日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
学陵同窓会松島支部総会に参会して最終回
学陵同窓会松島支部同窓会
4年ぶり開催に参会して
最終回
彼の立場で考えれば、返信はがきに佐藤孝一(凶名20点)の字の下に括弧で(公一⇒吉名100点)と書いたことへの違和感があったのだろうか?
そしてたった今、1分間の自己紹介提案に私が別な提言を挟む形になったことへの反発心も沸いたのだろうか?
佐藤孝一さんが言った。「先日、吉野さんから出席のハガキを戴いたときに私の名前、親孝行の『孝』を幸福の『幸』に直せばいいと言われましたが、もちろん私は直すつもりはありませんけどね」
「私は7年前に『孝一を公一に変えて使うように』助言しましたが、今回は何も話していません。親孝行の『孝』の字を幸福の『幸』に直して使うように話したこともありません。それは佐藤さんの勘違いでしょう。7年前と同じように今回のハガキでも『公』の文字を奨めたものです。
幸一なら9画の大凶ですから・・・そんなことを言うはずもありません。
佐藤孝一(藤は籐で21画)
人格・藤孝 28画 大凶
▼28画・ 遭難運と称し、波乱変動多く、批難、誹謗を免れず、時に厄難に遭遇し、多く傷害を蒙るかあるいは夫妻互いに相手と生死別し、中には幼にして親に別れ、長じて子を失うことあり。
大体において、禍乱多く、平和の望みなく、不和、争論、逆難、刑罰の災い相次いで来たり、終生
辛労(しんろう)、多き険悪運にて、ことに女性は孤寡に陥り易し。
総格・佐藤孝一 36画 大凶
▼浮沈万態の象。
一生平安を得難く、常に苦辛困難多し。動けば動くほど波乱を巻き、変動を醸(かも)し、敗頽極衰(はいたいきょくすい)に陥る暗示あり。あるいは失敗、淪落(りんらく⇒落ちぶれる)の大凶を来たし、病弱・短命・孤独・厄難を招く。
- 成功運
天八―人八⇒大凶
過剛、偏狭、不和、不測の災禍あり。夫妻ともに不幸の思いに泣くことありて遭難・病厄多し。
- 基礎運
人八―地八⇒大凶
堅剛に過ぎて、批難・遭難・不和・孤独に陥る。天格が七または八の場合特に健康を害し災厄甚だし。
- 三才の配置
天・八―人・八―地・八⇒八の同数⇒大凶
頑迷不屈・器局狭小・冷酷苛烈の何(いづ)れか一方に偏しやすく、自然運命も批難批難、遭難、病災、などの種々なる不幸を招来することとなる。一家の和合も、他人との共同も不可能で成功上に支障をきたすことと成る。
佐藤孝一さんには7年越しに私の著書も差し上げ、彼の幸福を想って3度び助言しても受け入れられないのだから、この話はこれでおしまい。
塩に向かって甘くなるよう祈っても無理なのだとは思いながらも、なお佐藤孝一さんの幸福をお祈りしたい。
終り
鰐陵同窓会松島支部の4年ぶり開催に参会して 三
鰐陵同窓会松島支部
4年ぶり開催に参会して
三
カタカナのコの字のように中央に3人、左右に4人ずつ、合計11人での会となった。会計報告、監査報告、新役員の選出(現役員全員の再任了承)が終わり、懇親会に移った。
司会者で事務局長の佐藤孝一さんから『一人1分間で支部長から着席の順番に時計回りで自己紹介をするよう』提案され、支部長の大宮司光生氏から自己紹介がスタートした。矢本飛行場をめがけた米軍の焼夷弾爆撃の話を中心に仙台空襲と日本敗戦までの支部長5歳ころの敗戦間際の話を約15分間と非常に長く感じた。司会者も支部長に忖度してか途中で何も言わなかった。
さて、次という事から私が立ち上がった。
すると司会者から声がかかった。「吉野さん1分でお願いします」
「司会者にお願いがあります。ご存じのようにコロナ騒ぎの中で中止を余儀なくされ、4年ぶりに開催された今日の会は、歌うのも遠慮願いたいという会場提供者からの要望もあるそうで、こうした中でせめて独り3~5分ぐらいの自己紹介はいいのではないか、私もそうですが、出席者の話を聞くことを楽しみに参加した方も居るのではないでしょうか。1分では思うことを語れないと思いますが如何ですか?」
「じゃ、そういう手本を示してください。どうぞ」
(以前の佐藤孝一さんとは違う雰囲気を感じた)
