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コロナ以後の世界3

コロナ以後の世界3

 

今回、中国の成功と米国の失敗が明らかになった。それが「コロナ以後」の政治体制にもつながってくるわけですね。

 内田 そうです。今後コロナ禍が終息して危機を総括する段階になったところで、「米中の明暗を分けたのは「政治システムの違いではないか」という議論が出てくるはずです。

 米中の政治システムを比較してみると、まず中国は1党独裁で、血みどろの権力闘争に打ち勝った人間がトップになる。実力主義の競争ですから、無能な人間がトップになることはまずない。

 それに対してアメリカの有権者は必ずしも有能な統治者を求めていない。アレクシス・ド・トクヴィルが洞察した通り、アメリカの有権者は、自分たちと知性・徳性において同程度の人間に親近感を覚える。

 だからトランプのような愚鈍で徳性にかけた人間が大統領に選ばれるリスクがある。

 トクヴィルの訪米の時のアメリカ大統領はアンドリュー・ジャクソンでインデアンの虐殺以外に見るべき功績のない凡庸な軍人でしたが、アメリカの有権者は彼を二度大統領に選びました。

 幸いなことにこれが中国だったら致命的なことになりますが、アメリカは連邦制と三権分立がしっかり機能しているので、どれほど愚鈍な大統領でも統治機構に致命的な傷を与えることはできない。

 少なくとも現時点では、アメリカンデモクラシーよりも、中国的独裁制の方が成功しているように見える。

 欧州や日本でも、コロナに懲りて「民主制を制限すべきだ」と言い出す人が必ず出てきます。

 中国はすでに顔認証システムなど網羅的な国民監視システムを開発して、これをアフリカやシンガポールや中南米の独裁国家に輸出しています。

 国民を管理・監視するシステムにおいて、中国はすでに世界一です。そういう抑圧的な統治機構に親近感を感じる人は自民党にもいますから、彼らは遠からず「中国に学べ」と言い始めるでしょう。

 なぜ安倍政権には危機管理能力がなかったのか

 そのような大勢の中で、日本の状況はどう見るべきですか?

 内田 日本はパンデミックの対応にはハッキリ失敗したと言ってよいと思います。

 それがどれくらいの規模の失敗であるかは、最終的な感染者、死者が確定するまでは言えませんが、やり方を間違えていなければ、死者数ははるかに少なくて済んだという事になるはずです。

 アジアでは、ほぼ同時に中国、台湾、韓国、日本の4か国がコロナ問題に取り組みました。

 中国はほぼ感染を抑え込みました。台湾と韓国は初動の動きが鮮やかで、すでにピークアウトしました。

 その中で日本だけが感染が広まる前の段階で中国や韓国、ヨーロッパの情報が入っているというアドバンテージがありながら、検査体制も治療体制も整備しないで無為のうちに2か月を空費した。

準備の時間的余裕がありながら、それを全く活用しないまま感染拡大を招いてしまった。 続く

 

 

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コロナ以後の世界2

コロナ以後の世界2

民主主義が危ない

神戸女学院大学名誉教授・思想家

内田 樹

 

「独裁か民主主義か」という歴史的分岐点

世界中がコロナ危機の対応に追われています。しかし、たとえコロナが終息しても、もはや「元の世界」には戻らないと思います。内田さんはコロナ危機にどんな問題意識を持っていますか?

 内田 新型コロナウイルス禍は、これからの世界の在り方を一変させると思いま

す。「コロナ以前」と「コロナ以後」では世界の政治体制や経済体制は別のものになるでしょう。

もっとも危惧しているのは、「新型コロナウイルスが民主主義を殺すかもしれない」という事です。

こういう危機に際しては、民主国家よりも独裁国家の方が適切に対処できるのではないか・・・と人々が思い始めるリスクがある。

  今回は中国が都市閉鎖や「一夜城」的な病院建設や、医療資源の集中という、民主国家ではまず実施出来ない政策を強権的に下して、結果的に感染の抑制に成功しました。

 逆に、アメリカは、トランプ大統領が、秋の大統領選での再選という自己都合を優先させて、感染当初は「全く問題ない」と言い張って初動に大きく後れを取り、感染が広がりだしてからは、有権者受けを狙った政策を連発しました。科学的で巨視的な対策をとれなかった。

