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2月29日 ただ「焼けた」と見る

2月29日

ただ「焼けた」と見る

昭和48年(1973)4月、安田理深の居宅が隣家からの貰い火で全焼してしまった。安田理深は浄土真宗大谷派の学者である。無位無官の在野の学徒に終始したが、戦後来日したキリスト教神学者のティリッヒと対談し、ティリッヒを深く感銘させたことが知られている。

 学者が火事に遭うと惨めである。おびただしい蔵書はもとより、研究論文やノートがすべて灰燼に帰した。

 惜しんでも惜しみきれない。最初安田は隣家の人を怨んだ。隣からの類焼だから隣の人間に自分の大事なものを―焼かれた―と考えて、となりを怨みに思った。そして復讐してやりたいと思った。

しかし、彼は仏教学者である。仏教を学んでいる人間がこんなことではいけないと考えて、彼は自分の家を自分で―焼いた―と思おうとした。一所懸命にそう考えるように努力したのである。けれどもそれは不可能であった。事実と違うのだから、そんなことは思えない。

 そこで、安田は最後に、-焼けた―と思うようにした。

「焼かれた」でもない「焼いた」でもない。ただ「焼けた」と考えるようにしたのだ。

 そうすると事実を事実のまま、淡々と受け止めることが出来、自分も他人も傷つけずに済むことがわかった。

火事の後、しばらくして安田はそう語ったという。

 素晴らしい話である。仏教は物事をありのままに見ろ、と教えている。またこだわりなく見ろ、とも教えている。泥棒にものを盗られたような場合、「盗られた」と見るのは事実ではあるが、こだわりがある。

 それをただ「なくなった」と見ることが出来れば、ありのまま、かつこだわりなく見ていることになるのであろう。

安田理深はわれわれにそういう見方を教えてくれたわけである。

江戸の三大火 の一つ、目黒行人坂の大火(明和の大火)は、

明和9年(1772)2月29日に発生。死者1万数千人という。

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2月28日 趙州の喫茶去

2月28日

趙州の『喫茶去』

 中国、唐代の禅僧・趙州従諗(じょうしゅう・じゅうしん)は誰が尋ねてきても、まず「あなたは以前にここへ来られたことがあるか?」と尋ねる。

そして相手が「有ります」と答えようと、「有りません」と答えようと、趙州は相手に『喫茶去』と言った。“去”は助辞であって意味がないから

 これは、「まあお茶でもお飲みなされ」ということになる。

つまりやって来た客にはお茶をすすめたのである。

 これが有名な「趙州喫茶去」の公案である。我々は禅というものを、何か特別の世界のことのように思っている。

そしてそれを師に教わろうとして、趙州の所へやって来ているのだ。

 しかし、禅は一杯のお茶を飲むという日常の行為をただ当たり前にやることなんだ。日常の当たり前を当たり前にやれれば、その時、禅は卒業である。

 そのことを趙州は新米の僧に教えてやりたかったのだろう。それが『喫茶去』の意味だと思う。

当たり前にお茶を飲む―と言えば、我が国には茶道がある。その茶道については千利休に師事した南坊宗啓が「火ヲヲコシ、湯ヲワカシ、茶を喫スルマデノコト也。他事アルベカラズ」(『南坊録』)と言っている。

 つまり、茶も禅も同じでただ当たり前に飲むことが出来ればそれでいいのである。そんなに難しく考えることはない。

**

そう言えばこんな話がある。儒者が禅僧の所に問答に来た。議論に激したもので、儒者は出されたお茶を畳の上にこぼしてしまった。

「こんな時、儒者はどうなさるのですか?」と禅僧が問うた。儒者はおたおたしている。すると禅僧は

「禅ではこうします」と雑巾を持ってきて、畳を拭いた。それが禅であり、お茶を飲むということだ。

 ***

千家流茶道の開祖、千 利休は、天正19年(1591)2月28日、秀吉に切腹を命じられて自刃。その理由は定かではない。

 

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安倍内閣は見習うべき!!松平定信の領民救済

安倍政権は、見習うべき!!

