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明智が織田を討った背後に徳川家康がいた・・・2-2

2-2

◎織田と徳川は後世に美化されたような『同盟』という対等な関係ではなく、従属的なものであった。

 徳川は織田にとって対今川、対武田の押さえであり、その両者が滅亡した段階(武田家の滅亡は本能寺の変の直前である)に於て、東方平定のためにはむしろ邪魔になっており、早々に完全に織田家の家臣化をさせるか、でなければ滅ぼすかの存在であった。

◎信長の敵対者である伊賀忍者に守られた逃避行は、後世、光秀方に誅されることを恐れたものとされるが、本来は信長方から誅されることを恐れて、事前に準備されたものだった、乃至、自己の関与を否定するための演出だった。

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光秀・家康共謀説

『時空警察』では本能寺の変は光秀・家康共同謀議であった、という説を紹介している。信長が家康つぶしの計画を企て、その実行を光秀に命じた。本能寺に家康を呼び寄せ殺害する計画だった。

 しかし、光秀は信長を裏切り家康と共謀した。光秀と家康は『信長の命令による家康討ち』の計画を利用し『信長討ち』にすり替えてしまった。

 信長は自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった。信長は光秀に全幅の信頼を寄せており、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないと考えていた。

 信長の本能寺での無警戒ぶり、また家康が『安土招請』『堺見物』に無警戒だった理由もこれである。

『神君(家康)伊賀越え』は予定通りのルートであり、苦難とされたのは、予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュである、という説である。

 徳川家康は、本能寺の変の『黒幕』だったのか『光秀との共謀』だったのかはともかく、二人が示し合わせて信長殺しを実行したのは間違いなかったと思う。

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明智と徳川・似た者同士

徳川家康(完全大吉名―運気100点)

織田信長(  大凶名―運気 30点)

明智光秀(  大吉名―運気 95点)

豊臣秀吉(完全大吉名―運気100点)

天海和尚(完全大吉名―運気100点)

 

運気の強い者同士が手を組んだ場合、ものすごい力を発揮するのは戦国の世も現代も同じである。

 織田を倒すための明智・徳川の連携は、秀吉の天下を生んだが、徳川の御世は秀吉の死を待って確実に徳川幕府への移行を生じ、ここで天海大僧正の光秀と家康の民の心を知る者同士が、連携して善政を施し、長く安定した江戸時代を築くことになる。

明智光秀の政治的理想は天海大僧正の意見となり、徳川家康の江戸幕府の施策として実現することとなった。

織田信長がもう少しいい運気であったなら、最期まで明智を重用し、善政を施したのかもしれないが、運気が弱いからこそ、そのようにはならなかったのである。  終り

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明智が織田を討った背後に徳川家康がいた・・・

明智が織田を討った背後に徳川家康がいた・・・

2-1

 日本史最大クラスの謎は『本能寺の変に至る明智光秀の行動とそこに至る心理』であろう。これまで様々な説があげられ、歴史家が諸説紛々に研究の論を発しているが、中でも『黒幕・徳川家康説』の状況証拠が一番多いという程度に留まるが、

『天海大僧正(南光坊)=明智光秀』説により、一層興味を惹かれる内容となっている(私もその説を採りたいと思っている)。

 首謀というよりは本能寺の変に賛同、支援、乃至(ないし)事後に僧侶として生存していた光成を匿(かくま)ったというもの。

これも歴史小説ではよく触れられる。また家康が何らかの形で、信長による家康自身の暗殺計画を知り、逆に計略を立て、光秀を利用し信長を暗殺した、という説もある。

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 本能寺の変(1582・6・21)の直前、天正10年5月15日(1582年6月3日)家康が織田の戦勝祝賀会へ参加のため、武田からの降将・穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に尋ねたとき、当初光秀が饗応役となった。

 ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは『太閤記』にあるような「魚が腐っていた」というような表の理由ではなく、実は信長が饗応の機会をとらえて家康を暗殺するよう光秀に指示したが、光秀がこれを拒んだのが真因だと解釈するなど、信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説もある。

 これを裏付ける歴史書の記述としては光秀の京都への反転について、フロイスの『日本史』に於ける「兵士たちはかような本能寺を攻める動きが一体何のためであるか訝(いぶか)りはじめ、おそらく明智は信長の命に基づいてその義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた」という部分。

本城惣右衛門覚書にある『我らはその時は、家康様がご上洛されているので“家康様を討つ”とばかりに思っていました』という部分。

 また、江村宗具の『老人雑話』の『明智の乱(本能寺の変)の時、東照宮(家康)は堺におわしました。信長は羽柴藤五郎に仰せ付けられて、家康に大阪堺を見せよと遣(つか)わされたのだが、実のところは、隙を見て家康を殺害する謀(はかりごと)であった』という部分が、著名である。

2-2へ続く

 

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主君信長に背いた武将・ 九十三・明智光秀

主君信長に背いた武将

九十三・明智光秀

                                  1528~1582・7・2

僧として第二の人生を歩んだ!?

 徳川家康の後半生に於いて彼のブレーンとして活躍した“黒衣の宰相”天海僧正は謎に包まれた人物だ。

 天海は弟子たちに出自を聞かれたときに、次のように答えている。『出身地も俗名も生年も遠の昔に忘れてしまった』つまり彼は生まれ年さえ隠さなければならないほどの“秘事”を抱えていたということなのだ。

 こうしたことから、『実は天海の正体は明智光秀』との説が当時、ほかならぬ幕府内部でささやかれていたという。

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明 智 光 秀

8 12 6  7

天格・  明智20

人格・  智光18

 鉄石心、発達運を併有し、権力智謀を有して、ひとたび志望を立てれば堅を破り、難を切り抜けて名利を博す。されど自我心強く、抱擁力を欠くと堅剛過頑にして批難、遭難を誘発するおそれあれば、常に戒心して柔徳を養い、危険に臨まざるよう心掛くるときは、目的貫徹して成功の栄冠を享(う)くべし。

地格・  光秀13

学芸才能に富み、智謀機略あり。忍従事に当たり、いかなる難関も巧みに切り抜けて大功を奏し、富貴繁栄を享受し得る好誘導有り。智恵充満の象(しょう)有るを特長とす。

外格・  明秀15

 福寿円満の象。順和、温良、雅量に富み、上位より恵沢を受け、徳望を得て大業を成就し、富貴栄誉に時めく。家を興し、栄を致し、有徳、慈祥自ら得たる最大の吉運とす。

総格・明智光秀33

鳳鸞(ほうらん)相会うの象。成形確立の勢いを以って権威、智謀あり。剛毅果断に富み、あたかも、旭日昇天の旺威を有し、盛運隆昌、名声天下に布(し)く吉祥運なり。 されど剛毅果断に過ぎて事を誤るおそれあり。且つ、尊栄無比たる極盛の反面には淪落暗黒の極衰あり。故に凡人には位その身に当たらず、軽々しく用いるべきにあらず。

成功運天10―人8

何事も意の如く順調に進展し、目的を達成す。

基礎運人8-地3凶

 基礎絶対不安定。性格を破り、思想上の変化を生じ呼吸器、または脳を痛む。

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「天海=光秀」を裏付ける証拠は枚挙に暇がない。

○天海が天台宗の僧侶として、信長の攻略により荒廃していた比叡山と光秀の領地であった近江の国坂本の復興に尽力した点。

○比叡山近くの堂に『奉寄進 願主光秀』の石碑がある点。

○神君・家康を祀った日光東照宮には明智家の家紋である桔梗紋を身に着けた人物が安置されている点。

○日光華厳の滝周辺を一望できる絶景を『明智平』と天海自身が命名した点。

○しかし、最大にして決定的な証拠は、天海大僧正の諡号(戒名)が『慈眼』であることだ。

同名の京都の『慈眼寺』には、光秀の戒名が記された像が安置されている。

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もう一つの説が、比叡山に落ち延び、かの地で僧として天寿を完うしたというものだ。なんと延暦寺には山崎合戦から33年たった慶長20年2月17日に光秀が寄進した石灯籠が有るのだ。

