日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
唖然だ!渡辺喜美は辞任せよ!
唖然だ!
渡辺喜美の「8億隠し」
3・31日刊ゲンダイ
『彼が言っていることは虚偽』
『党首や国会議員を辞めて出直してほしい』
DHC吉田嘉明会長(73)がみんなの党の渡辺喜美代表(62)に辞職を促した。
前日の釈明会見で「唖然だ(アゼンダ)の渡部代表」は、吉田会長から融資された8億円について、
「個人を応援してくださるという趣旨で借りた」
「選挙資金や政治資金としては使っていない」
と強調。使い道の例として「酉の市によく行く、熊手を買うがあれなどは政治資金で買うわけにいかない」普通熊手1個は2~3万円、よほど大きいので10万円、8億円の熊手だと東京ドーム1個分ぐらいありそうだが、信じられない言い訳をシレッとしてするのは疑惑政治家の常である。もっとも貸主の吉田会長は、『選挙に必要ということで依頼された』と渡辺代表の釈明を否定した。
証拠の携帯メールも残っていると言うから、万事休すだ。
「吉田会長は、ほかの新興企業のオーナーとともに、・ニュータニマチ・と呼ばれております。
非自民の改革派を応援することで知られ、世話になった野党議員は少なくないはず、今回の一件に肝を冷やした若手や中堅はいるでしょうね」(政界関係者)渡辺代表は「自慢じゃないが金はない」と公言し、クリーンなイメージを振りまいてきた。それだけに裏金疑惑のダメージは大きい。
このまま「唖然だの渡辺代表」がトップに居座れば、みんなの党を離れる議員も出てくるだろう。一方代表を辞めたとしても、残りは小粒でバラバラである。結局党は空中分解する運命だ。
唖然だ!渡辺喜美
小沢・鳩山に対する証人喚問を請求
過去の発言も自らの首を絞めている。5000万円を借りた猪瀬前都知事に対し「潔く身を引く選択肢がベターだ」とアドバイスしていたし、都知事選に出ていた細川元首相に対しても、「億単位のカネで首相を辞めた経緯がある。当然説明も必要だ」と言っていた。
生活の党の小沢一郎代表が強制起訴された時は、
「辞めない理由が立たない」と辞職要求。
「証人喚問に応じなかったことが、検察審の判断につながったのではないか」と指摘し、鳩山元首相が実母から資金提供されていた問題でも、「国会が解明しなければならない」と証人喚問を求めている。
これらの発言に照らせば、唖然だ!の渡辺喜美は潔く辞任すべきだし、証人喚問の場で説明しなければおかしい。
「政界では女と金のことは言うな」と言われてきました。お互いさまで、批判は天に唾するようなもの。
黙っているのが得策とされたのです。
でも、今はそれが通用しなくなった。メデイアに聞かれると自分の問題は棚に上げて、ケシカラン・・・と言うしかない。コメントしなければ疑われますからね」(政治評論家・有馬晴海氏)
それでも政治家は結果が問われるし、発言は責任を伴う。天に唾した報いを受ける番だ。
ここが危ない日本の原発・25・原発は誰が推進し、誰が儲けているのか?
3月31日
ここが危ない日本の原発・25
質問①
原発は誰が推進し、
誰が利益を受けるのか?
で、ここで2、3の質問にお答えします。
林さんですか、『原発は誰が推進し、誰が利益をうけるのか?』
原発推進と言うのはよく国策というようなことを言いますよね。国策と言ったら誰かが国で決めたんだろうけれども、そういうことを決めた人はいません。
でも先ほどお話ししたように、プルトニウムをあまりにも持ち過ぎて、それを隠すためだけの推進で、これはもうどこの新しい立地予定地も、受け入れるところがほとんどなくなって、そのために非常に沢山のお金、電源三法交付金とか、もうあらゆる理屈をつけて
「お金をやるから造れ」と。
仮に二基造ったとしますよね。160億円ほど町へ来るんですよ、町へ。
でもこれを林さんか、「誰が利益を受けるのか」と言うところへ結びついてくるんです。
がこの電源三法交付金と言うのは工事が終わってから5年間で終わる。でもこれの使い道は決められている。いわゆる、道路、建物、箱もの、つまり土建業者が儲かるようなことで使わなきゃダメなんです。
その年の金は、その年のうちに使いきらなきゃダメなんです。わかります?
