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田中と斎藤・三 早大時代にすべてが狂った

田中斎藤・三

早大時代にすべてが狂った

 「高校時代、斎藤は軸足を曲げて力を貯める独特なフォームをしていた。軸になる右足を曲げることで、踏み出した左足にも余裕が生まれ,しっかり体重移動が出来ていた。

 それが大学に入ると右足がやや伸びてきて,踏み込む左ひざにも余裕がなく突っ張ったようになり、上半身だけで投げるようになった。これでは球に力が伝わらず、かつて投げていたようないい球が出ない」(OB)。

 ただ大学時代はそれでも勝てた。

甲子園であの激闘を制した斎藤の能力は並みの大学生に太刀打ちできるレベルではなかった。

 そうして斎藤は1年次からエースとして登板。

甲子園のスターである斎藤には、六大学野球の“客寄せパンダ”的存在を求められた側面も否定できず、その結果なまじ実績が残っていく。

 そのため「フォーム矯正の必要性に迫られず、“お山の大将”になってしまったのではないか。それを指摘できる指導者が早大にいなかったことも想像できる。

上半身だけで投げる悪い癖は、同期の大石達也(西武)、福井優也(広島)にも共通しているからね。」(前出のOB)。

 しかし何とか勝ちを重ねていたものの、年を追うごとに内容は目に見えて悪化していった。

 「プロ入り直後はさらに右足が伸びてしまい、踏込みが浅く、さらに棒立ち状態で投げていた。だから球が浮いてしまいプロ相手には通用しない棒球になる。

 これではいけないと本人も気づいたようで、その後は軸足を曲げたり伸ばしたりといろいろ試していたが、それでさらにフォームがバラバラになった。

当時の吉井理人コーチも自著の中で、「大学時代の斎藤はかなりレベルを落としていたな、と感じた。最も調子を落とした状態でプロ入りすることになったのは彼にとって不幸だった」と証言している。

では大学でよい指導者に出会っていれば、結果は変わったのか?斎藤を大学時代から追う記者は「彼が意識を変えない限り、難しかったかも知れない」と語る。四へ続く

 

 

 

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田中と斎藤・・・二・年棒格差今では82倍

田中斎藤 ・二

年棒格差今では82倍

マウンド上でポケットから青いハンカチを取り出し、額をぬぐう仕草で女性ファンを熱狂させた斎藤についたニックネームが「ハンカチ王子」。

 斎藤を中心に回っていたのは、同期生である1988年生まれ世代が「ハンカチ世代」とまで呼ばれたことでも明らかだ。まさに“時代の寵児”であった。」

 しかし8年後の今、7年総額161億円〈年額23億円〉という超大型契約で、ヤンキースのエースになった田中に対し、斎藤は1軍復活を目指す年棒2800万円の三流投手に成り下がっている。

 年棒は、田中が斎藤の82倍、単純計算では田中は斎藤の年棒をたった5日間で稼ぎだしてしまう

「もはや斎藤が田中を上回っているのは学歴ぐらいしかなくなった。かつての栄光はそこにはありません」(前出同)

 斎藤は、最近では発言にも哀愁が漂い始めている。

先日放送されたNHKのドキュメンタリー番組ではこんな発言をしていた。

「ハンカチ王子」という名前がすごく嫌だった。高校時代に一気に脚光を浴びてしまったことが、正直面倒くさいというかウザイなと思う時があった」

「僕が作りすぎていたんです。マスコミの前で自然体でいればいいんですけど」

「自分はこんなもんじゃない」ともがきながらいまだに長いトンネルを抜けられない斎藤。そんな悩めるかつてのライバルをよそ目に、世界最高峰の舞台でなお輝き続ける田中――。二人の間にどうしてここまで差がついてしまったのだろうか。

斎藤の野球人生を狂わせたのは早大時代だと指摘する声は多い。まず誰もが指摘するのは技術面。

特に「フォームの改悪」だ。あるプロ野球OBはこう語る。

「高校時代は理想的なフォームで、これはとんでもない投手が出てきたぞ、と思って楽しみにしていたが、大学へ進んでからまるで別人のようになった。

正直、これでは厳しい、と言うのが感想だった。では、どう改悪されたのか。 続く

 

