫子と別離して孤独を嘆じ、或いは若年にして親を失い、若(も)しくは病弱、遭難、時には刑罰に触るることあり。

或いは不慮の快禍(おうか=後々まで残る悔やまれごと)に罹(かかる)るなど悲運・非業を免れず、中年ほとんど鬼籍に入る。

外格 美ばり⇒17主運のを受けてを含む

17画の霊導。⇒鉄石心、発達運を併有し、意志堅確、万難突破の気力のある点は偉大なる美点なれども、⇒自己の一存で物事を決めようとするため、時に他人と不和、小禍を醸す憂いを含むため、万事に剛情を慎むことが肝要なり。この理を悟らずして堅剛を押し通さんとするときは、自ら厄難を招いて苦しむ。

総格 美空ひばり27大凶

  • 27画の霊導。 自我心強く、批難運と称し、誹謗攻撃を受け、失敗する者多し。中絶半途・中折れの象(かたち)あり。中年ごろまでは、智謀と奮闘と努力とによりて名誉、利益ともに行わるるも、内外不和を醸して発達なりがたく、裏面の陰口、批難を免れず、他の運格との関係で刑罰、遭難、変死孤独に陥る。(永人による簡易鑑定ここまで)

これから先、『美空ひばり』を使う限りにおいて

彼女は(彼女ならず誰でもなのだが、この姓名画数に示現される数画に則った)設計図通りの人生を歩むことになるのである。続く

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美空ひばりの何を知っていた?(七)

ひばりの何を知っていた?

全国的な人気を獲得

1949年1月日劇のレビュー『ラブパレード』(主催。灰田勝彦)で、笠置シヅ子の「セコハン娘」『東京ブギウギ』を歌う少女として映画初出演した。

 

8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアからB面ではあるが、11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』が大ヒット(松竹)。同主題歌も43万枚を売り上げ当時の史上最高記録を作った。国民的な認知度を得たと言える、この時の「シルクハットに燕尾服で歌う」映像は幼少期のひばりを代表する映像として現在も目にする機会が多い。

 

1950年川田晴久とともに第8歩兵大隊2世部隊戦敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに二人の主演で「東京キッドに出演。映画とともに同名の主題歌も前年同様大ヒットとなった。1951年松竹、「あの丘超えて」で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を『お兄ちゃん』と呼ぶようになった。

 

同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。

同年、嵐 寛壽郎主演の松松竹・『鞍馬天狗・角兵獅子』に杉作少年役で出演。以後、これを持ち役とした。

1952年、映画『リンゴ園の少女』の同名主題歌と挿入歌「リンゴ追分」をカップリングしたシングルが当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。

次回「美空ひばり」という芸名がもたらす、運命・運気についての概略鑑定を試みるが、芸名が本名を超えてそれぞれ芸能者の運気を左右するものであることがよくわかる。

とはいえ、加藤和枝の本名も芸名・美空ひばりの悪さを凌(しの)ぐ凶名のものであることを先日のブログで紹介した(2023・9・18投稿⇒美空ひばりの何を知っていたか?第二回)が、参考の意味でもう一度ご覧いただければありがたい。続く

 

 

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美空ひばりの何を知っていた?(六)

美空ひばりの何を知っていた?

(六)

 川田はひばりをそばに置いてかわいがり、またひばりも川田を「アニキ」と呼びよくなついていた。ひばりは川田に大きな影響を受けており、節回しを川田節から学んでいる。

専門家による声紋鑑定でも二人の節回し歌い方が一致する結果が出ている。

 

ひばりは「師匠と言えるのは、父親と川田先生だけ」と後に語っている。

 

川田一座では、当時のスター歌手、笠置シヅ子の歌真似が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。

純粋に「かわいい」とみる層がいた一方、

「子供が大人の恋愛の歌を唄うなんて」という違和感を持つ者も存在した。

詩人で作詞家のサトウ・ハチローは当時のひばりに対し「近頃大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいる様だ」と批判的な論調の記事を書いている(加藤母娘はこの記事を切り抜いて保存し、長い間サトウ・ハチローに敵愾心を持っていたが、後に和解したと言われている)