 この差はコロナ禍が終息した後の

「アメリカの相対的な国威の低下」と

「中国の相対的な国威の向上」として

帰結すると予測されます。

パンデミックを契機に、国際社会における米中のプレゼンス(存在感)が逆転する。

中国は新型コロナウイルスの発生源になり、初期段階では情報隠蔽や責任回避など、非民主的な体制の危うさを露呈しましたが、党中央が取り仕切るようになってからは、強権的な手法で一気に感染拡大を抑え込んだ。

 それだけではなくて中国は他国の支援にも乗り出した。

 中国は、マスクや、検査キットや人工呼吸器や防護服などの医療資源の生産拠点です。

どの国も喉から手が出るほど欲しがっているものを国内で潤沢に生産できる。このアドバンテージを利用して習近平は医療支援する側に回った。

 イタリアは3月初旬に医療崩壊の危機にひんしました。支援を要請しましたがEUの他の国は反応してくれなかった。中国だけが支援を申し出た。

人工呼吸器、マスク、防護服を送りました。

これでイタリア国民の対中国評価は一気に上がった。

知りあいのイタリア人も「いま頼りになるのは中国だけだ」と言っていました。

 もちろん中国も国益優先です。でもトランプは秋の大統領選までのことしか考えていないけれど、習近平はこれから5年先、10年先の地政学的地位を見越して行動している。

短期的には「持ち出し」でも、長期的にはこの出費は回収できると見越して支援に動いた。この視野の広さの差がはっきりした。

コロナ禍への対応を通じて、中国は国際社会を支える能力も意志もあることを明示し、アメリカは国際社会のリーダーシップを事実上放棄した。

 コロナ禍との戦いはこれから後も場合によっては1年以上続くかもしれませんが、アメリカがどこかで軌道修正をしないと、これ以後の国際協力体制は中国が主導することになりかねない。続く

 

 

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コロナ以後の世界

コロナ以後の世界

月間日本5月号

 世界が大きく揺れている。新型コロナウイルスは私たちがこれまで当然と考えてきた世界を一変させてしまった。

 世界各国ではこのウイルスによって毎日人が、亡くなり、火葬場が混乱している国もあるイタリアではあまりにも死者が多いため、火葬が間に合わず、棺桶を教会に仮置きせざるを得なくなっているという。

  ニューヨークでも遺体安置施設が不足し、廃墟となった島などが仮設の埋葬地として使用されている。人の移動や物流も完全にストップし、経済活動が停滞してしまっている。まるで資本主義が終わったかのようだ。

日本でも自粛ムードが強まり、電車や繁華街から人の波が消えた。

人びとがトイレットペーパーや食料などを「爆買い」することも問題になって居る。

 ドラッグストアのマスクが売り切れているからと言って店員に暴言を浴びせるなど、殺伐とした雰囲気が広がっている。

 変化したのは社会の雰囲気だけではない。自由主義や民主主義、法の支配、人権思想など、私たちが近代になって獲得してきた枠組みも崩れつつある。

 例えば、ハンガリーでは非常事態宣言が無期限延長となり、新型コロナウイルスのフエークニュース、を流した場合、最高5年の禁固刑を課されることになった(4月3日・東京新聞)これは決してハンガリーに留まる話ではない。今後同じような法律を施行する国がどんどん増えていくだろう。

 現在のコロナ危機がいつまで続くかはわからない。

安倍総理は何とか5月に緊急事態宣言を解除し、来年東京でオリンピックを開催したいようだがそれはあまりにも楽観的な見通しだろう。

 仮にうまく感染拡大を抑えることができたとしても、私たちの世界がまた元の通りに戻るとは思えない。

果たしてコロナ以後、世界はどこに向かっていくのか。識者に話を聞いた。続く

 

 

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プロ野球マネー事情③

プロ野球界のマネー事情③

内田順三

問6・プロ野球選手はなぜ高級車に乗るのですか?車の思い出は?

私は、何台か外車を乗り換える中で、特にジャガーが好きでした。600万から800万円ほどのクラスですね。球界ではそれこそ何千万円という高級外車を乗乗り回す選手も多い。頑張った自分へのご褒美としてです。ステータスという意味合いもあるでしょう。何より、ベンツなどの高級外車は頑丈で身を護るためというのが一番です。

 

問7・月々寮費はいくらでしたか?

