日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
機根不動(きこんふどう)
きこんふどう
機根不動
種々な人間がいて当然なのです
典籍:般若心経秘鍵
人の素質はそれぞれ異なります。一を知って十を覚る者も居れば、十を知って一しか理解できない者もいます。
弘法大師の著作に「般若心経秘鍵」という書があります。
その中に「機根不動にして性欲(しょうよく)即ち異なり」という句があります。
「機根」とは理解力のことを言います。『機』はきっかけ『根』は素質のことです。
「性欲」とは現代で使われている意味ではなく、人それぞれの性質による欲望のことです。「機根不動にして性欲即ち異なり」とは、「一つのきっかけでどの程度理解できるかは人によって異なり、人によって求めるものも異なる」という意味になります。
人は個性豊かです。理解力も異なります。「打てば響くような」と言いますが、誰もがそうあるわけではありません。
打てば響くのか、打っても響かないのか、時間が経ってから響くのかは、人によって異なります。
また求めるものも趣味も欲しいものも異なります。それが人間です。ですから人それぞれに、違いがあることを認めることが大切なのです。
理解力がないから、ピンと来ないから、空気が読めないからと言って、その人の個性を否定したり、排除したりしてはいけません。世の中にはいろいろな人間がいて当然なのです。
我慢
我慢
我慢はしてはいけません
典籍:「倶舎論」・「雑阿含経」など
仏道修行の一つに「無言の行」という修業があります。この行はある一定期間、一言もしゃべらないという我慢の修行です。
無言を通すことは難しいものです。
しかし、我慢を通してやり遂げても、あまり褒められるものではないようです。なぜなら、成功者は無言を通すという我慢にとらわれ、驕り高ぶりの心を持ってしまうからです。
そもそも仏教では、我慢はしてはいけないと説きます。我慢とは自己中心的な心、ここに我ありと驕り高ぶる心、我は永遠なりと勘違いする心のことです。
現代の私たちは、多くの我慢を強いられています。また幼いころから、「我慢しなさい」と言われ続けて育っています。
まるで我慢することは美徳であるかのように。
しかし、本当に我慢はいいことなのでしょうか。「我慢しなさい」という言葉の奥には、自分の都合が優先されてはいないでしょうか。「私たちも我慢してきたのだから、あなたたちも我慢するのは当然」という驕り高ぶった気持ちはないでしょうか。
あるいは「我慢している自分」に自己満足してはいないでしょうか。
我慢はしてはいけません。主張すべきは主張し、よく話し合って、納得することが大切です。無言の行は、言葉の大切さ、また言葉以外で伝わるものがあることを教えています。
そして何よりも「我慢することにとらわれてはいけない」という事を教えているのです。
不覚
不覚
不覚の奥にこそ覚りがあります
典籍:「大乗起信論」
不覚にも涙を流してしまったことはあるでしょうか。年齢を重ねるほど涙腺が弱くなり、思わぬ場面で涙ぐんでしまうことがあります。しかし、不覚であっても恥じ入る必要はありません。
人間はそもそも不覚なのですから。
否、その表現は正確ではありません。人間はそもそも覚であるのに、不覚になってしまっているのです。
一切衆生は、本来覚りを得られる種を持っています。
これを「本覚」と言います。
本当は覚りを得られるはずなのに。いろいろな迷いや妄念、欲望が邪魔をして、本来持っているはずの覚りに気づかないのです。
これこそが「不覚」なのです。
不覚にも人前で涙を流してしまうのは本当は不覚ではないのかもしれません。本来持っている覚の部分に触れる何かがあったればこその涙なのかも知れないのです。
他人の前で恰好を付けず、不覚の自分を見せてもいいのではないでしょうか。
油断している、隙のある自分をさらけ出すのも、周囲への優しさであったりもします。
全く不覚のない、油断もスキもない態度は受け入れがたいものがあります。
