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四十七・湯口敏彦 巨人軍ドラフト1位選手

 

巨人軍ドラフト1位選手

四十七・湯口敏彦

(1952・6・3~73・3・22)

紅白戦で打ち込まれ、精神に変調をきたす

「彼は巨人の選手にしては神経がこまやかすぎたというか…なんていうかプロ野球の選手っていうのはある程度図太くないと成功しないんですよ。特にマスコミの殺到する巨人の選手はそうです。

 湯口君は才能ある投手だったと思います。ただプロには向いていなかったんでしょうな。

 技術だけではプロでやっていけんのです」とは当時を知るスポーツ記者。1970年のドラフトで将来を嘱望されて1位指名されて湯口敏彦はプロの重圧に負けてしまったのだろうか。

 当時の巨人はV9の大記録を更新中の常勝軍団。監督は川上哲治(故人)だった。湯口に指導した中尾碩志・二軍監督は鬼軍曹さながら。中尾流を貫き、新人選手の悩みを気にかけてやるなどということは、ほとんどなかったようだ。こうした環境に湯口は疲弊していった。

湯 口 敏 彦

13 3  11 9 

 

天格・   湯口16。

人格・   口敏14

地格・   敏彦20

外格・   湯彦22

総格・湯口敏彦36

三才の配置・天6―人4―地10

第一型の絶対的短命運;脳溢血、心臓麻痺、急難・災害・自殺その他、すべて急変の死を招く。

**

入団3年目の1972年11月の紅白戦に登板した湯口は前日の酒が抜けきっておらず、手痛く打ち込まれてしまった。これに中尾二軍監督が激怒。

 バツが悪かったのか、湯口はその日。合宿所には戻らず外泊をしてしまった。翌日戻った湯口を呼びつけた中尾二軍監督は、拳骨で湯口を殴り叱ったという。この一件を期に湯口の精神は変調をきたすようになる。

 紅白戦の4日後に行われた納会ではボーっとしており、チームメイトの問いかけにも反応しない。下った診断は鬱病であった。翌年は病状も安定していたため、二軍キャンプに合流するも、キャンプ初日に宿舎で奇声を挙げるなどしたので、東京に戻され、病院に入った。入院から約1か月後、病院のベッドで湯口が死んでいるのが発見された。

 病院と球団の発表は心臓麻痺であったが、当時のマスコミはこれを疑問視。健康状態に異常はなかったとして、湯口の自殺を報じた。何の因果か、湯口のつけていた背番号「19」はその後上原浩治、

菅野智之もつけたが・・・決していい背番号ではない。(『背番号19は田中将大の実力を削ぐ』2014年2月18日投稿の“永人のよそ道”をご参照ください・・・永人)

 

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四十六・円谷幸吉  東京五輪マラソン銅メダル

 

東京五輪マラソン銅メダリスト

四十六・円谷幸吉

(1940・5・13~68・1・9)

遺書に綴られた青年の深き苦悩

悲劇のランナーと呼ばれる円谷幸吉は、高校を卒業後、1959年に陸上自衛隊に入隊。郡山駐屯地で陸上部を立ち上げる。

 62年のこと、2年後に東京五輪を控えた自衛隊は、候補選手育成のために隊内に自衛隊体育学校を創設した。円谷の名前も体育学校の選手候補に挙がったが持病の腰痛のため選考会に出場できず、推薦により入校した。

 10月の日本選手権5000メートルに出場した円谷は、日本歴代2位の好記録をだし、陸連から強化指定を受ける。翌、63年も2万メートル、1万メートルで好記録を連発し、トラック競技長距離の選手の有力候補となるが、陸連幹部の「あいつにマラソンを走らせるのはどうか」という提案で、マラソンに転向。

**

円 谷 幸 吉(円は圓で13画)

(13 7  8  6)

外格19(苦労困難・病弱短命運)

総格34(発狂・万事行き詰まりの破家亡身運)