前年10月喜劇役者伴 淳三郎の劇団・新風ショウに参加し同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。

この時演出していた岡田恵吉に母親が娘の和枝に芸名付けてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。

横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り次々とひばり映画を企画することに成功した。

なお「美空ひばり」の命名者、時期については諸説があるが、神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載文に『美空ひばり』の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前のことであろうと推測される。

こうして後々昭和の大スター・美空ひばりの芸名が世に出て芸能活動がスタートしたのだが、むろん当時はまだまだ世に知られる状況ではなかった。続く

 

 

 

 

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美空ひばりの何を知っていた?(五)

美空ひばりの何を知っていた?

(五)

 そのまま転落すれば全員死亡だったはずだが、運よくバスのバンパーが1本の桜の木に引っかかり止まった。

和枝は左手首を切り、鼻血を流して気絶し、瞳孔が開いて仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。

家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!!」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!!」とその場で言い切った。

(永人所感)

国道32号線という事で思わぬ幸運気が連続して表れた。32という数字は、僥倖多望(ぎょうこうたぼう)という思わぬ幸運が連続する吉祥運気をもたらすのである。

ここで起きた事故での幸運は、

桜の木に引っかかったバンパー、

村に居合わせた医師との出逢い、

救命措置を受けたこと、

などの僥倖が加藤和枝の命を救ったと言える。

 本来この事故で落命瀬戸際の加藤和枝は助かった。かわいい娘を死なせることになりかかって、父親がカッとなり、「歌をやめさせろ!!」と母親に怒鳴った心境はよくわかる。しかし、それを上回る加藤和枝の『歌をやめるなら死ぬ!!』という言葉は嘘偽りのないものだったはずだ。加藤和枝は、事故災害、災難を含め、冷静に覚悟のうえで自ら命を絶つ運気の、第一型絶対的短命運を持った少女だった。

娘の命がけの気迫に父親も折れざるを得なかったのだと思う。(所感終り)

師・川田晴久との出会い

1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた。

 同年5月、まだ無名の存在だった11歳の少女加藤和枝の才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(後の川田晴久)に横浜国際劇場出演へ抜擢された。 続く

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美空ひばりの何を知っていた?(四)

美空ひばりの何を知っていた?

(四)

NHK素人のど自慢

1946年(昭和21年)NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で「りんごの歌」を唄い、加藤母娘は合格を確信したが、その合格の鐘はならなかった。

審査員は「うまいが子供らしくない」

「非教育的だ」

「真っ赤なドレスも良くない」という理由で、悩んだ挙句、「合格にすることはできない」、と告げた。

 

美空和枝は此の年、横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。

翌年の春、横浜市で行われたのど自慢大会終了後、加藤母娘は審査員の古賀政男のもとに駆け付けて母は「どうか娘の歌を聞いてください」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき口笛」を唄った。

古賀はその子供とも思えない歌唱力、度胸、理解力、に感心し、

「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派に出来上がっている」

「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した。

加藤喜美枝の運気概略

5211298

天格   加藤  26

人格   藤喜  33大凶

地格  喜美枝  29に凶を含む

外格   加美枝 22大凶

総格 加藤喜美枝 55の後やっと

基礎運 人3―地9大凶⇒時に大成功者あるも、多くは乱離・困窮・急禍あり。

三才の配置・天6-人3-地9⇒大凶

第一型 絶対的短命運

脳溢血・心臓麻痺・急難・災害・自殺その他すべて急変の死を招き、短命に終わる。(簡易鑑定⇒永人)

 1947年(昭和22年)杉田劇場で井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演してから、この一行と地方巡業するようになる。

高知県に巡業した際、1947年4月28日高知県長岡郡大杉村(現・長岡郡大豊町)の国道32号線で加藤母娘が乗車していたバスが対向して来た前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落した。

そのまま落下すれば穴内川で全員死亡だったはずだが・・・続く

 

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