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息子の命(その六)

市営住宅の二箇所を借り、一箇所は知恵子さんと生後8ヶ月の美紀さん、後の一箇所が正森さんご夫妻の住まいという住み分けをした。正森夫妻は悲しみに耐えて懸命に頑張り、平成2年佐沼市内に中古の住宅を求め、移り住んで間もなく、恵三さんは脳梗塞で倒れ、爾来、車椅子の生活を余儀なくされている。

奥様のつゑ子さんはずっと気の休まる暇のない生活を耐えに耐えて頑張っている。知恵子さんは未亡人のままエホバの活動を続けている、娘の美紀さんは仙台市内でピアノを主体にした音楽教室を開いており、正森家の次男の昌彦さんは宮城県内の小学校の教師と結婚、兄一家の不幸を教訓に夫婦でともに撰名し、依頼を受けて二人の子供さんに私から命名させて戴いた。

この次男坊一家4人が元気で居る事がせめてもの救いなのだが、もっともっと早くにご両親、長男夫婦がこぞって撰名し、長男の最初の子に正森「美紀」ではない吉名をつけ与えていたならば、正森家の今に至る歴史は大きく変わっていた筈である。・・・

女性は特に結婚によって姓が変わることが多くそれは当然のように理解されるが、呼び方を変えることなく数字の組み合わせを良くするため「名に使う文字を変える」ことへの抵抗がまだまだ強い。そうした意味では予知した、或いは予知された悲劇が「素直に手を打てば防ぎ得る」ものを、正森家の長男一家の様に「みすみす不幸な思いが繰り返されていく現実」を、いつも悔しい思いで目の当たりにすることが多い。

『為せば成る。為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人の儚さ』 武田信玄 (完)



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息子の命(その五)

葬儀は更に異様な雰囲気だった、賛美歌のようなものを歌ったあと「正森姉妹の嬉しい旅立ちをみんなで喜んで笑顔で送ってあげましょう!」というのである。勿論我々仏宗派との葬送に対する考え方のあまりの違いとやり方に私はとてもいたたまれず、途中で葬儀会場を後にした。

7月に生まれた『正森美紀』ちゃんは生後5ヶ月で父親を失った事になる。また、正森の両親の心情を思いやる時、この遺児を見るにつけ、23歳の父の事故による急逝をどうして笑って祝福できようか?!・・・

正森家は23歳で夫を亡くし、後家〔寡婦・かふ〕になった知恵子さんに再婚の機会を与えるべく、「孫をゆくゆくは引き取り、青森の実家に帰っても良いから」と話したが、彼女は『正森家の嫁としてこのまま過ごしたい』ということだった。又、正森の両親は知恵子さんが亡き夫の弟である昌彦さんと一緒に成ってくれるのならそれもひとつの方法だ、と考えた節もあるのだが、これも彼女の信仰の問題があり、自然に立ち消えとなった。

昭和59年3月正森恵三さんはクモ膜下出血で倒れ、国立宮城野病院で開頭手術を受け、手術は成功したが、今後は無理の利かない身体になってしまった。正森家にとっての不運はまだ続く。会社の事業が立ち行かなくなり倒産、700坪の由緒ある屋敷は競売で取られてしまい、狭い、小さな市営住宅に移ることになった。(この間、文紀さんの勤務していた測量会社は以前として誠意を見せることなく補償問題はとうとう裁判に持ち越されていた)。(その六へ続く)
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息子の命(その四)

『正森美紀(5・12・9・9)』さんは、運命的抑圧を受け、脳を冒され、健康を害す特徴を有し、発狂、神経衰弱、脳病,肺病,その他、難治の病症を生じ、天寿をまっとうできない凶運を意味するので、本人にとって気の毒な姓名と言わざるを得ないのであるが、選択権は両親にある以上、我々、特に私の立場では黙って観ているより他なかったのです。

昭和58年12月24日クリスマスイブのためか、街の中がジングルベルの音楽で活気付いていたが、私はたまたま、石巻のガソリンスタンドで給油中、夕方5時のNHKラジオのニュースで『今日午前10時30分頃登米郡津山町内の北上川で、測量作業をしていた小船が転覆して二人が速い川の流れに巻き込まれ、一人が助かったが、もう一人は死亡が確認された。

調べによると死亡が確認されたのは佐沼市の測量会社に勤務する正森文紀さん23歳で、この日正森さんは・・・』

あららっ!何たることだ!?真っ先に正森さん宅に電話したが皆で事故の現場へ行ったのか誰も出なかった。余りに気の毒で家族には掛ける言葉もない。この日のあることを「予想していたはずの私でさえそう思うのであるから」親族、友人、関係者一同、打ち揃って驚いたのは言うまでもない。

