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小沢一郎の正念場!!

民主党が昨年、2009年8月の総選挙で大勝を得、約60年続いた自民党から、初めて選挙による政権を獲得した。よくよく考えて見れば武器や、火器による政府転覆ではない、本当の意味の民主的選挙、国民の総意による政権交代であり、ある者は無血革命と呼んだ。

ところで、この国は明治の新政府誕生以来、官僚が国の政策を練り、法律を作って運用を始め、立憲君主制の後に様々な政党が誕生して、議会制民主主義の形態をとるようになってきたわけだが、相も変らぬ、官僚支配が、営々と続いてきた事に成る。いわゆる『官主主義』であった。

表面は自民党という政党が権力を握っていたかに見えたが、実質は官僚が法案を作り、予算案を作り、立法府たる国会を影から差配し、司法をリードし、実質の支配者となって今日に至った経緯がある。何時頃からか自民党は官を支配をする事を諦め、小泉総理以来、官に白旗を揚げた。

一方で戦後のGHQ以来、政治的、経済的にアメリカへの従属が当然のようになされてきた日本は政権党としての自民党は、アメリカの意向に従わねばならず、田中角栄のような対中政策ヘ舵を取り、対米一辺倒を考え直すような総理は邪魔者として事件をネタに抹殺されてしまう。

右に霞ヶ関官僚、左にアメリカ盟主国という左右の外圧とのいざこざを避けて来た自民党は特に総理に成るべき実力の伴わなかった小泉純一郎が、アメリカと霞ヶ関、マスコミを味方につけて首相になり、国と国民生活をガタガタにして以来、騙されて怒った国民は自民党を見限ってしまっていた。

2007年9月麻生太郎が総理になり直ちに解散に打って出ると思った国民に肘鉄を食わせ、負けるのがイヤだと2009年8月の任期満了寸前まで解散を見送った。それが却(かえ)って国民を怒らせて大惨敗したのである。小沢秘書逮捕の国策捜査も自民党に仇となって降りかかった訳である。

これより先、自民党は数々の失政が原因となって、民主党政権にとってかわられることを予想し、何としても民主党を選挙で勝たせないために、小泉が裏金問題で貸しを作った検察特捜を使って選挙妨害、秘書逮捕、等の民主党、小沢タタキの第一弾を放ちつつも失敗して民主党大勝利。

民主党は2008年9月、社民党、国民新党との連立で鳩山由紀夫を首班として国民の大きな期待を背負いつつ鳩山内閣をスタートさせた。

民主党はいざ政権に就いてみて驚いた。自民党は民主党が思っていた以上に官僚依存がひどく、長年の自民党政治の間に『民主主義』は完全に『官主主義』へとがっちり基礎を固められていたのである。ここに、民主党の言う、『政治主導』が、簡単ではないことが察せられるのである。

民主党の鳩山内閣は政治主導を謳い文句に発足したが、140年以上も続いた官僚主導の官主主義を民主主義に変えるにはそれ相当の日数が掛かる。

それでも民主党の基本政策と、方向性に間違いはなく、一致結束して事に当たれば必ず、国民の期待に沿う形で善政がほどこされる事は間違いないのである。

しかし、昨年初めて選挙によって野党に下った自民党の鳩山由紀夫と小沢一郎および民主党への攻撃はなりふり構わぬ様相を呈している。

過去に一度奪われた政権を、策略(細川総理に引退の覚悟を持たせた亀井静香の脅し作戦と社会党の村山富市を総理にすると口説いて与党から離反させた)によって与党を分断し、政権に復帰した事の二番煎じを考えているようだが、1994年当時の状況と現在の背景は全く違うのである。・・・続く



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名前は『静か』だが

亀井大臣はこのところ、閣内外での独断専行が過ぎるのではないかと、民主党政権を支持している多くの国民は心配している。

何かと目立つ言動が多い亀井大臣だがその目的がどこにあるのか今ひとつ周囲には分からないのである。

閣内での不一致も見られ、テレビ出演での言い争いや、他の閣僚からの批判も多いようだ。

この御仁の独断専行は今に始まったことではないのだが,連立政権だからといって少数政党の国民新党が連立相手の大政党の民主党を窮地に陥れ、追い込むのは許されないことなのである。

