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真仮大勢(しんかだいせい)

しんかだいせい

真仮大勢

理解してもらえる話し方をすることが大切です。

典籍:不明

 

 難しいことをそのまま話しても理解は得られないものです。

またいきなり高度な話をしても誰も聞いてはくれないでしょう。仏教も同じで、いくらいい教えであっても、難しい言葉をそのまま説いても誰も理解してくれません。

たとえば「空」の思想を『有るのではなく、無いのでもない』などと説いてもなかなか理解は得られません。

お釈迦様は様々なたとえ話をして教えを説きました。

日常の話題や身近な事柄を取り上げ、そこから深い教えへと導いたのです。

この方法のことを『真仮大勢』と言います。

真実を日常的な事柄を借りて解き明かすという意味です。いくらいい教えであっても、いくら深遠なる教えであっても、難しい話はは心に響きません。むしろ自分が経験したことや、世間の出来事をたとえにして話した方が、人の共感を呼ぶものです。

 

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迷信

めいしん

迷信

迷信したときは心をリセットしましょう。

典籍:大日経

 迷信は誤った信仰から生まれた縁起担ぎ屋根拠のない言い伝えがほとんどです。たまに若い人たちの間でも、迷信が信じられていることに驚きを感じます。北枕で寝てはいけない、などです。

「大日経住心品」では「迷信とは心が迷って精神が散乱しているため、自分が望んでも居ないことをしてしまう心の事」と説いています。

 例えば、気持ちとは裏腹についつい口が滑ってしまったり、相手を傷つけてしまったことはないでしょうか。「そんなことを言うつもりではなかった」

「こんなことをしたいつもりではなかった」というように自分の意志とは裏腹のことを言ったりしてしまうことが本来の「迷信」です。

 迷信とは自分がどうしていいのか迷ってしまい、どれを信じていいのか、だれを信じていいのか不安にさいなまれてしまった心のことです。

 その結果自分の望んでいたこととは別の行動をしてしまい、状況を悪化させてしまうのです。

そういう時は、一度、心をリセットすることです。原点に返ってみるのです。

 

それは事実かどうか、

自分は何がしたいのか、

自分の気持ちは如何なのか、

それは伝わっているのか

誤解はないのか、

  ゆっくりと心を整理してみるのです。そうすれば、迷いの心から脱出することが出きるでしょう。

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不定 (ふじょう)

ふじょう

不定

未来は決まってはいません

典籍:一遍語録

 

 自分には明るい未来などない、とあきらめてはいないでしょうか?

このままつまらない人生が続くのだと決め込んではいないでしょうか。もしそうでしたらその考えはすぐに捨てて下さい。未来は決まってはいないのですから。

 

お釈迦様は世の中は「諸行無常」であると説きました。世の中のありとあらゆることは、同じ状態ではなく変化しているのだ、という意味です。

即ち、未来は決定しているのではなく、絶え間なく変化しているのです。

それを後の高僧は不定と言いました。未来はどのように変化するのかわかりません。

何が幸いするのか、何が禍いとなるのか、誰にもわからないことなのです。

また、幸いだと思ったことが禍をもたらすこともあります。

禍だと思ったことが幸いに転じることもあります。

 

自分で自分の未来を決め込んではいけません。何がどう転んでどう変化していくのかは、誰にもわからないのです。

 

だからこそ自分の努力で変えられることもあるのです。

 

未来は不定であり、世の中は無常なのです。ならば、自分で道を切り開いていく事も可能でしょう。

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挨拶

あいさつ

挨拶

全ては挨拶から始まります

習慣として行われていたもので経典の言葉ではない

 「挨拶とは、軽く触れるという意味の「挨」と強く触れるという意味の「拶」からできています。

 つまり、「挨拶」とは「軽く、そして強く触れあう」という意味です。軽く、そして強く触れあうものとは何でしょうか。

それは人と人なのです。

  挨拶とは、もともと禅寺で行われていた禅問答のことでした。

その昔、禅寺では師と弟子、あるいは修行僧同士が、出会うと禅問答を始める習慣があったそうです。

  師が弟子に軽く「問う、〇〇とは何ぞや」と尋ねます。すると弟子は即座に「答う。〇〇とは□□なり」と力強く答えます。

 禅の修行では、軽く問う、そして力強く即座に答えるという問答・・・挨拶がすべての修行の始まりだったのです。

 やがて、私たちが知りあいに会ったときに交わす言葉、初めて会ったときに交わす言葉が挨拶と呼ばれるようになりました。

それは、挨拶が修行僧の問答のように大切な言葉だからでしょう。

たとえ小さな声でもいいのです。

 恥ずかしがらずに挨拶をしましょう。軽く「おはようございます」「こんにち派」でいいのです。微笑みの会釈でもいいのです。そこからあなたと周りとの関係が始まるのです。

 