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なんでこんなに差が開いた・・・田中と斎藤・

なんでこんなに差が開いた

田中将大斎藤佑樹

週刊ポスト6・20号

甲子園に突如現れた2人の新世代ヒーロー

『田中将大』と『斎藤祐樹』。彼らの将来にファンは大きな期待を寄せた。あれから8年、同じプロの世界に身を投じた両者の境遇は残酷までに対照的なものとなっている。両者の運命を分けたものはなんだったのか、

斎藤が勝てるのは学歴だけ

メジャーデビユー以来11勝2敗(6月25日現在←永人)と好投を続ける田中将大は、今や押しも押されもせぬニューヨーク・ヤンキースのエースに成長、アリーグ最多の5勝(1敗)を挙げた5月は初の月間MVPを受賞した。

米スポーツ専門チャンネルESPMは『リーグ月間MVPを獲得するには十分すぎる素晴らしいピッチング』と激賞。12年8月から続いていた公式戦連勝記録は34で途切れたが、その後も安定した投球を見せる右腕を手放しでほめたたえた。田中はオールスターの先発に加え新人王どころかサイヤング賞候補の声も聞こえてきている。

 それに引き替え、かつてのライバル、斎藤佑樹の姿はあまりにも対照的だ。早大卒業後ドラフト1位で日本ハムに入団。2年目の12年には開幕投手を務め、プロ入り初の完投勝利を収めたが、それ以降はパッとせず二軍暮らしが続き、昨年11月には右肩関節唇損傷の故障が発覚。現在も二軍鎌ヶ谷球場でくすぶる日々を送っている。

 「イースタンの試合で、大量失点を食らって降板する際、スタンドからは!“大谷を見習え!”という野次が飛びました。今では人気面でも田中どころか、後輩大谷翔平にも先を行かれています」(スポーツジャーナリスト)。

斎藤と田中、両者が世間に認知されるようになったのは、今をさること8年前、06年夏の甲子園決勝戦だった。この時輝いていたのは間違いなく斎藤だった。

斎藤佑樹は早稲田実業のエースとして夏3連覇を目指す駒大苫小牧のエース田中将大と投げ合った。3時間37分の激闘の末、延長15回でも決着がつかず、翌日再試合。

自ら志願して4連投となった斎藤佑樹は,3失点しながらも、13奪三振で完投、最後の打者・田中将大を三振に打ち取り、早実を初の夏の全国制覇に導いた。二へ続く

 

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吉田調書の真実⑩・新聞記者とは何か

吉田調書の真実⑩

新聞記者とは何か

 本店の方針に逆らってまで事故の拡大を防ごうとした。つまり家族と故郷を守ろうとした福島の現場の人々はこうして「現場から吉田所長の命令に反して逃げた」ことになったのである。

東電が憎ければ、現場で命を懸けて闘った人たちも朝日は『憎くてたまらない』のだろう。

 朝日新聞広報部からは、「吉田氏が第二原発への撤退ではなく、“高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機”を命令したことは記事で示した通りです」という回答が寄せられてきた。

さらに回答には,「本回答にもかかわらず、事実と違う記事を掲載して、当社の名誉と信用を傷つけた場合、断固たる処置を取らざるを得ないことを申し添えます」という文言も付け加えられていた。泉下の吉田氏がこの言葉を聞いたらなんと思うだろうか。

 「吉田さんでなければあの事態を救えなかった」

「吉田さんとなら一緒に死ねると思った』汚染された原子炉建屋に突入を繰り返した突入を繰り返した部下たちは、私の取材にそう語った。そして吉田氏は部下たちのことを私にこう述べている。

「門田さん、私はただのおっさんですよ。現場の連中があの放射能の中を、黙々と作業をやってくれたんだ。そんな危ないところを何度も往復する。それを淡々とやってくれた。

彼らがいたからこそ何とかできたと思う。私は単にそこで指揮を執っていただけのただのおっさんです。だから彼ら現場のことだけはきちんと書いてほしいんですよ」

吉田氏は、あのまま行けば、事故の規模は「チェルノブイリの10倍になっていただろう」とも語った。そんな最悪の事態を必死で止めた人々を世界中から嘲笑されるような存在に貶める朝日の目的はいったいなんだろうか。

 「記者は訓練によって事実を冷徹に受け止め、イデオロギーを排する視線を持たなければならない」それは新聞記者のあり方を問う、ジャーナリストとしての基本でもある。

 ありのままの事実を報じるのではなく、自分の主張にのみ固執する報道――私は日本人の一人としてそういう朝日新聞のあり方がどうしても理解できないのである。 -完―

 

