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そういう事を言っていると、そういう風になっちゃうよ

そういうことを言っているとそういう風になっちゃうよ

画家‣山口 晃

 

 私が冗談めかして自嘲的な言葉を口にしたとき、先輩に言われた言葉です。自嘲は先に自らを嘲ることで人のそしりを免れようという卑しい心持が見え隠れします。

傍で聞く方も困りますし、何よりも己の行く道を閉ざします。

 

 謙遜のつもりで「私など全然です」という人がいます。同じことを大切な友人を紹介するときに言うでしょうか。

「この人はこれからですよ」と未来に扉を開けるのではないでしょうか。

 

野郎自大になる必要はありませんが、自分のことを大切な友人のように遇することも必要だと、この言葉に学びました。おわり

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いい言葉‣いい人生 最終回

いい言葉・いい人生

最終回

複数の通信手段をもっておこう

樋口恵子

 それと、へタヨロ期の財産になるのは、人間関係です。今、65歳以上の高齢者のいる世帯の約3分の1が、一人暮らしか、老夫婦の二人暮らしだそうです。

 家にずっといれば人と話す機会もなく、うつうつとしてしまいます。趣味のサークルや勉強会、ボランティアでも何でもいい。出来るだけ社会と接点を持ちたいですね。

  人とのコミュニケ―ションを採るうえで、最近大事だなと思ったのは、複数の通信手段を持つことです。つい先日も、「耳が遠くなったので、お電話ではなくお手紙で」と連絡してきた知人がいました。

 また筆まめで有名だったある友人は、利き手の指3本が不自由になってペンが握れないと嘆いていました。そんなときに便利なのが、パソコンやスマートフォンなどの電子機器です。特にこのコロナ禍では直接会えなくてもオンラインで顔が見られて、メールで連絡を取り合えるのはやっぱりいいなと痛感しました。

  私もおっかなびっくり挑戦中です。

まだの方は、今のうちにちょっと頑張って通信手段に加えておくといいかもしれません。

  これまで、どこへでも一人でホイホイ飛び回っていた私も、半年前ぐらい前からはお供の人についてきてもらうようになりました。

  足元に自信がなくなり、駅の雑踏を歩くのが怖くなったのです。

 それでも出歩いていた方が、心も体も調子がいい。かくなるうえは、若かった日々に恋々とせず、肩ひじ張らず、素直に人の助けをお借りしながら、ヨタヨタヘロヘロ何とかやって行こうと思っています。

  夢はあと1冊か2冊、いやもうすこし、本を書くことです。老いの中にも大志あり!

皆さんも共に前を向き、明るく楽しい日々を過ごしていきましょう。              終わり

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いい言葉・いい人生4回 樋口恵子

いい言葉・いい人生

4

出来なくなった自分を責めない

 

 ただ老いてヨタヘロするのは自然の摂理です。むやみに恐れず、できるだけ前向きに、楽しく、明るく、ラクして過ごそうではありませんか。

 

例えば、自分で料理をするのを諦めることもその一つです。

私自身、80歳を過ぎたあたりから台所に立つのが億劫になりました。

 

もともと料理は性に合っていました。

連れ合いと一人娘との3人の食事を準備し、娘が高校を卒業するまではお弁当を作り続けました。連れ合いは70代になる直前で亡くなり、娘とは現在同居していますが、生活はバラバラ、食事もほとんど別々です。

 

今になって、私の結婚生活とは何だったんだろうと考えると、多少の色恋はあったものの、やはり毎日ご飯を作ること、そして一緒に食べることだったと思います。

 

ですので、料理を諦めることに、一抹の寂しさがあったのも確かです。

ただ、幾ら練達の主婦だって、ヨタヘロ期になれば、手の込んだ料理はもう難しい。

 

そんなときは宅配サービスを利用したり、出き合いを買ったりすればいい。

会社に定年制度があるように、人生に調理停年があってもいいと思うのです。

そんなことをある雑誌に書いたら、「気持ちが楽になりました」とたくさんの反響がありました。

「家族にヨタヘロを告白したところ、夫が週1回、食事を作ってくれるようになったんです」というお手紙をもらったこともありましたね。

 