閣内で議論をし尽くし、侃々諤々(かんかんがくがく)やるのは大いに結構だが、その結論を待たずに外部に独断で発言せず、もう少し『静か』にしているべき亀井大臣は『静香:しずか』と名前だけは確かに『しずか』である。

{亀井静香(16・4・16・9)亀は龜で16画。静は靜で16画。
運気10点。絶対的短命運

天格:亀井  20画
人格:井静  20画。大凶
地格:静香  25画。基礎運の凶により吉に凶を含む。
外格:亀香  25画。主運の凶により吉に凶を含む。
総格:亀井静香45画。三才の配置により大吉に凶を含む。

成功運:天(十)―人(十)大凶。
基礎運:人(十)―地(五)大凶。
三才の配置:天(十)―人(十)―地(五):第一型絶対的短命運。

言葉で相手の心をグサリとえぐるような特性を持っており、更には人を毛嫌いし、人に毛嫌いされる性格ゆえ、社交上、業務上に支障を来たす事があるため、驕慢の念を持たぬよう努力することが要求される。}

独断専行でただ単に目立ちたい、存在感を顕示したいということなら、先行き連立にも重大な支障を来たすおそれが充分に懸念されるのである。

鳩山総理に話して了承を得たからと言って、物事を進めるやり方は大人の行動とは云い難いものがある。

もし、国民の負託に応(こた)え、国家国民の為に尽す気が本当にあるなら、勝手に外部に向って発言する前に、閣内で充分に話しを詰め、一致した形での意見、発言をすべきである。

野党自民党や、マスコミに揚げ足を取られぬように留意しなければならない筈だ。亀井静香は、名前だけではなく、本当の意味で、もう少し静かに落ち着いた言動を心がけて欲しいものである。




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判断に問題あり?

静岡県の陸上自衛隊東富士演習場で野焼で3人が焼死した事故で、野焼きを主催した『東富士入会組合』の渡辺 淳組合長(69)が先週21日、御殿場市で記者会見し「火入れの判断に問題があったという認識はない」と述べ、『悪天候で野焼きを強行した』との原因指摘を否定した。

渡辺 淳(一)〔13・22・12・(1)〕三ずいは水で4画。辺は邊で22画。運気10点大凶名

天格:渡邊:    35画
人格:邊淳:    34画大凶。破家亡身最悪の運
前運: 淳:    12画大凶。薄弱無力の大困難、大失敗運
外格:渡(一):   14画大凶。破兆激しき、浮沈と辛酸多発運
総格:渡邊 淳:  47画他の運格の凶により大吉に凶を含む。

渡辺組合長は「風向きが急変した事は遺憾に思う」
「20日朝から午後にかけ天候が悪化するとは思わなかった。と予期せぬ事故を悔いた。

20日朝に野焼きの実施を決めた経緯については午前6時過ぎ、自宅で空や風の様子を目で確認。『やれる』と判断した」と説明。気象予報や風速と言ったデータを予測しておらず,「毎年経験から実施するかどうか判断して来た」という。

約3000ヘクタールを約1200人の住民らで野焼きした20日の作業で、渡辺組合長は3人が死亡した現場から、約2キロ離れた『本部』で指揮、各所の作業内容について問われると「範囲が広過ぎ、全体は把握できない。危険かも知れないが毎年やっていること」と述べた。

この野焼きにより御殿場市の以下の三名が炎に巻かれて死亡した。

勝間田和之(37):(12・12・5・8・4)運気10点大凶名
地格12画:大凶。厄難短命運。
外格28画:大凶。遭難短命運。

勝間田嘉弘(33):(12・12・5・14・5)運気10点大凶名
人格:田嘉19画:大凶。万事行き詰まりの病災短命運
地格:嘉弘19画:大凶。

池谷慶市(32):(7・7・15・5)運気5点。短命凶悪名
人格:谷慶22画:    大凶。万事挫折運。
地格:慶市20画:   大凶。物の割れんとする、苦辛短命運
外格:池弘12画:   大凶。厄難短命運。
総格:池谷慶市34画:  大凶。破家亡身の運

強風による延焼が原因と見られ、県警は過失致死の疑いもあると見て作業の手順や火が広がった状況について、関係者から事情を聴いている。

責任者の組合長も、犠牲となった三名も凶悪運気の持ち主である。完




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偏向報道の恐さ

駅前の一等地に開業していた大規模店舗『ビブレ石巻』が撤収したのを受け、その建物を無償で譲り受けた石巻市が市庁舎に改造し2010年3月15日から一部供用を開始した。