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吉田調書の真実⑨・一緒に死んでもらう部下の顔が浮かんで

 

吉田調書の真実⑨

一緒に死んでもらう部下の顔が浮かんで

 

「水を入れたりするのは復旧班とか防災班の仕事になるんですよ。私福島第一の保修では、30代の初めから働いていますからね。一緒に働いた連中山ほどいましたから、次々顔が浮かんできましたよ。最初に浮かんできたのは、曳田(ひきだ)という保全部長です。

 これが復旧班長なんです。これはもう、本当に同い年なんですよ。高卒で東電に入った男なんですけどね。昔からいろんなことを一緒にやってきた男です。

こいつは一緒に死んでくれるだろうな、と真っ先に思いましたね」

生と死を考える場面では、やはり若い時から長く付き合ってきた仲間の顔が浮かんだことを吉田氏はしみじみと語った。

「やっぱり自分と年嵩(としかさ)が似た、長いこと一緒にやってきた連中の顔が浮かんできましてね。死なしたら可哀そうだなと思ったんですね。だけどどう仕様もないよな、と。

 ここまで来たら水を入れ続けるしかねぇんだから、最後はもう諦めてもらうしかねぇのかな、と。

そんなことがずっと頭に去来しながら座ってたんですね。・・・」つまり吉田氏は、一緒に死んでもらう人間以外は、退避してもらうことを決断していたのである。

自分の命令に「違反」して部下たちが逃げたどころか、吉田氏は他人からはうかがい知れないほどの厚い信頼を部下たちにおいていたのだ。

 「もうだめだと思いましてね。何があっても水を入れ続けないといけないからね。それには何人ぐらい要るのかな、と。ここにいる人間でそこまで付き合ってくれるのは誰かな、ということを勘定していたわけです」

その結果残ったのが外紙が報じた“フクシマ・フィフティー”である。(実際の数は69人だった)

しかしその男たちも、今回の朝日の報道によれば

《外国メデイアは残った数十人を「フクシマ・フィフティー」すなわち福島第一原発に最後まで残った50人の英雄たち、と褒めたたえた

。しかし吉田自身も含め69人が福島第一原発にとどまったのは、所員らが所長の命令に反して福島第二原発に行ってしまった結果に過ぎない》ということにされてしまったのである・・・⑩へ

 

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吉田調書の真実⑧ 吉田氏の部下への思い

吉田調書の真実⑧

部下たちへの吉田氏の思い

 

この時の状況説明で意図的なのか、朝日が『省略』している部分がある。それはこの直前に菅直人首相が東電本店に乗り込み、テレビ会議を通じて、痛烈な演説を行っていたことだ。

「事故の被害は甚大だ。このままでは日本国は滅亡だ。撤退などあり得ない!命懸けでやれ」

 「撤退したら東電は100%つぶれる。逃げてみたって、逃げ切れないぞ!」撤退を「全面撤退と勘違い」した菅首相の凄まじい怒りは、テレビ会議の画像と音声で福島第一の緊急時対策室にも響き渡った。

サプチャンから大きな音が響き、圧力がゼロになったのはその直後のことであり、吉田氏が「必要最小限の人員を除いて退避」を命じたのはそんな時だったのである。

 吉田氏はその時突然作業用ヘルメットをかぶっている。これこそ吉田氏の苦悩を表すものだったと私は思う。

 「撤退したら東電は100%つぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ!」吉田氏は一国の総理がそう言い放った直後に、福島第二に「必要用最小限の人数」を除いて部下たちを退避させなければならなかったのである。

 この状況を考えれば、吉田氏の行動や発言の意味はよくわかるはずだが、朝日の記事にはその事情が触れられていない。

菅首相の演説があるさらに前、すなわち15日未明に吉田氏は緊急対策室から廊下に出て協力会社の人たちにこう叫んでいる。

「本当に今までありがとうございました。協力企業の方々はお帰りいただいて結構です」。

 その後体力の限界だった吉田氏は、朝4時から5時ごろ自分の席からべたりと床に座り込み、座禅をするような格好で物思いに耽(ふけ)った。

それは「一緒に死んでくれる人間」の顔を思い浮かべる強烈なシーンに他ならなかった。吉田氏はその時のことを私にこう語った。

「ただひたすらもう、どうしようって言うことだけが頭を巡ってですね、最後はどういう形で現場の連中と折り合いというか、プラントとの折り合い、水を入れ続ける人間を何人ぐらいにするか、とかですね。誰と誰に頼もうか、とかそういうことですよ。

