日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
廃炉の歯車・トリチウム含有水放出を前に 六
廃炉の歯車
トリチウム含有水放出を前に
六
福島県沖沿岸漁業の水揚げ量は22年の速報値で5525トンと、事故前の21・3%にとどまる。水産業の苦境は人材不足に波及し、原発事故後仲買人や、加工業者などを含む県内の『買受け人』は396人(10年)から151人と4割に減少した。
経費増も打撃
小野さんが組合長を務める小名浜水産加工業協同組合(いわき市)でも19~22年に4人が相次いで。退き34人となった。資材価格高騰などを背景に経費もかさみ。「ここにきてボディブローのように打撃を受けている」と話す。魚を買い付ける仲買人がいなければ流通は滞る。製氷業や運送業など関連産業も事故後は縮小傾向にある。
「魚が揚がれば人が集まる。とにかく水揚げ量を増やさないと」。
小野さんは水揚げ量が水産復興の出発点との考えを示し、漁師にハッパをかける。
品質を守り、販路を維持しようと奔走してきた12年。そこに処理水(トリチウム含有水)の放出開始が迫る。
放出方針が決まった2年前から市場への影響が出始め、風評の根深さを感じている。
風評の根深さを感じている。
再起の道を阻む処理水放出には賛成し難いが、厳しい環境下、業界が団結して検査と流通の体制を確立させてきたことは「何にも代えられない実績だ」と小野さん。「放出されたとしても、今までと同様、基準値を超えた魚は一匹も市場には出さない自信がある」。覚悟を決め、難局に向き合う。続く
廃炉の歯車・トリチウム含有水放出を前に五
廃炉の歯車
トリチウム含有水放出を前に
五
資源不足
水揚げ不振流通に影
いわき・水産加工
老舗水産加工会社マルデンタ(いわき市小名浜の4代目社長小野利仁さん(66)が醤油ダレに1週間漬け込んだサンマに手際よく胡麻を振りかける。小名浜発祥とされる「さんまのみりん干しの風味を引き出す工程だ。
「これだけは絶やしたくないと思ってね。借金してやってんの」
08年の1割に
東北最南部にあり、冬でも日照に恵まれる小名浜。
工場脇のサンマの干場にはかつて年間を通して銀色の魚体がずらりと並んでいた。みりん干しを作るための天日干しだ。
この伝統的な光景が東京電力福島第一原発直後,ぱたりと消えた。
天日干しによる汚染を恐れたのか、風評被害を懸念したのか―。
放射性物質濃度の異常値は確認されなかったが、商品の引き合いが減った。今は主として乾燥機を使う。
水揚げも不振にあえぐ。全国さんま棒受け網漁協(東京)によると、福島県の2022年のサンマ水揚げ量は108トンで豊漁だった08年の1割程度。小野さんは県外からの買い付けでしのいでいるが、平均仕入れ単価はこの10年で10倍以上に上昇した。続く
廃炉の歯車・トリチウム含有水放出を前に 四
廃炉の歯車
「トリチウム含有水」放出を前に
四
東大大学院の関谷直也准教授(社会心理学)が昨年3月、アジアや欧米など10カ国・地域で20~60代の計3000人を対象に実施した調査では、処理水(トリチウムは未処理⇒現代の技術でも処理不能という事が実態である。“処理水”という言葉そのものが全く問題のない水だと誤解させる元を作っている。したがって「トリチウムを含有水」と表記するのが正しい日本語の表記である👈永人)放出時の福島県産品に関し
『とても危険』『やや危険』と答えた人の割合が韓国で93%、中国では87%に上った。
日本を除くすべての国や地域で6割を超えた。
関谷准教授は「海外で原発事故後の福島や東北のイメージがアップデート(更新)されていない」と調査結果を分析する。各国での世論形成には「いかに丁寧に放射性物質の検査をし、流通させてきたかなど、事故後の復興過程を発信する必要がある」と提言する。
◆
禁輸処置続く
世界的な魚介類の需要の高まりを受け、日本の水産物輸出額は増加傾向をたどる。水産庁によると22年は過去最高の3873億円を記録。輸出先は近隣の香港、中国、台湾、韓国が約53%を占める。
一方、中国や韓国などでは福島や宮城などの水産物の禁輸処置が続く。
