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ヤフーのコメント記載廃止に当たって

ヤフーのコメント記載廃止に当たって

 私が最初にブログを始めたのが2008年1月25日であります。

GOOブログ・・「永人のひとごころ」の投稿名です。

 

今日現在、「永人のひとごころ」は

累計閲覧数(PV)が4、339、335件

訪問者数 (UU)は1、070、277人となっています。

一方2009年10月1日、ヤフーブログ

「永人のよそ道」を開始しました。これの訪問者数は本8月31日4時現在、656、117人となっています。

本、「永人のよそ道」は、ヤフーにおけるサービスの廃止まで投稿を続け、

 

グーブログ『永人のひとごころ』に集結する予定であります。

何時も訪問頂いております皆様には心から感謝申し上げます。皆様から訪問して頂くことが何よりの励みとなり投稿を続けるエネルギーとなっておりました。

『紫音』様

『迷えるオッサン』様

『アンクルなが』様には一方ならぬご助言、御教示を賜り厚く御礼申し上げます。

 

全てのジャンルに首を突っ込む雑貨屋ブログ

『永人のよそ道』ならびに『永人のひとごころ』を今後ともよろしくごひいき頂き、御鞭撻賜ります様改めてお願い申し上げます。

2019年8月31日

柴田徳次郎門下・吉野永人

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心の除染という虚構⑯

心の除染という虚構

 市議菅野喜明がいろいろ手を尽くして、ようやく小国地区の線量を測ることが出来たのは福島民報の小国小に関する報道に先立つ3月29日のことだった。

小国ふれあいセンターで、7・24マイクロシーベルト・時

同日、飯館村役場が8・61マイクロシーベルト/時。飯館村とそう変わらない数字だった。伊達市が広報誌で市内各地の放射線量を公表したのは、4月5日号(『だて市政だより』3月号)からだ。

 小国ふれあいセンターは、2・96マイクロシーベルト/時(4月3日測定値)。『だて市政だより』4号(4月8日発行)では、3・89マイクロシーベルト。以降、高くても4・40(4月9日測定値)などの値となっている。

 菅野は早口で一気に話す「最初の7・24マイクロシーベルトは嘘ではないと思う。これが何故一気に下がったのか。余りにも半減期が早すぎる。ふれあいセンターのどこを測ったのか。行政が対応を始めたことによって、隠ぺいというより、下げたのだと思う。あくまで推測ですが」

 菅野は3月31日に、県庁に有った原子力災害現地対策本部・オフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)へ行き、原子力安全課防災環境対策室の室長に訴えた。

2日前の数字が菅野を駆り立てる。知らぬ間に怒鳴り声になっていた。

「小国の線量が相当高い、高いところがあるのだから、ちゃんと測ってくれませんか。とにかく小国に来て、ちゃんと測ってください。小国にも避難とかあるんじゃないですか」

室長の答えは淡々としたものだった。

「今、点的の調査をしている。面的な調査の時にはやりますよ』菅野はその足で、コメの作付け制限を検討している県の農林水産課に出向いた。

「小国の土壌調査をしてほしい。耕運する前にとにかく土壌調査だ」菅野は言う。

「当時、ある程度、勉強したんです。チュルノブイリでは汚染土壌は剥がしたという。小国が飯館並みの汚染なら、作付けが始まると土が混ざってしまう。この時期なら1センチか2センチ、表土除去をすればいい。

 混ぜちゃうときれいな田んぼや畑で農業が出来なくなる。だから何としても土壌調査をして、作付けを止めたかった。県の答えは市と協議してやると言うことでしたが、結局、やってもらえずに、土壌調査は月舘町だけで行われた。

「だて市政だより」4号にはこうある。

「4月6日、県より土壌調査の結果が発表されました。市内では月舘地域以外について作付け自粛が解除されました。今まで控えていた田畑の耕耘作業や植え付け作業を、計画的に進めてください」