ただその雑誌の読者は、まじめを絵にかいたような良妻賢母の方々です。

「私だけではないと安心しましたが、このようなことで負けてはなりません!」と褌を締め直すがごとく、気持ちを新たにした方もいたようです。本当にごりっぱ! でもそこは人それぞれです。

努力をつづけるもよし、調理停年を迎えるもよし。

大切なのは、これまで出来ていたことが出来なくなった自分を責めないことです。続く

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いい言葉・いい人生3回樋口恵子

 

いい言葉・いい人生

3回

ヘタヨロ期間

樋口恵子

 

樋口恵子恵は惠で12画

153123

天格・樋口  18

人格・口恵  15大吉

地格・恵子  15大吉

外格・樋子  18大吉

総格・樋口恵子33大凶

 33画の霊導・頭領寡婦運(とうりょうかふうん=後家運)を有する故に37歳以降の人生後半で配偶を失くし(生死別)、孤寡に陥ることを余儀なくされる。

(結婚後3年で夫と死に別れた樋口さんは、その人との間に女児をもうけたが、その女児は現在50代で、医師だという。樋口さんは、其の後再婚せず、ただ事実婚の相手がいて、その方とも60代で死別している。現在は医師の娘さんと暮らしているのだそうである👈永人)

 

ヨタへロ期間

 そんな話で大いに盛り上がったのが、私が同士と結成した「高齢社会をよくする女性の会」の広島代表を務める仲間、春日キスヨ(総格21画頭領寡婦運=後家運=樋口さんと性格一致でともに寡婦運故に価値観も一致してウマが合う👈永人)さんです。

「百まで生きる覚悟」(光文社新書)という本の中で、彼女はこんなことを指摘しています。例えば、齢を取ってから家を建て直すのはいいけれど、平気で二階に自分の部屋を置くとは何事か!と。

 「足腰が鍛えられてちょうどいい」なんて言っていられるのは今のうち。直近に二階に上がれなくなってその部屋は倉庫になるだろう、とかね。

 みんなピンピンコロリを口にするだけで何の準備もしていないのでは?という彼女の意見に、私も『そうだそうだ』と賛同しました。

 そんな春日さんとのやり取りからひらめいたのが『ヨタへロ期』という言葉です。立ち上がるたびに、いちいち「ヨッコラショ」と声が出る。

外へ買い物に行くのもしんどい。

 何をするのもヨタヨタ、ヘロヘロしてしまう時期のことですね。

このヨタヘロ期は、確実に皆さんにもやってきます。冒頭でお話ししたトイレ死闘事件は、まさに私の記念すべきヨタヘロ期、第一日目。

 いつやってくるかは人それぞれです。

一つ目安になるのは、

 健康寿命(男性は72・68歳。女性は75・38歳)から平均寿命の間

計算すると、男性で約9年、女性で約12・5年もあるので長いですよ。

人生100年とすれば約10分の1がヨタヘロ期なんです。続く

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いい言葉・いい人生 2回

いい言葉・いい人生

2回

ピンピンコロリは幻想です

樋口恵子

 

 あれから十年以上経ち、私も90歳になりました。

日本の男性の平均寿命の81・41歳。

   女性の平均寿命の87・45歳を超えて

いよいよ人生100年時代の先陣を切るわけです。私だけではありません。2025年には国民の5人に一人が75歳以上になる。すべての日本人が初めての超高齢社会を生きることになるわけです。

 

「そんな話はもう耳にタコ」という方も多いでしょう。

けれど、一人の人間がどんな経過をたどって老いて行くのかは、実はほとんどの人が知りません。

 

老いには案内地図がないのです。

 行く手に何が待ち構えているかわかりません。

というのも、人生100年時代とは言え、私のように平均寿命を超えて生きる人は、まだ数が少ないのです。

 しかも80代以降になると、自分で出歩くことができなくなって、面倒を見てくれる家族がいれば家に閉じこもり、そうでなければ施設に入っていることが多い。そういった形で社会から姿を消しているんですね。

