日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
5・悪夢
5・悪夢
15時35分
(残ったのは)ポールに2人、階段に8人
黒い海が眼下に広がっていた。宮城県南三陸町の防災庁舎。津波が高さ約12メートルの屋上をのみ込んで2分後の午後3時35分。約6メートルあるアンテナポールに町職員が必死にしがみついていた。
「絶対に流されねえぞ」
危機管理課の佐藤智さん(66)は両手でポールを力いっぱい抱きかかえ、ひたすら念じた。足もとには企画課の阿部好伸さん(43)がいた。
少し低い位置にあるボックスのような部分に足をかけ捕まっていた。
最初はもこもことした黒い波の塊が見え、やがて2キロ先荒島がかすんだ。
すぐに家がバキバキと音を立てて流れてきた。
「これ、助からないかも」。阿部さんは怖くなった。
靴に冷たい水が入ってきた。「もう駄目だ」。覚悟した。
高さ15・5メートルの津波は阿部さんのひざ元までせりあがった。その下ではポールを取り囲むようにヘルメット姿の職員や住民ら十数人が、円陣を組んでいた。2人はそれを知らなかった。
コンクリートの土台部分は一段高く、職員らは上下で2重の円陣を組んで支え合った。お年寄りの背中に両手を広げ、流されないよう踏ん張った。
土台にしゃがんで掴まっていた町民税務課の三浦勝美さん(58)は強まる波の勢いに耐えきれず、海に放り出された。未だ2、3人がこらえていたのが目に入った。
屋上では床に両手をついて波を我慢する職員。
「助けてぇ~」と叫びながら流された職員もいた。
ポールにすがった佐藤さんは、海を見ないよう両腕の中に顔をうずめて下を向いた。波が押し寄せた一瞬、フエンスのそばにいた同僚が波に跳ね飛ばされるのが脇の下から見えた。
すぐに真下は黒い海になったー。
押し波が弱くなってきたのは、防災庁舎が完全に呑み込まれてから数分後のことだ。階段にいた職員の顔が次第に海面に出た。
「あれ、息ができる」外階段で波をかぶっていた企画課の及川明課長補佐(58)は、渦を巻きながら水位が下がるのがわかった。
背伸びしたが水面に届かず、1度泥水を飲んだ遠藤健治副町長(72)は「長く息を止めるのは無理だった。水中に没したのは長くて2分ぐらい」と振り返る。
最高水位に達した波が一気に引き締める。息を吸えるようになったがなお苦しい時間は続く。
「たったこれだけ・・・」仲間が消えた。
大きな瓦礫は直撃しなかったが、強烈な水圧で体を痛めつけられた。遠藤副町長は胸元が内出血し、1か月もの間、手すりの痕が残った。及川課長補佐もその後、咳をすると胸のあたりが痛んだ。
佐藤仁町長(69)はあばら骨を骨折。手すりを握っていた右手の甲に、小さな穴が三つ開いていた。
午後3時40分ごろ、水位が下がるとともに、徐々に屋上が姿を表す。
階段に8人、アンテナポールに2人。54人中、残っていたのはたったそれだけだった。
フエンスは無残になぎ倒され、数分前までいた仲間が消えていた。屋上で生き残った10人は、一瞬で変わり果てた光景をすぐに呑み込めなかった。
遠藤副町長は、津波が来る寸前に「みんな背中向けろっ!」と言ったきりで誰かが流されるのを見たわけではなかった。「何があったんだ」とぼうぜん自失だった。
及川補佐も錯覚を覚えた。「もしかしたら3階にいたんでなかったか」。
佐藤町長も屋上を見渡して混乱した。
「あれ、これだけしかいなかったか?・・・」心の中でそれぞれが自問を繰り返していた時だった。遠藤副町長が突然切り裂くように叫んだ「チクショー!」気づけば10人が階段近くに集まっていた。30秒か、1分か。
うつむいて、ただ立ち尽くした。続く
澁澤榮一 一日一訓
澁澤榮一
一日一訓
1月28日
全て世の中のことは、もうこれで満足だというときは、衰えているときである。憂いある時は、必ず喜ぶべき現象が起きているものである。
ゆえに、進んでも憂い、退いてもまた憂うというように、この憂いの間に過失を少なくしようとすることが必要である。