菅野は、「文科省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」(80キロ圏内のセシウム134、137の地表面への蓄積量の合計)という、蓄積量により色分けされた図を見せてくれた。これは次章で詳述する。小国地区の『特定避難勧奨地点』認定に於いて大きな示唆を与えるものとなるのだが、4月29日段階では、小国地区は飯館村や飯館村と接する伊達市月舘町、南相馬市の一角と同じ「黄色」に塗られている。小国はまるで黄色の飛び地。

「黄色」が示す値は以下のものになる。

100万~300万ベクレル/

菅野はアキラメ口調で振り返る。

あの時の作付け制限の基準は、土壌1キロ当たり5000ベクレル。小国の値は桁が違う。測りもしないで1平方メートル当たり300万ベクレルある土地を耕して、米を作ったから、小国では秋、基準値越えの500ベクレルどころか800ベクレルを超える米がバンバンできた。中には1000ベクレル超えもあった」菅野は自嘲気味に言う。

『たぶん米国の調査で県はわかっていたと思いますよ。高線量の飛び地が小国にあると。

結局、6月の勧奨地点設定まで何もしなかった』  続く

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心の除染という虚構⑮

心の除染という虚構

 記録はこの記述から始まる

「国はSPEEDDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)により、3月12日午前6時から24日午前0時までの被曝試算線量を初めて公表し、福島第一原発より北西方向に放射能汚染が拡大しているとした」

 スピーディーの公表により、伊達市は初めて、放射能汚染とは無縁ではない、むしろ汚染されているという事実を初めて知った。

なのに、この日、伊達市は小学校の卒業式を強行した。母たちがPTAを通し不安の声を寄せたが聞き入れられることはなく、ちなみにこの年に卒業式を行ったのは、中通りの県北地域では、伊達市と大玉村だけだ。

 同記録には『市内各小学校の卒業式を行う』と並んでこう記されている『各課一人の応援要員を出して安定ヨウ素剤の袋詰め作業を始める』

 小国小学校の場合、式は卒業生だけで行われた。

体育館が被害にあったために、音楽室での式となった。

佐枝子にとっては一番下の優斗の卒業式だ。直樹から始まり長年通った小国小と最後の日、「卒業式はやって欲しかった」と佐枝子は参列、優斗の門出を祝った。

この時の小国小がどれ程の放射線量だったのか、今となっては誰もわからない。

『だて市政だより災害対策号』(以下「だて市政だより」)に小国小の線量が掲載されたのは、4月15日号(5号)が初めてだ。

そこには5・78マイクロシーベルト・時という数字があった。卒業式の時点では放射性ヨウソもあったわけだから、併せて考えれば、どれ程の高線量になっていたのだろう。伊達市はそこに小学生を呼び寄せたのだ。

4月19日に発表された、14日の文科省調査『福島県学校等空間線量及び土壌モニタリング』によれば郡山市、福島市、本宮市、二本松市、伊達市の調査対象校で最も空間線量の高いのが小国小学校だった。

校舎外地表から平均1メートルの高さで5・2マイクロシーベルト、50センチで5・6マイクロシーベルト。二番目に高いのが同じ伊達市保原町にある、富成小学校。1メートルで4・6マイクロシーベルト、50センチで5・0マイクロシーベルト(すべて毎時)。富成地区も後に『特定避難勧奨地点』が設定された場所だ。

ちなみに原発事故前の福島県の空間線量は

0、035~0.046マイクロシーベルト・時(平成22年度『原子力発電所周辺放射能測定結果報告書』)。

佐枝子は振り返る。

「あの頃からだよ、喉がずっとイガイガしてんの。それはみんな言ってた。子供もずっとそうだった。マスクして寝てるのにイガイガするの。鼻の中は今も、変。鼻汁はかんでも出ないし、はなくそがたまる。とってもとってもすぐたまる。

粘膜が変なのがずっと続いている」 続く

 

 

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心の除染という虚構⑭

心の除染という虚構

 高橋家と同じ集落に住む市会議員、菅野喜明(当時34歳)には忘れられない光景がある。

「3月16日は議会最終日だった。その日、朝10時の議会に出るために外に出たら、太陽が霞みかかっている感じで、空気がキラキラ光っている。まるでダイヤモンドダストのような、空気が黄金色にキラキラ光っていて、これはなんじゃって。市役所のある保原へ行くと、そんなに酷くない。空気が光っているって嫌ですね、あれは何だろうと・・・。

