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検証⑥-3 東電全員撤退問題

検証⑥-3

東電全員撤退問題

  3号機の爆発で、2号機の冷却が困難になり、19時20分ごろには炉心損傷が始まった。

 事態は刻一刻と悪化した。吉田調書にはこうある。「完全に燃料露出しているにもかかわらず、“減圧もできない、水も入らない”という状況が来ましたので、私は本当にここだけは思い出したくないところです。

 ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと思ったんです。これで2号機は、このまま水が入らないでメルトダウンして、完全に格納期の圧力壁をぶち破って燃料が全部出て行ってしまう。

  そうするとその分の放射能が全部外にまき散らされる最悪の事故ですから、チェルノブイリ級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれどもああいう状況になってしまう。

  そうすると1号、3号の注水も停止しないといけない。これも遅かれ早かれこんな状態(2号機と同じ状態)になる」

 吉田氏は官邸の細野豪志・首相補佐官に電話を入れた。細野氏の調書にこうある。

「私が吉田さんから電話をもらってショックだったのはこれまで『いや大丈夫です』と常に『まだやれる』という返事だった人が、この時弱気になっていたから、これは本当にだめかもしれない、と思ったんですよね」

 この時細野氏の傍らには菅首相がいた。

「総理の執務室でたまたま菅総理と私二人きりだったんですよね。電話があって出たらその話だったので、総理も14日には憔悴していたので、しばらく沈黙があったりして」(細野調書)。

  14日深夜から翌日未明にかけて、2号機の状況が悪化する中で起きたのが、朝日新聞の誤報で話題になった東電職員の全面撤退の問題である。

  朝日新聞を始め各紙の報道では吉田調書だけを手掛かりに、検証が行われているが、真実を知るためには官邸の政治家たちの調書も見る必要がある。

 東電の清水正孝・社長から海江田万里・経済産業省や枝野幸男・官房長官に“第一原発からの撤退”を求めたとされる電話があったのは、14日深夜から15日未明だ。

 官邸では15日午前2時から枝野、海江田、細野、福山哲郎・官房副長官らが対応を協議し、午前3時に菅首相を起した。 続く

 

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検証⑥-2 自衛隊員の命を危険に曝した菅総理

検証⑥-2

自衛隊員の命を危険に曝した菅総理

 *

 その後、自衛隊員4人を含む11人が負傷したが、死者は居なかったことが判明。重要なのはその先の証言である。吉田調書に注目すべきやり取りがある。

 質問者がこう聞く。「結果的には自衛隊の方々が一番危険な時間帯に、ちょうどそこに来られた状況は、この現場の自衛隊の方々はご存じなかったんですか」

吉田氏が答える『彼らは多分ご存じなかった。指揮命令系統がよくわからないんですけれども、直接私が自衛隊にお話しできないんです。状況を自衛隊を通じて、もしくは、自衛隊の本部を通じて、部隊の方に連絡するすべは何もなかった。

 官邸は自衛隊員たちに、3号機が水素爆発の危険性が高いことを事前に知らせないまま、給水活動に当たらせた疑いが濃厚だ。

 それは政府の“前線司令官”として福島第一原発から5キロ離れたオフサイトセンターにいた池田元久・現地対策本部長(経済産業副大臣)の調書からも分かる。

  福島第二原発にいた自衛隊に、第一原発に行くよう命じたのが、池田氏だった。「自衛隊、自治体消防の人を朝早く集めて、協議して、現地本部長の判断で配置換えを指示した。それで配置が始まった途端に11時1分に水素爆発と思われるものが起きたわけです。これは非常にビックリしました」

  命じた本人が、爆発に慌てふためいた。こう続く。「リアルタイムというか、目の前でテレビ画面に出てくるわけです.全員行方不明、生死がわからない。あの瓦礫の中へ入っていったのかなとかいろいろ。戦場の司令官というのはこういうものかな、と」

  菅直人首相も危険は理解していた。調書では3号機の爆発を予測していたかという質問にこう答えている。『1号炉が爆発したということは、2号、3号でも水素が漏れて、爆発する可能性が一般的にあるということはまさに認識していました』

  知らなかったのは隊員だけだった。自衛隊の最高司令官である総理大臣が、正確な情報を現場に知らせず、隊員の命を危険に曝す(さら)したのである。 続く

 

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検証⑥-1 そこで腹を切ろうと思いました。

検証⑥-1

(自衛隊員は危機を知らされていなかった)

その場で腹を切ろうと思いました(吉田)