***

急きょマラソン選手となった円谷は、五輪開催の年のマラソンレースで驚異的な記録を連発。わずか3本のレースを経験しただけで、五輪本番を迎えた。

 五輪では1万メートルにも出場し6位入賞。続くマラソンでは自己ベストを更新し、トラックに3位で戻ってくる走りを見せた。日本の陸上競技でのメダルは円谷の銅メダルのみ。一躍国民的なヒーローとなった。

しかし、ここから円谷の人生は一転する。

****

円谷は続くメキシコ五輪でのメダル獲得を課せられ、プレッシャーに苦しみ続けた。マラソンを優先すべく、上官に婚約をつぶされ、トレーナーにも恵まれず、練習環境は悪化。無理なトレーニングを続けた結果、持病の腰痛を悪化させた挙句、ランナー生命を絶たれてしまう。

 思うように走れないジレンマと孤独に追い詰められ、円谷はカミソリで頸動脈を切り、自殺を遂げた。遺書にはこう書かれていた。『父上様、母上様、三日とろろ、美味しゅうございました.干し柿、餅も美味しゅうございました。

(中略)父上様母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません』

享年27  折り返し地点も迎えられぬ短い人生だった。

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四十五・松田直樹  サッカーの暴れん坊

元サッカー日本代表DF

四十五・松田直樹

(1977・3・14~2011・8・4)

日本を代表する「暴れん坊DF」

「やるよ、やっちゃうよ」松田のプレースタイルを象徴するエピソードだ。

2003年のナビスコ杯・ジュビロ磐田戦、敵の西野泰正との激しい接触プレーに激昂した松田は、冒頭のように主審につぶやいた。

 サッカーが好きで、マリノスが大好き。とにかく熱い選手のため、ラフプレーも多かったが、DFとしてのその戦術眼と確かな技術は世界レベルに達していた。フイリップ・トルシェ監督率いた2002年の日韓共催W杯でも、日本代表として活躍。トルシェをして『スタメンで出すと言わなければ、殺されそうだった』と言わしめた気迫を見せた。

 セリアAでの実績もあり、代表チームで居丈だけな態度を取りがちだった中田英寿とは同級生。皆が中田に遠慮する中、松田だけは『あいつが間違っていたらぶん殴ってやる』とお構いなし。結果として中田が腫れ物になるようなことは無く、チームワークが生まれたという。

**

松 田 直 樹

8・5・8・16

基礎運凶・

三才の配置・3または4の同数で。耐久力なく、急進的または癇癪持ちの性格となり、万一病気などに罹ったときは、持続力を乏しくす。事業場にも、隠忍不撓の性能を欠く。

***

後輩には厳しく接するが、面倒見はよく、チームメイト、ファンから愛されたという松田は怪我が多い選手だった。

J開幕から3シーズン目の1997年に右ひざ半月板を損傷し、翌年手術したのをきっかけに、07年にはこの古傷がもとで右膝前十字靱帯の痛みを抑える手術。同じ年の8

月には左膝左側副靭帯損傷。10年には4度目となる右ひざ半月板の手術を行っている。結局この年、マリノスから戦力外通告され、長野に本拠を置くJFLの松本山雅FCに移籍。15試合に出場し、1得点を挙げた。

 生涯最後の試合となった11年7月23日のHonda FC戦は奇しくも松田にとって、J公式戦400試合目であった。それから約2週間後、ホームの松本市でチーム練習中に心筋梗塞を発症し、還らぬ人となった松田。

彼の死を受けてマリノスは、彼が付けていた背番号『3』を永久欠番にすることを発表した。 

暴れん坊の松田のこと、「400試合」では暴れ足りなかっただろう・・・

 

 

 

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角界の暴露王 四十四・元大鳴門親方

角界の暴露王

四十四・元大鳴門親方

本名 菅 孝之進

(1942・7・9~96・4・14)

相撲界の暗部を暴露した後に怪死!