家の中にいるのに息苦しくて呼吸ができないんです」

この日空気が光っていたという複数の証言もあるが、佐枝子にその記憶はない。

むしろ大変だったのは食料調達だったと振り返る。

「それでもテレビで言ってることはやってたの、マスクつけてジャンパーを着て、着た服は家の中に入れないようにして、外で脱いで袋に入れて外に置いておく、窓は開けないで換気扇は回さない」

しかし佐枝子は後に、この日の事を身が引き千切られるほどに悔いるのだ。

「15日は夕方から雪になったの。16日の朝、私が雪かきをしていたら、優斗が『俺手伝ってやっから』って外に出てきたの。マスクもしてないし、帽子もかぶってないのに、私、優斗に雪かきさせたんだよ。ここらが放射能高いって全然知らないから」16日県立高校の合格発表が行われた。

高校に問い合わせたら、できれば来てもらいたいって。だから彩を車に乗せて一緒に行って入学の書類を貰って、結果を中学校に報告して帰ってきた」

彩が入学する福島市内の高校も、そして霊山中学校周辺も放射線量は決して低くはない。しかも放射性ヨウ素が盛んに飛んでいた時期だった。

 やがて小国は線量が高いという噂がちらほら聞こえてくるようになった。高橋家のすぐ近く、旧上小国小学校跡地に作られた小国地区の公民館『小国ふれあいセンター』が高いという声が入ってくるけれど正確な数字は誰も知らない。

 たまたま、同じ上小国に嫁いでいる佐枝子の姉が『小国ふれあいセンター』で働いていた。

姉は爆発後のかなり早い時期から、白い防護服を着た男たちがふれあいセンターに来ているのを目撃していた。線量を計っていると解ったので、声をかけた。

「ここは何ぼ出てるんですか?」いくら聞いても数字は教えて貰えない。その人たちは毎日来た。機械の数字だけでもこっそり見ようとしたがさえぎられ、代わりにこうささやかれた。

『もし行くところがあるなら避難した方がいいですよ』

23日伊達市は小学校の卒業式を通常通りに行った。伊達市が発行した『東日本大震災・原発事故・伊達市3年の記録』で、伊達市は『見えない敵 放射能との闘い』の章を、

3月23日から始めている。

放射能対策の起点であり、この日からすべてが始まったというのが伊達市の理解だ。

 続く

 

 

 

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心の除染という虚構⑬

心の除染という虚構

 ⑬

 優斗は友達の母親が車で送ってきてくれた。国見町に勤務している夫徹郎(仮名・当時51歳)は阿武隈川に架かる橋がことごとく通行止めとなり、梁川橋だけが通れることがわかって、崩れた道路を回避しながら、ようやく帰宅、家族全員が無事に揃った。

小国はライフラインに問題はなかった。電気とガスに異常はなく昔ながら井戸水での生活が営まれているので、水についても一向に問題はなかった。

 佐枝子は、私の梁川中学校の同級生だ。在学当時は面識がなく、幼馴染であり、同級生の河野直子(仮名・当時51歳)から原発事故取材の為に、紹介してもらった仲だ。

正直、中学の同級生が水道の通っていない山奥で暮らしていることが驚きだった。そもそも梁川で暮らしていた子ども時代から、水道のない生活などあり得ない。しかも佐枝子は嫁として義父母の介護をしながら3人の子育てをしている。自分とかけ離れた『その後』の人生を見て、私には到底まねできないとつくづく思う。

もっとも伊達市内で暮らす幼馴染の直子であっても、「私も、あんな山奥で暮らすのは、絶対に無理だよ」ときっぱりと言う。

確かにそれほどの実感を抱く場所だった。日中はまだしも、とっぷり日が暮れたこの地を想像しただけで尻込みするような思いに駆られる。

 高橋家は田んぼと畠を持つ兼業農家なので、コメは十分にあった。ライフラインに何も支障がない訳だから、あの日、夜は普通にご飯を食べた筈だと佐枝子は言う。しかしこの日の記憶が定かではない。テレビはずっとつけっぱなしにしておいた。しかし佐枝子の記憶に津波の映像は一つも入っていない。この日に何が起こったのか、佐枝子は何もわかっていなかった。