寄進者の{光秀}が同名の別人である可能性もある。ただ気になるのは、その比叡山の坊院の一つである長寿院の僧の俗名もまた『光秀』なのである。

 この僧は元和8年(1622)に逝去している。これが光秀だとしたら彼は当時としては異例の長寿(92~94歳)を生きたことになる。

 光秀は山崎の合戦で敗れ、落ち延びている最中に蜂起した一揆農民に襲われ死んだとされている。その首は秀吉に献じられたが、腐敗がひどく誰のものだか判別はできなかったという。

 三日天下と言われた男には豊臣を滅ぼした理解者・徳川家康の元で第二の人生を送った可能性は十分にあったと観たい。(次回は本能寺の変の黒幕が徳川家康であったとの見解について←永人)

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戦国の覇者  九十二・織田信長

戦国の覇者

九十二・織田信長

1534・6・23~82・6・21

信長は光秀ではなく、息子の謀反を疑っていた!!

 戦国の覇者と謳われた信長の最期は、右腕だった明智光秀の裏切りによるものだった。 

 世に名高い本能寺の変が起きたのは、1582年6月21日の早朝のこと。明智勢が本能寺に乱入したとき、初め信長も小姓衆も、「雑兵らがまた喧嘩でもして騒いでいるのだろう」と思ったという。

」ところがすぐに鬨の声が聞こえ、御殿へ鉄砲を撃ちかけてきたため、信長も『謀反か』と思いなおし、侍従の森蘭丸に『いかなる者の企てぞ』と尋ねたという。すると蘭丸は、「明智様とお見受けいたす・・・」と信長に言上。

 信長は『是非におよばず(仕方がない)』と呟き、寝間着のまま槍を取り戦い、自ら火を放って果てた――。これまで誰もが名場面として信じてきた『信長公記』の記述である。

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織 田 信 長

18 5 9 8

天格・織田  23

人格・田信  14

 破兆あり。家族縁薄く、親を失い子を亡くす。あるいは兄弟姉妹に離るるなど、孤独・不如意・煩悶(はんもん)・危難・遭難の意あり。浮沈極まりなし、その浮沈に憂えて終始す。しきりに心を労するもその功無し。物事不足がちにて辛酸多く、天寿を傷(そこ)なう者あり。

 

地格・信長  17

 権威剛情にして自己の一存のみにて趣意を貫かんとするため、時に他人と不和小禍を醸す憂いあるも、これを矯(た)めて慎み深きときは、幸慶大に至る。意志堅確、万難突破の気力あるは最も偉大なる美点なれども、剛に過ぎんか失敗困苦を招くおそれあり、特に注意戒心を要す。

 然れども、権威真勇自己の意志を枉(ま)げず、克(よ)く大志大業を成就し、成功の栄冠を獲得すべき好運有り。もし過剛に陥り、自我を固執するときは、厄難に遭うこと有るを以って、万事剛情、狷介(けんかい)を慎むべし。

 外格・織長  26

 英雄運にして天賦の英才を発揮し、頭領たるの大才幹を示して大事を達成す。不世出の怪傑、志士、偉人、烈士、怪力者などこの運気に出ずる者多し。

総格・織田信長40

 智謀に富み胆力人に秀でたれども、不遜にして徳望に乏しく、批難攻撃を受くる意あり。波瀾浮沈を免れず、他の運格との関係において、刑傷・罪科を醸し、あるいは病弱、短命、孤独に陥る者あり。