当時、元大鳴門親方は「週刊ポスト」誌上で、相撲界のスキャンダルを暴露する連載をしていた。角界の裏に渦巻く金と女、八百長、それに薬物汚染と言った闇を元関脇の親方が世間にぶちまけたのだ。

相撲界は戦々恐々とし、マスコミは親方の暴露記事に注目した。

**

(一)菅孝之進[(1)・14・7・4・15]

外格20凶。総格40凶。成功運凶。

20画の運気;物の割れんとするかたちなり。

短命非業の誘導ある大凶悪の運命にして一生の平安を得ることなく、幾多の災難来たり、あるいは凶禍しきりに襲いて、厄難、遭難、不如意、逆境に陥り、病弱、短命、非業、破滅の凶兆を示し、一家を支配する能力を欠く。

 配偶を失い、子の不幸を悲しむ等、百事成就せず、進退を谷(きわ)め終生を全うすることなし。

***

そんな大鳴門親方[菅 孝之進]突然死を遂げた。死因は原因不明の急性重症肺炎、および原因不明の心不全。入院先の愛知県藤田保健衛生大学病院で53歳の若さで急死したのだった。

  しかも親方と共に暴露記事に協力していた後援会関係者(橋本成一郎氏)も同病院で、ほぼ同じ日の同じ時刻に、同じ病名で怪死したのである。

 同じ病院、同じ日、同じ時刻、同じ死因で、暴露記事に関わっていた二人が怪死したことで、二人は口封じされたとの見方が広がった。

 ****

実は二人は週刊誌の連載を一冊にまとめて出版することになっていた。出版時には外国特派員協会での

講演も予定していた。その矢先の突然死である。

 2人の死には疑惑が付きまとった。『“ヤクザと角界のつながり”など、闇の部分を暴露されて、2人が邪魔になった勢力が口封じのために殺したという説。“2人は病気を装って消された”』(当時を知る週刊誌記者)というのです。死亡当初、事件性が疑われたが、結局は“病死”として処理された。

治療に当たった病院によれば、通常の、肺炎の薬を打っても症状は一向によくならず、ついに死に至ったという。

 経過から見て、「レジオネラ肺炎」に似ているそうだ。だとすれば二人は一体どこでレジオネラ菌を吸ってしまったというのだろうか。元大鳴門親方から相撲界の暗部が語られることはもうない。しかし親方亡き後も相撲界はスキャンダルに揺れた。八百長、いじめ、金、各界に根付く悪習は一掃されたものと信じたい。

 

 

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四十三・アンディ・フグ

青い目のサムライ

四十三・アンディ・フグ      

(1964・9・7~2000・8・24)

人知れず難病と闘っていたK-1ファイタ―

 空手家としてK―1でフグは誰よりも屈強な肉体を誇っているように見えた。

ANDY  HUG

3323  313

外格・HUGDY12凶・意外の病厄ありて天寿をそこなう。

基礎運人6-地1・凶:境遇不安定にして住居・職業など転々移動しやすく、胃腸腹部疾患あり。

***

 突如の訃報が報じられたのは2000年8月。急性前骨髄球性白血病(APL)で35歳の若さでフグが急死したのだ。

 “青い目のサムライ”と呼ばれ、精神的にも肉体的にも頑強な空手家だったフグは何故難病を罹患し、急逝したのか?その原因として当時、ドーピングの後遺症ではないか、という噂があった。

 メジャーリーグや格闘技などスポーツ界に薬物疑惑は付き物だ。

PRIDEでは“霊長類最強の男”と称されたマーク・ケアーが、禁止薬物を使用して体調を落としていったことはよく知られている。

  K1選手についても、ジェロム・レバンナやボブ・サップなどが筋肉増強の劇薬漬けになっていたとの噂が報じられたこともある。

 ただいわゆる筋肉増強剤の使用と急性白血病の因果関係は不明とされていたため、何がアンディを死の病に追いやったのかは不明である。

 アンディはその年、急性白血病を罹患。友人はおろか、家族にも病状は秘密にしていたという。彼は人知れず、ひっそりと病魔と闘っていたのだ。

 親友である角田信朗が病院に駆け付けた時には、すでに心肺停止状態だったという。

 病院に駆け付けた角田の『アンディ・ファイト!』の呼びかけに3度応じ、心肺機能が停止状態から3度復活したというアンディ。その格闘家としての不屈の精神力を最期の瞬間まで見せてくれた。