 「覚えているのはテレビに変な絵だけ繰り返し流れていたこと。にこにこにっこり、ぽこぽこぽーんばっかり。震源地がどこかもわかんない。なんだか、何も覚えていない。地震が止まんないし、パニックだったのかも」着の身着のままこの日は寝た。

「夜中でもずっと揺れるものだから、まだ揺れでんの?今は止まってんの?ってわけがわがんね。気持ち悪ぐなるぐらい」

福島第一原発1号機が爆発したのは、翌12日。勿論佐枝子も徹郎もテレビのニュースでそれは見ている。だが所詮、自分達とは関係のない、遠く離れた場所での出来事だった。「爆発したのは知ってたけど、遠いからね。山越えて、こっちまで来ないよねって感じ」徹郎も同じだった。

「テレビで『大丈夫、大丈夫』って言っているし、放射能が降ってるなんて思いもしないから、俺は地震の次の日から、毎日、野郎子(やろこ=長男)を連れて自転車で買い出し。

ガソリンがねえがら車使わんにくて、食料品は、二日目から何もないから、肉とかそういうの、ここらは店、ずっとないから」

 3月15日朝4号機が爆発。この日、第一原発付近の風向きは北西方向、この風に運ばれて、「まさか、いくつも山を越えてまで来ないべ」と、佐枝子が思っていた小国にまで、放射性物質はやってきた。  続く

 

 

 

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心の除染という虚構⑫

心の除染という虚構

(2)

 2011年3月11日、この日の午前中、伊達市内の中学校では卒業式が行われた。

霊山町上小国に住む高橋佐枝子(仮名、当時51歳)は霊山中学校で行われた長女 彩(仮名・あや・当時15歳)の卒業式に出席した。上小国は、道子が住む下小国より南方に位置する山あいの地域だ山裾にポツンポツンと点在する大きな屋敷が目を引くが、天井が高いこれらの家々は、かつての養蚕農家だという。養蚕で栄えた歴史を持つこの地域は山あいの狭い土地に張り付くように田んぼや畑が開かれ、小規模な酪農農家も数軒ある。

ほとんどの住民が一戸建てに住み174世帯のうち持ち家に172世帯、借家に2世帯が住む(平成22年調査)。

下小国では長屋やアパートなどの共同住宅に5世帯が住むが(239世帯のうち)、上小国では皆無。先祖代々受け継がれている家と土地で、日々の暮らしが営まれている証しだった。

この日、卒業式を終えた彩は友人たちと福島市内へ打ち上げをするために、バスで出かけて行った。小国から福島市周辺まではバスで約20分、伊達市中心部の保原へ行くのと変わらないとなれば、福島の方が魅力的だ。

  梁川出身者の私にすれば、バスしか交通網がなかったころには、福島市内は片道1時間は覚悟する遠方の地。中学生の打ち上げで行ける場所では到底無かった。霊山や小国は阿武隈山地に吸い込まれていく『辺境』というイメージがあるが、その背後に福島市があり、福島への便がいいというのが、小国という土地を知った時の驚きだった。

佐枝子が地震に遭遇したのは、老人ホームに義母の洗濯物を取りに行った時のことだった。普段は家で佐枝子が介護をしているが、この日は卒業式に出る為、老人ホームを短期ステイで利用していた。

義母の部屋に着いたとき、ドーンと下から突き上げるような激しい揺れが起きた。

「物凄い縦揺れの後に、今度は横揺れが来て、ガタガタととんでもなく揺れて・・・長かったね。慌ててばあちゃんを連れて外に出たの」

義母の手を握って施設の外に出た後、高校の春休みで家にいる長男の直樹(仮名・当時17歳)に電話をした。

 