松平定信の領民救済

歴史作家・加来耕三

江戸時代で最大の飢饉と言えば「天明の大飢饉」です。天明2年(1782)の悪天候と冷害に加えて翌年には浅間山が噴火。各地に火山灰が降った上に、灰によって日射量が低下し、農作物が凶作となりました。

 餓死者が相次ぎ、全国でおよそ92万人が死亡したとされています。特に東北地方は被害が大きく、なかでも津軽弘前藩(現・青森県津軽地方)は天明3年9月から僅か9ヶ月間で8万1702人の餓死者を出しました。津軽藩の人口の3分の1を失ったことになります。

悲劇に拍車をかけたのが、藩政の不手際です。飢饉で米が値上がりしたこともあって、藩は天明2年に江戸と大坂に合わせて40万俵。加賀(現・石川県南部)に3万俵など約50万俵以上の米を出荷、更に天明3年には農民に小売する分まで買い上げ、江戸大坂に計40万俵を送ってしまったのです。

 そのため、領内の絶望的な米不足が起きてしまったのです。米を満載した船が出ていくのを飢えた農民たちはどのような気持ちで見送ったのでしょうか?

津軽弘前藩の失政と正反対なのが白河藩(現・福島県白河市)でした。当時の藩主は松平定信。のちに幕府老中首座として寛政の改革を行なった人物です。

 飢饉が起きるや定信は近隣の藩などから米を買い取りました。会津藩から6000俵、飛び領の柏崎(現・新潟県柏崎市)から1万俵を購入。更に大坂では、尾張(現・愛知県南部)と美濃(現・岐阜県南部)の米2000俵を江戸では雑穀を買い集めて国許(くにもと)に送りました。

 このほか管内の裕福な商人に米を供出するよう要請。協力した商家には、この家はどれだけの米を供出してくれたと表彰する大札を与え、家の前に飾ることを許しました。こうした定信の機敏な働きによって、白河藩では餓死者を出さなかったと伝えられています。

 津軽弘前藩は目先の利益のために領民を見殺しにし、白河藩は領民の生命が第一と考えたのです。

松平定信は寛政の改革の失敗で辛口の評価を受けていますが、白河藩においては最善を尽くしたと言えるでしょう。

**

現代の日本はどうでしょうか。2011年3月11日の東日本大震災では、津波で16000人もの死者が出ました。防潮堤や避難場所などの施設が不十分なうえに津波への警戒が薄かったことが、被害を拡大したといってもいいでしょう。

それ以上に深刻なのが原発事故です。

あれから3年になろうとしているのに、福島第一原発周辺の住民は家に帰れず、

放射能や汚染水問題も全く解決していません。

 政治が原発の危険性を無視し続けたからです。

その一方で安倍総理大臣が「汚染水は完全にブロックされている」とウソ発言をして東京五輪を誘致しました。

民主主義の世でも、政治は民衆を軽視しています。

少しは松平定信を見習ってほしいものです。 終わり

 

 

 

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2月27日 「カルペ・ディエム」

 

2月27日

「カルぺ・ディエム」

『怒りの葡萄』はアメリカの作家、ジョン・スタインベック(1902年2月27日生まれ)の代表作である。彼はこの代表作によってピューリツァー賞を受け、合衆国アカデミー会員に選ばれた。

 「男たちは人生に区切りをつけて生きて行く。しかし女に区切りなんか無い。すべては一つの大きな流れ。そして、その流れの中で人間はどこまでも続いて行く。

大切なのは、その日一日を生き抜くこと」

 この作品は、不毛の土地のオクラホマを後にしてカリフォルニアへ移住するジョード一家の物語である。そのジョード一家の母親で皆から「おっかあ」と呼ばれている女性がこんなことを言っている。

私はこの“おっかあ”の言う女の生き方――その日一日を生き抜く生き方――が案外仏教的な生き方ではないかと思っている。

「大切なのはその一日を生き抜くこと」といった言葉は我々に古代ローマの叙情詩人ホラティウス(前65~前8)の言葉「カルペ・ディエム」を思い出させる。これは「今日を楽しめ」といった意味。

そしてこれからさらに連想させるのはイエス・キリストの「だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」といった言葉である。

 そして仏教の開祖釈迦にも次のような言葉がある。

『過去を追うな。

未来を願うな。

過去はすでに捨てられた。

未来はまだやってこない。

 だから現在の事柄を、現在において良く観察し、

揺らぐことなく、動ずることなく、よく見極めて実践すべし。

ただ、今日なすべきことを熱心になせ。

誰か明日の死のあることを知らん』(『マッジマ・ニカーヤ』)

多分誤解はないだろうが、「今日を楽しめ(カルペ・ディエム)」はやけっぱちになることではない。釈迦やイエスは投げやりな態度を奨励しているのではない。

そうではなくて、毎日毎日を大事に生きることを教えているのだ。

その日一日をしっかりと生き抜くことを言っているのだ。 私もそう思う。

 