綱渡りの注水が続いていた3号機の原子炉の圧力が異常上昇し、再び危険が迫った3月14日午前6時40分ごろ、吉田所長は現場作業員にいったん『免震重要棟』への退避を命じた。

 1号機と同様、水素爆発する危険性が高いと判断したからだ。しかし退避によって作業は中断、状況は悪化しつつあった。行くも地獄、退くも地獄の状況だった。

 いつ作業を再開させるか、悩む吉田氏を動かしたのは『上』からの要請だった。

 吉田調書には、第一原発と東電本店、官僚をつないだテレビ会議のやり取りが記されている。それによると、東電の武藤栄副社長から

『人身安全第一なんだけれども、水を確保するところは工夫が出来るかどうか、考えられませんか』と要請がなされている。

 吉田氏は約1時間後に退避命令を解除し、作業を再開させた。結果的にそれが危機を生む。

 午前10時過ぎ、陸上自衛隊の給水車7台が福島第一原発に到着。免責重要棟には寄らずに、正門にいた東電職員の誘導で、3号機前のピット(貯水槽)に向かった。

そして給水準備作業を開始したタイミングで、3号機が水素爆発(11時1分)を起し、作業員や自衛隊員が巻き込まれたのである。現場はコックリート壁が吹き飛び、がれきの山となった。

 責任を感じた吉田所長が2度目の死を覚悟したというのはこの時だ。

 『40何人が行方不明という第一報が入ってきた。爆発直後、最初の報告ですけれども、私その時死のうと思いました。それが本当で40何人が亡くなっているんだとすると、そこで腹を切ろうと思っていました』(吉田調書)。続く

 

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朝日誤報の真相は枝野官房長官の『勘違い』か

福島原発事故の真実

 

朝日誤報の真相は枝野官房長官の「勘違い」か

吉田所長が「腹を切ろう」と覚悟した瞬間

3年半前の事故で我が国が一番危機的な状況に陥ったのは3月14日だった。その日、3号機が水素爆発を起し、2号機では圧力が異常に高まって注水冷却が出来なくなった。

その時、官邸は福島第一原発の吉田昌郎所長にどんなサポートをしたか。吉田氏は調書の中で、「誰も助けに来なかった」と語っていた。緊迫の24時間を検証する。

原発がメルトダウンして、

一時は『東日本壊滅』を覚悟した吉田昌郎・福島第一原発所長の調書を見ると、3度死を覚悟した場面が出てくる。

 最初は1号機が水素爆発を起した後、13日未明から早朝にかけて。3号機の注水が停止して、原子炉圧力減圧に失敗、圧力が上昇して燃料棒が熔(と)ける、『炉心損傷』が始まっていた。「もうこの時は死ぬと思いました」(調書)

 東京電力の現場技術者たちは、懸命に対応した。吉田調書によれば彼らは通勤用の車からバッテリーを外して、電源を確保し、減圧を実施。注水を復活させた。が、危険は去ったわけではなかった。

 そして3月14日、3号機が黒煙を上げて水素爆発を起し、作業に当たっていた所員や自衛隊員に負傷者が出て中断に追い込まれた。その爆発で消防車が損壊、準備中だった2号機の注水が困難になった。

 電源も、注水用の水も足りない中、3基同時に危機が迫った。官邸や、東電本店からは救援や支援の動きはない。吉田氏は『一番死に近かったのはここだった』(調書)と振り返り、この間に2度にわたって死を覚悟したと語っている。そのうえで調書でこうも述べる。

 『結果として誰も助けに来なかったではないか、ということなんです。すみません、自分の感情を言っておきますけれども、本店にしてもどこにしても実質的な、効果的なレスキューが何もないというものすごい恨みつらみが残っていますから』

  吉田所長をはじめとする福島第一原発の職員たちが孤立する中で、官邸、東電本店、オフサイトセンターの現地対策本部は一体どう動いたのか。

 3月14日朝から翌15日の朝までの『福島の一番長い日』を政府事故調の調書から検証する。 続く

 

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検証⑤-5 菅政権は放射線量の基準作りがいい加減だった

検証⑤-5

菅政権は放射線量の基準作りがいい加減だった

 

「23日はまだ緊急事態だと思っていたので、国が強制的に、村長が何と言っても逃げろと言った方がいいと官房長官にも強く言ったんです」

 しかし提案は『官房長官が預かる』(細野調書)こととなり、官邸でそんな議論がなされたことは住民に知らされないまま、政府は4月22日になってようやく飯館村など30キロ圏外放射線の高い地域を「計画的避難区域」に指定し、1か月以内の避難を要請した。