1月29日
人は孤独なものではない。如何に山の中で暮していても、この世の食料を食べている間、その生活は、他人の共同生活に影響を及ぼしている者である。だから、人は生まれてから死ぬまで、社会の一員として、思い責任を負わなければならない。その責任とは、ほかでもない「働く」という事である。
1月30日
その人の心が少しも社会や公共のことに関心がなく、頭の中はただ私利私欲だけであっても、その人が働いているならば、他の遊んで生きている人よりは、社会の役に立っている。
1月31日
自分勝手に自分の都合だけを考えている人間は、かえって自分にとって都合の悪い人間になる。
2月28日
資本に権力があることをおそれて、外資の導入を拒むのは、あたかも馬車の暴走や船舶の転覆を恐れて、徒歩で行きたがるようなものである。
2月29日
およそ世の中において、労力が少なくて効果が多いことは、これを続けていくと、欠点が生じやすくなるものである。
4回 15・5メートル
15・5メートル
15時33分
容赦ない波「死んでしまう」
これでもか、これでもかと波が容赦なく覆いかぶさる。
午後3時33分、津波は宮城県南三陸町の防災対策庁舎を丸呑みした。数十秒から1、2分間の長く苦しい時間。屋上にいた職員は息を吸おうと懸命に背伸びをし、もがき続けた。
妻節子さん=当時(63)=が取り残された自宅が流されていくのを、無言で見ていた総務課の佐藤徳憲課長(70)。
バシャバシャと波が足元に押し寄せる。咄嗟に階段手摺りをつかんだ。
気づいたときには海水は顔近くまで達していた。
「町長、これ夢だよね」。
左隣にいた佐藤仁町長(69)の方を向いた瞬間、メガネが波で飛ばされた。
屋上は高さ約12メートル。外階段の踊り場はさらに50センチほど高かったが、15・5メートルの最大波は軽く頭上を越えた。流されまいと、手すりの間に左足を絡めた。メガネが飛ばされる前、自宅が二つに割れたところまでは見ていた。
「絶対に生きて、お母さんが流されたことを子どもたちに伝えるんだ」。
波に何度も顔をたたきつけられながら、3人の子どもの顔が浮かんだ。
佐藤町長もぎりぎりで海水に潜ったり、顔を出したりしていた。波間のタイミングに「はあっ」と息を吸った。津波の勢いはすさまじい。
「手すりを離したら俺死んでしまう」。
ありったけの力で握りしめた。
防災庁舎の周囲一面は海。隣に誰がいるのかも、何がどこにあるのかも見当がつかなかった。たまたま外階段の近くにいた、職員が手すりに引っかかったり、挟まったりした。
「だめだあー、だめだ―」波の谷間から総務課の山内和紀さん(67)がうめき声をあげた。
波に背を向けた瞬間、あおむけに大の字で踊り場を流された。手すりに右脚のももの付け根まで挟まり、座った状態になった。
片手で手すりをつかみ、懸命に頭を上げる。息は出来たが、波に背中を押しこまれて再び海中に沈む。また顔を上げる。何回やっただろう―。
絶望の淵「ただ生きたい」
「もうすこしだ。頑張れ、がんばれ」と耳元で声が聞こえた。コートの襟もとを誰かが持ち上げてくれた。企画課の及川明課長補佐(58)だった。
及川補佐は手すりを抱きかかえて息を止め、我慢できなくなったら海を泳ぐつもりでいた。
「ガツ ガツ ガツ」。浮き球などの漁具がヘルメットにぶつかる。
中3の息子が高校入試の結果待ちだったことが。ふと頭をよぎった。「結果を聞かず、このまま死ぬわけにはいかねえ」と踏ん張った。
絶望の淵で「ただ生きたい」という本能がそれぞれの体を動かした。沈み込み、気力を失う職員もいた。企画課の加藤信男さん48は記録用の写真を撮っていて足元をさらわれ、ウオータースライダーのように仰向けに流された。
「この記録だけは残したい」。咄嗟にジャンパーの内側にカメラをしまい込んだ。海に放り出される寸前、
「俺の手につかまれ!」と手を伸ばした遠藤健治副町長(72)に助けられたが、直後に大波が襲った。