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中原 誠の罪

2月26日

中原 誠の罪

不倫が原因の大量飲酒

不倫が原因で大量飲酒に走ったとし「赤いバラをもらったこともある。『ありがとう』と言われたこともある。でもそれは子供を堕(おろ)した日だった(子供を堕してくれてありがとう、助かったよ=中原 誠の本心。つまり中原の神経も病んでいた←永人)」

 「中原はその後も避妊する様子がなく、私もそれは言いだせなかった。だって向こうは大先生なのだ」と赤裸々に明かした。

 10代から林葉を知る将棋関係者はこう言う。

「不倫騒動後に破滅型になった印象。将棋界では元祖アイドルとして可愛がられてきた。不倫騒動で追放された時もかばう声や復帰を後押しする声もあったぐらい。ただ10年以上経った今はほとんどの人が交流を絶っていると思います」

 別の関係者も言う「林葉は強かったし、切り替えが早く、サバサバした性格だったけど、男からの嫉妬もあった。ストレスは相当だったはず。

 地元のラジオに出演するなど、タレント活動もしていたから、スケジュールも気付きつで、相当疲弊していたのでしょう。確かに酒豪だったが、表面が唐辛子で真っ赤なうどんを好んで食べたり、激辛30倍なんてカレーも平気でした。食事の好みはかなり変わっていて心配していました。

 それにしても46歳で末期の肝硬変は若すぎる。新渡戸文化短大学長の中原英臣氏(医学博士)はこう言う。

「重度の肝硬変と肝臓がんはほぼイコールと見ていい。一般的に、40代でこれほど深刻になるとは思えません。肝硬変の9割は、感染症によるものと考えられます。林葉さんもB型かC型肝炎に感染していたのでは?肝炎ウイルスが体に残った状態で大量に飲酒すると悪化します」

永人所感

肝臓移植をすすめられているが、勝負師の彼女はあくまでも自分の体で勝負すると決めているゆえ、移植は断ったと言う。

また林葉直子さんは『タロット占い師』でもあると言うが、自己のことは占いに何と出ているのか・・・・?

短命運気の彼女であるからおそらく年内は持たないだろう。まさに壮絶な人生である。

それにつけても“女たらし名人・中原 誠”は罪作りな男である。

 

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2月26日 精進はゆったりした努力

2月26日

精進はゆったりした努力

『イソップ物語』に出てくる

―アリとキリギリス―の話は、日本で良く知られている。もっとも原典で見ると、あの話は「蟻と蝉」になっているが・・・。

暑い夏をアリはせっせと働いていた。キリギリスは遊び呆けている。「しっかり働かないと、冬になって困るぞ」とアリは忠告するが、キリギリスは馬耳東風。

 やがて冬になって食べ物に困ったキリギリスはアリの家を訪ねて行く。しかし、アリは、「ざまあみろ!」と言ってキリギリスを追い返す。

 我々はこのような話を聞かされ、「だからキリギリスのように遊んでいてはいけない。アリのように勤勉であれ!」と教わった。

 でも、考えてみれば、いくらなんでも「ざまあみろ!」はひどい。仏教者としてはキリギリスに「ざまあみろ」と言うようなアリを見習いなさいとは、言ってはいけないと思う。

 そのためであろうか近年の若者たちの間では、アリとキリギリスのパロディ版が語られている。

暑い夏をアリはせっせと働き、キリギリスは遊んでいた。やがて冬になって、食べ物が無くなったキリギリスはアリの家を訪ねる。

 キリギリスは「コン、コン」とアリの家をノックするが、アリは出てこない。「おかしいなあ、アリさんどうしたんだろう…?」とキリギリスは裏口から入る。

 するとアリは夏の間の働き過ぎで死んでいた。つまり過労死だ。キリギリスはアリの蓄えていた食糧を食べて、冬を過ごした。・・・・そういった話だ。

仏教では精進ということを教えている。精進とは簡単に言えば努力である。しかしながら仏教で言う精進は

単なる努力ではない。ゆったりとした努力でなければならない。そしてまた成果にこだわらない努力でなければならない。

他人と競争して他人に勝つための努力は精進ではない。努力をするのが楽しいから努力する。そういう努力が精進である。そういう意味ではアリの努力は仏教の精進ではない。

**

慶安2年(1649)2月26日。

「タバコは吸うな」「酒や茶を飲むな」等、農民に忍従の生活を強制した「慶安御触書」が出された。

 日本人がアリの勤勉を美徳とするようになったのは、この影響かも知れない。

 