 

巨人で初めてコーチに就任した94年から2年間、選手寮で生活しました。

当時は月に35000円から4万円だったと思います。3度の食事と光熱費込みです。夜遅くでも、いつでも食事がとれるように、夜食も用意してくれます。

問8・選手、監督、コーチなどは飲食店経営、不動産、株など、副業や財テクをしているのでしょうか?

 

飲食店と言えば、広島市内にある金本智憲が選手時代にオープンした店が有名です。カープの選手時代、日南キャンプで利用する宮崎地鶏の店の常連だった金本が、宮崎店のオーナーにレシピを教えてもらい、広島にオープンした店。金本はほかにも飲食店を手広くやっています。

 

選手、監督、コーチが副業として飲食店を経営することは多く、コーチが経営する焼き肉店でコーチ会を行う場合もあります。

私はかつて住んでいた広島市内の1軒家とマンションを貸し出して、家賃収入を得ています。

問9・プロ野球選手、コーチは1カ月にいくらほど飲食代を使うのでしょう?

 

遠征のたびに後輩を引き連れて外に出るタイプなら月に100万円以上を使うケースもあるでしょう。その自主トレ期間中は、巨人では阿部慎之助や坂本勇人菅野智之らが後輩を連れて海外でトレーニングをしていますが、何百万円という金額を負担しているようです。

 

問10・プロ野球界にご祝儀の相場はありますか。

それは本人との関係でしょうね。私はコーチ時代、選手の結婚式に出席する場合は10万円、欠席の場合は5万円を渡すようにしていました。カープにはコーチ会というのがあって、年俸から冠婚葬祭費として月々3万円が引かれ、それを積み立てるんです。たとえば選手の結婚式なら代表者が30万円を持参します。あとは選手の家族、OBの不幸や出産祝いなどを「コーチ一同」としてそこから捻出します。

 

年間で引かれる額は30万~40万円ですが余った分は年度末の11月末に返却されます。私の場合、それが小遣いになっていました。巨人はそういうのはなく、個人の自由に任されていました。

(聞き手増田和史)

終わり

 

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プロ野球界マネー事情②

プロ野球界のマネー事情②

内田順三

 

問3・選手の年俸アップ、ダウンはどうや

って決まるのですか?

  かつてはどんぶり勘定だった時代もありますが今は球団が細かいデータを持っていて、打撃だけでなく、守備の貢献度などもわかる時代。成績、貢献度で決まると言っていいでしょう。ただ中継ぎ投手の場合、登板数は30試合でも、肩を作ったのに登板しなかった試合が多いこともある。

 投手コーチが投球練習の数を数えているので、投手が契約更改の時にそういった数字を球団に提示してダウン幅を少なくしてもらった、という話を聞いたことがあります。

古葉広島のコーチ配当金

問4コーチの年俸もアップやダウンがあるのですか?

 選手と同じで複数年契約を結んでいるコーチの年俸は基本的には変わりません。私の場合、広島、巨人での37年間の指導者時代だけでなく、現役も含め、50年間のユニホーム生活のすべてが1年契約でした。それでもコーチ時代は、大きく上がったり下がったりはしませんでした。

 チームの成績が悪かった場合、年俸が下がるより前に責任を取って辞めるのがコーチです。

広島の古葉竹識監督の時代は、

リーグ優勝なら300万円

2位なら200万円

3位なら100万円  という

コーチ配当金」がありました。

よく、カープは年俸が安いと言われますが、こういう手当はありがたかったですね。

問5内田氏は広島、巨人の両球団をコーチとして3回ずつ行き来しました。契約金はそのたびに支払われるのでしょうか?

 それぞれ1回ずつだったと思います。

巨人は一番最初の1994年時。広島は最初じゃなくて、2度目の2003年の時だったかな。

ただ契約金はなくても、2度目、3度目の就任時は両球団とも年俸が少し上がっていました。それが契約金代わりだと受け止めていました。 続く

 

 

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プロ野球界のマネー事情

プロ野球界のマネ-事情

10の素朴な疑問

内田順三

日刊ゲンダイ4・20

指導歴37年、合計50年間ユニホームを着続けた内田順三氏が上記質問に答えます。

今季の日本球界最高年俸は、

巨人・菅野智之の6億5000万円。

成績次第で大金が稼げるプロ野球の世界だが、何かと謎も多い。

 昨年まで巨人軍で巡回打撃コーチを務め、広島・巨人で指導歴37年、現役を含めて計50年間プロのユニホームを着続けた内田順三氏に、球界の金銭事情について聞いた。

内田順三(完全大吉名)