早速所要で訪れた市民に、NHKの調査員がマイクを向け『民主党と自民党のどちらを支持しますか』と75歳以上と思われる女性に質問していた。

聞かれた女性は『小沢一郎さえ辞めれば、どっちの党だろうと構わない』
と答えていたが、これには聞いた方の調査員もさぞかしビックリした事であろう。

極端な言い方をすれば、民主党が何なのか?自民党は何なのか?その背景や成り立ち、主義、主張の違いやそれぞれの歴史、人物等についての知識をほとんど持ち合わせていない層への世論誘導は激しかった。

昨年3月の小沢秘書の逮捕以来、徹底して新聞、テレビで放送された小沢一郎=悪者という『世論誘導策』が効きすぎて自分でよく物事を考え、判断しようとしない大人の層には「小沢=悪党」の印象だけが残された。

新聞、テレビの偏向報道の恐ろしさをまざまざと見せ付けられた思いがする。しかしながら、このような、テレビ、新聞の報道に騙される国民ばかりではない。

大方のこころある国民は、誰が何のために必要以上の小沢一郎タタキ、民主党タタキをやっているかについておおよそ分かってきたようだ。

幸い民主党が政権を取って初めての予算案が今日(3月24日)参議院を通過し、成立した。この実行により、間違いなく世の中は民主党中心に動いていく。

参議院の選挙にどれだけの妨害があっても、相当数の団体が民主党支援に傾き、公明党の与党への指向が固まって来た現在、最早自民党は息の根が止められつつある。

野党になって半年、陳情も無ければ、カネもない、やることが無く、ひたすら虚無感だけが残る。野党で一年以上暮らした事がない自民党、賢い人間なら、今のうちに民主党へ鞍替する。

そうして政権党の元で自分を選んでくれた国民に恩返しをすべきなのだが、そのような人物はほとんどいないから不思議だ。

小沢一郎は経団連、日商,医師会、土地改良、日歯連、農協、不動産、宗教、トラック協会、自衛隊などなど、すでに1200万票ぐらいを従来の自民党指示から民主党への切り崩しに成功した。

政権党という政治権力を握っての民主党の選挙運動に上記団体は雪崩を打って馳せ参じている。これで7月の参議院選挙も勝負あった感がする。どんなことをしても自民党の勝ちは有り得ないのである。

マスコミの『総理にしたい男ナンバーワン』等と小沢一郎潰し、民主党潰しのためのありもしないでっち上げ話しを真に受けた目立ちたがり屋の舛添要一の自民党乗っ取り策がどうなるかだが・・・

このような狡猾で凶悪相の舛添要一が仮に自民党を乗っ取る事があっても、参院選後の自民党消滅は避け様もない現実のことに成るはずである。




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頑張れ!!河村たかし

名古屋市の河村たかし市長と市議会が激しく対立している。どえりゃーことになっとるのだ。河村市長が提案した議題を市議会がことごとく否決。怒った市長側は、市議会をリコールするつもりだ。

俄然面白くなって来たのである。

河村市長の提案は実に画期的なものである。年間2400万円の市議の歳費を800万円に減額し、さらに75人の定数を38人に減らそうというものである。

◎河村市長自身も既に800万円に減額している。

75名×2400万円=18億円・・・現行
38名×800万円=  3億 400万円・・・河村市長案
実に14億9600円の節約案である。これが市民税減税の原資に回る訳だ。

ところが自分たちの給与(歳費)を減らしたくない市議たちは圧倒的多数で否決。同時に、河村市長の最大の公約だった『市民税10%減税』も『1年限定』にしてしまった。

昨年12月の議会で、いったん[恒久減税]として認めたものを、市長を挑発するかのように、ひっくり返す異常事態だ。何もかにも否定された河村たかし市長はさすがに『市民への裏切りだ』と反発している。

市長を支援する市民団体は、議会の解散請求(リコール)を目指して署名集めの準備を本格化させるという。議会が解散され選挙になった場合,河村市長は多数の賛同者を擁立するつもりだ。

早くも河村党から出馬したいと60人以上もの市民が殺到しているという。選挙に突入すれば現職市議はことごとく落選すると見られている。
問題はリコールが成立するかどうかである。

