goo

一家再生(その四)・結婚

寿士さんの退院から半年くらい後、場木クミ子さんが「おかげさまで主人もスッカリ人が変わったようになり、私も義母も喜んでいます」と挨拶に見えた。ご主人から、「『今まで迷惑をかけた分、酒を飲んだ積りで年に二回は旅行をして楽しむ事にしよう』と言い始めたので、これにもビックリしました。顔つきも嘘のように穏やかになって言葉も柔らかくなり、本当に今までの苦労が何だったのか不思議でなりません。それからお陰さまで次男の結婚が決まりました。後は長男も早く元気になって結婚してくれたら万々歳なのですがね」と話し、世間話を交えてゆっくりと話し合ってから帰っていかれましたが、長男の縁談はなぜか進まず、そのうちに来るだろうと気を楽にして待つしかないと話合っていたようでした。

それから数年が過ぎ、2005年10月,大崎市の江藤生麗(えとう・きみえ)さんという女性が両親と一緒に相談に見えたが、35歳で未だ縁が決まらないのだと言う。お茶、お花、料理、全ての免許を持っているのに何故縁が結ばれないのか不思議で仕方がないと言う。結局は良縁を得る事の無い運気であった。又そういう子供を持って苦しむのがご両親の運でもあった。「急いで撰名しましょう。『三人とも撰名する事で』江藤家の当面の問題は解決する筈です。今日から三ヶ月経っても生麗さんに縁談のない時は私が責任を持って生麗さんに合う『いい男性』を紹介します」と言って、撰名を使い始めてもらった。・・・

三ヶ月はあっという間に過ぎてしまった。江藤家に電話した「生麗さんに縁談はありましたか?」母親が言う『ひとつも来ません』『解りました。約束どおり、私が紹介します。写真と経歴書を持ってきてください』・・・場木クミ子さんに連絡した。『息子さんの寿士さんは結婚しましたか?』「まだなんです。子連れでも、再婚でも構いませんから誰かいい人がいたらお世話してください」双方から写真を預かり、交換した。・・・

寿士君も、生麗さんも素晴らしい人だが、ご縁が無いばっかりに結婚できずにいた。『その縁を私が結ぶ』のだ。2006年2月、私の予感通り、二人は会って話をする気になり,松島の『一の坊』で見合いをし、お互いに気に入り、同所で6月に目出度く結婚式を挙げた。江藤生麗さんは場木と姓が変わったので『場木公恵』と撰名した。(その五)へ続く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一家再生(その三)・危篤

『どうしました!?』「長男のひさしが大和町で交通事故(自爆)を起こして、仙台市立病院に入院しました。連絡を受けて病院に来ているんですけど意識が無く重態です。面会謝絶の状況で、今医者から『お母さん、息子さんは多分だめです。お気の毒ですが、諦めてください』と言われました。先生何とか助けて下さい」『御長男は相変わらず撰名を使った形跡は有りませんね?使ってさえいれば、こんな目に遭うことはなかった筈です』

「済みませんでした。言われるとおり、本人は使っていませんでした。信用していなかったようで、申し訳ありません」『まあー、お母さんがお詫びする事ではないが、とにかく今から言うとおりにしてください。ベッドのシーツに大きく「場木寿士」と撰名を書くこと。枕カバーにも書いて下さい。洗面器、スリッパ、本人の寝巻きにも書いて下さい。医者や看護婦さんに「何だ?」と聞かれたら「おまじないです」とだけ話して下さい。彼等は医学的に判断してご長男を助からないと見ていますから、家族のやろうとする「おまじない」を反対しない筈です。

勿論真意はおまじない等ではなく、れっきとした理屈でやるのですが、それを彼等に理解してもらう為の時間が無い。それで若し意識が出たら、先生方は何をやると話していましたか?』「意識が若し出てきたら、砕けている顔面の手術から始めるそうです」『そうですか。若し意識を回復した時は、先生方や看護婦さんたち皆様のおかげです、とお礼の言葉が大事ですよ。これからが生死をかける手術に入っていく訳ですから。私もこちらから祈って居りますから』・・・

ありがたい!本当にありがたいことに、二日目の夕刻、場木寿士さんは意識を取り戻した。さらに二日後、何回かに分けて行う手術の第一回目が行われたのである。お陰さまをもって手術と養生の大成功を見て二ヶ月の後に退院する事となった。この長男とは一度も話した事が無い。スッカリ落ち着いたら一度ゆっくり話してみたいと思っていたがお互いに忙しく実現しないまま、時が経っていった。(その四)へ続く。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一家再生(そのニ)・変化