広島⇒巨人⇒広島⇒巨人⇒広島⇒巨人

 菅野智之(完全大吉名)

巨人軍一筋

**

問1・契約金、年俸はどうやって支払われますか?巨人、広島など球団によって違いますか。

 契約金は12月に半分、翌年1月に半分が振り込まれるケースが多いと聞いたことがあります。

昔は「これだけもらえるよ」と本人に現金を見せてプロ野球選手になったことを自覚させた、なんていう時代もありましたが、今は銀行振り込み。

ドラフト1位の選手の契約金の上限は1億円プラス出来高払い5000万円。

 そのため、5000万円は入団当初ではなく「3年間の1軍の登録日数」といった条件をクリアした時点で支払われます。

 年俸はどこの球団も12分割で月給制ではないでしょうか。

問2・そのうち税金でいくら引かれますか?

例えば年俸1億円の選手なら、半分近い額が税金として引かれます。

 

◎内田順三・・・1947年、9月10日、静岡県生まれ。東海大1高から、駒大。

18年間の現役生活はヤクルト、日本ハム、広島で外野手としてプレー。

計950試合出場で打率・252。25本塁打。82年に現役引退。翌83年に指導者へ転身。広島、巨人で打撃コーチ、2軍監督などを歴任し、多くのタイトルホルダーを育てた。

昨年限りで巡回打撃コーチだった巨人を退団。今季は社会人野球のJR東日本の外部コーチを務める。(飛びぬけた実績ではないが、完全大吉名で運気の強いものは後々違うものだと実感させられる。

運が良くなければ、健康を維持し、これほど長くユニホームを着続けることはできない。

(当然ながら人相も良い👈永人) 続く

 

 

 

 

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福島市への放射能汚染を予測していた男③

福島市への放射能汚染を予測していた男③

 1979年12月5日、牡鹿郡女川町・石巻市の両地域にまたぐ場所に東北電力女川原子力発電所建設の工事が開始された。

私は当時海洋土木中心の建設会社の常務取締役をしていたが、五洋建設(マリコン)の下請けとしてこの工事に参加した。

この時、34歳だった。工事そのものは何の不安もなく進捗したが、原発完成後の運用面において、人間が管理する以上、核エネルギーに関する事故発生という可能性には一抹の不安があったのは確かだ。

 その後、1986年4月26日、チェルノブイリ原発の大爆発事故で、2600平方キロの範囲が放射能汚染を受けたのは周知のとおり。

私が41歳の時だった。

**

「正直に言います」とS氏と家族4人に

向けて言った。

「私は大熊町や双葉町の原発が爆発したならここ福島市まで完全に汚染されると思っています。

大熊町や双葉町からここまで直線で約50キロメートルしかありません。

『でもさ、こんなところまでは来ないでしょう。第一、地元の爆発事故なんてあるはずがない、だから放射能など来るはずもない』

「いや、来ます!!私は3年前に事業から一切手を引きました。その時、どことは特定できないまま放射能漏れ、汚染の事実や事故などが、話題になることがあると、予感していました。

***

 私が代表をしていた会社の社員の葬儀の日、供養の膳に箸を付けながら、故人の友人から聞かれるままにそう感じたことを予言しました(グーブログ・永人のひとごころ・2009・6・11投稿・「五・引退の潮時」を参照ください)私が真剣に話しても

福島のS社長とその夫人、夫人の両親、皆さん笑いながら取り合わない。

「原発は絶対に安全」そう思い込まされていて

無理もないことだが。

だからこそ、今回・黒川祥子氏も、後日誰ひとり福一の放射能がここ福島、伊達地方に及ぶことは夢にも想像していなかったと記述したのである。

(宮城・石巻のある人物を除いては👈永人)とブログに書いたのは、私のそういう事情からの精一杯の抵抗であった。

 ****

 だからこそ、3・11大震災のあの日、目の前の石巻の大津波以上に福島原発の爆発事故が脳裏に浮かび案じたのだが、予感通りにその心配は現実のものになってしまった。

*****

今の石巻は、女川とともに、東北電力の原発のために、帰還困難の地に何時なってもおかしくない可能性がある。

福島の皆さんが味わった苦悩をそっくり体験することになるのだ。

 そのような危険があるからこそ、黒川祥子氏の「こころの除染という虚構」書を、私は、わがことのように思い、2019年8月16日より8か月以上の長きにわたって本ブログ投稿に及んだ次第です。まだか、まだかと8か月にわたり、訪問を続けていただいた皆様に、心から厚く感謝申し上げる次第です。 終わり