「吉野永人と 申します。よろしくお願いいたします。私は幼少時から霊感が鋭く、13歳のころからヒトの姓名画数と人生の関係を研究してきました。今人生の修理屋として相談してこられた皆さんの不都合を改善すべく多くの人の悩み解決に頑張っています。
つい先程、隣の平塚さんからこの人はどうかと、名簿に『石川 潔』と書かれた部分を指さされ、「短命型の人で長生き出来ませんね」と答えたところ
『一昨年に亡くなったんです』と話されました。
大抵がこんな調子です。仲の悪い夫婦が仲良くなり、事業の不振が回復し、登校拒否が改まる。最近は関取の四股名を考えたり、そんなことで頑張っています」
「はい、もういいでしょう。止めて下さい」と佐藤さんから声が上がり
「はい、止めます」と着席した。
1分半ぐらいの感じである。
佐藤さんには、以前は腰が低く、物分かりのいい雰囲気で好感が持てたのだが、4年のブランクがあった今回、雰囲気がまるで違うように感じた。
というよりも、姓名からくる人格が28画で遭難険悪運であり、今日の姿が本質なのだろう。
さらに例のkoronaワクチンによる性格変容も加わったのかとも思われた。続く
学陵同窓会松島支部の4年ぶり開催に参会して 二
鰐陵同窓会4年ぶり開催に参会して
二
「それじゃ毎日忙しいでしょう?」
「おかげさまで時間が経つのが速くて・・・」
「ほんとですねぇ、ところでこの人ですがどう思いますか?」と名簿の35回生の石川 潔さんを指さした。
「ああ、この人ね・・・一言で言えば、孤独の短命運ですから長生きはしないという事ですよ」
「えっ?! そうなんですか?! 一昨年亡くなりました・・・私の近所です」
「そうでしたか・・・」
「なんで早死にだとわかるんですか?」
「その人の一生を決める基本、土台となるのが
姓の下と名の上の合計数、石川 潔さんの場合
川と潔で19画になり、これを主運と言いますが、まずここだけで短命の要素が強いという事ですね」
「はあ・・・びっくりしますね。でも潔が15で川と足したら18なのではないですか?」
「サンズイは水を意味して4画と計算します。
酒の字だけは3画ですがね。あとは全て4画ですから潔は16となります」
「だから川と潔で19という訳ですか?」
「そう言う事です」
「吉野さんは前から永人(ながと)ではなかったですよね?」
「そうですよ。吉野武喜(たけよし)でした。
石川 潔さんと同じく基本の運が19画大凶で非常に苦労しました。
武喜が20画でこれも大凶。
28歳までに15億円の連帯保証をして全部被(かぶ)りましたからね。この時、両親の理解と納得を得て改名しました。
新会社を設立し、別途の負債と合計28億円を全額弁済しました。
借金返済完了した時は52歳でしたよ。
大変でしたが、若かったし、すべて面白いと考えて事に当たりました。
辛(つら)いと思ったら一日も務まらなかったと思いますよ」
「そうでしたか・・・私は小学校の教職についていましたから、ちょっと想像できませんね」
その時、事務局員に案内され、新任の石巻高等学校長である須田一憲氏と同窓会長の青木氏が入ってきて鰐陵同窓会松島支部会長の大宮司光生氏と3名が中央に着席した。 続く
鰐陵同窓会・松島支部4年ぶり開催
鰐陵同窓会
4年ぶりの開催に参会して
宮城県石巻市泉町に本拠を持ちながら、
宮城県松島町手樽大日向にも住まいを持ってから18年になった。
そうした事情で、15年前から鰐陵同窓会松島支部に加入させてもらった。例年本部から全体の同窓会長と学校長(宮城県石巻高等学校)が来賓として参加していただいている。
今回も新任の学校長と青木同窓会長のお二人に参加いただく予定とのこと。
毎年、6月の最終土曜日に開催することになっている。
今回は高城町のレストラン『四季亭』で開催する旨の案内通知を受け、参加の返信用ハガキを出させていただいた。
この時、事務局長の姓⇒〇〇・名⇒孝▽様の
姓名が『公』の文字なら完全に運気が改善されるからと6年前に話して本人も理解したはずのものが相変わらず『〇〇・孝▽』のままになっていたので、“忘れず使ってくれるように”、との思いを込めて返信のハガキの宛先『〇〇・孝▽』行の下に小さく