火葬は12月26日、葬儀は12月28日と知らされた。

なんでもエホバ方式でエホバの会館で行うという。線香は点けさせない。皆明るく笑顔で正森姉妹(男性は兄弟と呼び、女性は姉妹と呼ばれる)を送り出すのだと言う。死は生まれ変わりの旅立ちで、これほど目出度い事はないので、皆明るく笑って微笑んで祝福するのだそうである。

エホバの仲間達は事実、皆声を出して笑って居るのである。運の悪い事に測量会社は文紀君の不注意による事故である、として補償の誠意を見せる気配はないので今後この会社との補償交渉は難航すると思われた。家族の心中を察して神妙な顔つきの私などは仏の旅立ちを祝福してあげられない異端児なのか?冗談じゃないと思った。

肝心の後家さんになった「知恵子」さんは悲しそうな顔じゃないのだから尚、不思議で仕方ない。火葬場で骨を拾って納めるとき、知恵子さんは『言われたとおりになりました』と小声で言いながら私に軽く会釈した。全ては後の祭り・・・無常、正に「人間世界の無常の風」が私の心を吹き抜けた。・・・(その五)へ続く。

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息子の命(その三)

『あの二人は何か宗教の影響でも有るような気がするね。まァ、もう少し様子を観ることにしますかね』私は両親にそう話して石巻へ帰った。・・3月になり、正森のご両親から拙宅へ「来たい」との連絡が入り,石巻で話し合った。

『先にご両親だけでも撰名しませんか?文紀君に何かあったときに,もう一人の息子が居るからいいと思っているかどうか解りませんが、親は親なりに良い運気じゃないと困るでしょう?(何より子を亡くす運)を消さないと・・』

やはりこの両親は自分達の撰名に関しては、どうしてなのか決断せず、相変わらず反応が薄いのである。今日も私の提案には答えない。私はこの時点で正森家の事業の運転資金としてかなりの額を融通している。しかしそれとこれは別だと解釈されているのだろう。話をそらすかのように父親は「息子達が何故コソコソ出かけていくのか解りましたよ。・エホバの証人・と言う宗教に入ってたんですよ」と言った。やっぱりそうだったのだ。

続いて母親が「文紀にたいして知恵子さんが『名前の文字を変えるなら離婚させてもらいます』と迫ったらしいのです。今朝、息子に『離婚する訳に行かないから,撰名はしない事にした』と言われたので、この話は無かったことにして下さい」と言う。私は『結構ですよ』と言った。

続けて父親が言う「ところで7月に孫が生まれることになったんです。女の子だと解ったらしいのですが、吉野さんに名付けてもらおうと思っていたのに『自分達で付けるから構わないで欲しい』と言われましてね。何を考えているのか私らにはもう解らなくなりました」。

私は『全てはエホバ中心の生活になったということですよ。お宅も大変ですね。その「エホバ入信を認めなければ二人で出て行く」くらいの覚悟を持っているということの宣言ですよ。こうなれば、いよいよ様子見で行くしかないですね』と話し、さらには『行くところまで行くしかないですね。凶運気が示現される事を・覚悟するしか・ありませんね』とも話した。

その後4ヶ月経って7月となり、予想通り女の子が誕生した。両親(文紀さんと、知恵子さん)によって『正森美紀・まさもり・みき』と名付けられた。運気の強さ5点。第二型絶対的短命運といい、家族縁の薄い浮き沈みの激しい辛酸の運を表しています。更に、・・(その四)へ続く。
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息子の命(その二)

 
それで居ながら、「正森つゑ子」さんは難儀な面につぶされ難治の病に斃れ、ほぼ長生きできない運を持っている。いわゆる第三型の絶対的短命運である。そういう家庭環境を解かっているだけに、この正森家には皆さん揃って良くなって欲しかったのである。
悲しい事にこの両親は自分達はどうでも良いから、息子夫婦だけはなんとしてもよくなって欲しい、だから「息子達だけ何とか撰名してくれるように」と思っているのである。

息子達に言わせれば、悪い親の運気を「親達自身がそのままにしておいて」、何故自分達にだけ「悪いから直せ」と言うのか理解に苦しむ筈である。私は常々そう心配していたが、矢張り子供達の理解はなかなか得られずに居た。そうした折、若夫婦の間で何かの行き違いがあったらしく(家庭不和の要素があることは解説ズミ)文紀君なりに私の解説に思い当たる節が見えて来て『吉野さんの話を聞きたい』と言い始めたそうである。