 動かんとして失敗を招く意多し。進んで難を生じ、退いて僅かに安きを保つべき運数なり。

●基礎運・人4―地7

 一見安穏にて然(しか)らず、精神過労、呼吸器病などを起し易し。

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ところが江戸初期に徳川家康の 老臣・大久保彦左衛門が書いた『三河物語』では、少々事情が異なっている。

 その日謀反を悟った信長は寝所を飛び出し御殿の表へ回ると、開口一番、森蘭丸に『上之助が別心(謀反)したか!』と叫んだというのだ。

 上之助とは信長の嫡男・信忠のことだ。蘭丸はすぐさま「明智殿が別心と見え申す」と答えると、信長は『さては明智めが心変わり…』とうなり、自害するために奥へ姿を消した。とある。

 驚くべき話だが、信長は光秀より先に息子の信忠(信長と同画数)を疑っていたのだ。

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 これには理由がある。この時信忠は京の妙覚寺に織田軍の主力を引き連れ、駐屯していたからだ。信長にしたら秀吉の援軍として中国へ向かっているはずの明智軍がまさか洛中に乱入しているとは思わなかったのである。肉身さえも疑うのが戦乱の世の習いだったのだろう。

 この時信忠は父信長を救いに本能寺へ駆けつけようとしたが、京都所司代の村井貞勝に止められ、二条御所に籠城。誠仁親王を御所外へ退去させ、多勢に無勢の戦いの中、立派に自害して果てたという。

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甲斐の国を治めた戦国大名。九十一・武田信玄

第6章日本史偉人の死の真相

甲斐の国を治めた戦国大名

九十一・武田信玄

1521・12・1~1573・5・13

3人の影武者をはべらせた甲斐の虎

 「わが死を3年の間隠せ・・・」武田信玄の今際の言葉として知られる。

 戦国の覇者織田信長は信玄を最も恐れていたという。信玄が晩年結核と思しき病を患っていたことは、織田方の間者によって信長の耳に入っていた。

 信長は信玄の死を待っていたのだ。それ故に信玄は己の死を3年隠すように遺言したわけである。

 信玄には常に3人の影武者が存在したと言われている。最も活躍したのが信玄の弟、信廉。家臣の高坂弾正昌信。それともう一人の弟の信繁である。

 『信廉は、体つき、容貌が兄信玄とそっくりだったので、武田方の軍師・山本勘助によって影武者に起用されたんです。元々絵師だった信廉は、武術が不得手だったようで、上杉謙信と闘った時には太刀を抜けず、危うく命を落としそうになったこともあるようです』(郷土史研究家)

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武 田 信 玄

8  5 9  5

天格・武田  13

人格・田信  14

破兆あり。家族縁薄く、親を失い、子を亡くす。あるいは兄弟姉妹に離るるなど、孤独、不如意、煩悶(はんもん)、危難、遭難の意あり。浮沈極まりなく、その浮沈を憂えて終始す.しきりに心を労す。労して功無し。物事不足がちにて、辛酸多く、天寿を傷(そこな)う者あり。

地格・信玄  14

外格・武玄  13

学芸才能に富み、智謀奇略あり。忍従事に当たり、いかなる難関も巧みに切り抜けて大功を奏し、富貴幸福を享受し得る好誘導あり。智慧充満の要素あるを特長とす。

総格・武田信玄27

自我心強く批難運と称し、誹謗攻撃を受け失敗する者多し。中絶半途、中折れの象(かたち)あり。

中年ごろまでは智謀と奮闘と努力とによりて名利ともに行はるる事あるも、内外不和を醸して発達成り難く、たとえ自身温順なりといえども、裏面の陰口、批難を免れず、刑罰・遭難・変死・孤独に陥ることあり。

***

 1572年12月、信玄は遠江で徳川陣営と闘い、勝利をおさめ、帰陣する途中で病死する

 信玄が陣中で没すると、弟の信廉は信玄の“影武者”として陣営の先頭に立ち帰陣。見事に大役を果たしたと伝えられている。しかしながら、生き馬の目を抜く戦国の世。

 そこら中に間者の類がうようよしており、信玄死すの報はすぐに全国に回ったという。

 