(公▽)様と書き添えて投函した。
つまり『孝⇒公』と書き足して投函した訳である。
さて当日、17時に開催の予定だったので20分前の16時40分に会場に行った。
会場には事務局長の○○・孝▽氏と会計係のTさん
がいたが、会員の出席者が未だだれも来ておらず、今回も一番乗りを果たした。総会資料を受け取り、案内された席に着いた。
今回の参加者は9名の予定だという。
私に次いで到着したのが、私と同年の35回生であるHさん。事務局長の案内で私の左隣に着席した。
Hさんは何となく同窓会名簿をめくった。
35回生は石川 潔さん、Hさん、私の順に三人が並んでいた。
Hさんが言う。「4年前、本をいただいてありがとうございました。吉野さんは今でも相談を受けていろいろアドバイスなさっているんですか?」
「そう言う事ですよ」
「特にどういう方面が得意という事はあるんですか?」
「なんでも受けますよ。何せ雑貨屋相談員ですから・・・」続く
久しぶりにお茶を飲みながら語る 四
久しぶりにお茶を飲みながら語る
四
結婚の実現
「やはり普通の生活に戻って、何かの時に自分の家族がいないと親に迷惑が掛かりっぱなしになると本人も考えたものか、やっと結婚する気になったんだね」
D夫人から「バツ1やバツ2、子連れでもいいから是非息子に嫁を世話していただけないか」と長らく願われてね。
ちょうど心当たりが有ったのでね。見合いしていただきましたよ。二人とも気に入ってくれて交際の後、結婚することになった。
相手のお嬢さんは花嫁修業をがっちり積んだしっかりした美人さんでね.その女性とお兄さん、ご両親の4人とも撰名していただいた家族でした。
私と家内とで仲人を務めさせていただいた。
観光地の有名なホテルで結婚の披露宴をさせていただいたわけです。
当然ながら両家や本人たちにも大喜びされましたよ。
よく、ご縁が無いと諦めている家族は多いのですが、
良縁に出会わないというのも運気のなせる業で、年頃の本人の運気のみならず、それぞれの両親の運も関係している例がほとんどなのですよ。
結婚後、ご主人の姓にたまたま奥様の名が合わないので、再度撰名をして2年後に孫が誕生し、親の希望を入れて命名させていただいたが、それから2年後二人目の孫にまた命名させていただいたという、「D家にとって終わりよければすべて良し」の形に収まったのだが、いろいろなことがあるものでね。人をお世話するのは大変なものだよ。
見合いから結婚に至るまで全部当方の持ち出し、仲人の謝礼も何もなし。時間と費用の持ち出しじゃないと事が進まない。最近お世話する人がいなくなったのは、そうした面からも原因があると思うね。第一うまく言って当たり前、何かあれば恨まれることもある.よ・・・」
―しかし大変と言えば大変、身も心もクタクタになることも多いのだろうし、我々にはとても務まらん話だよなあ―
「いやいや、すっかり話し込んでしまったね。そのうちまたお茶を飲みながら話そうね、今度はこっちから仙台に出て行くよ」
―うちのも喜ぶよ。是非近い内に来てくださいよー
そう言い残して仙台へ帰って行った。終り
久しぶりにお茶を飲みながら語る 三
久しぶりにお茶を飲みながら語る
三
撰名使用の願いが叶う
「そうこうしているうち、冬の寒い昼下がり、突然女性の悲鳴に近い声で電話を貰ってね。例の飲酒で悩んでいたD家の奥さんでしたよ。“吉野先生、Dです。今仙台のA病院から電話しています。息子(長男)が危篤状態でA病院に運ばれたんです。医者にはだめかもしれないから腹をくくってくださいと言われました”と言うんですよ。
よく聞くと、スキーをやって立木に激突し気を失って倒れていたところを、赤い血の色に染まった場所に気付いた他のスキーヤーに見付けられ、救急車でA病院に運ばれたという事らしい。顔の下半分が潰れ出血もひどく、今輸血をしているところだけれど、
相当厳しい、というもので、“どうしたらいいものか”と聞かれ、「とりあえずベッドの名札の場所から2~3センチ位上部に撰名を書いて貼り付けてください。
また着衣に撰名を書いてください。
あとは医者を信じて任せ、心の中で神仏に祈るのみです。本人は撰名を今日まで使ってこなかったんでしょう?