不覚でもいいのです。そこから、その奥に潜む「覚」に気づくものなのです。
厭障観(えんしょうかん)
厭障観(えんしょうかん)
(典籍:「四教儀註」)
心を軽くする瞑想法です
俗にいう厭世観とは異なります。厭世観は人生には幸福はない。人間の精神的進歩はないなどという棄て鉢な人生観のことです。
厭世観のような言葉は仏教経典にはありません。
「厭障観」は、投げやりな人生観ではなく覚りに至るための、瞑想法の一つなのです。
具体的には、人間の二つの
厭うべきことを思い、それを捨てるという瞑想法です。
一つには、人間の本性は煩悩に覆われていることを思います。本来、私たち人間は清浄なる魂を持っています。
しかし、それが様々な欲望や煩悩により汚されているのです。いわば、電球に埃がたまった状態と思ってください。
そのたまった埃を捨てるように煩悩を捨てていく様を瞑想します。
次に人間は肉体にしばられていることを思います。人間は生きているうちは肉体から離れることができません。
絶えず、肉体の欲求や痛み苦しみに悩まされます。
その欲求や痛み、苦しみを厭い、捨て去るのだと瞑想します。
つまり、肉体からの解放を瞑想するのです。
ほんのひと時でもいいのです。
大きく息を吸って、ゆったりとしましょう。
そして自分の心に溜まった欲望や妬み、憂い、怒り、羨みといったゴミを捨て去ると思いましょう。
一つ一つゴミ箱に捨てるのです。心が軽くなったら、体から心を離してみましょう。たまには心を解放してみるのもいいのではないでしょうか。終わり
◎休息万事ではないが、1週間ほど夏休みをします。次回のブログ投稿は9月28日ごろを予定しています。どうぞよろしくお願い申し上げます。
休息万事
休息万事
たまにはしがらみを断ち切りましょう
〈典籍:「最徳伝燈録」〉
休息とは、元は禅の言葉で、まったく執着のない安らぎに至ることです。それを極めたのが、「休息万事」です。
休息万事とは自らすべてをやめることなのです。
一切の執着心や捉(とら)われをすべて捨ててしまい、何物にもとらわれない、完全なる自由な境地を休息万事というのです。
私達は生きていくうえで、実に様々なものにとらわれています。人間関係、家族、会社、学校、生活・・・・まるで蜘蛛の巣にかかった虫のように、いろいろな縁の糸に絡まって生きているのです。
その縁の糸をぷっつり切ってしまい、自由になることができたらどうでしょう。実に軽やかなのではないでしょうか。
しかし、すべての糸を切ってしまうわけにはいきません。
ならば、一時的に休息万事してみてはいかがでしょう。
一時的に、一切の縁の糸を断ち切って自由になるのです。
これは自室でも出来ることです。すべてのしがらみを一時的に断ち切って、更にはやるべき仕事もすべて忘れて、まったくの自由な状態になるのです。これこそが本当の休息です。
ただ身体を休めるのではありません。休みだからと言ってどこかへ出かけ、余計に疲れて帰ってくるのでもありません。
真実の休息をするのです。
破滅に導く「自分さえよければ」主義
破滅に導く自分さえよければ主義
菅が掲げる『改革』だって怪しいものだ。金看板に位置付けた「デジタル化推進」の中心となる「マイナンバーカードの普及」や秋田育ちの苦労人として期待の高まる「地方創生」等、どれもこれも動き出しているものばかり。
つまり「菅カラー」は皆無だ。
むしろマイナンバーの普及に伴う「キャッシュレス決済の推進」に加え、「携帯電話料金の引き下げ」等はクレジットカード会社や携帯の新規参入会社に新たな利益をもたらす側面もある。
「菅首相の言う『改革』とは,新たな利権にあずかろうとする人々に向けた『改革』であり、『自分さえよければいい』という競争至上の新自由主義を強めるための『改革』としか思えません」そう語るのは政治評論家の森田実氏だ。
こう続けた。「菅首相自身“自分さえ総理になれればいい”の国民無視の発想で、かつての自民党と違って形骸化した派閥政治の利益追求に支えられています。