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 信玄と影武者を巡って面白い逸話がある。武田信玄と上杉謙信が5度にわたって対峙したことで知られる川中島の合戦。

 1561年9月の第4次合戦では両軍激しい戦闘が続き、その間手薄となった武田本陣に謙信が突入し,床机(しょうぎ)に座る信玄めがけて三太刀振りおろし、信玄は軍配でこれをかわすという有名な一騎打ちのシーンがあった。

 しかし信玄は『あれはわしの影』と一騎打ちを否定したという。実は謙信の方も本人ではなく、上杉方の資料では、荒川伊豆守という木っ端武者だったと記している。

 信玄は“本人”でも相手が木っ端武者だったため、信玄はあえて一騎打ちを否定したのかもしれない。

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大韓民国第5~9代大統領  朴 正煕

大韓民国第5~9代大統領

九十・朴正煕

1917・11・14~79・10・26

 右腕だった情報機関のトップに銃撃される。

 軍事クーデターにより、大韓民国大統領の座に就いた朴正煕大統領の最後は、あっけないものだった。

KCIA(韓国中央情報局)は、朴がクーデターに成功した1961年に、朴の提唱により、創設されている。KCIAのトップ金載圭は、朴正煕の片腕として権勢をふるっていた。

  朴正煕は民主化を求める運動を徹底的に弾圧していたのだが、KCIAの締め付けが足りないと、金載圭を叱責。よほど叱責がきつかったのか、朴に対して金載圭は次第に怨みを募らせていく。

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(一)朴 正煕

(1) 6 5 13

天格7

人格11

地格18

外格14;破兆あり。家族縁薄く、親を失い子を亡くす。あるいは兄弟姉妹に離るるなど、孤独、不如意,煩悶、危難、遭難の意あり。浮沈極まりなく、その浮沈に憂えて終始す。しきりに心を労す。労して功なし。物事不足がちにて辛酸 多く、天寿を傷(そこ)なう者あり。

 ●成功運・天7―人1;運命抑圧を受け、不伸不満の結果、脳を冒され健康を害す。

●基礎運・人1―地8;常に迫害を受け目下の脅威に逢う思い有利。脳神経。肺を冒す。

●三才の配置・天7―人1―地8;絶対的短命運。発狂・神経衰弱・肺病・脳病など長患・難治の病症を生じ、短命の人生に終わる。

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そして79年10月、KCIAの建物内で、酒食を共にした後、金載圭は朴正煕並びに警備員ら計7名を射殺するという凶行に及んだ。

 独裁者射殺によるクーデターを試みるというほど計画的な犯行ではなく、金載圭はほどなく逮捕。暗殺犯の金載圭らは死刑に処せられている。

 KCIAトップの乱心により、朴正煕の恐怖政治は電撃的に終わりを告げることになったわけだ。

朴正煕は民主化を弾圧する一方で、韓国を経済大国に押し上げ、富国を成功させるなど、毀誉褒貶に富んだ人物だった。

 現在も歴代の大統領の中で最も人気があるとされている。現在反日政策を強行し、かつてないほど日韓関係を冷え込ませた朴槿恵大統領はこの朴正煕の娘である。

 父の朴大統領を亡くす5年前に母をも銃弾で亡くしている。祝賀行事に参加していた夫の朴正煕と共に参加していた陸英修は朴正煕を狙ったテロリストの銃弾によって頭部を撃ち抜かれ、死亡した。

両親を銃撃で失った今の朴槿恵大統領。彼女のトラウマは政策に影響しているのか?