それは誰にいっしょに死んでもらおうかということになりますわねこいつも一緒に死んでもらうことになる、こいつも、こいつもって顔が浮かんできましたね。・・・⑨へ

 

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吉田調書の真実⑦朝日新聞報道のゆがみ

吉田調書の真実⑦

朝日新聞報道のゆがみ

それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです。

 いずれにしても2Fに行って、面を外してあれしたんだと思うんです。マスク外して」)吉田調書の中の以上の部分が「吉田所長の命令に違反して現場から逃げた」、という根拠なのである。

しかしこの発言を見ればわかるように、吉田所長は「2F」つまり福島第二発電所に「行ってはいけない」とは全く言っていない。むしろその方が良かったと述べている。

 つまり一糸乱れず彼らが福島第二に向かった判断を吉田氏はむしろ“自慢”しているのである。

 それはそうだろう、朝日の言うように福島第一から逃げたと言うなら、何故福島第二に「全員が向かったのだろうか」。福島市方面や相馬市方面など逃げる方角はいくらでもある。

 自分の実家や家族のいる方角へ向かって逃げるのが普通だ。しかし、マイクロバスや、自家用車で彼らが向かったのは、全員福島第二だったのだ。

これのどこが「命令違反」して、「現場から逃げた」ことになるのだろうか。

 サプチャンが破壊されたかもしれない場面で逆に総務・人事・広報あるいは女性職員など、“多くの非戦闘員”たちを免震重要棟以外の福島第一の所内の別の場所に「行け」と命令したのだとしたらその方をむしろ私は驚愕する。

 サプチャンが破棄されたかもしれない事態ではすでに1Fには『安全な場所』などなくなっている。

 だからこそ放射能汚染の中でも吉田氏は彼らを免責重要棟から『避難させたかった』のであり、そしてもともとその先には「福島第二」しかなかったのである。

 しかし朝日新聞にかかれば、これが命令違反による退避ということになるのである。その根拠の薄弱さと解釈のゆがみについては、もはや言うべき言葉もない。⑧へ

 

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吉田調書の真実⑥・極限の中で

吉田調書の真実⑥

極限の場面で

 

外部への脱出の機会が失われていく中、吉田所長の指示の下、現場の不眠不休の戦いが継続された.プラントエンジニアたちは汚染された原子炉建屋に突入を繰り返し、またほかの職員たちは原子炉への海水注入に挑んだ。

そして2号機の状態が悪化し、3月15日朝、最悪の事態を迎えることになるのである。

3月15日午前6時過ぎ、ついに大きな衝撃音とともに2号機の圧力抑制室(通称・サプチャン)の圧力がゼロになった。「サプチャンに穴が空いたのか」

多くのエンジニアはそう思ったという。恐れていた事態が現実になったと思ったとき、吉田所長は「各班は、最少人数を残して退避!」と叫んでいる。

 たとえ外の大気が「汚染」されていたとしても、ついに免震重要棟からも脱出させないといけない「時」が来たのである。

 この時のことを朝日新聞は、一面トップで

「所長命令に違反、原発撤退」

「福島第一所員の9割と報じ、二面にも「葬られた命令違反」という特大の活字が躍った。要するに700名近い職員の9割が、「吉田所長の命令に違反して現場から福島第二(2F)へ逃げた」というのだ。

 その根拠になる吉田調書の部分は朝日によると、以下のようなものだ。(「本当は私、『2Fに行け!』と言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、『行くとしたら2Fか』、という話をやっていて、『退避をして車を用意して』、という話をしたら、伝言した人間は、『福島第二に行け』、という指示をしたんです。

私は『福島第一の近辺で所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避をして次の指示を待て』、と言ったつもりなんですが、『2Fに行ってしまいました』というんで、しょうがないな、と。2Fに着いた後、連絡をして、まず『GMクラスはこっちへ帰って来てくれ』という話をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです。

 今2号機があって、2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。

免震重要棟はその近くですから、『ここから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれ』と言うつもりで言ったんですが

確かに考えてみればみんな全面マスクをしているわけです。⑦へ

 

 

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吉田調書の真実④

福島原発爆発大事故

吉田調書の真実④

吉田発言の真意

 