だから、要らない建物をボンボン作っているんですよ。この原発を作ったところは。で「隣に蔵が建ったらこっちは腹が立つ」ってね。自分の所もああいう原発呼んでああいう建物を作ろうよとばかりに原発を誘致するところが多いんです。
でも実際はどうかというと維持管理が限りなくなってね。あまりにも建物なんかを作ってしまった。
電源三法交付金は終わってしまうが、維持管理ができない。お金がない。それじゃあ、と言うんで、増設を申し出るんですね。もう麻薬と全く同じなんですよ。
もう一回お金が欲しい。その自治体が全然努力をしないから、だから誰が利益を受けるのかと言うとはっきり申し上げて土建業者なんです。
それからこの講演記録をマスコミに流すというのがあるんですが、奥井さんですか?
私も年間では相当数テレビでもやっております。それに対して電力会社が相当神経をとがらせております。26へ
3月31日・如是我聞(にょぜがもん)
3月31日
如是我聞
(にょぜがもん)
わたしの十数回のインド旅行で気がついたこと。
我々に日本人はインド人を相手にいろいろ質問するが、その多様な質問にたいていのインド人は回答する。
彼らが「知らない」ということは、めったにない。
そして彼らの答えは間違いが多い。
数人のインド人が同じ質問に答えて、それぞれ違った解答をする。そういうことに気付いた。
たとえばインド人に道を訊く。すると彼らは親切に教えてくれるが、それを簡単に信じては行けない。数人に確かめて多数の意見に従った方がよい。
インド人自身がそうしていた。と言ってもインド人が嘘つきだということではない。日本人なら「知らない」と言うところを、彼らは
「私はこうだと思う」
「私はこうだと信ずる」
と答えているのだ。だから横の人が違うことを言っても、別段平気である。彼には彼の意見・信念があり、
自分には自分の意見・信念がある、と思っているからだ。
日本人の考え方と根本的に違っている。
ところで、
仏教経典の書き出しは、「如是我聞(にょぜがもん)」である。「かくのごとくわれ聞けり」と言った意味である。
仏教の開祖は釈迦であり、仏教経典は釈迦の言葉を書き留めたものだとされている。(実際は、釈迦の死から数百年の後に作られたものが多い)。したがって仏教経典は「釈迦はこのように語られた」で始まってよいと思うのだが、そうではなくて「如是我聞(私はこのように聞いた)」となっているのである。
実は仏教において大事なのは、抽象的な真理ではない。
それぞれの人間が釈迦の教えをどのように聞き、理解するかが大事なのだ。
性格や能力が違った人間が、それぞれ自分にとっての真実を求めるのが仏教である。仏教は万人に共通する教えではない。
仏教の基本的態度は
『応病与薬』――病に応じてくすりを与える事――である。その意味で仏教はやはりインド的である。
*
「コギト・エルゴ・スム(われ思うゆえに我あり)」と言ったフランスの哲学者のデカルトは、1596年3月31日ラ・エールに生まれた。
3月30日・薬の乱用は危険
3月30日
薬の乱用は危険
日本人の薬好きにはいささか困ったものである。病気になって病院に行くと必要以上の薬をくれる。健康保険制度にも問題が有って、医者は診療だけでは点数にならず、薬を出すことによって儲かる仕組みになっているためらしい。と同時に患者の方にも薬信仰が有って、薬を服用しないと病気が治らぬかのように思っている。それで薬が乱用されるのである。
薬というものは、本来は毒なのだ。日本人は薬と毒とを区別しているがドイツにおいては薬は毒として毒物学の中で扱われている。毒物の毒を薄めることによって薬として使うことができる――と言った考え方である。
本当はこのドイツ流の考え方が正しいのであって、薬は本質的に毒であるからその乱用は危険なのだ。
そしていくら毒性を薄めて使用しても、それは本質的に毒であるから必然的に副作用があるのである。その意味で薬は出来るだけ服用しない方がよい。
人間の体には病気になってもそれを治そうとする自然治癒力が備わっている。薬と言うものはその自然治癒力を助けるものでなければならない。
薬を過信して限度を超えた薬物の使用は慎むべきだ。
そうでないと薬がかえって毒となる。日本人の薬物信仰は困ったものである。
*
薬師如来は本来は薬師瑠璃光如来と言い、東方の浄瑠璃世界の教主である。衆生の病苦を除き、安楽を与えてくれる現世利益の仏として日本で古くから信仰されている。