場木さんはそんな事で主人が変わるなら今までの苦労は何だったのか、とても信じられない話であり方法だと感じたに違い無いが、さりとて他に解決の方法がある訳じゃなし、これまでのいろいろな成功例をあげて「とに角やってみましょう」と言う事になり、義母を除く4人の撰名を作成した。ところが、国家公務員の長男は撰名を使おうとしない。夫婦と次男は積極的に使い始めた。次男に間もなく彼女が出来た。

ご主人は場木光夫(ばぎ・たかお)を場木貴夫(ばぎ・たかお)と撰名して半月ぐらいから、酒量が減り始め、2ヶ月目にはコップ一杯で嫌になり、『お母さん、ご飯にするから』と言うようになったという。勿論ぐずぐずも言わなくなり、夜10時には寝るようになったというのだ。次男は父親と少しずつ会話するようになり、義母はこの間までの事がうそのようだと喜んでいるし、何よりも彼女は「私が一番楽になったのです」と言い、塩釜の紹介者とこの吉野に感謝していると話して貰った。

『それは何よりでしたね、皆さんが素直に実行していただいたからね。』場木クミ子と撰名した彼女は「まだ長男は使う気にならないようです。父親が変わったのを見ても半信半疑です。長い間反発していましたからね」無理も無いかも知れないが、『撰名を使うということは自分の為なんですよ,自分の人生を良くする為にやる事ですから、父親に反発するから使わないというのはどうですかね,自分が損する事ですよ!一度私と会わせて下さい。よく説明しますよ。事故に遭い易い画数を持っていますから運転など十分気をつけるように伝えておいて下さい』

この長男は場木 寿(ばき・ひさし)を場木寿士と変えている。寿は壽で14画のため、神経質なところがあり、説得に多少時間がかかる事は仕方のない面がある。
しかし、運気というものは、個人個人の都合を待って動いてくれるものではない故、良ければ良いように、悪ければ悪いように出現するので使用開始が早いほど良いのは当然である。それから1年半ほど経ったある日の夜八時頃、クミ子さんから「先生大変です!ひさしが危篤です!助けてください!」と必死の思いの電話がありました。(その三)へ続く
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

一家再生(その一)・相談

仙台市に住む場木さん一家は77歳の義母と夫43歳、その妻である「相談者」と息子二人の5人家族である。夫は一部上場会社の社員、相談者は損保会社の社員、長男は国家公務員、次男は大手商社の社員、収入的には安定しているものの、全員凶名者であることの家族間の悩みを抱えている。元々夫は場木家の次男であり、好きな道を選んで他県で働いていたが、長男が亡くなった為,親の強っての頼みで生家に戻り、相談者と結婚して今があるという。

昭和61年12月初めの頃,塩釜市に住む方の紹介で尋ねてきた彼女は夫の酒量と肝臓の病を心配していた。
夜8時半や9時頃から翌朝3時半や4時頃まで一升瓶が空になるまで繰り返し繰り返し、親の都合で他県から呼び戻された事を愚痴り、こぼす事の毎日で、私を先に寝かす事も無く、『俺が話しているのにお前が起きて聞いているのは当たり前じゃないか』と自分中心の迷惑掛け放題。子供達も殆ど父親に話しかけません。父親から話しかけても無視しています。相当反発しているのだと思います。義母は『こんな状態を見ながら生きていたって面白くもなんともない、息子の顔を見るのもイヤだ、早く死んでしまいたい』と言うんです。

「お母さんがいるから私は離婚もせずに耐えているんですよ。そんな悲しい事を言うなら、私が先に実家へ帰らせてもらいます」とそんな事を言っては義母と励ましあっているそうだが、正直なところ限界を感じるという。お母さんを入れて、五人全員が凶名です。義母さんを除いて、四人を撰名しましょう。四人が良くなれば義母さんは自然と良くなります。先ずご主人の体質を変化させます。目に見えて酒を欲しがらなくなりますから、ソコから良い方向へ変わりますので安心してください。つまりご主人の性格と価値観を替えてしまうのです。(その二)へ続く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

