日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
晋ちゃん、頭がいいから嘘をつく
晋ちゃん、頭がいいから嘘をつく
安倍晋三ちゃんが日本語堪能だとは噂でとくと聞いていたが、まさか「意味解釈の名人」だとは夢にも思わなかった。
◎募(つの)ったが募集をしたわけではない。
◎時間に遅れたが遅刻したわけではない。
◎辞任するとは言ったが、辞めると言ったわけではない
◎国の財産を盗(と)ったが、盗んだわけではない。
世界のど真ん中で輝いている日本国の総理・安倍晋三ちゃんの優秀さが際立ちます。本当に涙が出てくる・・・
こころの除染という虚構132
こころの除染という虚構
132
早瀬道子が娘の尿検査を依頼した、「福島老朽原発を考える会(フクローの会)」の青木一政はこう指摘する。
「チエルノブイリ事故では住民を避難させていますから、こんなことあり得ませんし、ベラルーシの田舎で一部の住民に個人線量計を付けさせて測定したことはあったようですが、全市民に付けさせて線量を図るなんてことは、全世界で初めてです。いかに権的なことをしているか」
世界で初めて生身の人間による実測値を得るという壮大な実験。これ将来の様々な対策等の方向性を決定する」重要な基礎データとして、その利用価値の高さを国際機関が熟知するからこそ、ICRP(国際放射線防護委員会)主催の「福島ダイアログセミナー」の舞台に、伊達市が頻繁に登場したのだろうか。
ICRPが福島事故を受けダイアログセミナーを福島市で開催したのが2011年11月、2015年9月まで12回開かれたが、
伊達市が7回
福島市が3回
いわき市1回
南相馬市1回
と伊達市が群を抜いている。
伊達市開催のプログラムをざっと列記する。
2012年月26日
- 福島原発事故後の生活環境の回復
2012年7月7~8日
・福島原発事故後の生活環境の復興
同年11月10~11日
- 福島原発事故による長期影響地域の生活回復のためのダイアログセミナー~子どもと若者の教育についての対話。
2013年3月2~3日
- 帰還~かえるのか、とどまるのか。
など。
*
「ICRP=国際放射線防護委員会」という名前から、これは国連か何かの公的機関のように思いがちだが1928年につくられた民間の非営利団体で、専門家の立場から放射線防護に関する勧告を行う国際組織だ。
追加線量の年間1ミリシーベルトあるいは年間20ミリシーベルトとされた避難基準などすべて、このICRPの勧告に基づいているように、ICRPの勧告は国際的に権威あるものとされている。
今回の事故で日本政府が「計画的非難区域」の設定基準とした20ミリシーベルト・年としているが、事故後6年を迎えるのに依然、国は20ミリシーベルトを基準に「帰還」を進めている。
国をも動かす機関だが、ただ助成金の提出機関を見てみると国際原子力機関などであり、委員を構成するのが原子力推進派とも言われている。続く
②徳勝龍の今後は?
②
徳勝龍の今後は?
*
徳勝龍(15・12・16)しこ名は43画の大凶名である。本人は
もう33歳ではなく、
まだ33歳だ、との気持ちで頑張りたいと優勝インタビューで話していた。そこで
徳勝竜(15・12・10)への改名を木瀬親方に提案したい。明徳義塾の『徳』と恩師近大の伊東勝人氏の『勝』の因縁の文字を残したままである。
これならわだかまりなく『徳勝竜』と大吉名へ改名できるだろう。
もしもこのままの徳勝龍であれば、優勝は今回のみに終わる可能性が強い。
**
徳勝龍をはじめ、関係者一同は近大伊東勝人氏の急逝に驚いているが、何のことはなく、姓名画数が、構成する絶対的短命運気の第一型を如実に示しているためであり、そのことを改めて再認識したいと思う。
***
伊東勝人
68122
天格・伊東 14画
人格・東勝 20画大凶
地格・勝人 14画大凶
外格・伊人 8画 吉
総格・伊東勝人28画大凶
- 成功運
天―人(4-10)大凶・乱離・困窮・急禍あり。
