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13-5質屋の通い帳

 

13-5質屋の通い帳

 

或るとき、幸之助宅の蔵の中から一束の古い書類が出てきた。配電工として勤めていた大阪電燈会社時代に会社からもらった十数枚の昇給辞令や給料の明細書、退社したときに受けた退職金の支給辞令などが一枚も紛失せずに出てきたのである。

 その中には幸之助が大正六年に電燈会社を辞めて、翌七年に松下電気器具製作所を開くまでの一年間に何回か利用した近所の質屋の通い帳などもまじっていた。

 大正六年ごろの幸之助はといえば、独立して苦心の末に作ったソケットは完成したものの、大阪中を十日間かけずり回って、売れたのはようやく百個ほど。十円足らずの売り上げを得ただけで、資金も乏しくなり、明日の生計さえどうなるかわからないと言うほどの困窮に陥っていた。

 その困窮のほどは、その通い帳の中に、妻・むめのの着物や帯から指輪まで質入れされたと記されていることからも想像できる。またその当時のこととして、幸之助が風呂に行くにも風呂銭がないのでむめのがそれとなく話題を仕事のことにそらし、風呂のことを忘れさせた、という逸話も残っている。13-6へ続く

 ◎現代もお金の苦労に変わりはありません。家計の切り盛りを任せている方は、相手に感謝をしなければなりませんね。

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13-4・ありゃいいで。もろとき

13-4あらええで、もろとき

 大正4年9月幸之助は井植むめのと結婚した。幸之助20歳、むめの19歳。

見合いを進めたのは姉である。

『九条の平岡という炭屋からこんな人がいるとすすめてくれたが、おまえどう思うか。聞けば淡路島の人で高等小学校を出て裁縫学校を卒業後、大阪に来て、京町堀のある旧家で女中見習い中の人であるが、一遍見合いをしてみてはどうかとのことだ。

お前が良ければ先方にそう伝えるが・・・

 姉には亡くなった父や母兄弟姉妹を始め、先祖のまつりをするためにも、早く弟が家を持つようになってくれれば、という強い気持ちがあった。

 幸之助はこれも縁というものだろうと、深く考えもせずに承知した。

 その当時見合いといえば、良家の子女はともかく、一般的には道ですれ違うだけといった簡単なものが多かった。二人が会って話をするというようなことは、よほど進んだ考えを持った人しかしなかった時代である。

幸之助とむめのの見合いも、松島の八千代座という芝居小屋の看板の前でするという段取りになった。約束の時間が来てもなかなか先方が現れない。と突然付き添いで来ていた姉の夫が叫んだ

『来た、来た』近くの人たちが小声でささやいているのが幸之助の耳に入った。「見合いや、見合いや」

幸之助は上がって、真っ赤になる。気が付くと先方はもう看板の前に立っている。

「見よ、見よ。幸之助、見よ」義兄の声に初めて我に返って見直したが、時すでに遅く、わずかに横顔が見えるだけである。しかもうつむいているのでなおさら顔が見えない。そうこうするうちに先方は行ってしまった。

『あらいいで、もろとき、もろとき』この義兄の言葉に幸之助はそのまま従った。

 ◎人生の一大事の決断は、考えすぎないことが重要かも知れません。直感や信用出来る人の言葉を大切にしたいものです。

 

 

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132-3天国の発見

 

13-3天国の発見

 幸之助が大阪の電燈会社で配線工として働いていた時のことである。真夏のある日、幸之助は下寺町というところへ電灯の取り付けに行った。

そこには二、三百年も前から建っている古いお寺が並んでおり、そのお寺も二百年前に建てられたものであった。本堂の隅の天井板をめくって上がると、真っ暗でしかも屋根が焼けてむっとする熱気である。

そのうえ動くたびに、二百年分の埃が煙のように舞い上がる。汗は流れる、息は苦しい。“えらいことやな”と思いながらも作業に取り掛かった。

 しかし、年も若く、電線を引くことに非常に興味があった幸之助は、工事に没頭すると、埃も汗も息苦しさも忘れてしまった。それらがあまり苦にならないまま、一時間ほどで配線を終え、下に降りた。

 全く別天地の思いである。とても涼しく空気もいい。天井裏のように歩いたら埃が立つということもない。言うに言われない、さわやかな気分、地獄から天国に上がったような瞬間であった。それは幸之助にとって忘れることのできない味であった。

 事は天井に入って出てきたというだけのことである。にもかかわらず、非常な喜びがあり、愉快さがあった。

 「さっきまで地上は暑い暑いと思っていたのに、今その暑い地上が天国のように涼しく感じる。

 暑さ寒さばかりではない。何か困難や苦しいことがあっても、人は仕事に集中すればそれを忘れることが出来る。またそれをやり終えた後には非常なうれしさがある』そういうことを幸之助は真夏の配線工事を通じてまざまざと教えられた。そしてその後もこれと似た体験をするたびに、思いを新たにしてきたという。