納得・中村天風

矢張りこの頃、すでに『天風』名を使っていたのではないか?そうでなければ『人斬り天風』ではなく『人斬り三郎』の風評のはずだ。28歳でコサックの銃殺刑を寸前で部下に救われて逃れ、30歳で生存の難しい大病にかかっても、偉大なカリアッパ師に出逢って奇跡的に助かり、更に中国を経由して日本に帰る途中で孫文の第二次辛亥革命に中華民国最高顧問として協力し(頭山 満の指示もあったと思われる)、謝礼に貰ったかなりの財産を元手に、日本に帰って『東京実業貯蔵銀行頭取』を始め、実業家としての実績を次々と積み重ねて行った。

これらの事実はまさしく『中村天風の強い運気の生き様』そのものである。突然に感ずるところがあって43歳で事業も財産も総整理し、統一医学会を作って辻立ちし、人々を教導する。多くの政財界人に感銘を与え、慕われていつの間にか会員が増えて行く。中村天風の100点の強い運気、つまりは完全大吉名でなければ有り得ない生き様の連続なのである。

『中村天風』(4・7・4・9)主運:村天11画(大吉)。副運:中風13画(大吉)。前運:天風13画(大吉)。後運:中村天風24画(大吉)・11画:陰陽新たに来たりて天賦の幸福を受け、万事に順序正しき発達を為し、穏健着実、次第に富貴繁栄を得,一家再興の格式を示す。家運挽回の運にして、平静和順の最大吉運なり。13画:学芸才能に富み、智謀奇略あり、忍従事に当たり、いかなる難関もたくみに切り抜けて大功を奏し、富貴幸福を享受す。智慧充満の形あり。24画:才略智謀人に優れ,無一物より大功を奏する吉運を有す財帛(ざいはく)豊かにして、物資四方より集まり興産蓄積す。晩年益々盛大繁栄して子孫累代に余徳余慶を伝うるなり。・・・

中村三郎(10点)と中村天風(100点)では運気と生き方,生きる内容に於いて大きな差が出来てしまうのである。これは渋沢市三郎(10点)と渋沢栄一(100点)にも当てはまる。


さて中村天風は昭和43年92歳で天寿をまっとうしたが、「43年の43」と何かを感じて事業財産を整理した「43歳の43」は何かの因縁が有る気がする。ちなみに、43画は散財運と言われ、「財産及び生命を失くす」運である。

(中村天風を慕って弟子になった政財界人)

宇野千代・・東郷平八郎・・原 敬・・松下幸之助・・藤平光一(とうへい・こういち。心身統一合気道の創始者)・・尾崎行雄・・稲盛和夫・・広岡達郎・・その他多数。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

若い頃から?

中村三郎が闇討ちをかけてきた相手を正当防衛で刺殺したがために、修猷館を退学させられたが、これは随変流剣術と居合いの修業を積んでいた事の幸運が齎したもので、立場を変えてそのような心得が無ければ彼が殺されていたかも知れなかった。

中村三郎(4・7・3・14・郎は郒で14画)主運:村三で10画(大凶)後運:中村三郎28画(大凶)・・病災、孤独、厄難、遭難、波乱変動極まりなき短命運。運の強さ10点。

この「中村三郎」が何時の時点で『中村天風』に代わったのか?いろいろな書籍を見ても何時からとはっきり明示されたものが無く、私はいつも喉に骨の刺さった思いでいたが、最近私なりに判断してみると、彼が16歳で頭山 満に師事した時点で、師たる頭山 満から『中村天風』名を授けられたのではないかと思うように成った。頭山 満自身が16歳で「乙次郎」から大宰府天満宮の満を取って、『満』と改名している。「改名の意味を良く知っていた頭山」は弟子としての中村に初対面で天風を名付けた可能性すらあると思われる。

何より危険な軍事探偵という職務に送り出すからには(113名の軍事探偵中生還したのはたったの9名だった・・中村天風だからこそ9名の中の一人に入ったのかも知れない)中村の無事と将来をおもんぱかってのことと思料する。この行為は武士の時代から、身分の高い者が「これぞ」と思う相手に名前を与えた事と共通するかも知れない。

頭山は「天の風」を好み、自分が中心となり、野田卯太郎、渋沢栄一らと協力して創立した国士舘の舘歌にも『富嶽颪の天の風』と唄わせている。2008年6月5日東京の「財団法人天風会事務局」に問い合わせたところ、「中村三郎」が何時から「中村天風」に代わったのか確たることは記録に無く解りかねるのだそうだ。ただし、「想像するところ、辻説法を始める辺りではなかろうか?」との事だったがそれは43歳の頃なのでいかにも遅すぎるし実際の生き方と合わなくなる(中村三郎では43歳まで生きられなかったろうと思われる)。

2008年6月5日何気なくウィキペディアを検索したところ、「中村は16歳で大陸に渡り『人斬り天風』と恐れられるほどの活躍をした」、と記されてあった・・・「納得・中村天風」へ続く。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

いつから天風に?