 

 

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毛沢東の後継者と目された男 八十九・林彪

 

毛沢東の後継者と目された男

八十九・林彪

1907・12・5~971・9・13

恭順の意を示しながら、水面下で毛の暗殺を準備。

ゲニ凄まじきは中国の権力闘争である。未だに初代国家主席としての影響力を残す毛沢東。彼は猜疑心が強く有力な部下同士を競わせることで、両者を失脚させるなどの処世術を実践していたとされる。

 その意味で“怪人”林彪が返り討ちにあったのは必然だったかも知れない。毛沢東と林彪は国民党・共産党の内戦時代からの付き合いで、両者とも長征で辛苦をなめた仲だ。

 戦後共産党は国民党との戦いに勝利し、中華人民共和国が誕生すると林彪は主として軍事畑を歩んだ。『毛は早くから林彪を侮れないやつだと察知していました。1950年に朝鮮動乱が始まると、金日成の北朝鮮に中国は義勇兵という形で援軍を送りました。

 この義勇兵は生還の見込みが薄いものでしたが、毛は義勇兵の司令官に林彪を指名したんです。この機に後々ライバルになるかもしれない林彪を殺してしまおうとする毛の策略だったのでしょう』(中国の近代史に詳しいジャーナリスト)

 

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(一)   林彪(一)

(1)  811(1)

天格9

人格19凶:すこぶる知能を有し、活動の素質あり。大業を起こし、名利を達すべき実力ありといえども意外の障害をもたらし、内外不和にして困難多く、辛労絶ゆることなし。

 人格(主運)にこれを有する時を最も凶とし、病弱、廃疾、不具、卒倒、孤独の悲運に陥り、さらに一歩を進るときは短命夭折、妻子生死別、刑罰殺傷などの災いあり。

 万事行きづまりたる運命にして特に配偶者と死別、事業中途挫折など最も多く、一名短命運とも称し、非業悲命を免れず。

地格12凶;無理に伸びんとするの象。薄弱無力を顧みず、不相応の企てを為して却って失敗す。

 物事不足がちにして家族縁薄く、孤独・遭難逆境・病弱・困難あり。殊に、他運格との配合により、意外の厄難に襲われ天寿を全うしがたき悲運に陥ることあり。

前運11吉;陰陽新たに来りて天賦の幸福を受け、万事順序正しき発達を為し、穏健着実次第に富貴繁栄を得る。一家最興の格式あり。家運挽回の運にして平成和順の最大吉運とす。

外格2混沌たる未定数にて最大の凶悪を意味す。

 独立の気力乏しく、進退の自由を失い、内外波瀾を生じ、常に不安同揺の心に苦しみ、あるいは病気、あるいは不具、遭難の暗示あり、他の凶運を伴う時は短命に導くことあり。

 しからざるも、破滅の兆し甚だしく、志節達しがたく、一生、艱難辛労の絶ゆることなし。

総格19凶↑の人格19に同じ。

  ***

しかし林彪は体調不良を理由にこの命令を拒否する。

「毛は自分の命など命令書一枚で簡単に飛ばせる。そう悟った林彪は以後徹底して忠誠を誓った。その態度は周囲から卑屈に移るほどであった。しかし林彪にはしたたかな計算が有った。

『林彪は毛沢東に恭順の意を示すことで毛の盟友という地位を築き、その地位を利用して自分のライバルとなる党や軍幹部を次々と粛清していったんです。軍部ではその権力はいつの間にか毛を凌ぐまでになりました』これを受けて毛沢東は、常にそうして来たように林彪一派の粛清に乗り出す。

 ***

 そこで林彪は、毛沢東の地方視察時を狙って毛の爆殺計画を立案する。ただ事前にこの計画が露呈。林彪はソ連に亡命を決断する。

 林彪は9人で空軍機に乗込み、ソ連に向け飛び立つが、機はモンゴル領内に墜落、乗員は全員死亡した。

墜落の原因はソ連軍が放った地対空ミサイルだったとする説が有力である。

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八十八・金 日成 息子に殺されたのか!?