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元女流棋士 林葉直子の壮絶人生

元女流棋士・林葉直子の壮絶人生

 中原 誠の愛人として騒がれた時期もあった元女流将棋棋士でタレントの林葉直子は末期の肝硬変であることを最近の婦人公論(2月22日発売)で告白したようだ。

「これまで公表してきませんでしたが、私の病名は末期の肝硬変です」

「アバラ骨が浮くほどやせ細ってるし、おなかはポコンと出て妊婦のようですから」・・・

 林葉と言えば、中原誠16世名人と不倫騒動や失踪ヘアヌード写真集発売と世間を騒がせてきた。しばらく表舞台に姿を見せることはなかったが、元アイドル棋士の変わりようには、驚くしかない。

21日には情報番組「ノンストップ!」(フジテレビ系)の独占インタビューに登場。やせ細り、力なく話す姿に、かつての面影はなく、「肝硬変でも肝不全に近い。ここまでなったらもう駄目。いつ死んでもしょうがないなって感じ」と語っていた。

現在、地元福岡県で一人暮らしをする林葉は、入退院を繰り返し、一時は体重が38キロまで落ちたという。決定的に体調を崩したのは06年ごろ、父親が残した借金が原因で自己破産。1億2000万円の自宅を差し押さえられた。偏った生活により一気に肝臓にガタがきた、と言っている。

 *林葉直子(8・15・8・3)草カンムリは艸で6画ゆえ葉は15画。運の強さ20点

天格・林葉23画

人格・葉直  23画大凶 頭領寡婦運

地格・直子  11画大吉 順調発展運

外格・林子  11画大吉 順調発展運

総格・林葉直子34画大凶 破壊破滅運

「34画の霊導」

破家亡身最悪の運。

破壊乱離の象。 一度び凶来たる時は凶は更なる大凶を生じ、凶禍、災厄、障害しきりにおよびて、万事に行き詰まりを覚え、難症・短命を余儀なくされ、終生を完うすることなき、大凶悪の運気を表出す。

 特に37歳以降の人生後半(後運)に林葉の家を破り、わが身を亡(ほろ)ぼす厄災の中に身を落とすことを意味す。 

また新著「遺言――最後の食卓」(中央公論新社)の中では、「病気で食後の薬が8種類ぐらいあり、固いものを食べると歯茎から出血。腰が痛くて正座もできないし、塩分制限があるので食べられるものも制限される」といった闘病生活を紹介している。 続く

 

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2月25日 左遷の心構え

2月25日

「左遷」の時の心構え

 サラリーマン生活でなにが悔しいといっても、左遷ほど悔しいことはない。

いっそ会社を辞めようか・・・と思う人も多い。

そんな時ちょっと法然上人のことを考えてみたらどうだろうか。

我が国浄土宗の元祖法然上人の生涯は、決して順風ばかりでなかった。多くの逆風が有る。その最大の逆風は、承元元年(1207)の院宣による土佐(実際は讃岐)への配流であった。これは左遷と言った生易しいものではない。犯罪人としての流刑であった。だが法然は、この流罪をこのように受けとめている。

 「流刑更に恨みとすべからず。その故は、齢すでに八旬に迫りぬ。たとい師弟同じ都に住すとも娑婆の離別近きにあるべし・・・中略・・・しかのみならず、

念仏の興行、洛陽にして年久し、辺鄙(へんぴ)に赴きて,田夫野人をすすめんこと季来(きらい)の本意なり。しかれども、時至らずして、素意未だ果たさず、今事の縁によりて、季来の本意を遂げんこと、すこぶる朝恩とも云うふべし」

 ――流罪になったことを怨(うら)んではいけない、なぜなら私はもう80歳近いのであり、師弟が同じ京都にいても娑婆の別れはもうすぐだ。・・・そればかりではない。念仏を弘めることを中央(京都)では長い間してきたが、地方に行って田舎の人々に念仏をすすめるのが

永年の願いであった。だが時がいたらず、その願いを果たしていない。今こういうこと(流罪)があって、永年の願いが遂げられることは、むしろ「朝恩」と言ってよさそうである。

 流罪をチャンスに、地方の人々に念仏を弘められる。

そう考えるなら、流罪は朝恩と受け取れるわけだ。法然はそう言っている。

 もっとも、朝恩と言った表現を文字通りに解釈するか、法然がそこに皮肉を込めているか、意見は分かれるであろう。しかし法然が流罪に屈せず、それを逆転させて絶好のチャンスととらえていたことは間違いない。

 サラリーマンが左遷された時、官費、社費で地方に留学させて貰った、と考えたら面白そうだ。

日本史最大の左遷は、菅原道真(延喜3年=903年2月25日没)のそれであろう。

道真は、右大臣から太宰権帥(太宰のごんの措置)に左遷された。

 

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浅田真央さんになお期待する!