政府は国際原子力機関(IAEA)の安全性評価などを通して国際的な理解情勢につなげると強調するが、先行きは見通せない。
「福島だけの問題ではない。日本全体が損失を被る可能性がある」。
海外市場と向き合ってきた伊藤さんは警鐘を鳴らす。続く
廃炉の歯車(処理水放出を前に)三
廃炉の歯車
処理水放出を前に
三
輸出難航
海外理解醸成進まず
石巻・カキ養殖
三陸特産のカキを養殖販売する海遊(石巻市雄勝町)の社長伊藤浩光さん(62)は3月10日に流れたニュースに深いため息をついた。「売り上げがまた落ちるのか」東京電力福島第一原発の処理水が海洋放出された場合、香港政府が福島県などの水産物輸入の一時停止を検討するー。そう伝える報道だった。
◆
復興の発信を
年500トンの同社が生産するカキのうち、約100トンを香港台湾シンガポールに輸出する。
海外の流通や市場の動向は経営を左右しかねない。伊藤さんは原発事故前、主に韓国向けのホヤ養殖で生計を立てていた。韓国は事故から2年半後の2013年9月、岩手、宮城、福島を含む8県の全水産物の輸入を停止。看板事業が苦境に陥った。
主力商品をカキに切り替えた。新型コロナウイルス禍に見舞われながらも、宮城県の支援事業などを活用し、21年に始めたシンガポールへの輸出が軌道に乗り始めたばかりだ。
処理水の海洋放出については国際情勢も絡んで、中国・韓国・ロシアなども懸念を示す。
放出されれば取引を打ち切る海外業者もあるとも聞いた伊藤さん。「もしそうなれば打撃は計り知れない」と不安を募らせる。海外各国の姿勢の背景には世論の漠然とした不安感がある。続く
廃炉の歯車(処理水放出を前に) 二
廃炉の歯車
処理水放出を前に
二
吉野永人
◆
「道筋を示して」
処理水対応を巡り、国は「関係者の理解なしには処理水のいかなる処分もしない」との約束を福島県漁連との間で交わした。風評被害対策に力を入れると約束したが、佐藤さんには不十分に映る。
「我々への説明は充分ではない。外堀を埋められている様だ」
県漁連関係者も「一度失った販路を取り戻すのは相当難しい。我々が放出に反対するのは販路の問題がある」と話す。
(生産者は販路が大事なのは当然で分かるが、最も大事なのは魚を消費する側にとって放射性物質に汚染されたものを口にする可能性が無いのかどうか、の一点に尽きるのであり、この辺の解説が何時も曖昧なのは、何かを隠そうとする意図が無いのかどうか不安が残るのが正直なところだ。原発事故は絶対に起こさない、起らないという前提で建てられたもので、実際に事故は起こされ、起きたのである👈永人)
佐藤さんはノリ生産回復の先を見据える。昨年10月相馬市を訪れた西村康稔経済産業相に「今後どう売って行けばいいのか処理水の風評が加わったとしたら・・・。道筋を示してほしい」と訴えると。「販路開拓に取り組んでおり。相談を受けながら対応したい」との回答。不安が、拭えないまま、放出時期が迫る。
「流して欲しくないよ」。佐藤さんは穏やかな松川浦を見詰め、しばらくの沈黙の後につぶやいた。
東京電力福島第一原発の処理水を海洋放出する方針を菅義偉前首相が表明してから13日で2年となった。
国と東電は「原発の廃炉を進めるために不可欠」と今夏までの放出開始を目指すが、浜には懸念の声が根強く、放出への道筋は不透明なままだ。廃炉と復興のはざまで葛藤する現場を追ってみた。
- 東電福島第一原発の処理水とは
原子炉建屋に流れ込んだ雨水や地下水が溶け落ちた核燃料(デブリ)に触れて生じる汚染水を他核種除去設備(ALPS)で浄化した水。保管量は3月末現在で上限137万トンの97%に達し、政府と東電は廃炉作業に必要なスペース確保のため海洋への放出を計画。
ALPSで除去できないトリチウムを世界保健機関(WHO)の飲料水基準の7分の1(1リットル当たり1500ベクレル)未満になるよう大量の海水で薄め、沖合1キロの海に放出する。完了まで数十年かかる見込み。
廃炉の歯車(処理水放出を前に)一
廃炉の歯車(処理水放出を前に)
一
河北新報4・9参照
- 販路喪失
吉野永人
アオノリ養殖
生産回復も「悔しい」
アオノリ養殖地として100年以上の歴史をほこる相馬市の松川浦で3月下旬、地元の漁業佐藤裕巳さん(58)が旬のノリの収穫に励んでいた。