  SPEEDIによって、線量が高いことが分かっていた地区を放置した責任追及を回避するアリバイ的な指定だったのではないか。

 菅政権が場当たり的だったのは避難地域の拡大だけではない。詳しくは稿を改めるが、避難指定を解除するための放射線量の基準作りもいい加減だった。その結果住民たちは今に続く避難生活を強いられている。

 枝野氏自身、「指示を出してしまうと、解除するのがこんなに大変な法制だということの意識がなかったのは反省点(中略)『解除の要件を満たしません』と言われて頭を抱えてしまった」(枝野調書)と振り返っている。

 いざ事故が起きるとその災禍は原発立地自治体だけではなく、その周辺や被災者を受け入れる遠くの地域にまで及ぶ。

 安倍政権は去る9月12日。九州電力川内原発の再稼働に当たって、薩摩川内市や鹿児島市など30キロ圏にある周辺9自治体の避難計画を承認した。圏内人口は約23万人に上る。

 周辺9自治体の一つ姶良(あいら)市議会は再稼働を認めない決議を採択した。

 だが政府は薩摩川内市と県議会だけが賛成すれば、他の自治体が反対しても「地元同意を得た」として再稼働させる構えだ。

  それどころか、安倍政権は川内原発で事故が起きてもSPEEDIを使わないことを決めているのである(前号既報)

 そこには福島の教訓は全く活かされていない。というより、政府の責任逃れの方法だけが巧妙に『進化』しているのである。 続く

 

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検証⑤-4『高線量地域が避難区域に設定されるまで

検証⑤-4

高線量地域が避難区域に設定されるまで

  政府の同心円状の避難拡大には他にも大きな問題があった。避難区域の外に、放射線量の高い地域が存在したからだ。

 前号では、菅政権が事故直後にSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の試算データによって30キロ圏外にも放射線量が高い地域が広がっている情報を把握しながら、広く伝えなかったために、避難中の住民が無用な被曝をした可能性が高いことを指摘した。

  30キロ圏内に屋内避難指示を出して、一週間以上も後の、3月23日、官邸ではいまさらながら、原子力安全委員会の委員たちが『住民を逃がせ』と言い出して大騒動が起きた。福山調書に記載がある。

 「久住静代(原子力安全委員会委員)先生と斑目委員長が青くなって、『初めてSPEEDIで出ました』と持ってきました。『すぐに逃がせ』みたいなことを久住さんが言い出します。ヨウソ剤を投与した方がいいのではないか、という議論をしました。

  そうしたら横にいた小佐古敏荘・内閣官房参与が何バカなことを言っているのだ、と。ヨウ素剤はプルウム(放射性物質の塊で放射性雲、とも呼ばれる)が飛んできて何時間後に飲まなければ意味がなくて、もうプルウムが飛んでから14~15日だぞ、と。

とっくのとうに遅いのだ。そんな意味のないことをするな、みたいなことを総理やみんなの前で言い出します」(我々も知らなかったが原子力安全委員会の委員たちが、ヨウ素剤を飲むべき時期やその効果について知らないでいるということもある意味で恐ろしいことだと思う。これでは原子力安全委員会ではなく、まるで原子力不安委員会ではないか←永人)

 安全委員会からSPEEDI情報を知らされた細野氏の調書にもこうある。「3月23日に初めてSPEEDIのデータを見たんですよ。それで北西の方向に行っているというのが出てきて、原子力委員会がなぜか初めに私のところに説明に来て、『すぐ避難した方がいい』と言ってきた」 続く

 

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検証⑤-3 『避難は万全を期すため』という枝のウソ

検証⑤-3

「避難は万全を期すため」と言う枝野のウソ

 現地対策本部はマニュアル上、本来避難の判断をすべき主体だった。「そこに20キロ圏内の地図がなく、どの自治体が含まれて、人口がどのくらいなのかさえ分かっていなかったのである。そのため官邸で場当たり的に決めることになった。

 その間、枝野官房長官は国民に安全デマを発信し続けた。まず3キロ圏内の避難指示会見で(3月11日夜)こう呼びかけた。

 「これは念のための指示でございます。今の時点では環境に危険は発生しておりません、安心して指示に従ってください」・・・本心ではなかった。

3キロ圏内避難に関する枝野調書の記述だ。

『冷却が止まって15条通報と言うことは、そのままの状態が続けば、放射能漏れであったり、最悪は爆発だ、ということは、専門家でなくても、すぐにわかりましたから避難をしなければならない』

 翌朝避難範囲を10キロ圏内に拡大したときの会見では『まさに万全を期すためでございます』と発言。さらに同日夜の会見では、『皆さんに具体的に危険が生じるものではございませんが、念のためにさらに万全を期す観点から20キロに拡大した』と発言した。