- 基礎運
人―地(10-4)大凶・急禍来たり、急変大災襲う。心臓を冒(おか)すなど、最も危険運なり。
- 三才の配置(第一型絶対的短命運)
天ー人―地(4-10-4)大凶・
脳溢血、心臓麻痺、急難、災害、自殺、その他すべて急変の死を招く要素ありて短命の人生に終わる。
伊東勝人氏は突然死を起こす運気で、特に循環器系(心臓)を冒(おか)す最も危険運でその通りの短い人生であったと言える。
この日、大関豪栄道の大関陥落と現役引退が決まった。2014年8月2日投稿の
「新大関豪栄道は横綱になれるか」で当時「豪栄道(44画)の大凶名から横綱はない」と断じたが、残念ながらその通りに終わってしまった。しこ名の吉凶は稽古以上に大事なことである。
なぜなら「力士の運」はこれで決まるからである。終わり
徳勝龍・恩師へ鎮魂の初優勝
徳勝龍・恩師への鎮魂の初優勝
①
*
西前頭17枚目の徳勝龍(33=木瀬部屋)が鎮魂の初優勝を果たした。
負ければ優勝決定戦にもつれ込む状況の結びで、大関貴景勝を寄り切って14勝1敗。
18日に急逝した近畿大学相撲部の伊東勝人監督と、15年に他界した北の湖親方(元横綱・北の湖)へ吉報を届けた。
幕尻Vは2000年春場所の貴闘力以来20年ぶり2度目。
33歳5か月での初優勝は、年6場所となった1958年以降で3番目の年長、日本出身力士では最年長記録となった。
**
本名・青木 誠(あおき・まこと)
1986年8月22日生まれ33歳
奈良市出身
181センチ 188キロ
四股名・木瀬親方(元幕内・肥後ノ海)の命名なそうだ。
明徳義塾の「徳」と近畿大学恩師の
伊東勝人氏から「勝」の字をもらった
四股名・徳勝龍
初土俵・09年初場所、
新十両・11年九州場所、
新入幕・13年名古屋場所。
鉄人・09年初場所の初土俵以来休場無し
中学時代・2年時には生徒会副会長。
文化祭で漫才コンビを結成する明るい性格。
3年でおしゃれに目覚めて以来毎日、朝シャンと洗顔。整髪料で髪型もツンツンに決める。父が警察官で母から「父さんに迷惑をかけることは絶対にするな」と教えられた。
得意技・左よつ・突き押し。
***
近畿大学相撲部監督の伊東勝人氏(54歳)が1月17日に大相撲初場所観戦の後、知人と食事をし墨田区のホテルへタクシーで帰る途中体調が急変し、ホテルでこん睡状態に陥り、病院へ運ばれたが18日午前0時半、死亡が確認されたという。
文字通りの急死である。
徳勝龍(33歳)は恩師の急死を胸に、仕切り時に土俵上で合唱をし続け、ついに千秋楽で大関貴景勝を破り、貴闘力以来の20年ぶりの幕尻での優勝、奈良県出身力士の98年ぶり優勝、そうして自身の初優勝を成し遂げた。
18日、急逝した伊東監督がいなかったら、徳勝龍のプロ入りはなかったという。その恩師が文字通り徳勝龍に乗り移り、一緒に戦って初優勝を勝ちとったのだと彼が発言した通り、対戦相手には普段感じなかった徳勝龍の目には見えない大きな力を感じたに違いない。 続く
(こころの除染という虚構)は2日ほど休みます。
こころの除染という虚構131
こころの除染という虚構
131
2放射能に負けない宣言
「3度目の3・11を迎えて」(「だて市政だより」平成25年2月28日発行)というタイトルで、仁志田市長は節目の日に市民に向けてメッセージを発した。
「3年目を迎える今、A、Bエリアに続いてCエリアの除染に鋭意取り組んでまいりますが、除染の効果と限界も明らかになりつつあります。低線量下での現実的な対策として、いかに市民の健康を守っていくか、自主避難している市民に安心して帰還してもらうために何をすべきなのかが今後の課題であると思っています。そうした観点から、今年は放射能を克服する正念場であると考えておりますので、市民みんなで知恵と力を合わせて頑張っていきましょう」
3年目の節目に、市長はなぜか「除染の限界」を示唆する。そしてこれから「放射能を克服する」のだという。
そもそも放射能は「克服」できるものなのか?