しかし日本人が薬を乱用するのと同じように「苦しい時の神頼み」式にこの薬師如来を信仰するのは危険だ。
無茶苦茶に荒れた生活をしていて病気が治る筈がない。病気を治すのは自分であって、薬師如来はその手助けをしてくださるのだと信じることが必要だ。
それが仏教の正しい信仰であることを忘れてはならない。
*
薬師寺は法相宗の大本山で薬師如来を本尊としている。毎年3月30日から4月5日まで、この薬師寺においては花会式が行なわれる。嘉承2年(1107)堀河天皇が皇后の病気平癒を薬師如来に祈願したところ霊験があり、御礼に献花された故事にちなんだ行事である。
ここが危ない日本の原発・24 中学生の作文
3月30日
ここが危ない日本の原発・24
中学生の作文
先月私は新潟県の柏崎刈羽原発のある柏崎市へ行ってお話をしました。そこで町の保健婦さんが会場にこられて確かにこの柏崎でも水頭症の子、白血病の子供、知的障害を持った子供が以前に比べて増えました。1986年から丁度10年になるんですよ、あそこも。
やはりそういう問題が起きてしまっている。
だから、原発と言うのは、事故とか、故障だけではない、放射能だけではない、人間の心までそういう風に侵してしまうんですよね。
まだまだ一杯あります。私がお話したいことは・・・
教育問題の現場へまで原発問題は持ち込まれている。これは石川県の珠洲というところ、能登半島の一番端っこですが、私も年に何回か行くんです。そこであった話。
毎年作文中学生の作文コンクールがあるんですが、毎年代表に出る子がやはりその作文を書いたんです。
此処はもう何十年も原発賛成、反対でもめているんですよね。で私もその作文を見せてもらった。
何でもないことを書いているんですよ。
前はみんな友達だった、と。
隣の子とも遊んでいた、と。
だけど大人が原発賛成、反対を言いだして
「反対の家の子と遊ぶな」とか
「賛成の家の子と遊ぶな」と言う。
それが非常に悲しい・・・・というようなことを書いているんですよね。
何のことはない、思ったままのことを書いているんですよね。で、作文発表の前の日、そこの校長先生が、
「子供が原発のことを書いちゃダメだよ」って全部書き直させたのね。校長先生が書いたらしんですよ。発表の日になった。
その子は校長先生が書いたとおりのことを読まなくて、自分が書いたとおりのことを読んだんですよ。自分は悪いことを書いたとは思っていないから。
でそれはみんな知っていたんです。町の人間は校長が書き替えたということを・・・・
でその子は自分の書いた通りを呼んで普通だったら「良くやった」と拍手喝さいなんですよね。
でも事実はどうかと言うと、校長先生が父兄の所へ行って、
「あんたの所の子供ぐらい素直じゃない子供は知らない」と
「内申書がどうなってもいいのか!」と、今度は脅されたんですよね。
こういうことが日常的に原発予定地では起きているんですよ。おそらくみなさんはこういうことを知らないと思う。 25へ
現代型うつに寄り添う
現代型うつに寄り添う
吉野 聡
不安への直面防止を
現代型うつと向き合うためには、実存の不安に陥らせない接し方が必要不可欠と言える。
経済的に豊かで生存の不安を感じない若者世代は
「今やっていることは自分のやりたいことなのか?」
「今の仕事は自分に向いているのか」と言った不安を抱くことになる。
本当にやりたいことなのか。
本当に向いていることなのか、などという疑問の答えは誰も持ち合わせていないのだから、実存の不安を解消させようとするのは、極めて困難な作業である。
それよりもむしろ実存の不安に直面させないように、
組織にとって必要な人間であること、
だからこそきちんとあなたのことを見ていること、
そして将来に期待していること、
をしっかりとメッセージとして伝え続けることが重要だと言える。
たとえば部下の不注意で、仕事上の支障が出てしまった場面を想定しよう。
単に
「何やってるんだ!」
「だからお前はだめなんだ!」とどなり散らすだけでは彼らは実存の不安に陥ってしまう。その結果、現代うつを発症し、さらにねじれると、パワハラの問題や労災申請に発展してしまう。
かといって部下の不注意は叱らないわけにはいかない。そこで叱り方にひと工夫加えてみよう。
「最近よく頑張っているね」
「しかし、今回の不注意はきちんと反省してもらわなければいけません」
「でも、君に期待しているから、このようなことを言うのだからね」という具合に
『褒める』 『叱る』 『褒める』と