 

 

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福島市への放射能汚染を予測していた男②

福島市への放射能汚染を予測していた男

応接室に案内され、

「石巻から来ていただいた吉野永人先生です」とSさんに紹介され、N氏と名刺の交換をした。

Sさんに聞いていたんだが、先生は名前を見ただけでその人のこと、いろいろわかるそうですね、私と家内、息子と嫁、独身の娘、以上5人の名前がこれです。どうでしょうかね?」私はメモ書きの氏名をみながら、N氏のことから解説し始めた。

 「驚いたなあ。その通りだよ。ちょっと待ってください。いま、家内を呼ぶから、家内にも聞かせたいから・・・」

奥様がみえ、私は続けて全員分を解説した。

「その通りです。驚きましたねえ~。すっかりその通りですよ。是非とも家族5人分全員の名に『いい文字』(撰名=せんめい=呼び方を変えず使用する文字だけ変えて運気を強くする方法)を考えて下さい」とN氏夫妻が言う。

続けて、

「それから、我が高校は創立40年になるが1度も甲子園へ行ったことがないので、何とかして行きたいのだが、先生、何かいい知恵がないですかね。何かいい方法助言してくださいませんか?我が校が甲子園へ行く方法ありませんかね?!」

我が高校が甲子園に行く方法を教えてくれと言う。

福島大会で優勝すればいいのだが、それが大変なのだ。

人生相談業冥利に尽きるまことに奇異過ぎる面白い相談ではないか!

 かねて私の胸に収めていた秘策をN理事長へ明かすことにした・・・

『ありますよ!!』

「えっ~!!ぜひ教えて下さい!!」

『この方法・・・A作戦とB作戦これしかない!!』

その年、それまで県内で準決勝へ一回のみ進んだきりの高校がA作戦から実行した・・・なんと4か月後、初めて念願の甲子園出場を決めた。

伊達市の聖光学院である。

伊達市は、聖光の活躍・偉業で大いに湧いた。

(グーブログ・永人のひとごころ・

『これしかない!』で2008年2月15日投稿済み)

**

2001年6月、Sさんの紹介により仙台のメトロポリタンホテル1階の喫茶室で福島市の若手実業家(36歳)Yさん家族3人とSさん、私の四人で会った。

 例によって解説したが、特にY社長は年収数億円あり、金さえあればの雰囲気がありありだったが、金の有る無し以上に運気は大事であり、特にY社長は37歳の人生後半に、飛んでいる飛行機が一気に墜落するような急変の災難運を生じ、来年がその年代に入るので、今こそ撰名でその危機を排除するように勧めた。結果はY氏とご家族3名全員で撰名(せんめい)することになった。

しかし何があったのか11月にY氏の奥様からY氏が今後、撰名を使用しないことを告げられた。

私は、

「せめて奥様や子供さんはこのまま、撰名を使い続けて下さい」と忠告進言させていただいた。

 2002年正月、Y氏からの初めての年賀状は、悪運気をもたらす戸籍名に戻っていた。

2002年1月14日、昼過ぎ、S社長から電話が来た。

「先生!!NHKの昼のニュースを見ましたか? 大変なことになったよ!!

先ほどYがピストルで射殺されたんですよ」奥さんと子どもが無事だったことは幸いだった。

(2008年2月20日グーブログ・永人のひとごころ「命あっての」で投稿済み)

 ***

このようなことがあって益々福島との縁が強くなり、S社長さんから福島市への転居を以前にもまして強く促された。

 ここまでくると、中途半端に断るわけに行かず、福島に引っ越せないわけを、私の本心をS社長さんや奥様、そのご両親へ伝えるべきだと思った。続く

 

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福島市への放射能汚染を予測していた男①

福島市への放射能汚染を予測していた男

 黒川祥子氏による(「心の除染」という虚構)を2019年8月から長期にわたって投稿して参りましたが、昨日でやっと最終回の投稿となりました。当ブログへ長く訪問お付き合い賜り、本当にありがとうございました。