出荷量は4倍
「今年は豊作。出来がいい」。手応えを語る言葉と裏腹に表情は晴れない。
一帯は東日本大震災の津波で船や漁場が被災し、再建の真っただ中。松川浦産ノリの出荷量は、出荷を再開した2018年に39トンだったが22年は175トンと4倍超に増えた。ようやく見えてきた回復基調に水を差すと懸念するのが、東京電力福島第一原発の処理水放出。胸にさざ波が立つ。
松川浦のノリは相馬双葉漁協(相馬市)を介し、生と乾燥の両方の形態で出荷する。主力の乾燥ノリは震災前、出荷量全体の9割を三重県漁連に卸していたが、津波と原発爆発事故で放射能汚染され、出荷停止になった。
放射性物質濃度を低減する洗浄機を導入するなどし、出荷体制を整えるのに7年を費やした。
出荷再開に見通しが立った14年4月、漁協役員らが三重を訪れると、以前の得意先は「今は受け入れられる状況にはない」。明言を避けたが、福島産品の買い控えを念頭に置いてあることは明らかだった。
「悔しかった」。
交渉に臨んだ漁協理事山下博行さん(69)が振り返る。
出荷停止が長引く間、三重に出荷されていた松川産ノリは他産地にとって代わられ、三重への出荷再開は今もめどが立たない。
現在の主な卸先は相馬市内の業者に限られ、販路は大幅に狭まった。(福島総局佐々木薫子)
続く
四股名・通称名・本名(戸籍名)
四股名。通称名。本名(戸籍名)。
立浪部屋横浜後援会会員・吉野永人
関取には
第一に四股名
第二に通称名
第三に本名の合計三つがある。
◎四股名は現役の力士が土俵に上がっている間はずっと使い続ける最も大事な名である。この画数の吉凶が相撲人生を大きく左右する。
◎通称名は、しこ名の次に名を付し、全体の画数を左右するのである。これは現役を退いてから後も用いられ、やはりその画数の吉凶でその後の人生が決定づけられるものである。
◎戸籍名(本名)は現役では一般人と違ってほとんど用いられないため、この影響はさして受けないが、やはり、良いものを持っていることは大事である。特に相撲界を引退した後は、文字通り、戸籍名の画数に左右されるので、この良否については無関心ではいられないのだが、一般的に名の画数や吉凶について相撲関係者が知識として得る機会はほとんどなく、画数の重要さを知らないままその支配を余儀なくされているのが現状だ。
良くも悪くも、『運だから仕方ない』と言ってあきらめているのが現状だ。
大鵬幸喜という偉大な横綱の四股名、通称名、本名を観察してみる。
四股名・大鵬 22凶名
通称名・大鵬幸喜 42凶名
本名 ・納谷幸喜 前運20凶名
三才の配置・天-7―人5―地10
第一型絶対的短命運。脳溢血・心臓麻痺・急難・災害・自殺
その他全て急変の死を招く。
本来、横綱になるとは思えない四股名だが、彼は相撲界で自分よりも努力した人間はいない、と自負、断言するほどの努力家であった。
父・ロシア人(ウクライナ人)の血が相撲に理想的な体格と体質を作り、母・日本人の血が強い精神力と闘志を生んだ。
そうした土台の上にシコとてっぽうで無類の柔らかい筋肉を作り上げたものだそうだが、血のにじむ努力の積み重ねで21歳という史上最年少の横綱を締めた。二所ノ関親方の指導力の見事さも重なって凶名を越した強さを誇った。
だが、24歳で最低血圧が124という本態性高血圧症という病名を診断され(原因がはっきりしない高血圧症👈永人)四股名の悪さを体現しながら、或いは何度も怪我を重ねながらも、31歳で引退するまで32回の優勝を遂げた。
現役引退後、通称名の悪さから36歳の若さで脳梗塞によって倒れ、本来なら相撲協会の重鎮となるべき実績をあげながら健康問題で諦めなければならなくなった。
「・・・たら」や「・・・れば」は無いというものの、四股名と通称名がそれぞれ
『太鵬(たいほう)23画吉名』だったなら、
『太鵬功暉(こうき)41画吉名』で有ったなら、
相撲人生において連勝記録と優勝回数はもっと延び、引退後の人生は健康で長寿を形成したに違いない。
そのことは令和5年の今でも私は確信している。終り
大鵬幸喜 最終回
大鵬幸喜
最終回
立浪部屋横浜後援会会員・吉野永人
その3年後、26回目の優勝を全勝で飾った翌九州場所、ひじを骨折してしまう。この時大鵬はまだ27歳。