直樹は母屋に住む義父の無事を確認してくれていた。家も大丈夫だという。その頃ホームでは入居者たちが次々と外に出され、広場に集められた。毛布をかぶっている老人たちが『寒い』と口々にうめく。気が付けば雪が激しく降っていた。

二男の優斗(仮名・当時12歳)は小学6年生、まだ小国小にいる時間だ。ならば、優斗は安全だ。佐枝子にとって心配なのは福島市内にいる彩だった。何度かけても携帯がつながらない。ようやく繋がった電話の向こうで彩は怯えていた。

「陸橋を渡っているときに、丁度地震に遭ったの。物凄く揺れて、すごくこわかった。いま友達と一緒に駅にいる」

「わがった、迎えに行ぐがら」53その1回だけの通話で、二度と携帯はつながらない。車を発進させて直ぐ佐枝子はとんでもない事態になっていることを知る。

「福島の駅まで、行げんだべが・・・」

信号は全部消えている。なのに、大きな交差点でも誘導する警官は一人もいない。電信柱が倒れて、ブロック塀は崩れ、走っている最中に何度も余震が来る。

「まだ明るかったからいいけど。真っ暗だったら、福島まで行けたかどうか・・・」

必死で目を凝らし、ハンドルを握った。あとになって思うのは、この時にガソリンを入れておけば良かったということだ。

ごった返す福島駅南口で彩と友人を見つけ、友人を家まで送り届け、無事に自宅へ戻った。 続く

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心の除染という虚構⑪

心の除染という虚構

 23日、横浜に住む兄から連絡が入った。

海外のスピーデイー(SPEDDI)をネットで見たら。そっちに飛んでいる。すぐに逃げろ

夫は新潟出張のため、しばらく家にいない。

「別の親戚からも『逃げろ』と連絡が入った。栃木まで迎えに行くからと。でも高速も止まっていて、ガソリンも十分にあるわけでもなく、そんな状態で飛び出してガス欠に成ったらどうすんの?子どもがいるのに。お父さんが新潟でガソリンを買ってくると言っていたからそれまでは辛抱しようと・・・」

 夫が新潟から戻った翌日の31日、一家は横浜へ向かった。夫は妻子を送り届けて小国に戻ったが、道子たちはしばらく横浜で過ごすことにした。子供たちが外で遊ぶ姿を見たのは、久しぶりのことだった。

放射能の心配がないところで、しばらくのびのび過させたい。

しかしこの願いは叶わなかった。まさか、この状態で通常通りに新年度が始まるとは思えない。しかし伊達市教育委員会に問い合わせたところ、担当者はことも投げに言った。

「もう大丈夫ですから、何でもないですから、入学式も入園式も普通に行います」4月3日、迎えに来た夫の車で一家は小国に戻った。入園式で道子は司会役をすることが決まっており幼稚園を休むわけにはいかなかった。

 「帰りの道中、福島県に入ったのに、子供たちは横浜のノリで、地べたに寝そべったり、座ったり、ゴロゴロするの。それが嫌で『やめて、やめて』って私、何度も言って・・・」道子が出勤した4日と5日、子供たちは義母の目を盗んで外で遊んだ。「横浜のノリ」そのままに。

 玲奈が鼻血を出したのは、翌朝のことだ。これまで鼻血など出したことがない子なのに、それも布団を真っ赤に染める程のおびただしい量だった。

「旦那は、『鼻引っ掻いたんだべ』って軽く言うんだけど、私には到底そうは思えなかった。引っ掻いたぐらいじゃ出ない、とんでもない量だったから

 4月5日、幼稚園は予定通り、入園式を行った。同僚の教諭と抱き合って道子は泣いた。入園式に集う幼稚園児が不憫でならない。

「こんなに大変なことが起きてるのに・・・この子たち、絶対にここへきているべきじゃないのに、あんたたち、ここに来てていいの―っ?でも来るしかないんだよね!」

無邪気な園児の笑顔が胸をかきむしる。本当にこのまま、「何事もなかった」ような日々を過ごしていいのだろうか。園児たちのあどけなさに嗚咽が漏れた。

そうであっても道子はまさか、今、この時に我が家や周囲が、住んではいけないほどの放射線量を記録しているとは思いもしなかった。                      続く