この「自分さえよければ」の発想からの転換が今の政治に求められているのに、自民党は反省の色なし。
歪んだ改革だけを唱える政治姿勢を根本から見直すべきです」
『自助』を強調する菅には「自分は叩き上げで努力して総理の座まで上り詰めた」との自負心が付きまとう。
そのうぬぼれは、「社会的弱者は『公助』に甘えている」という切り捨ての発想に昇華しやすいだけに、危ういのだ。前出の森田氏はこう言った。
「コロナ禍に加え、立て続けに災害を招来させる異常気象や米中対立の混乱など、今、世界は人類規模の大きな危機に直面しています。
オイルショック以来の『自分さえよければ』の競争至上主義の蔓延が分断と不振の渦を生み、世界はガタガタです。
日本にしても90年代以降、自助努力に任せた人減らしの『小さな政府』を目指した結果、保健所の数が4割も減ってしまった。競争至上主義が招いた社会の弱体化が、コロナ禍で可視化されても、菅政権はお構いなし。なお一層『自助』と『競争』を加速させようとしています。
この発想のままでは、これから本番を迎えるコロナ不況の経済危機は乗り切れません」
暗愚の首相と黒幕居残り内閣は、この国をむざむざと自滅の道へ導きかねないのだ。終わり
隠し切れない「たたき上げ」のうぬぼれ
隠し切れない「たたき上げ」のうぬぼれ
菅は、「政策に反対するのであれば移動してもらう」と官僚を盛んに恫喝。官邸が中央省庁の幹部人事を掌握し、官僚の忖度文化の元凶とされる内閣人事局についても、「見直すべき点はない」と明言した。霞が関をけん制し、しきりに「改革」を標榜している。
昨日も自民党本部で開いた臨時総務会でこう息巻いていた。「役所の縦割り、既得権益、悪しき前例主義を打破する。規制改革を進めて国民のために働く内閣を作っていきたい」
「悪しき前例主義」そのものの人事を実行しておきながら、よくも言えたものだ。
特に菅政権誕生の黒幕として幹事長にとどまらせた二階は、「運輸族のドン」として利権にまみれ、数々の疑惑が指摘されてきた「既得権益」の権化だ!
同じく、黒幕として居残った麻生だって、この8年近くに発した暴言を数え上げればキリがない。
「もう、顔を見るのもウンザリ」と思っている人だって圧倒的に多い中、総裁選後の会見で
[きわめて政権運営で重要な人」とヨイショした菅は、とても「国民のために働く内閣」を作るとは思えない。
どう考えたって「自民党のためだけに働く内閣」の間違いだろう。
とことん口先だけで、中身スカスカの新首相である。
「内閣のスポークスマン役の官房長官に加藤氏を就ける人事にも驚きました。彼はコロナ禍の厚労省として、その発言によって国民を散々混乱させてきた人物ですよ。相談・受診の目安だった
『37・5度以上の発熱が4日以上続く』について、『基準として受け取られたのは国民の誤解』と国会で言い放ったのは忘れません。
大臣として資質が疑われるような政治家を平気で国民に情報を発信する重職に横滑りさせるのはやはり国民を馬鹿にし切っている証拠です。(五十嵐 仁、法大教授)続く
早くも驕り高ぶる偽りの庶民派宰相
早くもおごり高ぶる偽りの
庶民派宰相
総裁選中に菅は、人事について「派閥からの要望は受け付けない。聞かない。事前に打ち合わせなどしない」と豪語(虚偽である。そんな力は菅にはない。最初から派閥寄せ集めの安倍亜流政権そのもの👈永人)と豪語していた。
その舌の根も乾かぬうちに、見事なまでに派閥に論理に従った人事。党内に66人いる無派閥議員にほゞ声をかけず、持論の「脱派閥」はしょせん口先だけ。
いきなり自分の発言が我が身に返るブーメラン現象は、ロクなもんじゃない口先首相の本質をよく表している。
せっかく大マスコミが「党内初の『無派閥・非世襲』総裁」と持ち上げ、「庶民の暮らしがわかる人」といった地方の声まで紹介。ご祝儀記事で「たたき上げ宰相」への期待を膨らませているのに、早々に人事で裏切るとはマヌケな話だ。