1876年、柳川藩士、中村祐興の息子として東京の王子村で生まれた『中村三郎』は福岡の親戚筋に預けられ、福岡の修猷館中学(現在の修猷館高校)に入り、柳川藩に伝わる随変流剣術と居合いを修業し、柔道部の主将として文武の道に励んでいた。そうした彼に迫り来る第一の危機、其れは、熊本の済済黌との練習試合で勝ったが、負けた相手の「闇討ち」に遭い、その仕返しに遭う過呈で相手を刺殺してしまう。正当防衛を認められたものの、修猷館を退学させられ、16歳で頭山 満の玄洋社に迎えられた。

その後日露戦争開戦論者の頭山満(37歳)の推薦により、陸軍の軍事探偵(秘密工作員)として大陸に渡り活動する。二度目の危機は、明治37年28歳の時にコサックに捕まり、「銃殺刑寸前」のところで部下に助け出され、九死に一生を得たという。この運の強さには特異なものがある。三度目の危機は,30歳で「奔馬性結核」に罹り、病気で弱くなった心を強くする方法を求めて、33歳で米国に密航し、自分が病気になった原因を探ろうとコロンビア大で自律神経系を研究した。

が、答えを見つけられぬまま、イギリス、フランス、を経て日本へ帰ろうとし、悪化した病に喀血して死さえ覚悟したカイロの船上でインド人でヨーガの大先人、カリアッパ師と出逢った。師は「私についてくればその病気は治る」と言ったという。すぐさま弟子入りし、ヒマラヤに入ってヨーガを含む修業を重ね、スッカリ元気になって中国を通って帰国し(このとき孫文の辛亥革命に加担し謝礼にかなりの財産を得たという)、さまざまな事業を展開した。

1919年43歳で、『突然思う事』があり、一切の事業、財産を処分して、統一医学会を設立。辻説法を始めたがこの時期、多くの政財界人が彼の説に共鳴し、彼を慕って会員になったという。1940年(昭和15年)統一医学会は天風会と改称され、1962年(昭和37年)国から財団法人天風会と認可され、現在に到っている。1968年中村天風は92歳で没した。

:経歴を簡単に書くと以上だが、『中村天風という破天荒な豪傑の人間性』が、『いつ頃形成されたのか』が私にとっての関心事であった。「中村三郎」という運気の弱い人間では到底考えられない人生模様だったからである。若い頃から?へ続く。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一笑健命

笑若怒老(しょうじゃくどろう)と言って、確かに笑えば若返り、怒れば老け込むことになるのだそうで、ホルモンの分泌と自律神経との作用で若返ったり、老け込んだりが、決まるそうだから、誰しもが笑って健康を維持したいと願うのは当然であります。したがって古来、笑いは長長寿の秘訣とも言われております。

大阪さやま病院の医師岩瀬真生さんが文部科学省の研究助成を受けて行った笑いに関する実験結果、脳の内部を測定する最新鋭機器を使っての血流量の変化を調べたところ、『心からの笑い』では前頭葉の補足運動野や左被殻、『作り笑い』では一次運動野などの血流が増えるなど異なる領域が活動している事が確認されたという。

またウイルスや、悪性腫瘍を攻撃する免疫細胞のナチュラルキラー(NK)細胞の活性化実験では、ストレスを強く受けている人よりも、普段から笑うことの好きな人のほうが活性化の度合いが高いのだそうである。更にその働きは、単に「笑いの量」ではなく、『主観的なおかしさ』という『質』に関係しているという事も解ったそうだ。

意外に思ったのは、ホラーやプロ野球の応援などに夢中になる時にもNK効果が出る可能性が指摘されていることだ。恐怖感や緊張感、ひいきのチームが負けていればストレスが溜まりそうだが、勝ち負けに関係なく、応援に夢中になる事が良い効果を出すのであろう。