 だが住民がすぐ帰還できるとは全く考えていなかったようだ。

 「それこそチェルノブイリとかのように、いきなり即死をするみたいな話とか、いきなりケロイドになるみたいな話の被害を心配していたわけです。とにかくいつ戻ってこられるとかの話ではなくて」(枝野調書)

  政府の思考停止状態を象徴するのが、福島第二原発への対応だった。

 第二原発も一時は危険な状態に陥ったものの12日未明から注水が開始されて、危機を脱出しつつあった。にもかかわらず、政府は12日夕方第一原発の範囲拡大に合わせて、第二原発の避難区域も10キロ圏内に拡大した。

 枝野調書にはこうある『やはりふわっと危ないと思ったんだろうな』続いて質問者から特に福島第二が危険でもないのに避難範囲を拡大したことについて、

「福島第一が爆発したからか?」と聞かれ、『それがきっかけだったと思います』と答えている。第一と第二の状況も把握しないまま、“ふわっと”避難指示が決まったというのだ。

 

 その後政府は、さらに第一原発の20キロ~30キロ圏内を室内退避とし、避難対象はざっと14万人に達した。

 

しかし10キロ圏内を超える部分については、法令に規定がなく、国会事故調の報告書では、20キロ以上の避難指示は『一部のものが個人的知見に基づき、大丈夫だろうと判断した結果決定されたものにすぎず、合理的根拠に基づく判断とは言い難い』と指摘している。続く

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検証⑤-2『避難の範囲』は場当たり的に拡大された。

検証⑤-2

『避難の範囲』は場たり的に拡大された

 それにしても5時間は長すぎる。まさかずっと六法と格闘していたわけではないはずだ。

3キロ避難を決めた官邸の会議には、菅首相や枝野官房長官らのほか、斑目春樹原子力安全委員長、東京電力から派遣された武黒一郎フェローらが出席していた。

 菅首相は調書で「東電と保安院と原子力安全委員会の意見もちゃんと含めて、その中でこの避難範囲ならいいだろうということを専門家の意見も含めて決めました」と証言している。現実は専門家の意見があったから迅速に決まったわけではなく、堂々巡りの議論で時間が費やされていたのである。

 武黒氏の調書は公開されていないが、福島第一原発の所長だった吉田昌郎氏の調書には、東電本社に戻った武黒氏と吉田氏のテレビ会議(3月12日)のやり取りが記録されている。

 その中で、武黒氏は、会議の様子をこう語っている。「『イラ菅』という言葉があるけれども、とにかくよく怒るんだよね。(中略)では、どんな判断の仕方をするかというと、昨日も退避、避難の範囲を決めたときに、最初は菅さんとかが現れて、どうすればいいんだ、どうするんだ、というわけですね。

 私と斑目さんとで説明すると、どういう根拠なんだ?何があっても大丈夫だと言えるのか?などと

 散々ぎゃあぎゃあ言うわけです。多少判断が揺れたりするするんですけれども、結局は何もやらないよりはいいからと言うんで、3キロメートルの範囲になって夜になったら10キロメートルになり、今日は20キロメートルということですけれども、考える軸が違うというかこういう感じで大体物事が決まる」場当たり的に拡大されたことが読み取れる。

 菅調書では驚くべき事実が明かされている。「現地対策本部があったオフサイトセンターには、10キロメートルまでの地図しかなくて、20キロメートルまでの地図はなかったとか、つまりそれこそ想定をはるかに超えているわけです。 続く

 

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検証⑤-1 遅れに遅れた原子力緊急事態宣言

検証⑤-1

遅れに遅れた「原子力緊急事態宣言」

「原子力災害対策特別措置法」では、内閣総理大臣は原発で重大事故発生の報告があったときは直ちに『原子力緊急事態』を宣言し市町村長または都道府県知事に対して直ちに避難指示を行うべきことと定めている(15条)。

しかし、菅政権は初動から遅れた。

 3月11日東京電力から政府(経済産業省の原子力安全保安院)に15条通報があったのが震災発生から約2時間後の16時45分。

 海江田万里経産相は省内の会議を終えると官邸に向かい、菅直人・首相に緊急事態発出を『上申』した(17時42分)

 菅首相は海江田氏との協議の途中で与野党党首会談のため中座し、戻った後もなぜか時間がかかり、緊急事態宣言が出されたのは19時3分だった。「直ちに」どころか上申から1時間以上も遅れたのである。