 

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心の除染という虚構⑩

心の除染という虚構

 初めて子どもを外へ出したのは17日。ドラックストアでの食料の買いだしと、入浴施設へ行くことにしたからだ。水道が止まってお風呂に入れないため『バケツ風呂』で対応してきたが、さすがに子供には限界だった。

 だけど・・・・・と道子は唇を噛む。「買い物では車から出さなかったけどお風呂、霊山町の紅彩館という、今、考えれば、一番放射能の高いところにわざわざ連れて行ったんだよね」紅彩館は『霊山こどもの村』の一角にある入浴施設だ。

 ここ霊山町の石田地区は後に「特定避難勧奨地点」に指定されるほど、線量が高い場所だった。しばらく後になって道子は『霊山こども村』で働いていた知り合いからこんな話を聞いた。

「たまたま線量計が有って計ったら30、40、と上がって100(マイクロシーベルト/時)近くまでなったって。

 どんどん上がるから伊達市に報告したけれど、何も動きはなかった」15日の夕方は福島第一原発から北西方向に放射性物質が風に乗って運ばれた時だ。

 その放射性プルームは飯館村上空の雨雲で降下、沈着した。飯館村に隣接する伊達市霊山町や月舘町一帯にも、この時放射性物質が降り注いだ。

 この時期、後に飯館村同様、計画的避難区域とされた川俣町山木屋地区でも3ケタの数値が観測されたという『噂』がある。

 霊山町石田地区でも3ケタという数値が検出されたという話もあった。もちろん、正式な記録として残っているわけではない。

道子は言う「その頃はそんなこと、わかんないから、とにかく子どもを風呂に入れようと連れて行った。飯坂温泉に電話をしたら、浜通りからの避難者でいっぱいだと言うし、入れるお風呂はそこしかなかったから、テレビで言っていたから、子供にはつるつるのジャンパーを着せてマスクをさせて車をお風呂の玄関に横付けして降りろ!走れ!』って」

この時期は、ガソリン不足は深刻化していた。列に並び、練炭で亡くなる人も続出したことを道子は記憶する。

「知り合いからタンクローリーが来るかもしれないって情報が入って並んだけど、物凄い行列で全然進まなくて、結局、ガソリンを減らすよりもいいかって帰ってきた」  続く

 

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心の除染という虚構⑨

心の除染という虚構、

 翌日は土曜日で仕事は休みだ。「これからどうなるかわからないから朝9時にガソリンを入れに行こうとなって、お父さんと子供たちと車でスタンドに行って何台か並んでいたけどこの日は入れられた。

これが良かったの。その足でだれも住んでいない梁川の実家の様子を見に行って、こっちも物が散乱して物凄いことになっていた」

  道子は私(黒川祥子)と同じ伊達市柳川町の生まれだ。ただし保原町と隣接する堰本(せきもと)地域という、簗川でも南部のエリアで、梁川中心部で育った私と小学校は違うが中学は同じ梁川中学校に通った。道子の実母は兄が住む横浜に身を寄せ、実家は無人になっていた。

12日午後3時36分福島第一原発1号機が水素爆発。

 この爆発をリアルタイムで、道子はテレビのニュースで知った。瞬間、ふっと亡父の言葉がよみがえった。幼い道子に、父はずっと言っていた。

『福島県は原発がある県だから、もし原発が爆発したら、車に乗ってみんなで遠くへ逃げるぞ。逃げないとダメだからな』

テレビで言っているニュースは、父が言っていた逃げるという事態に当たるのか、道子には何が何だかわからない。ニュース画面を見つめながら、道子は夫に言い続けた

「逃げなくていいの?逃げなくて大丈夫なの?」

午後6時25分半径20キロ圏内に避難指示。

「10キロの避難の時はまだ大丈夫かなって思ったけど、20キロになった時、あたしはもう駄目だって思った。

だって放射能は空気を渡ってやってくるんだから」

翌13日は「ただ、家にいた」テレビは原発のニュースばかり。

「『ただちに影響が無い』って、そればっかり。私、頭へ来て、その日の夜、テレビ局にFAXしたの、「『直ちに影響が無いって、あとから影響があるんじゃないですか』って」14日は月曜日だが龍哉を学校に行かせるつもりはなかった。間もなく、学校も幼稚園も地震の影響で休みになった。