◎「苦あれば楽あり」、この言葉を実体験から導き出せたら、何があっても動じない心を手に入れることが出来るのでは。

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13-2・店の改革

13-2店の改革

幸之助が五代自転車商会に移ってから四年たった時のことである。はじめは三人だった店員も、店が次第に繁盛して、そのころには七・八人に増えていたその中の一人が、店の品物を黙ってよそに売り、その代金を使っていたことが発覚した。

 非常に才気に長け、よく間に合って重宝がられていた店員である。主人は初めてのことであるし、本人も詫びている。年も若いし惜しいということで、よく訓戒してもう一遍使うことにした。

 ところがそれを聞いた幸之助は承知しなかった。主人の所に行って『お暇を頂戴したい』と申し出た。

 突然のことで主人も驚いて、「どうしてだ」と聞く。

『ご主人はあの人のことをもう一遍使うことに決められましたが、私は承服できません。ああいう悪いことをした人と一緒に仕事をすることを潔しとしませんから、お暇を頂戴します』これには主人も困ったが、何もしていない幸之助を辞めさせるわけにもいかないということで、結局その店員を辞めさせることになった。

ところが、それからあとの店の空気がガラッと変わって良くなった。

気分的に明朗になり、引き締まった。意図してやったことではなかったが、幸之助が自分の信ずるところを訴えたことが、店の改革につながったのである。13-3へ続く

◎間違いは勇気を持って訴えること。信じることを貫くことは、周囲を変える力を持っているのです。

 

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松下幸之助・心にしみるエピソード13

松下幸之助・心にしみるエピソード

 幸之助が生涯を通じて残した様々な逸話。どれもがその人となりを表し、成功するための生き方、考え方を反映しています。印象に残った、とっておきのエピソードを紹介します。

 13-1紀ノ川駅の別れ

幸之助が社会に第一歩を踏み出したのは尋常小学校の4年の秋のことである。

生家は村でも上位に入る小地主で、かなりの資産家であったが、幸之助が4歳の時、父親が米相場で失敗、先祖伝来の土地を人手に渡し、単身大阪へ働きに出た。

その父から母の元に「幸之助も4年生でもう少しで卒業だが(当時尋常小学校は4年制であった)大阪八幡筋にあるこころやすい火鉢店で、小僧が欲しいとのことである。丁度良い機会であるから幸之助をよこしてほしい」という手紙が届いた。

 当時南海電鉄は今の和歌山市まで開通しておらず、紀ノ川駅が終点であった。ここから幸之助は一人汽車に乗って大阪に向かった。明治37年11月23日、満十歳の誕生日を迎える四日前のことである。

 駅まで見送りにきた母は、心配と寂しさで胸が締め付けられる思いだったのであろう。

『体に気をつけてな、先方のご主人にかわいがってもらうんやで』と目に涙を浮かべながら、こまごまと幸之助に言って聞かせた。そして大阪に行く乗客に、

『子供ですが大阪に参りますので、あちらに着けば迎えに来ていますが、どうかその道中よろしく頼みます』と何度も頼んだ。

 幸之助も母と別れる寂しさと、初めて汽車に乗るうれしさ、商都といわれる大阪への憧れと、悲喜こもごものいいようのない思いでいっぱいであった。

 この晩秋での紀ノ川駅での情景はいつでも幸之助のまぶたに焼き付いて離れなかった。

晩年幸之助は

 「今静かに考えてみますと、九歳の子供を自分の膝元から遠く手放さなければならなかったことは、母としてこの上なくつらいことであったに違いないと思います。

そしてその時の母の思いは、大阪へ行ってからの僕の幸せ、健康というものを、言葉では言い表せないぐらい心に念じていてくれたように思います。

 僕が幸いにして健康に恵まれて長生きし、これまで仕事を進めてくることが出来たのも、やはりそうした母の切なる願い、思いの賜物であろうという気がしてならないのです」と述べている。13-2へ続く

◎編集部・丁稚奉公に出されても感謝の気持ちが湧いてくる。やはりすべてのことに感謝することが大切ですね。(PHPスペシャル・9月増刊号)

 

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二十三・運命に従う

 

二十三・運命に従う

 *

人には人に与えられた道があります。それを運命と呼ぶかどうかは別にして、自分に与えられた特質なり、境遇の多くが、自分の意志や力を超えたものであることは認めざるを得ないでしょう。

そういう運命的なものをどのように受け止め、生かしていくかということです。

 自分はこのような運命に生まれてきたのだ。だからこれに素直に従ってやっていこう、というように自分の運命をいわば積極的に考えそれを前向きに生かしてこそ一つの道が開けてくるのではないでしょうか。

 そこに喜びと安心が得られ、次には本当の意味の生きがいというものも湧いてくるのではないかと思うのです。

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松下幸之助(8・3・8・4・7)