放射能に立ち向かうという伊達市の勢いは止まらない。
「今夜の復興の灯を契機として、決意を新たに、『子どもたちの元気な声が飛び交う伊達市に』を復興の誓いとして、ここに私たち伊達市民は、『放射能に負けない宣言』をします」(「だて市政だより」3月14日発行)
一人称を「伊達市民」にしているが、ここにどれだけの伊達市民の総意が組まれているのだろう。
「負けない」宣言ではなく、子どもたちをきちんと「守る」宣言を望んでいる人たちの存在が、「いない」ものにされている。
「放射能に負けない宣言」をしたこの市政だよりはガラスバッジの測定結果にも言及している。前年7月より全市民を対象に1年間、個人線量を計測している一大プロジェクトが、終盤を迎えつつあった。
なぜ大切なのか、伊達市の意図がこんなところに顔を出す。
「測定データの大切さ」
「皆さんの測定結果は、健康管理を目的として、市が長期間にわたり、大切に保管管理してまいります。
また、原発事故による低線量被曝は、世界的にも例がなく、この測定結果は放射線の専門機関等による解析により、将来の様々な対策等の方向性を決定するための大切なデータとなります。
伊達市民が「世界的にも例を見ない」一大プロジェクトの実験台に、「健康管理のため」と称して差し出されている。続く
こころの除染という虚構130
こころの除染という虚構
130
次に考えたのは5メートル四方30センチの深さの水たまりを窓の下につくることだ。これは16年夏に実行した。見せてもらったが、ビニールシートの上に水が張られ、ハスが咲き、金魚やメダカが大量に生息する立派な池となっていた。これを窓の下にいくつもつくるのが、これからの計画だという。
「失敗してもいいんだよ。とにかく息子の部屋の線量を下げることが今の俺の使命だから。基本は子どもを守る。それが俺の原動力だから」そうしながらも渉も奈津も、伊達市の除染の「順番」が来るのを待っていた。まさか、Cエリアの除染が行われないとは思いもしないことだった。
2015年夏、水田家でインタビューをした時のこと、担当編集者がγ線だけでなく,β線も計測できる線量計を持参しており、試しに水田家の室内の線量を計ってみた。その数字を見た渉の顔色がすっと変わった。
真剣な面持ちで渉は奈津に言った。
「この線量計で2階の部屋の線量を全部測って来てみて」
突然何が起きたのか。呆気にとられる私に、渉は説明した。
「いやあ、実はびっくりしたの。この下の部屋、β線が相当来てんだって初めてわかったから。今測ったら、0・5くらいのβ線が表示されていた。もし2階の方が両方合わせた数値が低いなら、今日から2階で寝ろ、と私は家族に指示を出す。それが私の役割ですから。β線の方が体に悪いというでしょう?」奈津が線量をメモした紙をもって2階から降りてきた。そしてこの日の夜から水田家では全員が2階で寝ることとなったのだ。
目には見えない、臭いもないが、放射線というものと隣り合わせで生きなければならないということは、こういうことなのだ。
常に敏感に危険を察知し、被爆をすこしでも避けるための対応策を講じて生活をしなければならない。
そうでなければ「子どもを守る」ことはできないのだ。
だからこその念願の除染でもあった。除染をするとしないのとでは、精神的圧迫は雲泥の差だ。
「今でも家の中で、0・3とか0・4、あんだよ。国の除染目標は0・23でしょう?それより家の中で高いんだから。うちは農地で囲まれているでしょう。農地は除染してないから7マイクロの場所だって今もあるんだよ。
風が強い日は絶対に窓を開けない。ばあさんが開けた時があって、そうすると家の中の線量がみるみる上がんだよ」
たとえCエリアの住民でも放射性物質を受忍しろと言われる所以は微塵もない。
しかし、
市は「安心だ、大丈夫だ、必要ない」の一点張り。
積極的に行うのは、たとえば、2013年2月2日に行われた「心と体を元気に!免疫力アップ!講演会」などのイベントだ。
「だて市政だより」に紹介された、参加者アンケートにはこうある。
「放射線は心配し過ぎない方が良いとわかった」
「精神的な安定の方が大事だ」・・・続く
こころの除染という虚構129
こころの除染という虚構
129
「俺のデータによれば、うちの息子、年間1ミリしか被曝しないことになるんですよ。自然放射線を入れた計算で。だから多分、大丈夫だとは思っている。でも、そうであっても、息子の部屋の線量を何としても下げたい。浴びない方がいいに決まっている。それに越したことはないんだから」