階段近くのどこかに引っかかり、足を絡めた。海老ぞり状態で波を受け続け、水中に体が沈む。目が開けられない。
海面がどこなのかわからない。息をする代わりに海水を大量に飲み込んだ。
「ああ、死ぬってこういうことなんだな」溺れて気を失った。
遠藤副町長が胸ぐらをつかんでくれていた。続く
澁澤榮一 一日一訓
澁澤榮一
一日一訓
1月27日
世の中のことは、ともすれば意外なことが起こるものである。社交上においても、家庭においても、知者や賢者が権力を握るのは当然であって、知恵も人徳もない人が尊重される道理はないはずであるが、
常にそうだと言えない場合がある。
2月27日
兵法において、兵の引き揚げを巧みに行う大将を名将とするように、実業界においてもまた、損失の勘定を詳細にして、後始末が良くできるような人でなければ、実業家として、最終的な成功を遂げられるものではない。
私は実業界の名将たることを望まないが、自分が関係した事業が苦境に陥った時、赤の他人のように
「三十六計逃げるに如かず」を決め込まず、最期まで踏みとどまって、その事業のために尽くしてきたことは、自分で満足しているところである。
*
古来、中国のことわざで「三十六策、走るがこれ上計」という言葉がある。兵法のうち、とにかく逃げる策が最上という意味だが、渋沢は赤字企業から簡単に逃げるべきではないと考えたのである。
③屋上
ドキュメント防災庁舎
③屋上
15時28分
「半端じゃねぇ」「やばい」
午後3時28分ごろ、防潮堤を超えて津波が見る見るうちに迫ってきた。土煙が舞い上がったかのように海が黄色くかすむ。
宮城県南三陸町の防災対策庁舎の屋上に避難した職員らは約500メートル離れた河口を見詰めていた。
「町長、この津波おっきいね」。フエンス際にいた企画課の及川逸也課長=当時(56)=が口にした直後、「バリバリ、メリメリッ」。木造の本庁舎が5秒で「くの字」に折れ曲がり、流された。
「これ半端じゃねぇぞ」。予想波高6・7メートルの宮城県沖地震と信じ込んでいた佐藤仁町長(66)は初めて危機感を覚えた。
西側のフエンス近くでは、女性職員2人が流され始めた近くの民家に向かって泣き叫んでいた。
「せっちゃん、せっちゃん、なんで逃げねぇのお―」すぐ隣で夫の総務課の佐藤徳憲課長(70)が無言で立ちすくんでいた。
役場隣の自宅には、元町職員で妻の節子さん=当時(63)=が愛犬2匹と2階にいた。夫がラジオを取りにいったん家に戻った時、1階から声をかけた。
逃げるよう促したが、節子さんは「逃げてる途中で津波が来ると怖いから、2階にいっから」。これが2人の最後の会話になった。
流されて遠のく自宅をただ目で追いかけるしかなかった。海を見ていた佐藤町長もこんではせっちゃんがあぶねぇ」と佐藤課長の横へ駆け寄った。
水かさがどんどん増す。
防災庁舎にも危険が迫った。真っ二つに割れる本庁舎を目の当たりにした危機管理課の佐藤智さん(66)は、黄色い土煙の奥にさらに大きい波が来るように感じた。
「これではだめだ」高さ6メートルの鉄柱のアンテナポールを見上げ、よじ登り始めた。ポールは全国瞬時警報システムや無線を受信するアンテナだ。配線部分に足をかければ登れると思った。
偶然、企画課の阿部好伸さん(43)と目が合った。
「好伸君上がれ」。手招きをして2人でしがみついた。
乗り上げる波・身構える54人
志津川湾や八幡川を望む南側と東側のフエンス側にはまだ多くの職員らがいた。携帯電話のカメラで写真を撮っていた。
1階から外階段をか駆け上がってきた企画課広報担当の加藤信男さん(48)は、首から提げた一眼レフのカメラで町が呑み込まれる様子を必死に収めていた。少し高い場所からファインダー越しに見ていたせいか、周囲のようすまで気を配れなかった。
というより、12・5メートルの屋上に迫る波があまりにも早すぎた。降りかかる波しぶきに
「あ、もうやばい」。もう一度周囲の状況を撮ろうと体の向きを変え、「カシャ、カシャ、カシャ」。