そうした意味で、今回の朝日のねつ造記事で「命令」に「違反」して逃げたとされた福島第一原発の人々に深く同情するのである。

具体的にその朝日新聞の手法を見てみよう。今回朝日の記事で「9割の人間が逃げた」とされる「2011年3月15日朝」というのは拙著『死の淵を見た男』の中でも、メインとなる凄まじい場面である。

震災から5日目を迎えた2011年3月15日朝は、日本の歴史上、『最大の危機』だったと言っても過言ではない。そのとき、免震構造だけではなく、放射能の汚染をできるだけシャットアウト出来る機能も備えた免震重要棟には700名近い所員や協力企業の人たちがいた。いったいなぜ700名近い人たちがこの時点でも免震重要棟にいたのか。

 そのことを理解しなければ朝日新聞の巧妙な誘導の手法に気づかないだろう。震災から五日目のこの朝。700名近い職員や協力企業の人たちが免震重要棟にいたのは、そこが福島第一原発の中で最も『安全』だったからである。

 事態が刻々と悪化していく中で免震重要棟に避難していた人たちは、『外部への脱出の機会』を失っていく。時間が経たつごとに事態が悪化し、放射線量が増加し、「汚染が広がっていった」からだ。

免震重要棟にいた700名近い職員には総務、人事、広報など事故に対応する「現場の人間ではない

“非戦闘員”も数多く、女性社員少なくなかった。

 彼らをどう脱出させるか――吉田所長はそのことに頭を悩ませた。700名近い人間が取らなければならない食事の量は膨大だ。

そして、水も流れない中での排泄物の処理・・・等々、免震重要等がどんな悲惨な状態だったか誰しも容易に想像がつくだろう。

 事故対応ではない女性職員たちを含む「非戦闘員」たちを一刻も早くここから退避させたい。トップである吉田氏はそう思いながら、広がる汚染の中で絶望的な戦いを余儀なくされていた。

 実際に14日夜には、具体的に彼らの福島第二原発への退避が話し合われ、準備が進められていた。

震災の翌12日には1号機が水素爆発し、14日にも3号機が爆発。その間も人々をもてあそぶかのように、各原子炉の水位計や圧力計が異常な数値を示したり、また放射線量も上がったり下がったり、を繰り返した。⑤へ

 

 

 

 

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吉田調書の真実③

 

吉田調書の真実③

メデイアの罪

朝日新聞の捻じ曲げ手法③

 

私はその吉田氏が死後、特定のメデイアによって貶められていることを哀しく思う。

 しかもそれが事実とは程遠いものだけに、余計に虚しいのである。自分の意図に反して貶められた吉田氏とご遺族の思いを想像すると、本当に胸が痛む。

私は朝日の記事を読みながら吉田氏に取材したときのことを思い出した。

 吉田氏は取材に答えながら、自分の記憶違いや時系列的な混乱があることを懸念し、私に、ほかの方々への取材によって、事実関係を確認してくれるように何度も頼んだ。

 それにしたがって私は多くの関係者に取材を行った。

今回朝日新聞が報じている政府事故調の手になる「吉田調書」は、長時間の聴き取りに応じたものの、吉田氏が第三者への公表を固く「拒んだ」ものである。

 理由は明快だ。自分の勘違いによって、「事実と違うこと」が定着することの危惧があったからである。

 そして吉田氏は以下のような上申書を提出している。

『自分の記憶に基づいて率直に事実関係を申し上げましたが、時間の経過に伴う記憶の薄れ、様々な事象に立て続けに対処せざるを得なかったことによる記憶の混同などによって、事実を誤認してお話している部分もあるのではないかと思います』

 そして話の内容のすべてが「あたかも、事実であったかのようにして」独り歩きしないかどうかを懸念し、それを理由に第三者へ向けて公表されることを強く拒絶したのだ。

昼であるか夜であるかもわからないあの過酷な状況の中で吉田氏は記憶違いや勘違いがあることを自覚し、そのことを憂慮していたのである。

 しかし、朝日新聞は、その吉田氏本人の意向を無視し、調書に残されていた吉田氏の“言葉尻”をとらえ、

事実とは全く「逆」の結論に導く記事を掲載している。

それこそ、まさに吉田氏が危惧していたことにほかならぬことであった。それが冒頭の外国メディアの報道につながっているかと思うと、同じジャーナリズムの世界にいる人間として実に残念に思う。 ④へ

 

 

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