法政大の五十嵐仁名誉教授(政治学)はこう言う。「『安倍継承』の公言通り、安倍亜流内閣を地で行く人事です。菅首相は自身が総理になることについて、ずっと『全く考えたことはない』と答えていました。総裁選を見る限り、この発言は本音でしょう。
総理として成し遂げたい理念や国家ピジョンなど何一つ語れません。だから総理になっても派閥の力学に頼るしかない。この組閣を見れば、早くも菅総理の限界はわかる。それを承知で平気で担ぐ自民党は恐ろしい。
安倍前首相が病気を理由に辞意を表明した途端、内閣支持率が『ご苦労様』とばかりに跳ね上がったことに(このこと自体が捏造デタラメ支持率である👈永人)タカをくくり、こんな人事でも国民は納得する、と思いあがっているのだと思う。とことん、国民を愚弄しています」
菅は秋田県出身者として初の総理となる。東北地方出身者としても鈴木善幸氏以来、戦後二人目だ。鈴木氏は「暗愚の宰相」と言われたが、そんな不名誉なあだ名までみちのくの大先輩から菅は引き継ぐのか。
東北生まれの人びとに恥をかかせないでくれ、と言いたい!続く
二階俊博の発言にギョッとする
二階俊博の鉄面皮
日刊ゲンダイ9・17
「論功行賞だとはつゆほども思っていない。偏見だ」15日午後、自民党4役の共同記者会見で、不機嫌そうにそう言い放ったのは、二階幹事長だ。これほど国民の意識とかけ離れた発言も珍しい。
16日に誕生する菅新首相は、党4役に国対委員長を加えた枢要5ポストを総裁選で指示を受けた細田・麻生・竹下・二階・石原の5派にきれいに割り振った。
その上、野上浩太郎・前官房副長官(細田派)、平沢勝栄・広報本部長(二階派)、坂本哲志・元総務副大臣(石原派)ら派閥推薦の入閣待望組を初入閣させ、きっちり各派の恩義に報いる。
これだけ絵にかいたような論功行賞の派閥人事を見せつけておいて、偏見もクソもないものだ。つくづく二階の鉄面皮にギョッとする。
新政府の組閣名簿も新味無し。女性議員の積極登用や若手議員の抜擢など目玉もなし。
実に8年近くも同じポストに居座り続ける麻生副総理兼財務相を筆頭に再任、再登板のオンパレード。代わり映えがしない面々には何一つ期待が持てない。
初入閣組もサプライズ感ゼロ。
逆に驚いたのは万博担当相(井上信治・元環境副大臣)の新設だ。
万博担当相は補完勢力の維新対策だろうが、そもそも必要なポストなのか?
幾ら安倍政権の継承を訴えているとはいえ、安倍前首相の実弟である岸信夫・元外務副大臣を初入閣させたのには呆れた。
安倍の意向に忖度し、党内事情だけに気を配る。典型的な内向き人事は政権発足直後から国民の失望を招くだけだ。続く
自性清浄心・じしょうせいじょうしん
じしょうせいじょうしん
自性清浄心
人の心は本来清らかなものなのです
(典籍;宝生論)
人間は善の心だけ持っているわけではありません。悪い心も持ち合わせています。善の心も悪の心も持っているのが人間です。
しかし仏教では、その善悪は別として、人間の心は本来清らかなるもの、正常なるものと説きます。これを「自性清浄心」と言います。
大乗仏教が起こり始めたころ多くの仏教論書に説かれ始めました。
人間の心は本来清らかなものなのです。ではなぜ人間は悪いことをしてしまうのでしょうか。
本来の心が清浄ならば、悪いことはできないはずです。そう思われるのも当然でしょう。
しかし人間には欲があります。
それが悪いことをする原因なのです。
人間の心は本来清浄なのに、色々な欲により、本来の清浄さを覆ってしまうのです。
清らかな水が数滴の汚れた泥水で濁ってしまうように、清らかな心もわずかな欲望により、その清らかさが隠されてしまうのです、例えば、意地悪な心や人よりも勝りたいという欲求、妬み、羨み、怨み、怒り、といった数滴の汚れた想いで、心の清らかさが濁ってしまうのです。
その妬みや羨み、意地悪、怨み、怒り、貪りといった数滴の汚れた心を減らしていけば、人々の心に本来の清らかなる心が現れてくるのです。
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