ピントも合わせず、体を回転させながら夢中でシャッターを押した。写真の時刻は午後3時34分。
背後から襲った黒い波にバランスを崩し、あおむけに倒れた。
2階の災害対策本部から遠藤健治副町長(72)と総務課の佐藤裕さん(40)が最後に上がってきた。
3階まで海水が達し、役場隣のクリニックが流され始めた。波がせり上がる速さに頭が追い付かない。
「なんだ」「どうなってるんだ」「なんでなんだ」
ただただ驚きと戸惑いが遠藤副町長の脳裏をよぎった。黒い波が高さ12・5メートルの屋上に乗り上げ、54人が身構える。アンテナポールの下には、ヘルメットをかぶった職員らが住民を両手でとり囲むように円陣を組んだ。
「波はまだ高くなるのか?」遠藤副町長がそう思った瞬間目の前に波が迫った。咄嗟に眼鏡を放り投げ、大声で叫んだ。「みんな、背中向けろっ!」続く
②急変 2
②急変
2
しばらくして、歌津地区の田束山(たつがねさん)
512メートルにいた産業振興課の牧野典孝さん=同(46)と遠藤進也さん=同(39)が役場に戻り、
「津波が来ていて防潮堤を超えそうだ」と報告した。
「海岸がすごいことになっているからうがってございっ」
屋上から企画課の高橋文禎さん=同(43)が叫ぶ声がした。外にいた同課の及川明課長補佐(58)と同僚の加藤信男さん(48)が気づき、急いで外階段を上った。
加藤さんは記録のため、一眼レフカメラで川や、庁舎内外を撮影していた。
防災庁舎前の駐車場に水があふれてきた。複数の証言や津波の撮影時刻に照らし合わせると、八幡川に水が遡上し始めたのは午後3時25分過ぎ。色めき立った町幹部が口々に叫んだ。「全員屋上さ上がれ!」
茶色い水遡上 庁舎は海に
2階にはまだ遠藤副町長ら6、7人がいた。
「茶色く濁った水が新幹線のような速さで川の淵をさかのぼってきた」佐藤徳憲総務課長(70)は今も鮮明に覚えている。
緊迫の度を増す放送室。「未希ちゃん、もういいから」。危機管理課の佐藤さんらが放送室に駆け込み、放送を制止した。「高台へ避難してください。只今宮城県内に10メートル以上の津波が・・・」。未希さんの声に「上へ上がって!上へ!」という幹部の切羽詰まった声が重なった。
上司の三浦さんは「未希ちゃん上へあがれ!私が放送すっから」と促し、マイクに向かったとされる。
午後3時25~28分ごろ、突然放送が途切れた。マイクのスイッチを入れたまま、全員が急いで屋上に駆け上がった。遠藤副町長らが最後に上がると、防災庁舎は海に囲まれていた。続く。
澁澤榮一 一日一訓
澁澤榮一
一日一訓
1月25日
その弊害をもって、その功績を没することなかれ。
*
明治36年10月、渋沢は竜門社で「その弊をもってその功を没することなかれ」と題して講演をした。明治維新の弊害だけをことさら強調する姿勢を批判している。
2月25日
猛獣は深い山や谷に暮らし、大魚は大河や深い湖に住むように、実業家もまた大いに商工業を起こそうと思うならば、その地域を選ばなければならない。
区域が狭く、規模が小さければ、それは知識のある人が住もうと思わない場所である。
①激震 2
- 激震
2
「6メートルなら大丈夫だろう」
防災庁舎は、指定避難場所ではないが、狭い災対本部の中央デスクを取り囲むように人であふれかえった。「おめえたち、本部以外のものは別の配備につけ」
「住民の避難誘導をしながら高台へ向かってくれ」
地震直後に遠藤副町長らが促し、多くの職員が任務に就いた。本部要員の危機管理、総務、企画の3課の職員と本庁の課長以外の職員も少なくなかった。
「怖い、怖い」。余震におびえ、ヘルメットをかぶって身をかがめる若い女性。ぎゅうぎゅうの部屋の片隅に4、5人の女性職員が身を寄せ合い、その場から動けずにいた。
「情報収集でうろちょろしているうちに、批難誘導の業務が頭から飛んでしまった」。かろうじて助かった町民税務課の三浦勝美さん(58)が、遠巻きに本部の様子を見ていた当時を振り返る。