14日午前11時 1分、3号機が爆発。

15日、午後6時14分、4号機が爆発。

2号機で衝撃音。

午後11時、半径20キロから30キロ圏内の住民に屋内退避指示。

放射性物質が飯館村や伊達方面へと流れてきたのはこの爆発だった。

「子供は絶対に外へ出さなかった。窓やサッシはほとんど開けなくて、玄関を開けるのは井戸水を汲むときだけ。お風呂は無理でも煮炊きするぐらいは井戸水で何とかなったから」 続く

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心の除染という虚構⑧

心の除染という虚構

 晴れて居た筈なのに、みぞれが降ってきた。地鳴りなのか山鳴りなのか、大地が不気味な音を立て、みぞれはやがて大粒のおびただしい牡丹雪となり、横殴りに荒れ狂い、容赦なく頬を打つ。

 大人に抱っこされた子供が泣き続ける。

「先生、こわいよ!こわいよ!」形態の地震速報が成るたびに、恐怖が走る。こちらが不安になれば、余計に子供たちが不安になる。わかっているけれど、大人にとってもこんな天変地異は初めてだ。

道子は精一杯、園児に声をかけた「大丈夫だよ。大丈夫だから」自分自身にも、そう言い聞かせていた。

「抱っこしている子供に『大丈夫だから』って言いながら先生たちの握る手の強さが物凄かった。

そうやって、『生きてるね』って確認するっていうか・・・」園児の母たちから園に電話が入る。そっちに向かっているけれど、道路が割れて迎えに行けない。信号が落っこちてどうしようもない・・・。

「子供を抱っこしながら私、凄く複雑だった。この子たちを守らなきゃいけない義務があるのに、自分の子供のことを考えていた。大丈夫かって。あとから思うと、だから私、真の保育者ではないんです」

居てもたってもいられず、家にいる義母に電話をした。

「子供ら大丈夫?」

「大丈夫だ。さっき幼稚園のバスが来て、玲奈と駿は今家の外にいる。龍哉君も今帰ってきたがら」

この日、小学校の下校時刻は2時半だった地震発生と同時に教師たちは下校中の子供のところに走って追いつき、道路に手をついて座るように指示をした。

 その後、一人ひとりを家まで送り届けたという。全校生徒50人余りの小さな小学校だから可能だった。そうやって龍哉は無事に帰宅した。道子は胸をなでおろし、園児たちのお迎えを待った。

近所に住んでいる祖父母が歩いて迎えに来た、これでようやく肩の荷が降りた。

 道子が帰宅したのは3時半、子供たち3人がわんわん泣きながらしがみついてきた。この日はずっと揺れ続けた。揺れるたびに子供は泣き喚いた。

 割れて飛び散ったガラスを掃除し、散乱するものを片付け、とにかく寝る場所だけは確保し、家族全員炬燵のある部屋で寝ることに決めた。着のみ着のままでいつ何があっても大丈夫なように車を玄関に着けて車の中に全員の靴を入れた。

道子は明るく子供たちに言った「こういうときはどうなっかわがんねえがら、とにかく食ベっペ。そしてそのまま寝るよ」

水道が止まったのは翌朝だったため、この時点で水に困ることはなく、いつものようにご飯を炊いておにぎりを握った。泣き疲れた子供たちは眠りについた。

 子供が寝たことでホッとしたものの、自分はどうしても眠れない。大地は一晩中揺れ続けた。酒好きの夫がこの日一滴も飲まなかったことを道子は覚えている。

 霊山町は電気が止まることなく、テレビで情報を得ることは出来た。

道子はずっと津波の映像を眺めていた。一体何が起きているのか、まだ現実のことだとは思えないままに・・・。続く

 

 

 

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