『リコールを成立させる為には36万5000人の署名が必要で簡単ではないが、河村市長は人気者で先の市長選は51万票の過去最多獲得票記録を持ち、何より大きいのは、名古屋人は金銭感覚がシビアなこと。

名古屋はトヨタの不振もあって不況に苦しんでいる。市議会は年間80日しかないのに議員は一人につき2400万円貰っている。日給30万円ですからね』と市政関係者は言う。

河村氏は『名古屋から日本を変える』と民主党国会議員から名古屋市長に当選、就任したが、ヤル気と主張の分かりやすさで人気が有り、市民の圧倒的支持を得ている。

ある意味では、民主党政府に先駆けて改革と本腰で取り組んでいる。

既得権者の抵抗は予想以上に激しく強いが、ブレずに真摯に改革と取り組む『河村たかし』は本物の政治家、改革者である。

昔から名古屋人は混乱を嫌うと云われるが、ここは市民全員のためにこぞって市長を支援して欲しい。名古屋市民は何が何でもリコールを成立させるべきである。名古屋市民の覚悟と頑張りに期待したい。

河村たかし(9・7・4・3・1)運気100点大吉名。頑張れ!!

名古屋が変れば日本が大きく変る。改革のノロシは全国に広がっていく筈だ。




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異常神経!生方幸夫

「間違った判断をした方が、『申し訳なかった。国民に大迷惑をかけた』と言わなければならない」――民主党執行部への謝罪要求まで飛び出した。一体何様になったつもりなのか?

解任撤回から一夜明けた24日も民主党の生方幸夫副幹事長(62)は
朝から民放を3局もハシゴ、テレビ画面を通じて、ますます小沢批判をヒートアップさせていた。

小沢の金の問題について、「引き続き説明を求める。やっていただけない時の身の処し方は自分で考えている。一緒にできないと言うことならやめざるを得ない」と『抗議の辞任』を匂わせていた。

生方幸夫の精神の異常さをまざまざと表出している。自らは本分をおろそかにして、偉そうなことを言えた義理ではないのだ。偉そうなことを言う前に、自分の本職を見つめなおすべきなのだ。

生方が生テレビ出演中に、国会内で開かれた民主党の国会対策会議の冒頭、司会役の鈴木克昌国体副委員長から、『今日欠席の報告があったのは○○議員と△△議員です。生方副幹事長については連絡いただいておりません。』と報告があったという。

生方は国体と幹事長室をつなぐ担当の副幹事長だ。なのに、大事な会議をすっぽかし、テレビ出演を優先させたのだ。生方が会議をすっぽかすのは常習となっている。

『通常国会に入って朝の国対会議を29回やったが、生方の出席は3回のみ』(国対委員長代理の三井衆院議員)というひどさでほとんど会議に出ていないのである。

「生方氏には、何度も出席してもらうよう要請してきましたが、本人の欠席の言い分は『朝が弱いから』・・・という呆れたもの。

朝が弱くて会議に出ないなんて普通の組織で通用しますか。任務も果たさない人間が偉そうな事を言わないで欲しい。小沢幹事長がどうのこうのとか言う以前の問題ですよ」。朝が弱いより、頭が弱いのだろう!!

そんな党内の批判も意に介さず、生方は24日の番組で会議の欠席癖について聞かれると,「重要でもない会議に、忙しいのにいちいち出る必要ない」と言い切ったそうだ。

副幹事長であるかないか以前に自分の職責すらまっとう出来ない生方幸夫のような人物に議員たる資格はない。「抗議の辞職以前に」今すぐ国会議員バッジを外すべきである。

こんな狂ったダメ男を税金で食わせるほど国民はお人よしではなく、また、そんな余裕もない。



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坂上二郎・八・

「その瞬間、力がすーっと抜けました。『セリフが言えた。ろれつが回った!もう何が来たって怖くない』という気持ちになって、それからはもう独壇場ですよ。いやー嬉しかったですね、あの時は。

――やはり目標を持つといううことが、リハビリでは大事なのでしょうね。

坂上:そうですね。やっぱり精神的には強くなりましたよ。『舞台という目標が出来て』からは10やることを20やろう。
20やることを30やろうって気になりましたから、回復が早かったんだと思います。