昭和58年1月末、両親に請われて正森家を訪ねた。以前に『最近二人で勤め先から帰ってきても、いつの間にか居なくなってしまい、夜遅く戻ってくる事が多くなったので、少し早めに来て場合によっては息子達と晩飯を食べながら撰名の説明をしてもらえませんかね』父親からそうも言われていた。夕刻の5時半頃二人が帰ってきた。案の定どこかに早目に出かけるという。食事しながらの説明に入った。

『いろいろと話したけれどあなたの場合は特に事故が心配なので乗り物など十分気をつけてくださいよ』文紀君は真剣に聞いていたが知恵子さんはそわそわといっこうに落ち着かない。食事も半分の有様で、文紀君は「よく考えて見ます。今日は済みませんでした」と言うなり、夫婦でそそくさと外出してしまった。矢張り後家運の知恵子さんのカカア天下振りが窺(うかが)える雰囲気だった。

『難しいねー。息子さんの短命が気になるところなので怪我とは違って,言われたとおりになったから、その後に直すから、とは行かなくなるんですよ。』両親ともにうなだれて,「すみません。何だって言う事を聞いてくれないのかねー、吉野さん、折角来ていただいたのに、本当にすみません」と母親が申し訳なさそうに私に言うのが精一杯だった。・・・・(その三)へ続く
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息子の命

昭和57年正森恵三さんの息子「正森文紀」君は青森県の工業大学を卒業して故郷の佐沼市へ帰ってきた。父親は土木を中心とした建設業を営んでいたが彼は市内の測量会社へ入り、測量を覚えてから将来は父親の会社へ入っても良い積りで居た。父親も他人の飯を食って社会勉強をししてから実家の建設業を継いでもいいだろうと考えていたので父子の思惑が一致し、実家から測量会社に通い始めた。

6月に青森出身で大学の同級生の知恵子さんと結婚したのである。「正森知恵子」さんは俗に言う後家運たる頭領寡婦運の23画を持ち、知らず識らずに夫の運を破り、「夫を倒すか自らが斃(たお)るるか」のいずれかひとつに帰す運で例え自身温順なりとい云えども次第に強情の気を表出して家庭不和、夫との暗闘を生じてしまいます。又20画や40画という、家庭破壊と孤独の運気をもち、100パーセント離婚するか、夫と死別する事は免れません。

一方、「正森文紀」さんは14画と30画という、これも家庭の維持に困難をきたす、或いは配偶を失い、意外の厄難に遭って、天寿を全う出来ない運気を表します。いづれにしても、先行きの見通しは全く良くない運気なのです。『吉野さん、一度家に来て息子夫婦に説明して頂けませんか?そうしていただくと助かるんですがね。』父である正森恵三さんからの電話である。

「其れは良いのですけど、下準備というか、一応息子さんに内容を説明しておいて頂けませんか、参考にする資料を送りますから」資料には正森文紀と正森知恵子夫婦の運気解説書。正森恵三および正森つゑ子というご両親の運気解説書の二通りを作って正森家四人の現在と将来を暗示する要素を認識してもらう事にした。

父親は健康、経済力、家庭円満に縁なく苦労の限りを尽くすようになっている。母親のつゑ子さんも人の世話でそうとは知らされずに三度目の嫁として正森家に来て衝撃を受け、きつい姑に仕え、苦労に耐えぬいて、辛酸を尽くし、文紀君と、幸彦君(このとき、大学二年生)を生み育てて来た経緯がある。(その二)へ続く。

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二段階予想

小学校4年生の女児、2年生の男児、奥様、その家の主人の四人で訪ねてきた慶田さん一家を撰名する事にした。13年前の事である。夫婦揃って「自己破産をかけたのですが、文字通り何もなくなりました。Мさんの照会で来たのですがなんとかこれからの家族が立っていくように、よろしくご指導をお願いします」。とご主人は真剣に頭を下げる。「商売は時の運でもありますが矢張り経済運が一番影響しますよ、経済運が強くなり、健康に恵まれ、円満な家庭を築くことで、生きがいのある人生を歩めばいいんです」。

私が余りにも簡単に、あっさりというものだから、疑心暗鬼に輪が掛かるのだろう。何となく不安そうな顔をしている『大丈夫、必ず立ち直りますよ、ところでこれからやろうとする仕事は前の仕事と同じですか?』「そうです、幸い協力してくれる人もいるものですから」『それじゃあなおさら再起は早いね、ところで、子供さんの居る前でハッキリ申しあげておきます。撰名によって運気のよさから必ず,商売も成功するはずです。段々金に余裕が出てきた時に,家庭にゴタゴタを起こさないように十分気をつけてください。奥さんだけを大事にして下さいね』