災対本部には総務や企画部門の経験者もいた。
『公務員の性(さが)というのかな。災対本部を手伝おうと思ったんだべなあ・・・』生き残った職員が重い口を開く。
町の災害検証報告書などによると、役場本庁舎には地震後、約60人の職員がいたと見られる。
防災庁舎には、警察、消防、県など、関係機関のほか、近隣住民やのシステム業者らも居た。
「危ないからこっちへ来て!」。ある職員は良かれと思い、老夫婦を建物に呼び入れた。
町は1960年のチリ地震津波で高さ5・5メートルの津波に襲われ、県内最多の41人が犠牲に成った。
宮城県沖地震による津波の想定は市街地で6・7メートルだった。
災対本部の壁時計は津波到達予想の午後3時を回った。
「5・5メートルの防潮堤もある。ここは6メートルの津波なら大丈夫だろう。
宮城県沖地震だと信じ込んでいた佐藤町長らに危機感はまだなかった。続く
*
南三陸町の防災対策庁舎は、東日本大震災による高さ15・5メートルの大津波に呑み込まれ、町職員33人を含む計43人が命を落とした。赤茶けたむき出しの鉄筋が、今も津波の威力を物語る。生き残った佐藤町長ら町職員11人全員の証言から、壮絶な一日を時系列で振り返る。(報道部・吉田尚史・南三陸支局佐々木智也)
澁澤榮一 一日一訓
澁澤榮一
一日一訓
1月24日
およそ世の中は、何事も進歩発展が必要であるけれども、向こう見ずにただ進むわけにはいかない。
特に国家の進歩については、十分に進歩させつつ、歴史も顧みて、しっかりと地盤を踏みしめ、つまずいて倒れないように注意しなければならない。
2月24日
我が国の商工業は、これまでの間、大いに成長し、大いに発達をしたと言っても、これを樹木で例えれば、相当な幹となり、枝葉が繁茂したように見えて、いまだ根が十分に堅固ではない。したがってその枝葉もまた、風雨霜雪にくじかれやすいという事を考えねばならない。
ドキュメント 防災庁舎
ドキュメント防災庁舎
- 激震
- 14:46
震度6弱。「津波が来る」
2021・2・21河北新報社
1・
「ゴーッ」という地響きが伝わる。築55年の木造庁舎が激しく揺さぶられる。「ついに本番がやってきたか」。「来るぞ来るぞ」と言われてきた宮城県沖地震に違いない・・・。
宮城県南三陸町の職員が一様に身構えた。
2011年3月11日午後2時26分。佐藤仁町長(69)は、本庁舎の議場で定例議会の閉会挨拶をしていた。「これからも安全安心なまちづくりに向けて・・・」。可決された予算案には、30年以内に99%の確率で発生が予想された宮城県沖地震対策も盛り込まれていた。
気象庁発表の震度は6弱。「津波が来るな」。
遠藤健治副町長(72)は、長く強い揺れが収まると、防災服に着替え、本庁舎に隣接する防災対策庁舎に急いだ。
防災庁舎は鉄骨3階で、高さは約12メートル。
危機管理課が入る2階には、災害情報の受信システムや防災行政無線などの機能が集約されていた。
「15時、6メートル!」。誰かが叫んだ。
地震から分後の午後2時49分、全国瞬時警報システム(Jアラート)で気象庁の大津波警報が入った。
「直ちに災害対策本部を設置」。遠藤副町長が指示すると、職員たちは配備計画に従ってあわただしく動き始めた。
佐藤町長は、少し遅れて危機管理課の室内に設置された災害対策本部に向かった。背広を放送室に置こうと目をやると、すでに危機管理課の三浦毅課長補佐当時(51)と遠藤未希さん当時(24)の二人が防災無線で「急いで高台に避難してください」と呼び掛けていた。自家発電機は作動していた。
「あと6分しかねえな」。佐藤町長が職員から津波の予想到達時刻を聞き、壁の時計を見た。午後2時54分だった。
「出て行って途中で津波にやられるんだったら、屋上だ」。当時高さ6メートルと予想された津波に、切迫感はなかった。続く
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