 菅氏は調書で、「党首会談からは5分で戻ってきています」と語ったうえで次のように主張している。「特にここで何か遅らせた、ということはありません」

 しかし海江田氏の証言は違う。菅首相が会談から戻った後、官邸で何が話し合われていたのか。海江田調書にこうある。

『報告を受けた菅首相が、大変なことになる。大変なことになる』ということを何度も言ったことは覚えています。

いや、大変なことだから来たのですよ』とよっぽど言おうと思ったのですがそこをぐっとこらえて・・・あの時に総理がこだわったのは

法律でどの条文にどういう文言があるのか、ということに非常にこだわったのですよ。(中略)それで、総理の執務室にいたら、福山哲郎官房副長官とか、それから枝野さんも来たかな。それから寺田学首相補佐官とかみんなが来て、とにかく六法全書を取り出して、それをコピーしたり何したりいろいろやっているのだね。

 私はそんなことじゃないだろうな、と思ったけれども、まあ総理が最後に決断することだから。

ちょうどそのころ、福島第一原発1号機では冷却出来ず、燃料が溶ける『炉心損傷』が始まっていた。

 メルトダウンの危機が近づいているときに首相官邸では危機管理の中枢となる人物が集まって、みんなで六法全書を繰っていた、という証言である。

 緊急事態宣言の発令が遅れた結果、住民への避難指示も後手に回った。政府が最初に福島第一原発3キロ圏内に避難指示を出したのは、さらに約2時間後の21時23分だった。

実は対応の遅い官邸に業を煮やした福島県は、それに先立つ20時50分、独自に避難指示を出していた。後手に回った国の指示は、東電による15条通報から5時間以上たってからだった。 続く

 

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検証④-3・今も8万人が避難生活

福島原発事故の真実

検証④-3

3年半が過ぎた今も8万人が仮設暮らし

(その元凶は素人政治家たちの場当たり的判断にある。)

ふわっときめられた14万人避難指示の現場には

『福島の地図』さえなかった。

**

「今も毎日、不安です。コミュニティもバラバラ。私たちはいつ帰れるのか・・・・」

福島県の富岡町から福島市に避難している住民の自治会組織の会長はそう語った。未曾有の原子力災害だから長期間の避難もやむなし・・・というわけにはいかない。事故当時の官邸による避難指示は、何の根拠も計画性もなく決められていたのだから。

 トタン屋根の仮設住宅は、夏には熱がこもり、冬は冷気が襲ってくる。福島第一原発事故で故郷を追われ、福島市や郡山市、会津若松市、いわき市などの仮設住宅・被災者用借り上げ住宅で避難生活を送る人々に4度目の冬の足音が近づいている。

 現在原発周辺は、放射線量によって、

『帰還困難区域』

『居住制限区域』

『避難指示解除準備区域』

に分かれており、強制的に避難させられている住民は約8万人。その他健康に不安を抱くなどして全国各地に自主避難している人々を合わせると約12万人にのぼる。

 事故当時、「念のための避難」という枝野幸男官房長官(肩書は当時のもの以下同じ)の記者会見の言葉を信じて着の身、着のまま逃げた人がほとんどだ。

全町民避難が続く大熊町の渡辺利綱市長はこう振り返る。「3月12日の早朝、官邸の細野豪志・首相補佐官から『危険な状態だから避難して欲しい』という連絡があり、町民たちは行き先も知らされずに用意されたバスに乗りました。

一方で枝野官房長官が会見で『冷静に行動してください』と大丈夫であることを強調していたから、みんな着の身着のままでした。私自身も、一時的な避難で2~3日もすれば帰ってこられると思っていました。

後で町民から『なぜ最初に長引く、と言ってくれなかったのか』『せめて貴重品だけでも持参しろ、と言ってくれれば、盗難に遭って失うことは無かったのに』と抗議を受けました。

 避難は仕方ないとしても、あの時政府には深刻な状況だという情報があったのだから、どうして包み隠さず『危機的でしばらく帰れないかもしれない』と伝えてくれなかったのかということがとにかく残念です」

 政府は避難範囲を当初の『福島第一原発3キロ圏内からわずか21時間の間に10キロ圏内、さらに20キロ圏内へとなし崩しに拡大した。

 そして今も大熊町、双葉町、浪江町の大部分は帰宅の見通しが立たない『帰還困難区域』となっている。「福島原発事故の真実」シリーズ第3回は、その原点となった避難指示がどう決められたのかを、政府が公開した関係者の調書から検証した。

 すると地元との情報の共有がないどころか、根拠なく避難が決められていった事実が浮かび上がってきた。その『無計画な避難』が今日まで禍根を残している。 続く

 

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