そのためにどのような方法があるのだろう。そこで渉は一つの方法を試みることにした。水を入れたペットボトルを800本ほど、北と南の窓の下に並べるという「実験」だった。
このアイディアは、福島駅そばにある環境省の「除染プラザ」の担当者から提供された。渉がそれまでに何度も通っていたのは、除染の方法や被曝の低減について、具体的に相談に乗ってもらえるからだった。水には遮蔽効果があることはわかって居る。であるならば、ペットボトルの水で、2階の線量が少しでも下がらないだろうかという仮説の下での実験だった。渉はその実験に伊達市の除染推進センターも巻き込んだ。
ちなみに「除染推進センター」とは、2011年11月に「除染支援センター」という名で立ち上げられた市の機関だ。専門の職員が常駐し、高圧線洗浄機などの機械、スコップ、デッキブラシなどの道具類、ブルーシート、コンテナなどの資材を貸し出し、マスク、土嚢袋、軍手、ゴム手袋、など除染に必要なものを支給する。こうやって伊達市は早くから、市民の手で除染を行う体制をつくった。
曰く、「市民協働で行う除染」だ。
2012年4月、市民から「除染は市が責任をもって行うはず、『支援センター』ではおかしい」という声が上がり、「除染推進センター」と名を変え、現在に至っている。
水田渉は自身のミッションとして、この除染推進センターを利用しようと目論んだ。
「やろうと宣言したら友人などがペットボトルをずいぶん提供してくれたんだよ。そいつを「北と南の窓の下に並べてみっぺ」ってやったんだ。爺ちゃん、ばあちゃんまで総動員して、水を詰めて運んで。デモ、やってみて断念した。800本って4畳半のスペースさえも埋まらない。
「こういう実験が面白い」と渉はにやりと笑う。悲壮感は持たない。
何事もチャレンジだと前に進むのが渉のポリシーだ。続く
こころの除染という虚構128
こころの除染という虚構
128
1・家族を守るために
水田渉が家の中で線量の定点観観測を始めたのは2013年1月2日からだ。毎朝、2階の南側の窓と北側の窓、2か所に設置した線量計の数字を1日も欠かさず記録し、その数値をフェースブックにアップするのが朝の習慣となった。
南側は渉の部屋で、北側が長男の真悟が寝起きする場所だ。
「我が家の線量」と題した表を、渉は見せてくれた。毎朝の2カ所の数値がデータベース化されていた。線量の差と、メモ欄には、焼却炉の稼働状況を記す。この焼却炉は、隣接する桑折町の阿武隈川対岸にある。
渉は言う。「
「定点観測を始めたのは、家の中が正常であるかうかチェックできるから。数字を拾って、客観的に冷静に見ていこうと思って」
1月2日(水)、南側0・30、北側0・33。
1月11日(金)、南側0・35、北側0・50
1年後の2014年1月1日(水)は南側
0・31、北側0・36.
これまでの記録で、南側と北側の線量の差の最大値は、0・17.
備考に「天皇陛下」とあるのは、2013年7月23日、天皇陛下が桑折町の桃農家の視察に来ることになっていた時だ。この日は南と北の線量差はないと言っていい。なぜか。
こうして線量値の記録を積み重ねていくと自ずと気づくことがある。
「最初は飯館村の方を向いている南側の線量が、高かったんだけど、今では北側、真悟の部屋の方が高い。私は北が高くなったのは、間違いなく焼却炉だと思うんですよ。伐採した木だとか、放射性物質が含まれてんのを燃やしてんだ。しかもあそこの煙突にはバグフィルターがついていないんですよ」バグフィルターがあれば、少しはセシウムの飛散防御になる。
渉の見立てを裏付けるものとして、天皇陛下来訪予定日や、伊達市でマラソン大会が行われた日、そして焼却炉が休みの日には南と北で線量に差が出ないという。
「天皇陛下が来るとか、全国からマラソン参加者が来るとか、そういう日は家庭ごみなどセシウムがそんなに出ないのを燃やしていたんだと私は思うよ」
2月9日(日)南側0・21、北側0・21
(備考・大雪)大雪の日は線量が下がり、南北の差もない。
「大雪の日に線量がぐんと下がって、雪が解けるとまた上がる。ああ、そうか。水には遮蔽効果があるって、こういうことなんだ」渉が常に気にするのは、真悟が寝ている北側の部屋の線量だ。奈津と娘のひかりは下の部屋で寝ているから心配ないが、真悟は「親と一緒に寝るのは嫌だ」と二階で寝るようになった。続く
こころの除染という虚構127
こころの除染という虚構