 

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七瀬雪乃さんの急逝

七瀬雪乃さんの急逝

2020年10月25日23時

 んくの七瀬雪乃さん、17歳が今日10月25日急逝した。

 所属事務所が不慮の事故という発表だけできちんとした死亡理由を説明しないため、色々な憶測を呼んでいるのだという。

 

7 20 11 2

七瀬雪乃

天格・七瀬  27

人格・瀬雪  31大吉

地格・雪乃  13大吉

外格・七乃   9大凶

総格・七瀬雪乃40大凶

  • 外格及び総格の大凶は苦労困難、孤独運という事で、ともに短命の運気を意味し、
  • 成功運、天格7――人格1 大凶

 運命抑圧を受けて不伸、不満の結果脳を冒(おか)され健康を害す。

9画・40画・成功運の意味するところから自殺の可能性が非常に高い。

 2020年9月27日に亡くなった竹内結子さんも外格が竹と子で9画、強い自立神経失調を来たすため、やはり40歳で自殺の結果を作り出している。

 お二人とも姓名の画数が暗示する如くの結果となりなんともお気の毒ではある。         合掌

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合掌

がっしょう

合掌

自分自身の真実の姿を表しています

インドの習慣

 神仏に祈るとき、あるいは墓前や仏壇の前で祈るとき、皆さんは合掌をすると思います。両手を合わせるとなぜか心が静かになっていきます。

 合掌は仏教とともにインドから日本に伝わったインドの習慣です。

  インドの人びとは、古来、両手を胸の前で合わせ「ナマステ」とあいさつをします。これは現代でも通じる礼儀作法です。

  合掌の姿は相手に対して敵意が無いことを象徴していると言われます。

 両手を合わせ相手から手が見えるように胸の前に置くことで、武器を手にしないことや攻撃を仕掛けないことを表現しているのです。

  また右手は清浄を表し、左手は不浄を表します。

  その清浄と不浄を合わせることにより、人間の真実の姿を表現しているとも言われています。

  合掌している姿は、傍らから見ていても美しく見えます。

  人は、大いなるものの前に出た時、あるいは自分の祖先に相対するとき、善も悪もある己の心、

  清浄でもあり、不浄でもある己自身の真実の姿をさらけ出しているのでしょう。

 だからこそ、心が落ち着き、謙虚な気持ちになっていくのでしょう。

その心で、他の人と接することができれば、きっと人間関係は穏やかに流れていくのではないかと思います。

  合掌したときの心は、何も飾ることが無い、鎧を脱いだあなた自身の真実の姿です。

  心の中で、合掌しあえる関係になることができたら、幸せなのではないでしょうか。

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極楽のありか

極楽のありか

極楽も地獄も自分の中にあるのです。

典籍:阿弥陀経

 上方落語の「浮世寝問=うきよねどい」の中に極楽のありかを問うくだりがあります。

 物知りのご隠居に屁理屈な男が極楽はどこにあるのかを尋ねるのです。ご隠居は「地獄の近所だ」と答えます。

 「じゃあ、地獄はどこに」と問われ「極楽の近所」と答えます。そのうちに西の方へ行けばあるか」とか「西明石の方か、もっとずうっと西か」などと屁理屈をこね始めます。

 極楽と言えば、阿弥陀如来の西方浄土が有名ですが、「阿弥陀経」によると、西方浄土は、十万億の仏国土を過ぎた彼方にある、と説かれています。しかし、これでは具体的に想像がつきません。さて、極楽は一体どこにあるのでしょうか。