 皆さんが町で老人だと思ってみているのは、まずは80代以下の方。

人生最後の瀬戸際に立つ本当に年を取った人とは、本当に出会っていないのです。

 ところがマスコミなどでよく紹介されるのは。「百歳万歳!」とばかりに輝くお元気な方ばかり。

 その結果広まったのがピンピンコロリ願望です。元気にピンピン長生きして最後は寝たきりにならずコロリと死ぬ、というあれですね。

でもそれは幻想です。ごく一部の特別な人なのに自分もなれると勘違いしてしまう。

 実態を知らないから、昨日まで元気で今日コロリと死ねると思っている。

 死という営みは、一筋縄ではいかない人生の大仕事。最後の半年や一年は、体の自由が効かないまま、病院や施設のお世話になる人が多いんです。                  続く

 

 

 

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いい言葉・いい人生 樋口恵子

いい言葉・いい人生

樋口恵子(評論家)

へタヨロしながら明るく生きる

 今年90歳を迎えた樋口恵子さんに人生百年時代を生きるヒントをお聞きしました。

 

 あれは70代半ばのころだったでしょうか。私はまだ元気バリバリ。一人で講演に、取材にと日本中を駆けずり回っていました。ところが、ある日、京都駅でトイレに寄った時のことでした。和式トイレで用を足して、「ああスッキリ」と立ち上がろうとしたら、なんと立てないのです。

一瞬、「そんな馬鹿な!」と我が身に起きたことが信じられませんでした。

ヒザの角度をあれこれ変えてみても、やっぱりダメ。どこかにつかまろうとしても、壁には手すり一つありません。

もう冷や汗たら~りですよ。

 床は、ジメッとしていて、お世辞にもきれいとは言えません。仕方がないので、トイレットペーパーをぐるぐるっと引き出して床に敷きました。紙の無駄遣いなのは重々承知。申し訳ありません!

 そして床に両手をつき「えいやっ!」と立ち上がったのです。パンツはちゃんと半分ずり上げておきました(笑)。

 時間にして10分以上はかかったでしょうか。ああ、昨日できていたことが、今日はできなくなっている。 

これが「老いる」という事なんですね。続く

 

 

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深刻にはならず真剣にやって行こう最終回

深刻にはならず真剣にやって行こう

最終回

 10年ほど前、事務所のことで大騒動になって、その影響で新曲が発売延期に成ったり。スタジオを使えなくなったりと、歌手として大ピンチに直面しました。元気が取り柄の私もこの時ばかりは弱り切ってしまって・・・。四面楚歌とはこのことかと。

 「ニコニコ動画という動画配信サービスがあるんですが。出てみませんか?」当時はインターネットが何かさえわかっていないし、それまでの歌手人生とは全く違う世界なので躊躇していました。

   その時の窮地も相まって思い込みという狭い囲いに自分を閉じ込めるのをやめようと決意しました。    

 どん底でしがみついたことが10年後の別の大ピンチの時に自分を助けてくれるなんて!本当塞翁が馬ですね。思いを口にしながら、周りの人の意見に乗っかってみる。そうやって、目の前のことを真剣に、でも深刻にならずにやってきたのが私の人生です。

 真剣な姿は、誰かが必ず見てくれていると思っています。  終わり

 

 

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深刻にはならず真剣にやって行こう③

深刻にはならず真剣にやって行こう

 

小林幸子

 お正月から宿泊者向けに歌謡ショーをするために、最後の通し稽古をしていたんです。

 楽屋でメイクを直していると、鏡越しにテレビの画面が見えてレコード大賞や紅白歌合戦の華やかな映像が流れていました。

 私にはどちらも縁のない世界です。

 でもその時、私の口から、自分でも思ってもいない言葉が出て来たんです。

 私来年はどっちにも出るからね

周りにいたダンサーのお姉さんたちは大笑いしながら「応援する!花束持っていくよ」と言ってくれました。

 一番笑っていたのは私です。だってそんなことは夢のまた夢だと自分がよくわかっていたので。

 周りを盛り上げるための、ウケ狙いの一言でしたが、思い切って言葉に出してみると気持ち良かった。一瞬にして場の空気も変わったような気がしたんです。

 そのあとは――本当に今でも信じられなかったのですが、そのショーの期間にリリースした「おもいで酒」がB面の曲にもかかわらず、有線放送からじわじわと話題になり、最終的に200万枚の大ヒットになりました。