サンドイッチの具をパンに挟み込むように叱ってあげる。叱りたい内容はきちんと伝えながらも、実存の不安に直面することを防ぐことができるのです。(精神科医)
ここが危ない日本の原発23・婚約を破棄された女性
ここが危ない日本の原発。23
原子力発電所が生む差別の問題
婚約破棄された女性
これは皆さん方「私たちは東京に住んでいるから、原発など関係ないんだよ」と思われているかもしれませんが、この話はぜひ聞いてほしい。
私も映画や小説やテレビでは、便せんを涙で濡らしながら書いた、ということを知っていますが、実際に見たのは本当に初めてです。泣きながら書いたんだろうと思う。
文章の内容は、その人が東京に出てきて、職場で恋愛をして、結婚することが決まり、結納まで交わしました。と、それが或る日突然、旦那さんになる人の両親から婚約を解消された。
「私に悪いところがあるなら言ってほしい」とお父さん、お母さんに彼氏から話すよう頼んだらしい。
「私、言われたことはどんなことでも直しますから」と。そうすると旦那さんになる筈の彼氏から「いや、そうじゃないんだ」と、「おまえに悪いところはどこもない」
しかしながら、原子力発電所が運転されている。これは地名までも言います。福井県の敦賀、ここで10数年育った。
いわゆる「白血病の子供の顔は見たくない、と親は言っている。だから結婚しちゃダメなんです」と言われたんです。・・・と言うのね。
極端ではないものの、原子力発電所の稼働している周辺では確かに白血病の子供が生まれる確率は、他所に比べて高いんです。
「私が何の悪いことをしたんですか!?」と言われる。
「たまたまそこで生まれて育っただけだ」と言うのね。
私は、手紙を見てね、この人は自殺でも考えるんじゃないかって本当に心配になって、われわれのセンターの女性弁護士に「彼女と会ってくれ、会ってどうにか励ましてくれ」と頼み、会いに行ってきました。
「どうだった?」って私は聞いたんです。
「どういう話をしたの?」
『何にも話ができなかった。一緒に泣いただけだ』と。
これはなにも現地だけの問題じゃない。実際にそういうことが東京でも起きているんですよ。東京で結婚するのに。その女性が去年わざわざ平塚まで来てくれた。
それ以後同級会が有って帰った。「同級生何人かに会ったら、私と同じような人があと二人居たんです」とそういう差別がね。原発が非常に運転されているところでは非常に増えてしまっている。
と言うのはあそこで24時間放射能がずーっと蓄積されている。 24へ
3月29日 「中道」は「いい加減」
3月29日
「中道」は「いい加減」
日本の商社がかつての西ドイツの工場に機械の部品の注文を出した。ところで後でわかったのだが、注文個数が足りなかった。それで追加注文を出したのだが、
その際、注文個数が増えたのだから、追加注文の分は単価を安くしてくれと交渉した。それに対して西ドイツの工場からは、「我々は最初に受けた注文で十分に儲かっている。これ以上の仕事はしたくない。
どうしてもやれというのであれば、単価を高くしないと引き受けない」との返事が来た。日本の商社はびっくりしたという。有名な本当の話である。
我々日本人はこんな考え方が出来ない。十分儲かっているところに追加注文が来れば、後は働けば働くほど利益が増えるのだから・・・と言うことで、単価を下げても引き受けてしまう。
そして残業をし、休日を返上して働き、その挙句労働者は過労死してしまう。会社人間になった過労死の父親が永久に帰宅することのなくなった家庭は母子家庭になり、更にはその母親までも働きに出て子どもをかぎっ子にし、その結果子どもが非行に走るというケースはざらにある。
実はこれが日本経済の高度成長の図式であったのだ。
*
ところで仏教においては―中道―を教えている。
中道とは極端に走らないことである。極端な苦行を避け、
かといって怠惰になることなく、
ゆったりとした大道を歩むのが「中道」である。
私は、この中道と言うのは、俗な言葉でいえば、
――いい加減――だと思う。ただし「いい加減」は無責任な様、でたらめな態度を言うのではない。
お風呂の湯加減を思い出してもらえばいい。熱い湯の好きな人には熱い湯が、ぬるい湯の好きな人にはぬるい湯が、いい加減である。それぞれの「いい加減」があるのだ。
日本人はそのような「いい加減」を忘れて極端に設けることばかりを考えている。
儲けの上にも儲けを図る貪欲ぶりは、仏教の教える「中道」からはるかに遠い。