朝鮮民主主義人民共和国・国家主席

八十八・金 日成

1912・4・15~94・7・8

国策を巡り息子・金 正日と対立。

 1994年7月8日、北朝鮮の最高指導者である金日成国家主席が、心筋梗塞のため死去した。

当時、北朝鮮はアメリカのクリントン政権と一触即発であった外交関係改善へ向けて調整を行っていた。その結果、「米朝枠組み合意」を結ぶことが決定、米朝関係は新たな時代の幕開けを予感させていた。

 対韓国外交でも大きな進展を見せており、金泳三大統領との南北会談が決定しそうな気配だった。

そのため、金日成の死は世界に驚きと失望を以って迎えられた。

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(一)金日成

(1)847

天格・(一)金 9

人格・金日 12

地格・日成 11

外格・(一)成 8

総格・金日成19

●すこぶる知能を有し、活動の素質あり。大業を起し、名利を達すべき実力ありといえども、意外の障害をもたらし、内外不和にして困難多く、辛労絶ゆる事なし。

あるいは、病弱、廃疾、卒倒、孤独の悲運に陥り、短命夭折、妻子生死別、刑罰殺傷等の災い有り。万事行きづまりたる運命にして、特に配偶者と死別、事業中途挫折など最も多く、一名短命運とも称し、非業非命を免れず。

***

82歳と高齢であったため、病死であっても不思議はないが、当時から暗殺を疑う声は多かった。

しかも、暗殺の命令を下したのは息子の金正日ではないかと一部のマスコミは報じた。

『金日成は死去する前夜、金正日と電話で激しく口論をしていたという情報が有ります。さらに金正日の命令で軍の暗殺チームがヘリで隠密裏に金日成の寝所を急襲、暗殺を実行したと報じたメディアもあります』(在韓日本人ジャーナリスト)

****

父と子は一体何を争っていたのか?

『当時、金日成は農業に力を入れて国内から飢えを無くし、さらに中国式の開放経済改革を取り入れ国力を増進させる新方針を打ち出していました。

 これが、金正日には気に入らなかった。金正日は、核武装を一刻も早く実現しなければ、いずれ北朝鮮はアメリカに潰されてしまうと考えていたのです。

 また金王朝に対する敵対階層が多く暮らすとされる咸鏡北道・咸鏡南道地方は、食糧配給が抑えられていたため、飢餓に苦しんでいた。これを忍びないとして金日成は食糧配給を再開させるつもりでした。これにも息子の金正日は厳しく反対していたと言われています』(前同)

 現在、祖国を追われ、放浪の身とされる金正日の長男である金正男は、かつて「祖父を殺したから、親父のことは嫌いだ」と話していたという情報もある。本当に“親殺し”はあったのだろうか!?

 

 

 

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アルカイダ司令官

八十七・ウサマ・ビンラディン

1957・3・10~2011・5・2

本物は01年に死亡していたと元米政府高官が証言

 国際テロネットワーク、「アルカイダ」の首魁として知られるウサマ・ビンラディンが、潜伏先のパキスタンアボタバードの邸宅で、米軍特殊部隊により暗殺されたのは2011年5月2日のこと。

 アボタバードは首都イスラマバードから約60キロ北に位置する町。ビンラディンはアボタバードの住宅地に“要塞”を思わせる邸宅を構えていた。(2005年ごろ建設)。

  ビンラディンは家族と一緒に建物の2・3階部分で生活しており、護衛なども含めると、このアジトには24名が暮らしていたという。

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OSAMA BINLADEN

11343 31323243

 天格21

人格19

地格12

外格14

 ***

『発端となる情報は、キューバの米海軍基地内に設置されたグアンタナモの捕虜収容所のテロ容疑者を尋問して入手したものとされます』(通信社記者)。

 僅か38分で決着した急襲作戦は『ジェロニモ作戦』と命名され、精鋭部隊の米海軍特殊部隊シールズの中でも最精鋭とされるチーム6が派遣されたという。

しかしこの捕り物帳には、不可解な点が・・・

 『米軍はDNAで本人確認をしたとしていますが、そんなもの、発表次第ではなんとでもできる。

 一部メディアに出回った遺体の写真は合成であることが判明していますし、死体をすぐさま水葬したというのも怪しい。

 そもそも抵抗はほとんどなかったにもかかわらず、生け捕りにしなかった点が全く以って不可解です』

(米軍事情に詳しい軍事記者)

 では“真相”はいかなるものなのか?