再起をかけた療養生活が始まったのである。
退院後、基礎体力を取り戻すため、砂浜で走るトレーニングを開始。
それに付き合ってくれたのが芳子夫人であった。夫人が先に走り、それを大鵬が追いかける。次第に距離を延ばして行き、やがて全力疾走できるようになった。
こうして8か月ブランクの後に迎えたのが、1968年秋場所。
引退を噂する声が高まる中での出場だった。
しかし結果は予想に反し14勝1敗で27回目の優勝となった。
この日ばかりは、涙があふれ出るのを止めることができなかったと、大鵬は述べて居る。
31歳で引退後、36歳の若さで、脳梗塞で倒れた大鵬は左半身不随となった。
入院生活は1か月半に及んだ。
退院後の2年間は持ち前の闘志で激しいリハ
ビリ生活を続けた。
施設ではだれが見ていようと気にせず、必死に四つん這いになって懸命に前に進もうとする。弟子たちはそれを隠そうとするが「邪魔だ。自分の体のことだから周りにどう思われようが関係ない」と言って取り合わなかった。元大横綱のプライドを捨ててリハビリに真剣に打ち込む大鵬やそれを助ける夫人の姿は周りの人々の感涙を誘った。
2013年1月19日慶応病院に入院中の大鵬の容態が急変した。意識のない大鵬を抱きかかえながら夫人は必死に叫んだ。
「お父さん。何やってるの。いつまでも寝てるの?」
「横綱として頑張ってきたんでしょ。まだ横綱でしょ!」
夫人が大鵬の顔を見るとその目からふと涙が流れていたという。
大鵬は常日頃、「相撲は自分との戦いだ」と言っていた。その戦いを終えて、夫人の腕の中で静かに息を引き取った。享年72歳。合掌
大鵬幸喜 8
大鵬幸喜
8
立浪部屋横浜後援会会員・吉野永人
ピンチを跳ね返す精神力
「大鵬は逆境に強いピンチを跳ね返す底力を持っている」
確かに史上最多の優勝回数32回(白鵬に破られるまでは)も順風満帆だったわけではない。幾度も挫折を経験し、そのたびに懸命の努力により、不死鳥のように甦ってつかみ取った栄光であった。
1964年(昭和39)は13度目の優勝を果たし人気も実力も絶頂の時期だった。
欧州招待旅行に出かけた後の名古屋場所、
2日目から3連敗という成績で、5日目から休場。体が思うように動かない。
初土俵から初めての休場となった。
最低血圧が124もあり、
「本態性高血圧」と診断された。
24歳の大鵬にとって病との戦いの始まりとなる。
慢心を治すため、禅寺で5日間ほど座禅を組み、心身ともに復調し始めた頃、巡業先で左膝を強くひねり、「全治1週間」の診断。
翌日の新聞では「秋場所休場は決定的、もはや再起不能か」と報道。
これを見た大鵬はこれまでにない異常なほどの闘志を燃え上がらせた。
お灸を始め、体に良いと思われ、言われる あらゆることを実行し、秋場所出場に備えた。
結果は秋場所とそれに続く九州場所の連続優勝。
完全復活を果たし、再起不能説を完全に払拭した。 続く
大鵬幸喜 7
大鵬幸喜
7
立浪部屋横浜後援会会員・吉野永人
後に大鵬の方が強くなり。滝見山が負け越してしまったある日、肩を落として大鵬に言った。「体力がすっかり衰えた。もう相撲を辞めようと思う」。大鵬は驚いて言った。
「滝見山関、私が横綱になって恩返しするまでどうか辞めないでください」。そう言うや否や何か熱いものが込み上げてきて滝見山の前で子供のように泣いたという。
滝見山は大鵬が横綱になった1961年の九州場所まで土俵を務め、男の約束を守った。
二所ノ関親方は大鵬をマンツーマンで育てようとしていた。時間があれば大鵬を呼び、土俵講和と言うべきレクチャーをした。
また悪習に染まらないよう目を光らせていた。
ある日大鵬が兄弟子たちに誘われて麻雀の仲間に入ったことがある。その事実を突き止めた親方は、兄弟子たちに鉄拳を浴びせたという。
人気が上がってもテレビなどの出演を最小限に制限した。
当然マスコミは非難したが親方は毅然として言った。
「大鵬は今が大切な時。スター扱いされ、彼の本質的なものに悪影響があってはならない」
こうした親方の指導の下で、不世出の才能が開花したのである。続く
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