 その年の暮れ、つまり、「どっちにも出るからね」と冗談を飛ばした日からちょうど1年後、私はレコード大賞、紅白歌合戦両方の舞台に立っていました。

10歳でデビューしてから15年。

「 言霊って本当にあるんだ!」と感じた強烈な体験でしたね。

 それ以来私「私は、こうしたい!」と夢や思いをなるべく口に出すようにしています。

 するとその都度状況が好転したり、助けてくれる人が現れたりするなどして、私の人生前向きに動いていったんです。   続く

 

 

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深刻にはならず真剣にやって行こう②

深刻にはならず真剣にやって行こう

 小林幸子

「さてどうしよう」となった時に決め手になったのが、冒頭の父の問いかけでした。

私が「歌手になりたい」と言ったもんだから母も腹を固めたようです。

 十歳で一人上京し1964年東京オリンピックの年に歌手デビューしました。

「天才少女」と騒がれて、デビュー曲では20万枚のヒットに恵まれました。

 

小林幸子

3883

 天格・ 小林 11

人格・ 林幸 16大吉

地格・ 幸子 11大吉

外格・ 小子  6大吉

総格・小林幸子22大凶

〈志節中途半絶運〉

 三才の配置

天1―人6―地1・・・大凶

(第2型絶対的短命運)

 発狂神経衰弱、肺病、脳病など長患難治の病症に罹り、短命に陥る。

 ●運の強さ前半      70点

後半(40歳以降)20点

 運気概略ここまで

全く売れない日々が続いて

 ところがです。そのあとはさっぱり売れなくなってしまったんです。それまでびっしり入っていたスケジュールに白紙が増え、新曲のキャンペーンでもお客さんがどんどん減っていきました。

 即売会の後には配った歌詞カードがたくさん捨てられていて・・・心が折れそうでしたね。

しかもデビューした年に襲った新潟大地震の影響で、実家の精肉店の経営が厳しくなったんです。

 

私が15歳の時両親と姉二人が、一人暮らしの私を頼って東京にやってきました。

一家5人借金を背負ったマイナスからのスタートです。父にすぐに仕事の当てがあるわけでもなく、ある日突然私が一家の大黒柱に。

 食べていくために私は年齢を18歳と偽ってキャバレー廻りを始めました。

 夜の世界で、人生の厳しさや、人間模様をこれでもかっていうくらい学びました。

レコードを出しても出しても売れない日々が続き「もう一生売れることはないんだろうな」と考えるようになっていました。

そのころ父は「幸子、俺のことを恨んでいないか」と何度も言っていましたね。

 そうこうするうちに十年がたちいよいよ歌手をやめようと考えていた1978年の大晦日、私は静岡のホテルにいました。  続く              

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深刻にはならず真剣にやって行こう

深刻にはならず真剣にやって行こう

どん底でしがみついたアイデアが後に自分を助けてくれました。

小林幸子

「幸子、歌手になりたいか?」

父にそう聞かれたとき、9歳の私はあまり深く考えず「うん、なりたい」と言っていました。

山あり谷ありの私の歌手人生は、その一言から始まっているんです。

ある日学校から帰ってくると、父が急に「来週東京見物に連れていってやる」と言いました。

 

当時まだ新幹線はなく、東京は簡単に行ける場所ではありません。今の海外のような感じです。うれしかったですね。

東京に着いて、「どこに行くのかな」とワクワクしていたら、すぐにテレビ局のスタジオのようなところに連れていかれました。

 

「あれっ?」と思っていると、父は「ここで歌うんだよ」と言います。何とそこは「歌まね読本」という素人物まね番組のオーディション会場だったんです。

 歌手になりたかった父が戦争でその夢をあきらめ、代わりに面白がって勝手に応募していたんです。びっくりですよね。

  もっと驚いたのは、その番組で勝ち進んでグランドチャンピオンになって、番組の審査員長をされていた古賀政男先生に「歌手にならないか」とスカウトされたことでした。

  古賀先生と言えば、昭和歌謡史の筆頭にお名前が挙がる雲の上の大先生。

舞い上がった父は二つ返事で「娘をよろしくお願いします!」と言いました。

  でも横にいた母親は「とんでもない!」と大反対。かわいい盛りの9歳の末娘を都会に出す、しかも芸能界だなんて、母にとっては考えられないことだったのでしょう。それから2か月間は激しい夫婦げんかが続きました。

 最後に親族会議が開かれましたが、そこでも結論は出ませんでした。

続く

 

 

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