『ビンラディンはソ連のアフガン侵攻時に米軍と協力して戦った人物。一説には以来、CIAのエージエントになったと言われています。

 9・11テロも自作自演説が消えませんし、急襲ミッションも合衆国政府が描く世界戦略の新たなシナリオのための演出に過ぎなかったのかも」(前同)

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元 米国務次官補代理のスティーブ・ピーゼニクは、

急襲作戦の直後、9・11テロがやらせであると明らかにした軍首脳がいると証言。

さらに、「本物のビンラディンは9・11の数か月前に死んでいる」と語っている。複雑な国際陰謀が背後に存在するのか?

 

 

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八十三・ボリス・エリツィン ロシア共和国初代大統領

ロシア共和国初代大統領

八十三・ボリス・エリツィン

1931・2・12~2007・4・23

KGBによる暗殺未遂事件

3月19日投稿分

 エリツィンは旧ソ連時代KGBによって数回暗殺されかけている。例を挙げると議員時代にエリツィンが酩酊状態でモスクワ郊外をフラフラ歩いていたところ、川に転落。溺れ死にかけていたところを、たまたま通りかかった警察官に救出されたというもの。この件については本人が自伝で『泥酔して橋から踏み外し川に落ちた』と言い訳しているのだが、

 実は尾行していたKGB工作員が、エリツィンが酔っぱらっているのをいいことに、ドサクサに紛れて川に突き落とした、と言われている。

エリツィンは無類の酒好きとして知られており、晩年はほとんどアルコール中毒状態と言ってもいいくらい酒漬けだった。大量のウォッカを常用し、公務中も酒の勢いで不規則発言や、奇行を繰り返していたのは有名な話だ。

 泥酔状態で会談をドタキャンしたり、外遊先でオーケストラ指揮者の指揮棒を取り上げて自分で指揮を執り続けたエピソード等、酒にまつわる武勇伝は枚挙に暇(いとま)がない。

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BORIS EELTSIN

31311 4422113

 天格17

人格14

地格 9

外格12

成功運・天7―人4;成功極めて困難、肺患、難症を生じ、甚だしきは発狂変死す。

基礎運・人4―地9;基礎絶対不安定。意外の変事を生じ、生命。財産を失くす。

三才の配置

天7-人4-地9(第三型絶対的短命運);負傷、遭難などすべて他動的、外傷的危険に陥りやすく、短命の人生に終わること多し。

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そんなエリツィンだけに、酩酊状態で溺死仕掛けたというのは、いかにもありそうな話だ。

 KGBとしては暗殺しようと思えばこれほど都合のいい人物もいない。エリツインは幸い暗殺の危険を乗り越えたわけだが、寸止めのテロルはKGBからの重要な警告だったのかもしれない。

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ソ連崩壊後にエリツィンは、KGBを解体。巨大な権

力基盤を有していたKGBを骨抜きにすることによってエリツインは新生ロシアでの自身の権力基盤を強化しようと考えた。

 KGB出身でその後継組織であるFSB長官を務めたプーチンに政権が移行すると、プーチンはFSBにテコ入れを図りFSBは旧KGB並みの権力をその手に取り戻したと言われる。

 プーチンと逆の政策を執っていたエリツインは旧KGB勢力に目の敵にされていたようだ。肥大化し、権力を持った諜報機関ほど恐ろしいものはない。  

 

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