2月24日投稿

浅田真央さんになお期待する!

フリーの競技が終了の後、

日本人女性記者の「SPで(予想外の16位)は、どうしてあのようなことになったのですか?」との質問に

浅田は「わかりません」と間を置かずに答えた。

佐藤信夫コーチはフリー競技の前に「それとなく雰囲気にSPの引きずりが見受けられたので、フリーは後に悔いの思いを残さぬよう持てる力を存分に出し切るように」とアドバイスしたそうだ。

 彼女は最初のトリプル・ジャンプ成功で「いける」という感触をつかみ、後は思う存分に全身全霊でプレイに集中できたという。

**

フリーのあと、浅田は「これが自分がやろうと思っていた構成なので良かった。今朝の練習もそこまで良くなかった。いろいろあったのですが、ジャンプを一つ一つクリアに跳んで行こうと思った。

 昨日の演技(SP)はとても残念で悔しかった。取り返しがつかないことをしたと思う。メダルは持ち帰ることはできませんが、フリーでは4年間しっかりやってきたことを出せた。

たくさんの方に支えてもらったので私なりの恩返しは出来たと思います」

それにしても3Aが跳べるものしか実現できない

「8トリプル」は女子で初の偉業だ。

**

2011年12月に精神的な支柱である最愛の母を肝硬変で失い、大きなショックを受けたのは想像に難くない。普通の女性なら受けたショックからどんどん体調を崩すところだと思われるが彼女はそれを運気の強さで見事に乗り切った。

 23歳なら年齢的に引退はまだまだ早い。鈴木選手は今回28歳だった。体調との相談になるのだろうが、何とか頑張れるなら、次回に期待したい。多くの国民は浅田真央さんになおそれを望んでいるだろう。 終わり

 

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2月24日 カタツムリからナメクジへ

 

2月24日

カタツムリからナメクジへ

 芭蕉門下の優れた俳人を「蕉門の十哲」と呼ぶ。

内藤丈草はその一人で、とりわけ詩心の透明な人と言われ、ファンも多い。芥川龍之介は、蕉門の俳人のうち、この丈草を最も好んだという。

 うずくまる 薬の下の 寒さかな

 芭蕉は死の前、お伽(とぎ)に詰めかけた弟子たちにそれぞれの句を作らせた。その時の丈草の句がこれである。その時芭蕉はこの句に感銘して「丈草、出来(でか)したり」と言ったという。

 弟子の中で芭蕉は丈草との間に、最も気質の通い合うものを認めていたらしい・・・と山本健吉『句歌歳時記・冬新年』(新潮社)はコメントしている。

 丈草(宝永元年=1705・2月24日没)は、

尾張、犬山藩士であったが、継母が生んだ弟に家督を譲るため、わざと指を傷つけて、「刀を握ることは出来ぬから武士を捨てる」と言って出家した。

 その出家の時につくった偈(げ)がある。

多年負屋一蝸牛 「多年屋を負う一蝸牛(かたつむり)」

化做蛞蝓得自由 「化して蛞蝓(なめくじ)と做(な)って自由を得(う)」

火宅最惶涎沫尽 「火宅最も惶(おそ)る涎沫(せんまつ)尽んを」

偶尋法雨入林丘 「偶(たまたま) 法雨を尋ねて林丘(りんきゅう)に入る」

長い間蝸牛(かたつむり)のように家を背負って来た

が、蛞蝓(なめくじ)になって自由が得られた。だが火宅の世に生きるに最も恐ろしいことは、水気の無くなること。偶然の縁で仏法の雨を求めて、林や丘に住むことにする。

 出家を蝸牛(かたつむり)から

蛞蝓(なめくじ)への変化ととらえている感覚が斬新である。

時宗の開祖の一遍は鎌倉中期の僧である。彼はその出家について、次のように言っている。「また云う、念仏の機に三品あり。

上根は妻子を帯し家に在りながら著(じゃく)せずして往生す。

中根は妻子を捨つるといえども住処と衣食とを帯して、著せずして往生す。

下根は万事を捨離して往生す』 (一遍上人語録)

 念仏者の素質に上中下の三クラスがある。

最も素晴らしい人は、妻子を持ち、家にいて、しかも執着しないで往生す。

 次のクラスは、妻子は捨てるが、衣食住をもって執着しないで往生す。

 最低のクラスはすべてを捨てて往生す。

上は親鸞、

中は法然、 

下は一遍自身だと考えていたようである。

 

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