 ただ4度目はなかった。

 不世出の格闘家を死に追いやったのは、常軌を逸した肉体を構築するため、劇物を乱用したことによるしっぺ返しだったのだろうか。グランプリで毎回優勝候補に挙がるも優勝は叶わず、「フグは勝てないのでは・・・」という空気を一変させた96年大会の雄姿がしのばれる。

 

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四十二・三沢光晴・90・00年代のプロレス、スター

90・00年代を代表するプロレスラー

四十二・三沢光晴

(1962・6・18~2009・6・13)

全日本プロレスを再生させた『受け身の天才』

 幼少期酒乱の父親に悩まされた。両親が小学校1年生の時に離婚。以後は、ヒーローにあこがれるスポーツ少年に。中学で器械体操に出逢い、二代目タイガーマスク時代に見せた身のこなしを身に着ける。

 足利工業大学付属高校にスポーツ特待生として進学。アマレスの練習に明け暮れる。高校3年時に国体(フリースタイル87キロ級)で優勝するが大学には進学せず、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの門を叩いた。

 実は三沢は高校2年時に寮を抜け出し、全日本プロレスの道場に行き、入門を志願したこともあった。その際はジャンボ鶴田に『卒業してからでも遅くはない』と諭されたというエピソードを持つ。そのくらいプロレスラーに憧れていたのだ。

  天性の運動神経も手伝って三沢のプロレスはメキメキ上達した。しかし彼は馬場の命令で二代目タイガーマスクを襲名。不本意ながらマスクマンとしての活躍を命じられた。自分のプロレスが出来ないいらだちから、マスクを試合中に脱ぎ捨ててから、三沢の覚醒が始まる。

**

三沢光晴(3・17・6・12)

●成功運・天10―人3・成功絶対抑圧され急禍、急変の難に遭い、心臓麻痺、脳溢血、自殺などあり。

●基礎運・人 3-地8凶・一見安穏にて然らず、精神過労、呼吸器病などを起し易し。

●三才の配置・天10―人3-地8凶。準絶対的短命運。脳溢血、心臓麻痺、急難、災害、自殺、その他、すべて急変の死を招く。

***

 当時プロレスはストロングスタイルの新日本が優勢で、ややもするとファンからは『全日のプロレスは一昔前のもの』と揶揄された。しかし、覚せいした三沢を筆頭に、小橋、川田らが台頭、激しいプロレスを展開し、全日ブームが到来する。

「三沢は受け身の天才だった」と誰もが認めるように、三沢のプロレスの魅力は相手の投げ技を受け切り、高角度でマットに叩き落されて這い上がる凄味だった。しかしこれが体をむしばんでいった。

 特にNOAHを旗揚げし、社長に就任してからはデスクワークは勿論、人件費削減のためにリングの設営、連日の激しいファイトをこなし、大好きな酒を夜通し飲むという生活だった。

 009年6月13日、広島県立総合体育館での試合、相手が高角度で見舞ったバックドロップを受け切り、頸髄離断で三沢は逝った。 享年46・・・

 

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湯川遙菜(正行)さん・・・・お気の毒

湯川遥菜(湯川正行)さん

 湯川正行さんの父正一さん(74)は、息子の正行さんについて、「息子は高校を卒業して店を経営していたが、そこへたびたび来ていた女性と結婚した。が、事業経営は失敗して借金を残し、夜逃げ同然に姿をくらました。私は死ぬ思いであちらこちらから金をかき集め、返済したが、息子とは縁が切れた状態になっていた。

正行の妻が2010年に肺がんで死亡。正行はその時自殺しようと自分の局部を切り取ったという。

その後、家に帰ってきたときに、知人に『湯川正行』では、短命だからと言われ『湯川遥菜』と改名したことを聞かされた・・・」と語った。

 

(永人解説)

●湯川正行               

(13・3・5・6)運気10点

外格・湯行19凶・短命運

総格・湯川正行27凶・批難・遭難挫折運

 

●湯川遥菜  (遥は遙で17・草冠は艸で6)