「勿論です。ちゃんとやります」『奥さん、何かあったときはどんな事でも構いませんから私に話してくださいよ、どんな相談事でも無料で引き受けるんですから』「わかりました」。その様なやり取りの中でこの家族は四人とも撰名し、再出発をはかったのである。紹介者のМさんに聞いた話ではその後順調に事業が進み、経済的な力も付いてきたということだった。3年もすると以前の商売の規模を凌いで5年目には新しい設備を増やすという嬉しい便りを聞いて一安心していた。それから1年、

結婚が決まった娘の撰名を依頼に来た小名浜の岩木さんという社長から「先生は仙台の慶田社長を知っていますか?」『知っていますがそれが何か?』「大分儲けていたらしいですが、車で仙台港へ入ったらしいですよ」『なぜか知っていますか?』「私は良くわかりません、ただ自殺ではないかとの噂ですが・・・」『儲けて死ぬ人はいない筈だが』と言ってからハットした。まさか、女性の問題?・・儲けた後の・・・

Мさんに連絡して翌日自宅へ来て頂いた。『慶田社長は何があって死を選んだのですか?』「仕事で付き合っていたお得意様の会社の事務員と仲良くなって妊娠させたらしく、奥様はそれを知って半狂乱になって怒り、事務員は生んで育てると言ってきかない。トコトン板ばさみになったようです」。と聞かされた・・・なんというバカな事を!

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金と同じ(銅)

「念えば叶う」ことを、長い間研究してきた私は、昨年1月に星野仙一さんが、北京五輪に参加する野球の日本代表チームの監督に選ばれ、張り切りすぎたのか、軽率に過ぎたのかはともかく、彼の口から突いて出た言葉「金メダル以外はいらない」というところは私なら「表彰台に立てるように頑張ります」と言っただろうと思う。

『金メダル以外はいらない』ということは、裏返せば、何が何でも金メダルを取るということの決意を彼なりに述べたのだと思うが、その後の彼は色々なテレビに出て並みのタレント以上に稼ぎ、マスコミに「星野ジャパン」などと持ち上げられ、薄っぺらな感じで「日本代表監督」という戦う大将のイメージからほど遠い雰囲気を私なりに案じていた。

だいいち、マスコミの作った『星野ジャパン』という言葉そのものが軽々しい印象で感心しないのは私だけだろうか?「野球代表監督・星野」または「星野代表監督」でいいはずだ。ちなみに柔道は「男子柔道監督・斉藤」であり、「女子柔道監督、日陰」である。実際に金メダルを取ってから、ゆっくりタレント活動をしても良かったと思う。

まさか「星野ジャパン」と言われているうちに日本一偉くなった気に陥ったのだとは思いたくないが、彼の醸す雰囲気に驕慢の要素が強く漂っていたように思う。勝負師がこれ(驕慢の心)を持ったらおしまいだ。したがって今回の結果には期待していなかったが、四位で終わってみれば「やっぱり」という印象でしかない。

8月23日のテレビを見たが、四位で終わった事を「申し訳ない」との威張った調子のセリフだけで、帽子も取らず、頭も下げず、子供達が見たら「お詫びの仕方」を間違えて覚えてしまうことさえ案じられた。これが「金メダル以外はいらない」と啖呵を切った男の態度である。アメリカとの三位決定戦が決まった8月22日、「何が何でもメダルを持って帰る」と再び啖呵(たんか)を切った。

よく考えて見なさい!『金メダルしかいらない』筈の男が、それが不可能になり、手ぶらで帰れずに『銅メダル』を欲しいと言う。そんな勝手を勝利の女神は許しません。最後で『銅しても欲しい』と願った『どうメダル』アメリカに「銅だ!参ったか」と言われて持って行かれた。
星野さん。「金と同じ」と書くのが『銅』なのですよ!金を取れない、金しか要らない高慢なあなたに「金も銅も」そっぽを向いたのですよ・・・
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ズタボロ

川口から来ている三歳半の男の孫に「かんぽの風呂に行こうよ」と言われて「松島かんぽの宿」に行った。このところ、この孫が多少乾燥肌で痒がる時があり塩分の強い温泉は乾燥肌にいいらしく入浴後には痒みは改善されるようだ。この風呂に入ると私と家内は本当にこっくりこっくりと眠くなってしまう。肩こり、腰痛、筋肉痛などいつも良く効くと思っている。