――仕事がおありだから、又それがバネになっているんですね。

坂上:そうそう、仕事をやるって事はリハビリです。だから楽しいですよ。公演に行ってしゃべりながら歌うって事は。お客さんがウケてくれて、あー良かった、リハビリして声も出るようになった。

おしゃべりもできるようになったと思うと、また一段とリハビリに力が入りますからね。

――これからのご活躍をお祈りしています。(聞き手:山田正之)

以上NHKラジオ深夜便・こころの時代
2006年5月25・26日放送分

聞き手山田正之(3・5・5・4)運気10点:大凶名

天格:山田:   8画
人格:田正:  10画。大凶
地格:正之:   9画。大凶
外格:山之:   8画。大吉に凶を含む
総格:山田正之 17画。大吉に凶を含む

コント55号の芝居はアドリブが多く、特に坂本の動きが早くて、体力はかなり使っていたのは見る者の目にもはっきり分かっていた。極端に過ぎるストレスと相まって、身体を痛める結果につながっていたのだろう。

坂上二郎の長男・坂上大樹と次男・坂上洋雄、それに何よりも奥様に対して感謝しても仕切れない有難さを思い、病後は穏やかな父に変ったと奥様や二人の息子は話しているようだ。

病気になって欠点が取れ、以前から有った円満な性質のよさが更に伸びたということが出来、病気になったことがすべて悪いこと、とばかりも言えないと語っていたようだ。―完―





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坂上二郎・七・

坂上:いや、笑いについてはまだ良くわかりません。やっぱり欽ちゃんから全部教わったと思います。あの人はチャップリンを尊敬していて、ああいう笑いを目指していたんですけど、私のほうは歌手か、ミューカルスターになろうと思って踊りをやったりしていたんです。
◎ 大成功した復帰の舞台

――やはり坂上さんにはもともと笑いのセンスがおありだったのでしょうね。

欽ちゃんは笑い、私は音楽という風に違うからこそうまく行ったのかもしれませんね。二人とも笑いを目指していたら、直ぐにけんか別れしていたかも知れません。

――発症後に出演された萩本さんとの舞台は、大成功だったそうですね。

坂上:稽古では欽ちゃんも気を遣ってくれて
『あそこをこうやるから、二郎さんはこうやってくれないか?』
「おお分かった」
『じゃあ今日はこれでいいよ。二郎さんはお帰り』って帰してくれました。

だから、稽古には三日間しか行かなかったんですよ。他の人はみんな一ヶ月間芝居の稽古やってるのに。

まあ欽ちゃんとの舞台はいつもアドリブですし、欽ちゃんが言うとおりやっていればいいんだから。気は楽なんです。

――萩本さんの『車いすでも出ろ』という言葉も励みになっていたのでしょうね。

坂上:コメント55号の舞台なんだから、金ちゃんだけ出てもしょうがなかったんでしょうが〔笑〕、欽ちゃんはああ言った以上、あらかじめ車椅子の芝居もちゃんと考えてくれていたんじゃないかとも思うんですけどね。

いよいよ初日です。舞台上手に控えましてね。緞帳(どんちょう)開きました。前の芝居も終わりました。いよいよ私の出番です。一人だけで舞台に出て行きます、扇子で顔隠しましてね。

中央に出てパッと扇子を取ったら、客席から『二郎さーん、頑張って。大丈夫よ。私たちがついてるよ』って声がかかってね。

私は「どうもありがとうございます。お陰さまでこの通り元気になりました。最後までごゆっくり見てくださいね。一生懸命頑張りますから。
飛びます、飛びます!」って舞台の袖に引っ込んだんです。・・・続く




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坂上二郎・六・

◎コント55号の誕生

『二郎さん、あんた面白いね。やっぱりコメディアンの勉強をした方がいいよ』と、浅草フランス座を紹介してくれたんです。そこに萩本欽一がいて、それが出会いなんですよ。

――フランス座ではどういうコメントをおやりになってたんですか?