使ってさえいればこんな事故を起こすはずがないと思うけどどうなんですか?とD夫人(母親)に問うとやはり使っていなかったのだと説明されました。
遅まきながら、自ら起こしたとはいえ、こんなひどい目に遭って もし元気になったなら、今度こそ使い始めるはずだから・・・何としても生きてもらわねば。
お母さん、ここは踏ん張りどころで、お母さんの愛情でしか乗り越えることはできない。本当に大変だけどシッカリ頑張ってくださいね」
文字通リ、九死に一生を得て、数回施術して後退院し、半年後職場復帰したんですよ。手術と戦った本人も偉かったが、見守り続けた母親も偉かったと思うよ」
―本当にそういう事ってあるんだねぇ。それで彼はその後撰名を使い始めたの?ー
「やはり懲りたし、反省したんだろうね。しっかり使い始めたそうだよ」 続く
久しぶりにお茶を飲みながら語る 二
久しぶりにお茶を飲みながら語る
二
こんなこともあった。
親子で撰名
―先程、こころが侘(わび)しくなる話が多くなったと言ってたね、例えばどんな話がありました?―
この友人も25年前に撰名済みである。
「長い話になるから気を楽にして聞いてくださいよ。いまから30年ほど前、外へ出て一生懸命に働いている奥さんが見えてね、『酒大好きの主人が夜通し一升瓶を横に置いて酒を飲みはじめ、ぐずぐず文句を言いながら、酒瓶が空になるまで、私を寝かせてくれないことにホトホト困り果て、何とかなら成らないものかと職場の知人に相談したところ、私(吉野永人)のことを聞いたから』と尋ねて来たのですよ。ご主人の姓名を聞いて、この方の名の文字を変えて使用したなら体質も変わり、性格も変容して酒を止め、家族にも迷惑をかけないようになると思うが、やってみますか?と撰名(せんめい=呼び方を変えず、使用する文字を変えて画数を変え、運気を強く、良くする方法)をお勧めしたわけですよ。
彼女はぜひお願いしたい、自分のも一緒に撰名したい、という訳で夫婦そろって撰名を使い始めました」
―はあ、そういう事がねぇ、世の中いろいろ夫婦もいろいろだねぇ―
「それから2週間後、『あんなに好きだった酒は小さなコップ1杯でそれ以上飲まなくなった』と奥さんが喜んで電話を寄こしたんだよ」
―奥さんどんなに喜んだかなあ、わかるよなあ―
「その時、息子たちが二人いて上が仙台、下が関東にいたんだね。父親の飲酒が原因で父子仲が悪かったそうだ。
二人ともしばらく実家から遠ざかっていたんだね、素行の治まった父親の現況を教えても息子たちは信用しなかった。仙台にいる兄が半信半疑で実家に帰り、父親の変容ぶりを見て驚き、成人してから初めて父子で杯を交わしたんだそうだ。
夫と息子の様子を見て安心した奥さんは、長男に撰名を使うよう話したが『そのうちに考えておくから』という息子の言を遮って私に撰名を依頼したんだ」
―当然だね、奥さんの気持ちはよく分かるよ。人間性をすっかりいい方向に代えてしまうんだからなぁ。俺の時もそういう意味の変化はあったからねー
「なかなか息子は使ってくれなくて、奥さんは嘆いていたが、時期が来れば、本人も使うようになるから、焦らず待ちましょう、と言っておいた、ただ怪我や災難の絶対短命運でね」
―そりゃ危ないなあ、ところで下の息子さんはそのままだったの?―
「全く撰名そのものを受け付けてくれないと言ってたね」
続く
100年に一人の怪物大谷翔平
久しぶりにお茶を飲みながら語る
大谷翔平選手について
2023年6月11日の昼過ぎ、仙台から旧友が訪ねてきた。
―相変わらずあなたの人生相談業は忙しいですか?―
「おかげさまで忙しいですが、世の移り変わりの激しさで、なんとも侘しい気持ちになることが最近は多いですね。人の心が変わったというか、人情味が薄らいだというか、世相が変わったのはすごく感じるね」
―あなたの業も大変だなぁ―
「いろいろな意味で今は大変だと思うよ。あなたの方はどうなの?」
―おかげさまで健康に関する器具の売れ具合はまあまあで、使った人たちから感謝されていますよー
「それは何よりだね」
―ところで例の大谷翔平選手なんだが、すごいね。どれぐらい稼ぐんだろう?―
「1000億か2000憶かとにかく100年に一人の野球人間だからね。我々庶民とは全く縁遠い存在になったね」
―大谷翔平の運勢はどうなの?―
「大谷さんの一番大事な一生を左右する土台の主運というのが姓の下の字と名の上の字の合計で決まるんだが、これが谷翔で19画。これは大凶悪運気なんだよ。それから37歳過ぎの人生後半に現れてくる運気が大谷翔平(3・7・12・5=27)全部足して27画になる。これも大凶悪運で飛んでいる飛行機がエンジン急停止で急降下墜落するような中途挫折運になっている」