天運(天格)松下   11画

主運(人格)下幸   11画大吉

前運(地格)幸之助  19画大凶

副運(外格)松之助  19画大凶

後運(総格)松下幸之助30画大凶

◎成功運

天(一)―人(一)大吉

成功順調、希望は平安のうちに達成す。

 

◎基礎運

人(一)―地(九)半幸・半禍

一時順調に伸長するも。いつしか流亡病弱のおそれあり。

◎主運11画の意味するところ。

陰陽新たに来たりて天賦の幸福を享け、万事順序正しき発達をなし、穏健着実、次第に富貴繁栄を得べし。一家再興の格式あり。家運挽回の運にして平静和順の最大吉運とす。

○●副運・前運19画の意味するところ

すこぶる知能を有し、活動の素質あり。大業を興し、名利を達すべき実力あり、といえども意外の障害をもたらし、内外不和にして困難多く辛労の絶ゆることなく、病弱孤独家族生死別の要素を含む。

 

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松下幸之助さんなりに運命について持論を説くが、

彼自身、姓名画数から来る運気の通りに生き抜いている。稀有の大実業家なれども、二股ソケットの発想のポイントになったと揶揄された婚外の子を複数もうけ、いずれも認知しているが、息子、松下幸一(病弱短命運)を亡くすなど家族縁の薄さも、大実力者としての実績も、成功者としての名声も、松下家の再興も、すべて『松下幸之助』という画数の作り出す人生を歩んだと言える。松下さんはよく言う、『転んだらまた立ちなはれ』と。

 

しかし経営者の多くに立ち上がるどころか自死の道を選ぶものも相当数いる。それはそれとして各人の運気がそのような自ら閉ざす人生を選択させているのである。

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歴史にたら・・れば・・はないと言われるが、

もし松下幸之助が松下光之助だったら、松下電器産業は誕生していなかっただろう!! (永人)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

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二十二・平穏無事な日の体験

二十二・平穏無事な日の体験

体験というものは、失敗なり、成功なり、何か事があった時だけに得られる、というものでしょうか。

 決してそうではないと思います。平穏無事の一日が終わったとき、自分が今日一日やったことは果たして成功だったか失敗だったかを心して考えてみると、あれはちょっと失敗だったな、もっといい方法があったのではないか、というようなことが必ずあると思います。

 これについて思いを巡らせれば、これは立派な体験といえるのではないでしょうか。

かたちの上での体験だけでなく、日々お互いが繰り返している目に見えない些細なことも、自らの体験として刻々に積み重ねていく姿勢が大切だと思うのです。

 

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二十一・身を捨てる覚悟

二十一・身を捨てる度胸

 人生というものには、いろいろな問題があります。しかし、それらのことも過ぎ去ってみると、あの時に迷わないでやって本当に良かったな、というような場合が多いのです。

 そこが大事なところだと思います。ある場合には迷うこともあるでしょう。

 しかし、所詮迷っても、お互い自分の知恵、裁量というものは、本当は小さいものです。

だから、

「これは、もう仕方がない。ここまで来たのだから、これ以上進んで結果がうまくいかなくても、それは運命だ」と度胸を決めてしまう。

 そうした場合には案外困難だと思っていたことがスムーズに行って、むしろ非常に良い結果を生む、ということにもなるのではないかと思うのです。

 

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昨日の反省

反省

昨日22日の高校野球準々決勝で、6感の訓練と称しながら、個人の感情を交え、特に健康福祉大高崎と聖光学院は、国士舘大野球部に、後輩がいることで(聖光学院出・内野手主将の村島大輔―体育4年。

健大高崎出・投手荻野凌太-アジア学部4年。

同・投手三木敬太-体育2年)ついつい勝ってほしい、という期待、希望を抱きならのことで、とても6感の訓練とは言い難かった。大いに反省するところであります。

*もとより、応援団もファンも、関係者も必死で、勝とう、勝ちたいと願い、思っている中、いたずらにどっちが勝つかなどは、有難迷惑で土台失礼な話である。この意味で、皆さんに心からお詫びを申しあげたいと思います。

 昨日の件は、猛暑の中に冷や汗ものだったが、残る準決勝、決勝戦は静かに見守りたいと思います。

 

  

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二十・失敗を素直に認める

二十・失敗を素直に認める。

 たとえどんな偉大な仕事に成功した人でも何の失敗もしたことがないという人はいないと思います。

 事に当たって、いろいろ失敗して、その都度そこに何かを発見し、そういうことを幾度となく体験しつつ,だんだん成長していき、ついには立派な信念を自分の心に植え付け、偉大な業績を成し遂げるに至ったのではないでしょうか。

 大切なことは何らかの失敗がって困難な事態に陥った時に、それを素直に自分の失敗と認めていくということです。

 失敗の原因を素直に認識し

『これは非常にいい体験だった。尊い教訓になった』というところまで心を開く人は、後日進歩し、成長する人だと思います。

 

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