7月26日の事、孫達が夏休みで来てから八日目、午後三時ころ「かんぽの宿」から出て松島の家に行き、庭で補助車の付いた自転車に乗り、右に左に自由自在に乗りこなすように腕を上げた孫、名前は大暉(ひろき)で・通称ひろちゃん・がブルーベリーの熟した実を見つけ、自転車から降りて自分で採って食べるという。色々な草花や庭木の中に混在しているので「ひろちゃん」が転ばないように脇について見守っていた。

おなかが一杯になったのか、ひろちゃんは、またまた自転車に乗ると言う。私は花壇とカラーブロックの庭を仕切っている高さ30センチの枕木を跨ごうと右足はうまくカワシて着地、次に左足をかわそうとしたとき、はいていたサンダルが枕木に引っかかり、瞬間的に目の前の孫が右回りに二回転して見えた。何のことはない、自分がカラーブロックの上に二回転して転んでしまったのだ!『永人じいじー!大丈夫!?』孫の大きな声がハッキリと聞こえた。「大丈夫だよひろちゃん」と返事をした。

右腕を擦りむき、左足の親指を打撲し、ズキンズキンする。見る見る赤黒く、かなり腫れてしまった。いやはや何たる不覚、矢張りかんぽの風呂上りで筋肉がたるんでいたのかも知れない。「あらーどうしたのー!」と家内の声がする。私が転んだ10メートルほど先で家内は花を摘んでいた。「イヤー大失敗だったよ」といってゆっくりと立ち上がった途端、『あー痛い!やられたー!』と家内の声。

蜂に左右の腕を一箇所づつ刺されたようである。あっという間に腫れてきた。家の中に入ってからひろちゃんが言った、「今日はズタボロだねー」ひろちゃんの母親に聞いた『ズタボロって何のこと?』「我が家で使っている言葉でズタズタでぼろぼろの事、良くない事が重なった時に言っているの」成るほど、今日は「じいじとばあば」はズタボロだったねー、我々の気のゆるみが有ったかも知れない。孫に教えられた「気の用心」である。

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孫の夏休み

川口に居る三歳半の男の孫が幼稚園で初めての夏休みになるというので母親の生家つまりは私の家に生後11ヵ月の女の孫と共に3人で20日間ほど滞在したいと言う。7月18日に仙台駅に迎えに出た。幸い、東口の駐車場に駐車出来たので仙台駅構内の伊達政宗像の前で落ち合う事を約束し連絡を取り合ったうえで、政宗公の銅像の前に行った。

アレレ?有るべき筈の政宗像が無い!直ぐ脇の売店で聞いてみた「政宗公の像は取り外されたのですか?」『そうですよ』いつの間にか時は私達の事情に関係なくどんどんと進み、その間、眼にする風景も相当なスピードで模様替えされていく。このときばかりは『浦島太郎』の心境を味わう事になる。仕方なく,「政宗像の跡」で待つ事にした。

程なく「はやて」から降りた母子三人がやってきた。11ヶ月の女の孫名前は「愛弓(あゆみ)・通称あゆちゃん」を抱いたが重くて(11キログラム)かなり腰に利く、ものの50メートルも歩いただろうか?手と腰が痛くなってきたので「抱っこ」を家内と代わってもらい、東口の駐車場へたどり着いた。ここ2,3年の東口の変わりようも大変なもので、特に東北楽天の進出により、街の風景が一変した。

しかもまだ再開発の途中である。「あつ!行き過ぎた、しまった!戻れない。どうしようか?」仕方なくそのまま前進する・・・と、あれ!この道でよかったんだ。区画整理で古い建物が消えてしまい右折する場所の目安が立たない。ようやく国道45号線に出た。あれ!カーナビがあったんだ。「自宅へ帰る」をセットすれば何も苦労せずに済んだものを。孫の訪問にスッカリ平常心を欠いている?自分に驚く。慌てるな!

高速の三陸道を通り仙台駅から約一時間で石巻に着いた。ブドウ、アイスクリーム、バナナ、ハイチュウ、孫の為に一生懸命に用意したが考えてみれば何処にでもあるものばかり、案の定みたらし団子が食べたいと言い食べものでは関心を買えそうのない事を思い知らされ、徹底的に孫と遊ぶ事を考えた。「海に行こうね。かんぽのお風呂にも行こうよ。それと漫(萬)画館も見よう。町の泡風呂へも、それから松島の水族館。回転寿司にもいってみようか?」『行こう、行こう』とあどけない孫・・・「ズタボロ」へ続く。
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