 いま狭い日本に54基もの原発があって、いつどこの地域が汚染を受けてもおかしくない状況にあり、福島が決して特別なものではないことを、日本国中が自覚すべきものだと思い、連続投稿したわけです。

**

 私 の住む宮城県石巻市は、東北電力女川原発の立地地域であり、特に福島の問題は明日の石巻の姿に重ならざるを得ない状況にあります。

河北新報によれば、県内で62%が再稼働反対、地元住民の80%も反対というにも拘らず、県知事も、東北電力も再稼動へ向けて前のめりです。何か起きれば、住民は死をかけて大きな迷惑を受けるが、起こした側の電力会社も国も県も一切責任は取らない。

そこに住民の不信が濃縮されています。

 私たち石巻市の住民はみな福島の二の舞を警戒していますが、そんな時、黒川祥子氏の著書(『心の除染』という虚構)を読んで、ひとりでも多くの方に、福島の人びとが苦しんでいる状況を知っていただけたら幸いと思って投稿を続けました。

***

さて、1945年・昭和20年生まれの私は、各人が持つ

「姓名の画数と人生との関係」を13歳で体験・研究し初めてから今年で延べ63年になります。

 福島県においては、これまで・福島市・いわき市・郡山市・二本松市・会津若松市・伊達市・棚倉町・三春町・川俣町・国見町・桑折町・などの地域に、多くの方々とのご交誼を得ておりました。

さる4月10日投稿の

こころの除染という虚構・あとがき①の中での黒川祥子氏記述・・・あれは父がまだ健在だった頃だから、原発が爆発して放射性物質がここまでやってくるなんて(宮城・石巻のある人物一人を除いて👈永人)誰ひとり夢にも思わなかったころ。

という記述の中で宮城・石巻のある人物とは、私・吉野永人のことであります。

 以下にその経緯を詳述します。

  • 多くの赤ちゃんに命名
  • 運気の良くない人に氏名に使う文字を代えて運気改善
  • 健康回復・健康づくり
  • 事業商売の改善
  • 夫婦仲改善
  • 不登校児童の解決
  • 結婚・離婚問題
  • その他人生上の諸問題の解決

 

 以上のことに全力を尽くして福島に通い始めたのは43年前のこと。

 初めて福島市移住を勧められたのは福島市内で事業を営むS氏からでした。

『吉野先生・石巻よりも福島の相談客が多いのだから、福島に引っ越してきたらどうかね、その方が楽でしょうよ』

「それは当面無理ですよ」

『なぜですか?』

「考えていることがあってねぇ・・・」1998年のことでした。

****

それから3年後の2001年3月末・S氏から伊達市の多角事業経営者であるN氏の悩みを聞いてほしいと請われ、福島市内のS氏宅からS氏運転の車に乗せられN氏の総合事務所へ向かった。続く

 

 

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こころの除染という虚構・あとがき最終回

 

こころの除染という虚構

あとがき・最終回

ひとたび原発事故が起きれば、この国に民主主義があったのかと疑わざるを得ないように、人々は大きな力に翻弄される。

 最も大事で最も優先されるべき、子どもの健康、子どもの未来さえ、原子力産業や、原子力政策の前にあっけなく吹き飛ばされる様をまざまざと見た。

 伊達市が護ったのは、

市民ではなく『伊達市』だった。

福島県も国も同じだろう。これは決して対岸の火事でも、他人事でもない。そうした社会に生きている。

本書を終えるにあたり、取材に応じて下さった伊達市の皆さんに心から御礼を申し上げたい。何度、訪ねても快く迎えて下さった皆さんのおかげで、本書を世に出すことができた。ただただ感謝するばかりである。

 そして、困難な取材を一貫して支えて下さった、集英社インターナショナルの高田功さんに心より感謝申し上げたい。おかげで最後まで走りきることができた。

また情報公開請求のやり方を手ほどきしてくださり、一緒に福島県と伊達市への請求を行うなど、取材の終盤に「共闘」を申し出て下さった毎日新聞の日野行介さんにも心よりお礼を申し上げたい。

 福島第一原発事故という人災はまだ、現在進行形である。子どもを守る親たちが孤立しないよう、多くの支えが生まれてくることを心より願って本書を終えたい。

 2016年11月黒川祥子

 

 

 

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