『万人にNK効果があるのが笑いであり、疲労の軽減にもつながるので、普段からユーモアのセンスや心の余裕を持ち、楽しく笑うことが大事』なのだそうだ。『一笑健命』の意味は、笑えば命も健やかという事である。拙著『泣き笑い真剣勝負』ではないが、楽しく笑って暮らせるか,泣きの苦しい人生を余儀なくされるかは、各人の姓名画数によるという統計実績がある故、各人において自分の姓名が「泣き型の凶名」か,「笑い型の吉名」か、位の関心は持っていたほうが良い。

6月18日24歳の三代目セーラームーン女優、神戸みゆき:10・4・3・3・4(本名:美有紀)さんが心不全で亡くなった。苦しまざるに苦しみ、急変没落の悲運を免れない第三型絶対的短命運という、『典型的な泣き型の凶名者』であった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

解るだろ?

『ちみたち(君達)!!ショビエト(ソビエト)を見ろ!ショビエトでは始業のペル(ベル)が鳴ると学校の門がピシャリッと閉ずるんですとっ!その日一日は何ぼペンキョウ(勉強)したくとも、ペンキョウできないんですとっ!』先生の顔が怒りで真っ赤になるほど発音が変になって来る。可笑しいもおかしいが笑う訳にはいかない。おかしさを上回る恐怖の雰囲気が有った。阿部 博先生は怒ると恐いという評価が校内に知れ渡っており、先ほど励ました一年生も真っ青に成っていた。

やがて私一人が残され、皆教室へ向かった後、『吉野、すこし魚の匂いがするようだが何故なんだ?』と訊かれた。「ハイ、家業が魚屋なもですから、朝早く魚市場に行って手伝いをしてから来るので,少し匂うかも知れません(机を並べていた辺見秀逸君・・後の芥川賞作家、辺見庸・・に「変味臭一」と冗談でペンネーム付けたが、あの頃本当に匂っていたのは私だったのか!?・・・本ブログ2008・2・12の「あなたにペンネームを」を参照ください)」と申し上げた。

『そうか、それでか。家業を手伝うのはいいが、出来るだけ時間内に来るようにしろよな!それから俺も好きで生徒達を怒鳴っているんじゃないのだよ、解るだろ?』先生のおっしゃることは尤もなことである。「わかっています。先生!」その後も家業の手伝いでやむを得ず遅れる事はあったが、阿部先生は何も言わなかった。すっかり世相が変わってしまい、今日このような生徒に緊張感を与え得る教師は少なくなった。淋しい気がする。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

ちみは、ちかいで・・・

魚のウロコが付いたゴム長靴を履いて、スクーターのラビット号に乗り、風に飛ばされない様に学生帽を腰のバンドへ挟み、急いで校門内へ。
「ちかいで来るちみが(機械で来る君が)ありいて(歩いて)来る者よりも遅いとは何事だァーッ!」。校門で生徒指導部長の阿部 博先生が頭から湯気を出し、顔を真っ赤にして怒っている。人を怒る為に生まれてきた人物のようで、頭はスッカリ禿げ上がり、切れ長の眼光鋭い形相で、一端怒鳴られたら恐怖感を覚えたものであった。

石巻高等学校(男子のみ)よりも30分ほど遅れて授業の始まる石巻家政高等学校(女子のみ)・・現在の石巻市立女子高等学校・・の女子生徒達がクスクスと笑いながら横を通過していく。恥ずかしい事この上ない。とにかく職員室に入って自分の教室へ入る為の許可証を貰わねば成らない。職員室には遅刻者が15人ほどいた。一年生が三人ほど居て真っ青になっていたので「心配するな」と低く声をかけた。

他の生徒達もワイワイと私語が飛び交う状態でいたところ、『全員ならベえー!』と阿部博先生の大声での号令が掛った。全員が横一列に並ぶ、『市内の者一歩前に出ろ!』と言われ私一人を残して、他は全員一歩前に出た。『郡部のものが早く来るのに市内の者が遅れて来るとは何事だあっ!!』一瞬にして静まりかえった。

『市外の者、二歩前に出ろ!』と私をにらむ。結局私だけ皆よりも一歩前に出た(昭和42年、石巻市と合併する前は牡鹿郡稲井町だった)。阿部先生は『遅刻をしてさも得意げに後輩の前で堂々と話しをしている大馬鹿者が居る!』と言いながら私の顔をジロリと見る。私は恐怖で身体を震わせている一年生を励ましただけで、決して他意はなかったのだが、私が落ち着きはらっているので生意気で不誠実に見えたのかも知れない。・・・(解るだろ?)へ続く
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