  落語に出てきたご隠居さん、実は間違ってはいないのです。

極楽は地獄の近所にあるのです。しかもその場所は、ごく身近です。

 人に対し怒っているときの心、つらく当たっているときの心、それが地獄そのものでしょう。

  人に対して優しくしてあげているときの心、他人の喜びを心から祝福しているときの心、それが極楽なのです。

  地獄も極楽もすべて自分自身の中にあるのであって、遠くにあるのではないのです。

 道歌に次のようにあります。

『極楽は 西にもあらで 東にも 北(来た)道探せ、南(みな身)にぞある』

 地獄も極楽もすべて自己の中にあるのです。

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極楽のありか

極楽のありか

極楽も地獄も自分の中にあるのです。

典籍:阿弥陀経

 上方落語の「浮世寝問=うきよねどい」の中に極楽のありかを問うくだりがあります。

 物知りのご隠居に屁理屈な男が極楽はどこにあるのかを尋ねるのです。ご隠居は「地獄の近所だ」と答えます。

 「じゃあ、地獄はどこに」と問われ「極楽の近所」と答えます。そのうちに西の方へ行けばあるか」とか「西明石の方か、もっとずうっと西か」などと屁理屈をこね始めます。

 極楽と言えば、阿弥陀如来の西方浄土が有名ですが、「阿弥陀経」によると、西方浄土は、十万億の仏国土を過ぎた彼方にある、と説かれています。しかし、これでは具体的に想像がつきません。さて、極楽は一体どこにあるのでしょうか。

  落語に出てきたご隠居さん、実は間違ってはいないのです。

極楽は地獄の近所にあるのです。しかもその場所は、ごく身近です。

 人に対し怒っているときの心、つらく当たっているときの心、それが地獄そのものでしょう。

  人に対して優しくしてあげているときの心、他人の喜びを心から祝福しているときの心、それが極楽なのです。

  地獄も極楽もすべて自分自身の中にあるのであって、遠くにあるのではないのです。

 道歌に次のようにあります。

『極楽は 西にもあらで 東にも 北(来た)道探せ、南(みな身)にぞある』

 地獄も極楽もすべて自己の中にあるのです。

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断見(だんけん)

だんけん

断見

 

人生は一度限りではありません

典籍:勝鬘経

 どうせ一度きりの人生なのだから、何をやってもいいではないか、楽しめばいいのだ。と思っている方は多いのではないでしょうか。しかしそれは大きな間違いです。

こうした思い違いをpすることを断見と言います。

  断見は初期経典によく見られる言葉です。輪廻や因果の教えを否定し、何をやっても報いは来ないと信じることを言います。

 輪廻を信じる、信じないは自由です。また因果の教えを信じないのも自由です。しかし、これっきりの人生と思うよりも、生まれ変わりがある、因果の教えはある、と信じたほうが人生に余裕が生まれてくるとは思います。

 こんな話を聞いたことがあります。ある御老僧が70歳を機に、英会話を始めたそうです。

その後

御老僧は、「今英会話をしたいのではない。これは来世のためにやっているのだ。今度生まれかわった時の準備だ」と笑っておられたそうです。

 人生は何度でもできる。そう思えば何も焦ってする必要もないのです。ゆったり生きればいいのです。今は次の人生のための準備なのだ、という考え方をすればいいのです。

今やり遂げなければならない、という事はないのです。

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大欲得清浄(だいよくとくせいせい)

だいよくとくせいせい

大欲得清浄

どうせ持つなら大きな欲を持ちましょう

典籍:理趣経

 欲があることは、悪いことのように思われがちですが、それは誤解です。欲自体は純粋なものなのです。

悪いのは欲にこだわることなのです。

  例えば異性を好きになったとします。異性を好きになること自体は、自然の行為であり、善でも悪でもありません。それは純粋な思いであり、清浄なるものです。

 ただ、そのあとが問題なのです。異性を好きになると、その異性に対し独占欲が出てきます。それが満たされないと悩みが生まれ、満たされれば、失うことを恐れます。こうして最初の純粋な欲は、苦しみを生む悪い欲へと変貌していくのです。

これを避けるため「欲を制御しなさい」と説くのです。

  しかし、欲は簡単には制御できません。ならばその欲を大きくしてしまったらどうでしょうか。全人類を好きになり、全人類に好かれ、世界一の金持ちを目指し、世界的な有名人を望み、世界一安楽を求めるといったような。

小さな欲ではなく大きな欲を持つのです。

そしてその実現のために努力をするのです。

  大欲は清浄を生みます。これが密教の経典「理趣経」に説く

『大欲得清浄』です。

  大きな欲を持てば、自然に自分自身を大きく変えることができるのです。

我欲にこだわらず大きな欲を持ちましょう。

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