―相変わらず感が働くんですか?―
「仮に大谷翔平のままなら、病災によって40代で斃(たお)れるのではないかと感じる」
―本当かね!?―
「超太く、短い人生に終わるんじゃないかな? 身一つで誰もなしえない快挙を次々に成し遂げて、100年に一人の野球の才能を開花させて・・・世界一の有名人になってしまったね。プロ野球界で世界一の収入は当然なのかもしれないが、問題は現役を退いたそのあと、あの怪物は何だったのかと後々語り継がれることになるのかな・・・
大谷翔平の成功運が“泡沫夢幻の人生に終わる”となっている・・・まあ、こんなことは誰も望まないし、永遠に大リーグで活躍して欲しいと願っているファンが圧倒的に多いわけだから、普通にこんなことを言ったら頭がイカレタのか、と言われるのがオチだがね。大谷翔平選手は今がピークと感じますね。」
―うーん・・・―
あれから45年 2
あれから45年
宮城県沖地震
妻が下敷きに
2
斎藤こはる
1721242
天格斎藤 38
人格藤こ 23大凶
地格こはる 8
外格斎はる 23大凶
総格斎藤こはる46大凶
三才の配置
天8-人3―地8
第2型絶対的短命運
斎藤昭雄
1721912
天格 斎藤 38
人格 藤昭 30大凶
地格 昭雄 21
外格 斎雄 29
総格 斎藤昭雄 59大凶
こはるさんは話し好きで、友達も多かった。土産物店で40歳のころから働き始めた。「店の看板娘の様だった」と昭雄さん。太陽のような妻との幸せな日々が一瞬で消えた。
「何のために生きているのか」。夜になると寂しさが込み上げた。妻のことを考えないように仕事に打ち込んだ。時間が空けば庭の手入れに没頭した。
安心の生活を
2人の子どもが巣立ち、孫が生まれた。長男は1級建築士の資格を取った。年月が流れ、一つ一つの出来事が積み重なり、いつしか悲しみを受け入れていた。
宮城県沖地震から3年後の1981年、建築基準法が改正され耐震基準が強化された。にもかかわらず、その後も大きな地震が起これば家屋が倒壊し、昭雄さんの心に波が立つ。宮城県沖地震を経験した宮城県の住宅耐震化率は東北で最も高いそれでも耐震性が不十分な住宅が1割弱残る。全国ではその割合が1割強と大きくなる。
地震をなくすことはできないが、最愛の人たちを奪う建物の倒壊は防ぐことができる。
昭雄さんは「明日地震が来るかもしれない。庵して生活できるようすべての建物の耐震化をすぐに進めて欲しい」と願う。 終り
明日への願い・宮城県沖地震遺族の45年
あれから45年・・・
1978年(昭和53年)宮城県沖地震
遺族の45年
幸せ守る耐震化進めて
妻が下敷きに
河北新報6・9(金)
5月上旬、宮城県松島町の斎藤昭雄さん(96)は、石川県珠洲市を襲った最大震度6強の地震を伝えるニュースをテレビで見て、思わずため息をついた。
「まだこんな映像を見ないといけないのか」。
画面に映る潰れた木造家屋がいや応なしに45年前のあの日を思い起こさせた。
6月12日月曜日の夕方、観光地・松島は雲に覆われていた。
目抜き通りにある土産物屋には、まだ観光客がいた。
午後5時14分、激しい揺れが襲い、店は一瞬で瓦礫の山となった。木造の二階部分が一階を押しつぶし、木材や、ガラス、瓦が散らばった。店は昭雄さんの妻こはるさん=当時53=の実家だった。店員として働いていたこはるさんと、観光客の一人が全壊した建物の下敷きになって亡くなった。こはるさんの母も倒壊に巻き込まれ、1週間後に息を引き取った。
奪われた日常
「店が潰れた。奥さんがいないぞ」。昭雄さんが知らせを受けたのは、揺れが収まった直後、町内の職場で片づけに追われているときだった。仕事を投げ出し、店に走った。
現場を見て不安は絶望に変わった。職場と店は近く、働く姿をよく見ていたからどこにいるか見当がついた。「妻に呼ばれているような気がした」。
目線を地面と同じ高さに落とし、瓦礫の隙間に頭を入れると見慣れた割烹着が見えた。近所の人と瓦礫をどかし引っ張り出した。
こはるさんはぐったりしていた。呼びかけに反応はない。知人が運転する軽トラックの荷台に一緒に乗り、近くの病院に向かった。体をさすり声をかけ続けたが、願いは通じなかった。圧死だった。続く
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