(13・3・17・14)運気10点

人格20凶・短命運

外格27凶・批難・遭難挫折運

 全く改名したことの意味がない。

むしろ『まさゆき』は誰しも男性を連想するが

『はるな』と聞いた者は女性をイメージする。

このように女性と男性を混同して解釋されやすい名を凶名という。したがって『湯川正行』以上に

『湯川遥菜』は良くないということになる。

 全くお気の毒であると言わざるを得ない。また後藤健二名も生命財産を失う総格43画の大凶名であることが気になる・・・・

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四十一・ブルーザー・ブロディ  

超獣“キングコング”ブロディ

四十一・ブルーザー・ブロディ

(1946・6・18~88・7・17)

プロモーターに睨まれて刺殺された超獣

「超獣死す!」

あの日、プロディ刺殺の第一報を聞いたプロレスファンは、『ウソだろう。あのブロディが死ぬはずがない!』と思った。ブロディ刺殺はそれほどまでに衝撃的で信じられない出来事だったのだ。

**

BRUISER  BRODY

(3・3・1・1・1・4・3 3・3・1・2・3)

人格14凶。外格14

総格28凶。[力道山・百田光浩と同じ28画)

***

“超獣”“キングコング”というニックネームそのまま、ブルーザー・ブロディは本場アメリカは勿論、日本のリングでも暴れまくった。チエーンをぶんぶん振り回しながら、獣のような雄たけびをあげ、馬場や猪木に襲い掛かる様はまさに“超獣”と呼ぶにふさわしい最強のヒールレスラーだった。

 圧倒的なパワーとテクニック、ラフファイトに見えて、それでいてクレバーな試合運び、ブロディは日本のプロレスファンを魅了した。

 リング上では“超獣”の名を欲しい侭にしたブロディだが、いざリングを離れると、家族思いの穏やかな人柄で、独特のファイト哲学を持っていたことから

『インテリジエント・モンスター』とも呼ばれていた。

一方では、ファイトマネーにはシビアで、試合当日に『ギャラアップしないなら試合に出ない』などと言ってはトラブルを引き起こした。

 さらにブック(試合展開などのシナリオ)に反発するブッカ―泣かせな面を持ち、扱いづらいレスラーとしてプロモーターから睨まれてもいた。その中の一人がプエルトリコ地区の興行を仕切るボス・

カルロス・コロンである。

****

1988年7月16日、プエルトリコでの興行中、プロディはコロンの配下にあるレスラー兼ブッカ―のホセ・ゴンザレスにドレッシングルームで腹部をナイフで刺され出血多量で死亡した。傷は肝臓にまで達していたという。

その後行われた裁判で、現場を目撃したはずのレスラーたちは全員証言を拒否(脅迫を受けるなどの圧力をかけられたという)、ゴンザレスは正当防衛で無罪となった。超獣ブロディは、凶器による反則攻撃に倒れたのだ。

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第2章・スポーツ選手・死の真相  四十・力道山

第2章・スポーツ選手・死の真相。

日本プロレス界のスーパーヒーロー

四十・力道山・百田光浩

(1924・11・14~63・12・15)

KCIAによる謀殺も囁かれたが・・・

相撲仕込みの“空手チョップ”を武器に白人レスラーたちを、バッタバッタとなぎ倒し一躍昭和のスーパーヒーローになった力道山。当時、人々は、街頭テレビのプロレス中継に熱中し、日本中に一大プロレスブームを巻き起こした。

  そんなスーパーヒーロー力道山は、酒癖が悪かった。もともと感情の起伏が激しかったというが,

酔うと一段と手に負えなくなったという。

**

百田光浩

(6・5・6・11・氵は水を意味して四画)

総格28凶。基礎運凶。

28画の運気。遭難運にて一種の豪傑的状態を有し、波乱変動多く、批難、誹謗を免れず、時に厄難に遭遇し、障害をこうむるか、あるいは夫妻互いに相手と生死別し、中には幼にして親に別れ、長じて子を失うことあり。禍乱多く、平和の望みなく、不和、争論、逆難、刑罰の災い相ついで来たり、終生辛労多き険悪運にて殊に女性は弧寡(こか)に陥る者多し。