そんなことをしているとお釈迦さまから叱られそうだ。
*
日本最初の労働立法である工場法が、
明治44年(1911)3月29日に公布された。
ここが危ない日本の原発・22
ここが危ない日本の原発・22
「電力会社に不都合な判決」を前に裁判長交代
最初私が話していたら、次からずーっと、裁判官や、裁判所の人が、「此処おかしいんじゃないか見てくれ」と、『ああ、ここ先生おかしいですよ』と言うのは、こうひんまがったりしていてね。
そういうところを探していく。
それで判決がその年の2月に有るということだったんですが、それが8月に延びたんです。その理由は、書記官で退職した人の話では、「その裁判長は相当突っ込んだ判決文を書いていた」と。
判決前になって裁判長を代えられたんですよ。
代わっちゃった。
それでその判決のためだけに、検証を何もやっていない裁判長が来て、『志賀原子力発電所は、差し迫った事故の可能性はない』という判決を出し、私も金沢に行っておりましたが、それから10時間後に大事故を起こしてしまった。
私も知らなかったのですが、闘争関係に詳しい人から
「裁判長、裁判官を代えるということは、当たり前のように行われているんだよ」と言われたのね。
でも国民や我々は、裁判というのは正当に行なわれていると思っているんですよね。まさかそんな汚い手を使うとは思わなかった。
闘争関係に詳しい人は、「そいう風にして、判決だけに来る人は最高裁の方、自分の出世の方向にしか見ていないんだよ」という話をしていました。
で原告も住民も、「いや、もう一回頑張ろう」ということで高裁へ控訴しました。これも私から見ると、弁護士さんも大変だなと思いました。
2、3選りすぐってお話させて頂きますが、一番最後にこれだけは聞いてほしいというお話をしたいと思います。
今この原子力発電所が抱える問題ね。これの一番の問題が差別が起きていることです。
この差別の問題ということは、非常に難しくて、話すことそのものが差別になる。と言ってもそれは話をしなきゃだめなの。
私の所の救済センターの私宛にお手紙をくださった女性の方がいる。
もう2年前のことなんですが(1994年)この女性は当時24歳でした。 23へ
3月28日・役に立たなくていい
3月28日
役に立たなくていい
インドの仏教においては、出家者である比丘・比丘尼は生産活動に従事することは禁じられていた。イヤ、生産活動に限らず、あらゆる職業に就くことが禁じられていたのである。
したがって比丘や比丘尼は、在家信者の布施によって生活しなければならない。文字通り、――無為徒食――の生活を義務付けられていたのであった。なぜか・・・?
生産活動に従事すると、どうしても戒律に抵触するからである。例えば、僧が農業をやるとする。農業をやるには田や畑を耕やさねばならぬ。そうすると土を掘った時に誤って地中の虫を殺すことがある。
それは「不殺生戒」を犯したことになる。けれども、それだけが理由であれば、例えば事務系の仕事であれば、僧も従事してよいことになる。出家者があらゆる仕事に就くことを禁じられた理由は、他になければならない。
私は、それは、-世の中の役に立つ人間―を尊重する世間の風潮に冷水を浴びせるためだと思う。
世間においては、まじめに働いている人間を高く評価する。学校においても世の中の役に立つ人間になれと教えている。
しかしそのように世の中の役に立つ人間がいい人間だと評価していると、世の中の役に立たない人間に対する蔑視が生まれる。その結果、失業者は役に立っていない人間と評価され、病人も役に立たない人間と見られるようになる。
更に老人も若者に比べて役に立たない人間と見られてしまうのだ。現在の日本の社会がまさにそうである。
そこで仏教の開祖の釈迦は、人間の価値は、世の中の役に立つ、立たないと言った物差しで以って測ることができない――といったことを教えるために、あえて出家者に「無為徒食」の生き方をさせたのであろう。
『人間は、世の中の役に立たなくたっていいのだ』と
釈迦は言いたかったのである。私はそう考えている。
*
「もしも人間の価値がその仕事で決まるものならば、馬はどんな人間よりも価値があるはずだ・・・馬はよく働くし、第一文句を言わない」
これはロシアの文豪、マキシム・ゴーリキー(1868年3月28日生)の言葉である。
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