坂上:今は浅草演芸ホールになっていますが、当時はヌードが専門でしたから、踊り子さんたちが着替える時間にみじかいコントを二人でやっていたんです。

最初はお客さんから『早く裸を見せろ!』ってやじられていたのが、そのうち『面白い。もっとやれ』と言われるようになりました。コントの内容は下ネタだったんですが、欽ちゃんは『若いけど、面白い人だ』という印象がありましたね。

1963年に欽チャンは自分の劇団を作ってやめて行き、私も翌年に辞めて、一応役者として、明治座とか新宿コマ劇場なんかに出ていたんですけど、とても食べていけないので、夜はキャバレーの司会をやっていました。

たまたま北浦和でマージャンをやる事になってメンバーが一人足りなくて、「そういえば欽ちゃんはマージャン出来るな」と思って電話して誘ったら、欽ちゃんはわざわざ北浦和まで出てきてくれたんですよ。

駅前の喫茶店に入って「久しぶりだね」って話しをしているうちに、欽ちゃんがコントの話しを始めて、いろいろしゃべっているうちにネタが一本出来あがったんです。それをきっかけに又コンビを組むようになりました。

――「コント55号」という名前は、どのようにして決まったんですか?

坂上:舞台が終わって楽屋に帰ってくると、直ぐに欽ちゃんがコントの
話しをするんですよ。私も負けないでやりますから、たちまちコントが出来上がります。

そうしているうちに「あのコンビは面白い」って評判になって浅草松竹演芸場の支配人が「君たちの名前を看板にのっけてやる」って言うんですよ。

「萩本欽一・坂上二郎じゃ長すぎるから何かいい名前を考えよう」という事になって、その支配人が「君たちはいつも楽屋へ帰ってくると喧々囂々とコントの打ち合わせをして、前進前進、ゴーゴーゴーという感じだから『コントゴーゴーゴー』ってのはどうだ」とおっしゃったので、
「じゃあそれでお願いします」という事になったんです。

その頃『007』の映画が流行っていたからゴーゴーは数字の55にして、台風みたいに号をつけて、台風並みのコントということで『コント55号』に決まりました。そのうちにテレビ局や劇場の関係者が見に来るようになったわけです。・・・続く




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坂上二郎・五・

◎ 歌手志望。

――坂上さんはもともと、故郷の鹿児島では「のど自慢荒らし」と言われるほどの歌の名手でいらっしゃったそうですね。

坂上:小学校6年の時に初めて商店街ののど自慢に出て、私はその常連になったんです。中学校に入っても勉強しないで歌ばっかり歌っていたら先生に怒られて、とうとう校長室に呼ばれました。

瀬川というその校長先生は『おい、二郎。お前は音楽の時間に後ろのほうで流行歌を歌って授業の邪魔をしているそうだな。そんなにお前は歌が好きなのか?』と聞かれたので「はい」と答えて、自分は将来歌手に成るって言ったんです。

そうしたら校長先生はビックリして『何?じゃあ俺の前で歌ってみろ』って言うのでしょうがないから岡 晴夫さんの歌を歌ったら、『おっ,なかなかいい声をしているねえ』と言うんですよ。

それから瀬川校長先生は自分のポケットマネーでどこからかギターとドラムスのバンドを呼んで、私をPTAの人達の前で歌わせたんです〔笑〕。

そしたら皆さんが「うまい」・・・「将来歌手に成るんだから歌ってもいいじゃないか」と言ってくださって、それからはもう堂々と歌いました。
学級会で独唱して芝居して、もう学校のスターですよ(笑)。

あの時、瀬川校長先生に『歌うな』って言われていたら、私は歌を忘れていたでしょうね。しまいには校長先生が徐業中に教室まで来て

『おい、二郎。明日○○でのど自慢があるからそっちに行け。学校はいいから』って言うんですよ。粋(いき)な校長先生でしたね。

その後はのど自慢にしょっちゅう出て、1952年〔昭和27年18歳〕第6回NHKのど自慢,鹿児島大会で優勝し、それを機会に東京に出てきたんです。四千円の現金を持って上京したんですけど、とに角食べなきゃいけないですから、『店員募集』『住み込み可』って書いてあるラーメン屋さんなんかで働きました。

その後歌手の青木光一さんの付き人になりました。

『付き人をやらないか』と言われて
「私は歌手ですから付き人はやりたくない」って言ったんですが,
『地方を回ると銀シャリが食べられるよ』と言うひとことにひかれて
「やります。行きます」って、ついて行っちゃったんですね。

そのうち青木さんに頼まれて、舞台で簡単なコントをやるようになったんですが、これが評判が良くて、バンドの人とコンビを組んで漫才を始めたんです。

その後、島倉千代子さんから声がかかってコンサートのお手伝いなんかをしていたんですが、先輩が・・・続く




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