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第3部 心の除染
重要なのは、「除染は手段であって目的ではない」ということです。
2013年(平成25年)は、仁志田昇司市長のこの言葉とともに明けた(「だて市政だより」平成25年1月24日発行)以降、この言葉は何度も繰り返されることとなる。
仁志田市長は続ける。
「つまり、除染は元の『安全なふるさと』を取りもどす手段として取り組むものでありますが、安全だと思えるようになるには心の問題という面もあります。一般には線量が一定程度に(年間5ミリシーベルト以下)低くなれば心配ないのですが、子を持つ親などは非常に心配している実態があり、安心できる線量は定まりません。
チェルノブイリ原発事故後の対応についてベラルーシを視察した報告によると、『農業については、汚染状況に合わせた栽培を検討すべきである』、実際の被曝とは別に、放射線は危ない、大変だ、という心理面の不安感をどう取り除くかが大切だ』とあり、各々が放射能と折り合いをつけて、たくましく生きることが大事である、と助言されたとのことです。
以上のことから、当市にとっての今年最大の課題は。ベラルーシでの教訓をもとに放射線に対し、以下に安心の気持ちを持てるようにするか、そのために除染のやり方を含めて、どのような対策に取り組むかが課題であると考えます」
このメッセージの前段で仁志田市長は明確に、Cエリアの除染は、「A.Bエリアとは違った考えで取り組む必要がある」とも述べている。
市長は除染の取り組みの根幹に
「安心の気持ちを持てるよう=心の問題」を据える。つまり物理的に生活圏を除染するより、大丈夫だと安心できるように、後者に重きを置くことの宣言だった。
皮肉なことに、それがCエリアに住む住民を今も苦しめている。
水田家も川崎家もそして小国から避難した早瀬家もCエリアで暮らしている。続く
心の除染という虚構126
こころの除染という虚構
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「龍哉、自分で教育委員会に電話してみっかい?」何気なく話したところ、龍哉。はうなづいた。長男で線が細いところがある龍哉だが、どうしても自分の声で言いたいことがあった。道子は横で見守った。
「僕が転校を決めたのはタクシーがなくなるからです。なんで今頃タクシーの通学を再開するっていうんですか?ひどいじゃないですか?僕は転校したくはなかったんです」
電話口の向こうは「ごめんなさい、すみません」と言い続けているようだった。
「ふざけんじゃないわよ!子どもを守る教育委員会が何やってんのよ!」
これは夫婦同じ気持ちだ。今だって怒りで体が震えてくる。和彦は昨夜もこう言った。
「裁判を起こしてでも、龍哉の傷ついた気持ちを何とかしたい。俺は絶対に教育委員会を許さない」
新学期、転校生となった龍哉は必死に頑張っていた。道子はその痛々しさがわかるだけに、よく声をかけた。
「大丈夫?頑張って、疲れない?」
龍哉はそのたびに、笑って答えた。
「大丈夫。余裕だね」
龍哉が高熱を出し、入院したのは1学期も終わりのころだった。マイコプラズマ肺炎という診断だったが、道子は精神的苦痛で疲れがたまったからだと思わざるを得なかった。病床で龍哉は初めて本当の思いを母に伝えた。
「僕休み時間がつらかったんだ。一人でポツンと机にいるんだ。みんな、色々するけれど、僕、一人で机にいた、それを乗り越えて友達作んないとって」
龍哉の切なさを思って、涙となった。道子は聞いた。
「なんで、ママに言わなかったの?はなしてくれればよかったのに・・・」龍哉は首を振った。
「言わんにかった。これ以上、ママに心配かけさせたくないがら」
道子ははっと振り返る。言えない何かをつくっていたのは自分だった。被曝しないよう気を付けて、神経をいら立たせて、いろんなものと闘って・・・。
「2年間、私何をやってきたんだろう。子供は成長していたけど。大人はただ足踏みして『あの野郎、この野郎』と憤慨して、闘ってばかりで。子どもを守るために精一杯やってきたけど、子どもの防御はできたかもしれないけれど、子どもに、大人が前に進む姿、進歩を見せていない。どう人生に立ち向かって行くかという姿を・・・」
何かの区切り、転機が道子の中で生まれつつあった。事故からすでに2年が経過していた。続く
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