***

1963年12月8日、その日も力道山はしたたかに酔っていた。赤坂のナイトクラブ『ニューラテンクオーター』で飲んでいた力道山は、トイレの前で足を踏んだ、踏まないという些細なことからけんかになったヤクザ(暴力団住吉一家系大日本興業の組員、村田勝志=当時)を突き飛ばし、さらに馬乗りになり殴打した。

『殺られる』、と思った相手は懐に忍ばせていた登山ナイフを抜いて下から左下腹部を刺し、ナイフは力道山の腹に根元まで刺さった。

 その後病院に運ばれた力道山は手術が成功し、一時はかなり回復していたが、入院中に容体が急変、腹膜炎による腸閉塞を起こしたため再手術をするも、回復せず、入院から7日目に死亡した。

 ****

  力道山の死には、怪しげな噂が付きまとった。

力道山と親しいヤクザ組織と対立するヤクザ組織が放った刺客説。当時のプロレス興行は、暴力団と密接な関係に有り、力道山はしばしばそれら組織とトラブルを起し、命を狙われていたという。

 さらには、KCIA(韓国中央情報局=現在の国家情報院)による謀殺説。北朝鮮出身の力道山は、当時金日成に車を贈呈するほどの親北派だったため、KCIAが謀殺したというのだ。しかし実際には、手術の際に麻酔薬投与量に重大ミスが有りその結果死に至ったという医療ミスによる死亡説が最も有力だ。

 『こんな傷で天下の力道山がくたばるわけはないだろう』と豪語したという力道山(百田光浩)。

 人々を熱狂させたヒーローは、二度とリングに上ることは無かった。

 

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三十九・レスリー・チャン  ゲイの三角関係を悩んだか?

香港映画界の若きスター

三十九・レスリー・チャン

(1956・9・12~2003・4・1)

ゲイの三角関係に悩んでの自殺!?

2003年4月1日、18時40分ごろ、香港映画界のスターで、国際派俳優のレスリー・チャンが、香港の高級ホテル・マンダリン・オリエンタル香港から飛び降り自殺するというショッキングな事件が起きた。レスリーは同ホテルの最上階(24階)にあるスポーツジムから飛び降、りたのだ。

**

LESLIE  CHEUNG

(2・4・1・2・1・4 1・3・4・1・3・3)

地格14凶。

基礎運 凶。

***

自殺の当日、レスリーは同居していた男性の恋人に、「マンダリン・オリエンタルに行ってくる、また会おう」と言い、車で外出(レスリーは「ゲイ」であることをカミングアウトしていた)。

以前レスリーのマネージャーだった女性(親友でもあった)と待ち合わせしていたのだったが、彼女がタクシーでホテルに向かう途中に電話が入る。

『5分後に正面入り口で待ってて、すぐ行くから』

彼女がホテルに到着したその時、何かが落ちるような大きな音がした。それがレスリーだった。

 レスリーの自殺については様々な原因が取りざたされている。

『彼氏との不仲説』

『レスリーが付き人の男性、ケネスと付き合うようになって三角関係となり、その軋轢に耐えられなくなった』

『容貌の衰えを恐れて若いうちに死のうとした』

 実はレスリ―は自殺の1年ほど前から鬱病を患っており、何度か自殺未遂を起していた。

後に流出したレスリーの遺書には(真偽のほどは不明)『僕は悪いことをしてきたことは無かったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。精神的に疲れた。もうだめだ』。

と書かれていたという。待ち合わせ場所を指定したのもレスリーだった。

  レスリーはこのホテルのカフェがお気に入りだった。その大好きな場所を死の舞台に選んだのだ。

 死の当日レスリーは、彼女にかけた電話で言った。

『この機会に香港をよく見ておきたいんだ』

この言葉にいやな予感を覚えた彼女は、急いでホテルへ向かったが合わなかった。

 死の直前のレスリーには、どんな香港が見えたのだろうか・・・

芸能人の章終わり。

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